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2009年7月12日 (日)

「野生の芸術」と「飼い慣らされた芸術」

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1:「野生の芸術」として街中に生じた「非人称芸術」は、実物を美術館に展示することは不可能である。

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2:そこで「非人称芸術」をフォトモに置き換ると、「飼いならされた芸術」として展示可能な形態となる。

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3:「飼いならされた芸術」としての作品が、「動物園の動物」のように並ぶ「金沢21世紀美術館」での個展会場。

レヴィ・ストロースは『野生の思考』(大橋保夫訳・みすず書房)で、

>私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昴めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。(p. 262)

と書いているが、ぼくの提唱する「非人称芸術」はまさに「野生の芸術」と言えるものである。
それに対する「栽培種化されたり家畜化された芸術」とは、美術館やギャラリーに展示されている、いわゆる普通の「芸術作品」である。
ここではさらに言いやすくするため「飼い慣らされた芸術」と表現しようと思う。

ぼくは昨年、「金沢21世紀美術館」で個展を行なったのだが、その際自分の展示会場を見て「まるで動物園のようだ」と思ってしまった。
それに対して、美術館の外の「金沢の街」には、まさしく「野生の芸術」としての「非人称芸術」がひしめいている。
「野生の芸術」とは「金沢の街」そのものであるから、それは原理的に美術館内に展示することはできない。
そこでぼくは「野生の芸術」を、フォトモやツギラマなどの「作品」の形態に置き換えることで、それらを美術館に展示できるよう「飼い慣らした」のである。

そう思うと、「金沢21世紀美術館全体」が、さらに巨大な「動物園」のようなものであることに、気付くのだった。
ぼくの個展の会期中は、ロン・ミュエク展と、美術館のコレクション展が開催中であったが、その展示作品はまるで動物園のゾウやキリンやライオンのように、大人しく人工的に仕切られた空間内に収まっている。
動物園というものは、ゾウやキリンやライオンなどの「野生動物」を、大人しく飼い慣らしたうえで、飼育展示されている。
美術館も同じようなもので、本来は「野生」として存在している芸術を、飼い慣らした上で展示しているのである。

ただ、動物と芸術が異なるのは、世間の常識では「野生の芸術」などという存在が、一切認められていない点である。
「ゾウやキリンやライオンは動物園にいるもの」と信じている子供のように、世間の常識では「芸術は美術館やギャラリーに展示してあるもの」と信じられている。
もしくは「芸術は芸術家が創るもの」と信じられている。
しかしぼくが見るところでは「本来の芸術」は。美術館やギャラリーはもちろん、芸術家の存在からも遠く離れた「野生の芸術」として広く存在する。
野生のゾウやキリンやライオンがアフリカのサバンナに生息しているように、「野生の芸術」は金沢の街にも、どこの街にも、普通に生息しているのである。

ぼくはどうも常識がねじくれてしまったので、「芸術」といえば「野生の芸術」であることが当たり前だと認識してしまっている。
そういう感覚で美術館や、ギャラリーや、アートフェアで作品を見ると、まるで「動物園で動物を見る」ような物足りなさを感じてしてしまう。
ぼくはアマチュア・ナチュラリストでもあるから、動物園で動物を見るより、自宅近所で野生の昆虫や植物を観察をしているほうが、よっぽど「本当の自然」が分かって楽しいと思う。
それと同じような感覚で、ぼくは「芸術」が見たいと思うときは、美術館やギャラリーには行かず、路上に「野生の芸術」の観察に行くのである。

いや、ぼくは美術館やギャラリーにまったく行かないわけではなく、そもそもぼく自身がそういう場所で何度も個展をしているのだから、その存在を否定しているわけではない。
ぼくにとっては、美術館も、ギャラリーも、マーケットも、芸術家も、それが何なのか分からないことだらけであって、分からないものは否定することもできない。
だからそのように「分からないもの」を知るためのコミュニケーション・ツールとして、美術館やギャラリーは自分にとって必要なのだ。

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