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2009年7月24日 (金)

「非ユークリッド写真」の新解釈

Sneko
(*「ツギラマ」は「多点透視」の描写を特徴とする「非ユークリッド写真」の原型であり、「アンチヒューマニズム」の視点が表現されている)

ぼくはその昔、「非ユークリッド写真連盟」という組織を名乗って活動していた。
ところが途中から「非人称芸術連盟」と改名し、しばらく活動したところで現在は事実上解散している。

はじめに名付けた「非ユークリッド写真連盟」を改名しようとした理由は、自分の活動を表す言葉として「非ユークリッド写真」よりも「非人称芸術」の方がより重要だったからだ。
「非ユークリッド写真」というのは、「フォトモ」や「ツギラマ」などの技法についての概念に過ぎず、それに対し「非人称芸術」は創作活動の前提となる概念だから、格段に重要度が高いのだ。

ところが「非ユークリッド写真連盟」を名乗ったしばらく後に、「非人称芸術」という概念を思い付いたため、はじめからそれを組織名にできなかったのだ。
しかし、「非ユークリッド写真連盟」の肩書きで自分の活動内容を語ると、まず「非ユークリッド写真」の説明をした後でないと、肝心の「非人称芸術」の説明ができず、いつももどかし気分でいたのだ。

それで、作品集『フォトモの街角』を出すのに合わせて「非人称芸術連盟」に改名することにしたのだ。
それに伴い「非ユークリッド写真」という概念も、説明上では使わなくなってしまった。
「非ユークリッド写真」という言葉を使わなくても「フォトモ」や「ツギラマ」の説明はできるし、そもそもぼくが伝えたいのは「技法」ではなく「ものの見方」や「概念」であり、そこを強調したかったのだ。

だが、言葉としては「非人称芸術連盟」はどうも印象が薄く、「非ユークリッド写真連盟」の方がキャッチーで人々に覚えられやすい。
それでぼくは改名に躊躇していたのだが、しかし最終的には「印象」よりも「意味」を重視して改名したのだ。
案の定、改名後に「糸崎公朗(非人称芸術連盟)」と名乗っても、以前ほど人々のリアクションは得られず、最近は単に「糸崎公朗」と名乗るようになったのだ。

ところがつい先日、「非ユークリッド写真」という言葉に新たな解釈を与えられることに、ふと気がついたのだ。
ポイントは、以前の記事に書いた「アンチヒューマニズム」という概念である。
ぼくの芸術家としての活動は「アンチヒューマニズム」に根ざしており、それを表す言葉が「非人称芸術」なのである。
そして同じように、「非ユークリッド写真」という言葉も、「アンチヒューマニズム」の意味を表すことに気付いたのだ。

「非ユークリッド写真」の反対は「ユークリッド写真」で、これはいわゆる普通の写真のことである。
普通の写真は、ユークリッド数学(普通の数学)に基づく「一点透視」により描写されている。
「一点透視」の理論はルネッサンス時代に完成した、近代的な<私>による視点であり、つまり「ヒューマニズム」に基づく視点なのである。
それに対し、複数の写真で構成された「フォトモ」や「ツギラマ」は非ユークリッド数学的な「多点透視」で描かれ、それは<私>の視点が判然としない「アンチヒューマニズム」の視点なのである。

「多点透視」で描写された「非ユークリッド写真」は、それだけで「アンチヒューマニズム」を表現する。
だから、同じく「アンチヒューマニズム」に根ざした「非人称芸術」と、必然的に結び付くのだ。
ぼくは過去に「非ユークリッド写真」は「非人称芸術」の記録表現に「適している」と説明していたが、実際のところもっと根源的なところで、必然的に結び付いていたのである。

そしてその逆に、いわゆる普通の写真は「非人称芸術」の記録再現にあまり適さないということになる。
写真の基礎を成す「一点透視」の理論は、近代的な<私>の概念とともに発展し、だから「写真」と「ヒューマニズム」とは実に深い関係がある。
言ってみれば「写真」は「ヒューマニズム」を表現するためのメディアなのである。
だから「非人称芸術」を普通の写真で撮影しても、「非人称芸術の記録再現」にはならずに、どうしても「写真作品」に見えてしまうのだ。

