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2009年7月26日 (日)

ようやく「鑑賞主義」について

Shongkong2004b
(*「ツギラマ」は、「鑑賞主義」という新たな「神話」のための挿絵である)

■前提としての神話論

文化人類学者のレヴィ=ストロースは、いわゆる「未開部族」と言われていたさまざまな部族の「神話」を比較研究するうち、人間にとっては「すべては神話である」という結論を見出し、思想や哲学の世界に決定的な影響を与えた。
なぜなら、古い歴史を持つ「ヨーロッパ的知」が、未開部族の神話と「同じものだ」などと、それまで誰も考えなかったからである。
しかし、「ヨーロッパ的知」をマスターした人があらためて考えると、なるほどレヴィ=ストロースの言うことはもっともなのである。
なぜなら、人間は「五感」を使ってしか世界を認識することができず、「言葉」を使ってしかものを考えることができず、そういう「制限」のため原理的に「真理」に到達できないからである。
「ヨーロッパ的知」は長い歴史の中で「真理」を追求してきたが、それは決して「真理」ではなく、多くの未開部族の「神話」と同じく荒唐無稽でデタラメな「物語」に過ぎないのだ。

そして「現代思想」はそのような前提のもと、「真理の追究」をあきらめ、「機能主義」に進路変更したのだ。
例えば、「人間にとって幸福とは何か?」という問いを立てると、それは「真理の追究」になる。
しかし「人間が幸福になるにはいかなる方法があるのか?」という問いの立て方をすると、それは方法論の模索であり、「機能主義」である。
「現代思想」の分野では社会学も、経済学も、法学も、それぞれのやり方で「真実」ではなく、より有効に働く「機能」を追求しているのだ。

「現代思想」がなぜこのような態度を取るのかと言うと、それはあらゆる「神話」は荒唐無稽でデタラメな内容でありながら、人々にとって役に立つ「機能」を備えているからである。
例えば、人々が荒唐無稽な「神」を信じ、それが人々の幸福に結び付くのなら、「機能主義」的にはOKである。
もちろん、現代においては素朴に「神」を信じることが人類の幸福に結び付くとは考えにくい。
だから「現代思想」は社会学や、経済学や、法学などの分野に分かれ、それぞれのやり方で「人類を幸福にする方法」を模索しているのだ。
人間はその内容がいかに荒唐無稽であっても、何らかの「物語」を信じなければ生きてゆくことが出来ず、これが「神話」の「機能主義」としてのあり方なのだ。

ところで「機能主義」と言えば、その最たるものは「科学」である。
そして、「全ては神話である」からには、「科学」もまた「神話」なのは当然である。
実のところ、「科学」が生み出す「機能」は、その効果を「信じる者」にとってのみにしか存在し得ず、だから「科学」も「神話」のひとつに過ぎないのだ。
例えばぼくは「携帯電話」を持っていないが、それはぼくが「携帯電話は便利だ」と言う「神話」を丸ごと信じていないからである。
もちろん、ぼくはこうしてパソコンを使ってブログも書いているし、「科学」の持つ「機能」そのものは否定しているわけではない。
しかし、いくら他人から「便利だよ」と言われても、その使い方はおろか利便性そのものがまるで理解できない機械というものは、誰にとっても少なからず存在するはずだ。
つまり「科学」も諸伝は「神話」のひとつであり、「科学」を絶対視する視点もまた「神話」なのだ。

ひとつの例外も無く、人間にとっては全てが「神話」なのである。
そして「神話」と「神話」とを比較する限りにおいて、どれがより「正しいか」と言う判断をすることはできない。
「神話」であるからにはどの内容も荒唐無稽であり、「真理」からは程遠いのだ。

しかし「神話」と「神話」は、その「機能の有効性」を比較することはできる。
ぼくは以前、このブログで「科学は呪術に過ぎない」と書いたが、「科学」はあらゆる「呪術」と機能が比較され、もっとも有効性の高い「呪術」だと判断されているに過ぎない。
だから時には「現代医学」と比較した結果、「漢方医学」の方が有効性が高いと判断されることもあるのだ。

レヴィ=ストロースも、未開部族の「神話」と、「ヨーロッパ的知」とを同じ「神話」とみなした上で、その「機能」を比較する研究を行なったのである。
この流れを受けた「現代思想」の分野では、何もかもが「神話」とみなされ、その「機能」の比較研究が行われているのだと言える。
これはかなり乱暴なまとめ方だが、自分なりにシンプルで分かりやすい「神話」としてまとめると、このようになるのである。

■「鑑賞主義」とは

以上の事を踏まえ、「神話」に対して「機能主義」以外の比較基準を考えてみたのが、「鑑賞主義」なのである。
「神話」と「神話」は「正しさ」の比較ができず、「機能」の比較だけができるのだと先に述べた。
しかしそれ以外に「神話」どうしは「面白さ」の比較もできるのではないか?とぼくは考えるのだ。

