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2009年7月 1日 (水)

頭はよくならない

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『頭はよくならない』(ちくま新書)は、小浜逸郎さんの著書だが、ぼくはこの本を数年前に読み結構衝撃を受けてしまった。
ぼくはこの本を読むまでは、「学校の勉強ができる人は、かえって頭が悪いのだ」という、今から考えると勝手なトンデモ理論を信じていた。
そういうぼくは当然のことながら学校の勉強ができない子供で、高校は今で言うDQN校クラスであり、だから勉強ができないことが問題視されない「美大」に進学した。

ところが美大卒業後に生物をはじめとする自然科学や、構造主義をはじめとする現代思想に興味が出てきて、入門書を何冊か読んで勉強すると、これが面白い。
「勉強はつまらないもの」と思い込んでいたぼくは、これはヘンだな?と思い、あるとき高校の「生物」の教科書の内容を確認してみた。
するとそこには、覚えても何の役にも立ちそうのない、つまらないことばかりが書いてあり、驚いてしまったのだ。

勉強が面白いのは、それが何らかの意味で自分に役立つことが実感できるから「面白い」と感じるのである。
逆につまらない勉強は、何の役にも立たないものであり、だから「学校の勉強」とは「学問の死体」だと思った。
そうしたつまらない勉強に、子供時代のぼくが興味がもてなかったのは、むしろ自然で健全なことである。
そして「学校の勉強のできる子」というのは、つまらなくて無駄な勉強に「何の疑問も無く」取り組んでいるのであって、そういうのはかえって「頭が悪い」のだ。
「本当に頭のいい子」というのは「本当の勉強」によって力が発揮されるのであり、「学問の死体」であるところの「学校の成績」は頭のよさを計る基準にはなり得ない。

地下鉄サリン事件を起こす直前の「オウム真理教」は、「学校の教科書にはウソしか書いていない」と言っていたが、これだけは本当だと思っていた。
そして「ウソの教科書」の内容を信じて良い成績を取るような「頭の悪い人」だからこそ、オウム真理教が撒き散らす「ウソ」にもまた騙されてしまうのだ、と思っていた。
いや、オウム信者のエリートに限らず、むしろオウムを攻撃する世間の人々に対して、ぼくはそのように思っていた。

まぁしかし、そのように自称「頭のいい人」のぼく自身は、一時期入門書を中心に何冊か本を読んで勉強したものの、その後数年間ほとんど読書をしてなかったりして、客観的にはとてもじゃないが「頭がいい」でも「勉強熱心」でもなかったのだが・・・

しかし、この『頭がよくならない』という本には、「学校の成績が良い子は、結局は普通の意味でも頭が良いのだ」というふうに書いてある。
これは言われてみれば当たり前のことで、本当に頭のいい子は、勉強の内容がつまらなかろうが、役に立たなかろうか、「頭の良さ」の余力で難なくこなしてしまうのだ。
そして自分は「頭が悪い」からこそ、学校の勉強の「つまらない」「意味が無い」ということに、簡単に躓いてしまったのだ。

それと小浜さんが言うには、「学校の勉強をこなす能力」と「大人になって社会を渡ってゆく能力」とは、同一とはいえないまでもかなりの程度の相関関係があるそうだ。
これは小浜さん自身が高学歴で、同じ高学歴出身者の哲学者や思想家などと交流があり、塾講師の経験もあったりするので説得力がある。
ぼくは普通の意味で「頭が悪い」から、学校卒業後に自主的に勉強を始めても「それなり」にしかなっていないのだ。

またこの本には、人の頭には生まれながらの良し悪しがあって、「頭の悪い子」は努力や訓練や特殊な医療?で「頭の良い子」にはなったりしない、というようにも書いてある。
これも小浜さんの塾講師の経験など引き合いに出して説明されているから、説得力がある。
そして必要なことは、まずは自分の「頭の程度」を自覚し、自分に見合ったレベルに即し、最大限に能力を伸ばすことである。
それなのに、「どんな子もやればできる」とか、「頭のよさは学校の勉強では計れない」とか、などといってごまかすと、「バカ」はますます「バカ」をこじらせてしまいかねない。

つまり「健全なあきらめの精神」を持つことは、どの分野であれ、自分の能力を伸ばすためには必要なことなのである。
例えば、自分がイケメンではなく、それが努力や整形で解決できない問題だと健全にあきらめられれば、「顔」にこだわらずに「総合的な人格形成」を目指すことができるだろう。
ところが「顔がいい」とか「頭がいい」という価値観をルサンチマン的に否定してしまうと、結局は本来伸びるはずの自分の能力を殺してしまうことになる。
結局のところ「勉強の成績の良い子は、かえって頭が悪い」というのはぼくのルサンチマンが生み出した誤解でしかなく、そのせいでぼくは自分の能力を見誤り、世間での自分の「立ち位置」を見失っていたのだ。

ということの反省が、前回の記事「トンデモ理論のイタイ人」なのである。
ただしもちろん、なんにでも例外というものがあり、高学歴者やインテリにも「頭の良くない人」はいる。
事実、ぼくがこれまでに最も腹を立てた「バカ」の一人は、東大出身者の某美術館スタあqwせdrftgyふじこ

(*写真は記事内容と無関係です。)

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コメント

身体感覚的な現実世界と学校で教わる制度的といか手続き的な世界とのギャップに悩んだ人は私と同じ星に生まれた遊星人仲間であります(笑)

私は勉強はできるけど不良少年という始末の悪いやつでしたが、人間関係にはほとんど無関心で、植物や虫を見続けていたから不動の座標を得られたという思いがあります、その結果立派な貧乏人になれました(笑)

オウムの勉強ができた人たちは人間世界の記号的なところだけの優等生で、身体感覚的な現実感覚の劣等性だったのでしょうね、それしか考えられません。

投稿: 遊星人 | 2009年7月 4日 (土) 21時31分

>私と同じ星に生まれた遊星人仲間であります(笑)

大多数の「太陽の民」の仲間に入ることが出来ずに、その周囲を惑っている惑星人=遊星人というところでしょうか?
「太陽の民」を「金儲けにいそしむ人たち」と言い換えると、現在は価値観が多様化してますから、太陽は収縮して惑星(遊星)が数を増しているのかもしれません。
もちろん、いまだ「太陽」は圧倒的大きさを誇っていますが、しかし最近知り合った写真家の多くは「立派な貧乏人」で、みなそれぞれ自分の「座標軸」を模索しており、ぼくも何だかホッとした気分になりますw

オウム真理教について、ぼくはこれを「世間の鏡」として捉えてました。
オウムは小集団なので、世間という大集団を凝縮して映し出す「凸面鏡」のように見てました。
分かりやすくいうと、オウム事件に対して過敏に反応していた世間の人々は、結局はオウム信者と同じだということです。
両者とも「トンデモ理論」の内容を吟味せず、盲信してるわけですから。

>オウムの勉強ができた人たちは人間世界の記号的なところだけの優等生で、身体感覚的な現実感覚の劣等性だったのでしょうね

オウムの村井さんが刺殺されたときのリアルな映像がテレビに流れましたが、村井さんが刺された瞬間、血を流しながらも何をされたかが理解できないようで、落ち着き払った態度でいたことが印象的でした。
まさに「身体感覚的な現実感覚」が劣っているのであって、こういうのは科学者のステレオタイプとしてとしてカッコイイと思ってしまいました。

投稿: 糸崎 | 2009年7月 6日 (月) 10時08分

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