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2009年7月15日 (水)

「グループ<位>」と「非人称芸術」

以前、美術家の大先輩である彦坂尚嘉さんから「糸崎さん以前にも、非人称芸術を提唱していた人達がいた」というお話を伺っていた。
それで改めてネットで検索すると、確かに「非人称」をコンセプトにした「グループ<位>」という前衛美術集団が存在することが判明した。

まずは以下のサイトのから写真と紹介文の一部を引用。
http://www.artm.pref.hyogo.jp/2002-2008old/exhibition/j_0411/right.html

>■グループ〈位〉とは?
>「グループ〈位〉」は、1965(昭和40)年、神戸在住の若い美術家9名(井上治幸、奥田善巳、河口龍夫、武内博州、豊原康雄、中田誠、向井孟、村上雅美、良田務)で結成されたグループです。その後、メンバーは変動し、現在は河口龍夫、豊原康雄、中田誠、向井孟の4名です。

>■グループ〈位〉の特徴
>グループ〈位〉は、私たちがいま存在するこの世界とは何かという哲学的なテーマに強い関心を持ったグループです。グループ〈位〉は、個人の感覚では複雑で多様な現代の一面しか認識することができないという自覚のもとに、世界とは何かを、個人ではなく集団で思考し、それを作品としてあらわしました。
>1965(昭和40)年8月に岐阜市内各所で開かれた「アンデパンダン・アートフェスティバル」での《穴》(会期中、メンバー全員で長良川河畔に巨大な穴を堀る作品。ひとつの目的のために全員の意志と力を結集する試み)や、同年11月に開催した「非人称展」(メンバー全員で全く同じ絵画を描き、作者を入れ替えて発表。個人を無化する試み)、1967(昭和42)年11月に京都で開かれた「フィルムユ67」で発表した映像作品《観測の時間(15秒)》(風景や物体を15秒間ずつ撮影した計60分の作品。「15秒」という客観的な基準からすべての存在を平等に置き直し、世界の成り立ちを問い直す試み)などには、彼らの思想がよくあらわれています。

また、以下のサイトには「グループ<位>」のさらに具体的な記述があり、非常に興味深くて面白いのだが、そこから一文だけ引用しよう。
http://www.arttowermito.or.jp/atm-info/400/437.html

>「非人称絵画展」の会場に画家と名のる人が来て「非人称絵画のようなことをやっていては絵画が死んでしまう」と言って大喧嘩になったというエピソードは、オリジナリティという神話に素朴な信仰をもつその画家の生真面目な反応を見てとれるが、オリジナルの概念そのものに疑問を持ち始めた河口たちと会話が成立しなかっただろうことは想像に難くない。

「グループ<位>」が結成された1965年というのは、日本の「モダニズム芸術」が盛んだった時代であり、赤瀬川原平さんらの「ハイ・レッド・センター」もそうなのだが、さまざまなグループが独自のコンセプトを掲げ、「既成美術の解体」を目指していた。
そのような時代の中、「グループ<位>」のメンバーは、芸術の作者が「個人である」ことに疑問を持ち、それを無化するために「非人称」という概念を導入したようだ。
芸術の作者を「集団化」し「匿名化」することで、創造における「個人」の限界を突破しようと試みたのかもしれない。
「非人称絵画のようなことをやっていては絵画が死んでしまう」といった画家がいたそうだが、むしろ「絵画を生かすために画家を殺した」のが非人称絵画のコンセプトではないだろうか。

しかしその後、実際に世の中がどうなったのかというと、芸術の世界は相変わらず「一人称としての作者の作品」が主流で、画家も絵画も死んではいないように思える。
だが、ぼくの見たところでは「非人称としての作者」という概念は、近代以前の日本の伝統でもあるのだ。
例えば「連歌」というものがあるが、これは集団で開く「歌会」の中で、先に他の人が詠んだ歌の下の句を、自分の歌の上の句に取り入れて詠い、そうやって次々に詩作をつなげてゆく「ゲーム」である。
この「連歌」の中では、例え自分が詠んだ歌であっても、作者は自分のようで自分ではなく、まさに集団的な「非人称」の効果なのである。
「連歌」とは、創造における「個人」の限界を突破するため、集団の中から「作者としての非人称」の効果を引き出すためのシステムだと言える。

また、「2ちゃんねる」をはじめとする匿名掲示板の世界では、かつての連歌のような集団による非人称的創造が、実に自然なかたちで立ち現れている。
例えば「AA」はまさにその好例である。
2ちゃんの書き込みによく登場するAAはオリジナルの作者が不詳であり、しかもオリジナルに対しさらにさまざまな人により手が加えられて変化し続けるから、その作者は「非人称」なのである。
匿名掲示板の世界では「オリジナリティ神話」は完全に否定されている。
現代のAAは、「グループ<位>」の「非人称絵画」に極めて近く、しかもより大集団で「生き生き」と展開しているように思える。

では、「グループ<位>」の活動と、ぼくが提唱する「非人称芸術」の関係はどうなのかというと、少なくともぼくとしては「だいぶ違うもの」のように思える。
同じく「非人称」という言葉と使ってはいても、その「配置の仕方」がずいぶん異なっているように感じる。
「言葉」というものは、文脈での配置の仕方によって「意味内容」がまったく異なるという性質があるが、「グループ<位>」とぼくが提唱する「非人称芸術」は、まさにそのような関係にあるように思う。

「グループ<位>」の「非人称」は、連歌やAAの「非人称」と同じであり、それは「作者としての非人称」である。
「作者としての非人称」には、当然のことながら「創造の意図」が存在する。
そこが、ぼくが提唱する「非人称芸術」と決定的に異なっている点である。

「非人称芸術」における「非人称」には、「創造の意図がない」ということが、最大のポイントなのである。
ぼくは「意図がない人間の行為」を「非人称」という言葉で表現したのである。
そのように「意図がない人間の行為」に対し、ぼくは自分の「意思」でそれを「芸術」として解釈し、その結果目の前に現れるのが「非人称芸術」なのである。

無理やり短くまとめると、「グループ<位>」が「集団で非人称的に意図する」のに対し、ぼくは「意図のない非人称を自分の意図で解釈する」のであり、両者は全く概念が違うのだ。
もしかすると、「グループ<位>」の「非人称」の捉え方は、「個人所有」を否定したマルクス主義の影響を受けたのかもしれない。
いや、マルクスについてあまり知らないでテキトーなことしか言えないが、少なくともぼく自身は70年代半ば以後に日本で知られるようになった「構造主義」の影響を強く受けている。
だから、「グループ<位>」の活動とは「時代が違う」のであって、言葉が同じでも意味内容が全く違うのも当然だと言えるのだ。

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(*非人称的な作者の「創造の意図」により生じたアスキーアート。グループ<位>の「非人称絵画」と通じるところがあるだろうか? Wikipediaより引用)

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(*「創造の意図」のないところに生じた「非人称芸術」としての絵画は、グループ<位>の「非人称絵画」とは決定的に異なっているように思う。岐阜市 GX200)

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(*「非人称芸術」としての絵画、その2。岐阜市 GX200)

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(*「非人称芸術」としての絵画、その3。岐阜市 GX200)

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(*「非人称芸術」としての絵画、その4。岐阜市 GX200)

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