実際、レヴィ=ストロースの『野生の思考』に示された未開部族の「神話」のサンプルは、どれもがあまりに荒唐無稽な内容で、目の覚めるような面白さなのである。
そして、それらの「神話」はどれもフィクションではなく「事実」として語られているとことに凄みがある。
荒唐無稽な面白さを持ち、なおかつ凄みのあるものは、すなわち「芸術」である。
だからぼくは、人間にとって全ては「神話」であり、そして「神話」と「神話」は「芸術的な価値判断」が可能なのだと、直感したのである。
未開部族の「神話」も、「現代思想」も、「哲学」も、「科学」も、そして「芸術」も、全ては「神話」であり「芸術的価値判断」という同じ「土俵」に並べることができるのだ。
この様な価値判断の仕方を、なんと名付けようかと思い、仮に「鑑賞主義」としたのである。

ぼくは、現代思想や哲学や科学の入門書を好んで読むが、それらは「鑑賞主義」として楽しんでいるのである。
このような本を「鑑賞主義」として読むから「面白い」と感じるのだ。

また、路上のさまざまなものを「鑑賞主義」として解釈すると、それは「非人称芸術」となる。
だから「鑑賞主義」は「非人称芸術」の「上位概念」なのである。

昆虫や植物などもぼくは「鑑賞主義」として解釈して楽しんでいる。
だから「路上ネイチャー」と「非人称芸術」は、「鑑賞主義」のコンセプトでつながっているのである。

このブログに投稿したテキストも、芸術論のほか生物学や現代思想などいろいろなことをテーマにしているが、全ては「鑑賞主義」の立場で書いている。
つまり、何か小難しいことを書いているようでいて、実は「面白がってもらう」事を前提に書いているのだ(それが成功しているとは限らないが)。
と言うか、ぼくは「非人称芸術」やこの「鑑賞主義」のコンセプトも含め、全ては新たな「神話」を創造するつもりで書いている。
そして、レヴィ=ストロースが「神話」の創造にブリコラージュ的方法が使われる例を示したことに倣い、ぼくも「ブリコラージュ」の手法で考えて書くのである。

ところで、「鑑賞主義」と「機能主義」は相反するのではなく、むしろ相関関係にあると言える。
ある「神話」が「機能主義」的に見事に機能する場合、そのこと自体が「鑑賞主義」的に面白いのである。
例えば宮台真司さんや内田樹さんなどの頭の切れる人の本は、見事に機能してるがゆえに面白いと感じられる。
いや、本質的に芸術とは「機能しないもの」なのであるが、理不尽な「神話」の体系内での「機能」はやはり理不尽であり、だから「芸術的に面白い」のかもしれない。
まぁしかし、この辺のとことはまだちょっと考え中で、まだ未整理である。

だた、少なくとも「鑑賞主義」には「芸術としての機能」があり、その意味で「機能主義」なのだと言える。
そして、全てを「芸術」として鑑賞できれば、それが「人々の幸福」に結び付くかも知れず、これは「機能主義」としての「現代思想」の目標とも合致しないとも限らないのだ。

■「鑑賞主義」の今後

以上、ようやくこのブログで肝心の「鑑賞主義」のコンセプトについて語ることができた。
まだ言い足りなかったり、分かりにくかったりする要素も多いと思うが、ともかくこれからは「鑑賞主義」と言うことでやっていこうと思う。
ただ、この名前は決定稿ではなく、あくまで「鑑賞主義(仮)」でしかない。
名付けと言うのは肝心で、しかも知識が無いと言い名付けもできないから、なかなか難しいのだ。

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コメント

はじめまして。
ネットを徘徊していてこのブログに立ち止まり、おもしろがって読ませていただきました。
実は、糸崎さんとは一度だけ面識があります。
四国の某ギャラリーで(僕はそのギャラリーのオーナーの友人ですが)少しだけ作品を見させていただき、オーナーと話しをしている際にお話しを聞かせていただいています。
その際の印象がお名前とともに頭に残っていたものですから、あの糸崎さんのブログだと立ち寄ったわけです。

僕の知っている限りの芸術家(僕のイメージしている芸術家かも知れませんが)とは少し違っていて、
失礼な言い方かもしれませんが、興味をもっていました。

僕は、乱暴な言い方をすると、人間にとっての真理とは誤解と思い込みでしかないと思っています。
人間は五感でしか判断できないのはもちろんですが、その五感が曲者です。
脳科学的に、また心理学的には、全ての事象はその人間の五感から入り脳の中で具象化しようとするわけですが、その具象は非常にアバウトなものです。

視覚的にも聴覚的にも信号として脳に入った時点で、信号の解析作業はその固有の脳が持つ能力に支配されますが、基本的には非常に曖昧で都合の良い解析をしてしまいます。

それを逆手に取ったのが、錯視効果だとかトリックの世界ですが。

思考にしても(思考とは、自分の感性を言語により具象化し自分自身に伝える作業だと考えています。)
同じことです。

ですから嘘も続ければ真実となりうるのです。

となれば、非人称であろうが人称であろうが固有の感性に支配されるのではないでしょうか?

