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2009年7月25日 (土)

「非ユークリッド写真」とそれ以外

Snk

(*『東京昆虫デジワイド』に収録された写真は「非ユークリッド写真」ではない。しかし「人間以外の視点」を比較対象に置くことで「アンチヒューマニズム」が表現されている。)

「非ユークリッド写真」はまず「ツギラマ」から始まり、「ツギラマ」は立体的な「フォトモ」へと発展した。
一方では、「非ユークリッド写真」のもっともミニマルな形態として、「2コマ写真」の技法が見出された。
最近、「ブログ2・2コマ写真」の更新がすっかり途絶えてしまったが、「2コマ写真」の新作は「デジカメWatch」連載の「切り貼りデジカメ実験室」に掲載しているので、こちらをご覧いただければと思う。

「デジカメWatch」はデジカメのニュースサイトだから、デジカメで撮影した「作例」を掲載するのが基本である。
そこにぼくが「2コマ写真」を掲載するのは、基本的に公共のメディアには自分のコンセプトから外れた「普通の写真」を載せたくないからである。
「2コマ写真」は一見普通の写真でありながら、実は「非ユークリッド写真」の最小形態なのである。
「非ユークリッド写真」とは「多点透視」であり、その最少数は「2」なのだ。
いや難しい理屈抜きでも、同じ被写体を2枚の写真で撮影すれば、それは一般には真面目な「写真作品」とは受け取られないだろう。
「写真作品」として不真面目なのであれば、それは「非人称芸術の記録再現」としては真面目なのだ。

しかし実はぼくは同じ「切り貼りデジカメ実験室」の連載で、普通の「1コマ写真」も掲載してるのである。
それが「路上ネイチャー」と名付けたシリーズであり、ブログ「路上ネイチャー協会」にもたくさん掲載している。
また、ぼくの写真集『東京昆虫デジワイド』も基本的に「1コマ写真」だし、このページに掲載した『60倍の惑星』シリーズも「1コマ写真」である。
普通の「1コマ写真」である限り、これらは当然「非ユークリッド写真」ではないのである。

ところがぼくの中では、これらの写真は「非人称芸術の記録再現」だという確信があるのだ。
だから「非ユークリッド写真」とは、ユークリッド数学的世界観を否定した写真ではなく、ユークリッド数学的世界観に「こだわらない」写真なのだと、あとで定義し直したのだ。
普通の写真では「非人称芸術」は表現できない、というのは「実体」ではなく「概念」に過ぎないから、この事にこだわり過ぎても意味がない。
また、「非人称芸術」自体も「実体」ではなく「概念」の産物だから、本人が「非人称芸術」を写したつもりの写真には、「非人称芸術」が写っているのである。
ただ、「非人称芸術」を普通の「1コマ写真」で撮ると、それがヒューマニズムに基づく「写真作品」だと誤解される可能性が大いに高く、それをして「非人称芸術が表現されにくい」と言ってるのである。

だが、「路上ネイチャー」や「東京昆虫デジワイド」や「60倍の惑星」は、「1コマ写真」でありながらヒューマニズム的視点と誤解される余地が格段に少ないように思う。
あらためて考えると、これらのシリーズには人間世界の他に、それ以外の「比較対象」が写っている。
それは「路上ネイチャー」や「東京昆虫デジワイド」の場合は「虫」であり、「60倍の惑星」では「1/60フィギュア」であり、これらは共に「人間以外の視点」を表している。
さらにこれらの視点は、人間のスケールとは異なる小さな視点であり、「人間以外の視点」であることがより強調されている。
「人間以外の視点」とはすなわち「アンチヒューマニズム」の視点であり、これらの写真にはそれがハッキリ現れているため、誤解の余地が少ないのだ。

しかし近代の延長である現代社会は「ヒューマニズム」が基本であり、ぼくが提示しようとする概念はなかなか理解されず、誤解されるしかないのかも知れない。
ただぼくは、「ヒューマニズム」を全面否定してるわけではなく、認識の一領域としての「アンチヒューマニズム」を提示しているだけなので、どこかで折り合いが付きそうな気がしているのだ。

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