別の言い方をすれば「写真」が、「ヒューマニズム」の視点をあらわす「記号」として、広く認知されているのだ。
だから普通の写真技法で「非人称芸術」撮影しても、そこに「アンチヒューマニズム」としての視点が、どうしても表れにくいのだ。
つまり、「非人称芸術」にはそれを「記号」として表現する専用のメディアが必要で、それが「非ユークリッド写真」なのである。

ここで、7月19日の記事『「写真」と「非人称芸術」』で示された疑問の答えにつながる。
それは写真家のFさんによって投げかけられたものだが、あらためて採録してみる。

>糸崎さんの「非人称芸術」という言葉に表された概念は、現代の写真家の多くが共通して意識している、自明的概念である。
>特にアメリカの写真家たちには、それが強く意識されている。
>そもそも「非人称芸術」的な概念は、古くはベンヤミンの著作に記されている。
>糸崎さんはそういう状況を知らずに、「非人称芸術」のコンセプトを自分のオリジナルのように提唱しているが、自明的なことをわざわざ主張するのは無意味だ。
>糸崎さん自信も自分の「無知」を自覚しているのなら、それを正したほうがいい。

まぁ、ぼくはベンヤミンを読んでないし(ぼくの頭で読めるかどうかも分からないし)、アメリカの写真界や美術界のこともよく知らないので、それについてはまだ何も言うことはできない。
しかし「非ユークリッド写真」のあらなた意味づけと照らし合わせると、少なくとも普通の「写真」の形式にこだわっている限り、「ヒューマニズム」の概念から抜け出すことは難しいのではないかと思うのだ。

確かに、ぼくが「非人称芸術」の言葉を口にした時、Fさん以外の人からも「写真って一般的にそういうもんですよね」とか、「ぼくもそれに近い気分で写真を撮ってます」などと言われることがある。
「写真」には自分の意図しないものが写りこんでしまうことが多いから、その意味では「非人称」的だといえるかもしれない。

しかし「写真」を「自分の作品」として解釈する限り、それは真の意味で「非人称芸術」にはなりえないのではないかと思う。
人が創った「作品」という概念は、当然のことながら「ヒューマニズム」に根差している。
だからぼくは「フォトモ」や「ツギラマ」を「自分の作品」ではなく「非人称芸術の記録再現」として位置付けている。
「フォトモ」や「ツギラマ」が作品としてどんなに素晴らしくとも、それは「実物」としての「非人称芸術」の劣化コピーでしかない。
真に素晴らしいのは「非人称芸術」の実物であり、「フォトモ」や「ツギラマ」はそのオマージュとして、製作してると言えるかもしれない。
ぼくにとっては「フォトモ」や「ツギラマ」よりも「現実」のほうが圧倒的に価値が高い。
「作品」よりも「現実」に高い価値を見出すから、ぼくの立場は「アンチヒューマニズム」なのである。

ところが、たいていの写真家は「現実」よりも「写真」の方が好きであり、だからそういう人達とは「非人称芸術」の概念は共有し得ないのではないかと思うのだ。
多くの写真家は、「非人称芸術」とはまた違う価値観で「写真」を撮っており、ぼくはそれが何なのかを知るために「普通の写真」を撮る実験をしてるのだ。

これとは別に、「写真」よりも「現実」を重視する写真家もいて、それは例えば昆虫写真家のようなネイチャー系に多い。
虫が好きで昆虫写真家を始めた人にとっては、「写真」よりも「現実の虫」の方が重要なのは当たり前で、そういう人達のほうがぼくと感覚が近い。
もちろん、昆虫は「非人称芸術」ではないが、「科学的に判断する以前に鑑賞してしまう」という「鑑賞主義(仮)」の感覚は、共有しているように思うのだ。

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