創作者が「意図しない非人称」であっても鑑賞者のフィルターはかかるわけで、

鑑賞者にとっては意味のないことになりませんか?

創作者の感性がどうであれ、作品として生み出された瞬間に創作者の手を離れ、
独立した個として一人歩きをするのではないでしょうか。

その作品は、百人の鑑賞者にとって百個の作品として存在するのではないかと思っています。

突然のコメントで失礼しました。

僕は、芸術家でもなければ批評家でも、ましてや思想家でもなく一般の小市民ですので
的外れの意見かもしれませんが、おもしろがってブログを読み、おもしろがってコメントを書いているということでご理解ください。

投稿: kenji | 2009年8月13日 (木) 11時18分

書きこみありがとうございます。
返信遅くなりまして申し訳ありません。

> 四国の某ギャラリーで(僕はそのギャラリーのオーナーの友人ですが)少しだけ作品を見させていただき、オーナーと話しをしている際にお話しを聞かせていただいています。

四国へは近日中に行くかもしれませんので、よろしくお願いします。

> 僕の知っている限りの芸術家(僕のイメージしている芸術家かも知れませんが)とは少し違っていて、

まぁ、ある意味ぼくは非常に凡庸で、そういう風に評価する人も大勢いますw

> 僕は、乱暴な言い方をすると、人間にとっての真理とは誤解と思い込みでしかないと思っています。

これはまさにその通りで、このような状況を宮台真司さんは「真理の不可能性と不可避性」と言うような言葉で表現してました(ちょっと違うかもしれませんが)。
つまり、人間にとって確実に信じられるものは何一つないにもかかわらず、しかし何かを信じなければ生きられないのが人間なのです。
ですからそのことを自覚した上で、自分にとって信じられることを、各自が構築する必要があるのです。

別の言い方をすると、その人にとっての「信じられること」とは、「道具」のようなものであり、それは「考える道具」であり「判断の道具」でもあります。
例えば、紙を切る道具として、ハサミとカッターはどちらが「真理」なのか?という問いは無意味です。
紙の種類によってハサミの方がいい場合と、カッターの方が適している場合もあります。
また、何でもハサミで切ったりする人や、何でもカッターで切ってしまう人もいるでしょう。

同じように「考える道具」や「判断の道具」も、各自が使いやすい道具を使えばいいのです。
道具だと思えば、「人間にとっての真理とは誤解と思い込みでしかない」のだとしても、それで何の問題もありません。
ただ、道具にも色々あって、複雑で多機能な道具を駆使する人もいれば、単純素朴な道具で何でもこなしてしまう人もいるでしょう。
また、道具の扱いが下手だったり、自分に合わない道具を無理して使い続けたりするおかげで、周囲とトラブルが絶えないような人もいるだろうと思います。

そのようなわけで、ぼくは「非人称芸術」と言う道具や、「鑑賞主義」などという道具を自分なりに工夫してみたのです。
そして、これらの道具がどれだけ有効なのかは、道具を実際に使いながら検証していかなければならず、それが創作活動になるのです。
このような自分なりの「道具」の工夫は、芸術家であれば誰しも行なっているだろうし、芸術家でなくても何らかの形でそれをしてるのが当たり前であって、その意味でぼくは凡庸なのです。

> ですから嘘も続ければ真実となりうるのです。
>
> となれば、非人称であろうが人称であろうが固有の感性に支配されるのではないでしょうか?

つまり、ぼくは「非人称芸術」という嘘を続けることによって、それを真実にしようとしてるのです。
嘘を真実に見せるため、「非人称芸術」を「作品」に置き換えるという詐術を使ってるのです。
ぼくはそのような嘘を10年以上つき続けてきましたが、それが真実として世の中にどれだけ浸透してるかは、微妙なところかもしれませんw

投稿: 糸崎 | 2009年8月16日 (日) 15時47分

ご丁寧な返信ありがとうございました。
僕のような者のコメントに、真摯に対応していただいたことに感謝いたします。

おっしゃることはよく理解できました。(あくまでも僕なりにではありますが。)

凡庸さがなければ破綻してしまいますので、
糸崎さんが凡庸だとしたらとても素敵なことだと思います。

僕はそんな芸術家に強く魅かれますので、ますます興味が湧きました。

投稿: | 2009年8月17日 (月) 16時25分

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