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2009年7月19日 (日)

「写真」と「非人称芸術」

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(*「非人称芸術」の記録写真と明確な差異化を図るため、意図的に「ヒューマニズム」の観点を導入して撮影した「普通の写真」。)

先日とある飲み会の席で、写真家のFさんからかなり核心をついた、辛辣な意見をいただいた。
以下、彼の言葉そのままではないが、記憶を頼りに意見をまとめてみよう。

>糸崎さんの「非人称芸術」という言葉に表された概念は、現代の写真家の多くが共通して意識している、自明的概念である。
>特にアメリカの写真家たちには、それが強く意識されている。
>そもそも「非人称芸術」的な概念は、古くはベンヤミンの著作に記されている。
>糸崎さんはそういう状況を知らずに、「非人称芸術」のコンセプトを自分のオリジナルのように提唱しているが、自明的なことをわざわざ主張するのは無意味だ。
>糸崎さん自信も自分の「無知」を自覚しているのなら、それを正したほうがいい。

こうして書き出してみると、ぼくの立場の全否定とも取れる内容ではあるが、こういうことを面と向かって言ってくれる友人というのは、実にありがたい存在である。
もちろん、相手が何の実績も無い口だけの人間だったら、ぼくはその意見に動じることはないだろう。
しかしFさんは日本の現代美術界でも屈指のギャラリーの契約作家であり、国内はもとより海外での展覧会も豊富で、しかもぼくよりもインテリそうだし、その意見には説得力があるのだ。
そして事実、ぼくはFさんに対する明確な反論が出来ないでいる。
つまり、「非人称芸術」と「写真」(いわゆる普通の写真作家の写真)との区別が、上手く説明できていないのだ。

これが「非人称芸術」と「芸術」(一人称の作者による芸術)の違いであれば、いくらでも説明できるし今までさんざんしてきた。
ところが改めて考えると「非人称芸術」と「写真」の違いの説明が判然としないままおろそかになっており、Fさんはその「痛いところ」を見事に突いてきたのだ。
いやぼく自身、「非人称芸術」と「写真」の違いが判然としない問題は以前から意識していた。
だから最近になって積極的に「写真」を知ろうとしており、他の写真家を真似て「普通の写真」を撮ってみたり、Fさんをはじめとするいろんな写真家に話を聞くもの、その一環なのだ。

ぼくが「分からない」とする「写真」とは、例えば雑然とした日本の街並みを撮ったいわゆる「路上スナップ写真」である。
こうした「写真」撮る写真家は実に多く、Fさん自身もその一人である。
具体的な例を挙げると、内原恭彦さんが「デジカメWatch」に連載していた「Web写真界隈」に登場する多くの写真家がそうである。
http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto_backnumber/2006.html
いや内原さん自身が、デジタル時代の「路上スナップ写真」の筆頭のような存在で、毎日大量の写真を撮り、ホームページに大きなサイズの画像を、キャプションなしに淡々とアップするスタイルが非常にカッコ良かった(現在サイトは閉鎖されている)。
http://uchihara.info/

ぼくはもちろん、内原さんのカッコ良さとは全然別の方向を目指しているのだが、しかし内原さんの写真を見ているうちに、「これも非人称芸術だと言えるのではないか?」ということに気付いたのである。
内原さんでなくとも、「Web写真界隈」に取り上げられた多くのサイトの写真のように、雑然とした街並みをストレートに写した写真には、必然的に「非人称芸術」が写り込むのだ。
実のところ「非人称芸術」のコンセプトの上では、「雑然とした街み」の何もかもが「非人称芸術」の「可能態」なのである。
「雑然とした街並み=非人称芸術」ではないが、街並みの何もかもが「非人称芸術」だと解釈できる可能性を持っている。
だから全ての「路上スナップ写真」には、「非人称芸術」として解釈できる「可能態」が写されている。

そう思って「路上スナップ写真」をアップしたサイトを見てみると、全てが「非人称芸術」を写したものとして鑑賞可能なことに気付くのだ。
「非人称芸術」はその鑑賞者が創造するのであり、主観に基づく「解釈」が全てである。
そしてぼくの「主観」では、「路上スナップ写真」の全てに「非人称芸術」が必然的に(あるいは不可避的に)写り込むのだと、そういう「解釈」をしても構わないと思えるのである。

だからぼくは、このブログに「単なる飾り」としてアップしている「普通の写真」には、なるべく「非人称芸術」が写らないようにして、自分が本来撮るべき写真とは区別している。
いや、街中でスナップすれば必然的に「非人称芸術」は写り込んでしまうのだが、それとは異なる「観点」を導入することで、「差異」を付けているのだ。
これは最初から意識していたことではないが、ぼくは「普通の写真」として「人物」を中心に撮るようになった。
「人物スナップ」の観点を導入すれば、「非人称芸術」のコンセプトとの「差異」を付けることができることに、途中から気付いたのだ。

どういうことかというと、「人物スナップ」の視点は「ヒューマニズム」に基づくものであり、それに対し「非人称芸術」は「アンチ・ヒューマニズム」に基づいているのである。
「非人称芸術」が「アンチ・ヒューマニズム」なのは、まさに「非人称」という言葉に表れている。
一人称・二人称・三人称の「ヒューマン」を否定したところに、「アンチヒューマニズム」としての「非人称」という概念があるのだ。

そもそも近代的な「芸術」とは「ヒューマニズム」の一側面である。
「神」無き時代(近代)の「芸術」とは、「芸術至上主義」であると同時に「人間至上主義(ヒューマニズム)」を体現している。
しかし「非人称芸術」は、「芸術至上主義」の理念をより純粋化するため、「芸術」から「ヒューマニズム」を差し引いた概念なのである。

「ヒューマニズム」を否定することは、人間が作ったあらゆるものの「意味」を否定することである。
「雑然とした街並み」が「街並み」であることの「意味」を否定する視点によって、「非人称芸術」は見出されるのである。
ぼくが撮影したフォトモをはじめとする「普通でない写真」には、理念的には「人間が与えた全ての意味が剥奪されたもの」が写し取られている。

また「ヒューマニズム」の否定は、「人間が主観的に表現すること」全般に対する否定でもある。
だから当然「写真表現」も否定するのであり,だからぼくは「記録写真」に徹しているのだ。
ぼくが撮影するのは「非人称芸術」の「記録写真」であり、それは実物の「レプリカ」でしかなく、「実物」よりずっと価値が下がるものだ。
ぼくは自分の写真を、そのように位置付けている。

もちろん、ぼくは「ヒューマニズム」という概念を、実生活に渡ってまで完全否定しているわけではない。
ぼくが「ヒューマニズム」を否定するのは、あくまで「非人称芸術」というコンセプトの中だけでしかない。
だから実生活では「ヒューマニズム」に基づいて考えて行動するし、他人の「芸術」を鑑賞するときも「芸術至上主義」と「人間至上主義」の両方意識している。

果たして、このような「非人称芸術」のセンスや価値観を、他の「路上スナップ写真」の写真家たちと共有しているのだろうか?
非常に疑問ではあるが、実際のところは不明である。
何しろぼくは「写真」について分からないことが多いし、「非人称芸術」についても他人に十分に説明できているとは限らない。
これについては、さらにいろいろ調べて考えてみようと思う。

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