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2009年8月

2009年8月31日 (月)

負ける技術

Sr8477031 (*写真と本文は無関係です。GRD3)

またしても更新が一月以上空いてしまった。
その間に実は彦坂尚嘉さんのブログで「吊るし上げ」を喰らってたりして、これはいまだに晒されているので、「面白い見世物」としてご覧いただければと思う(笑)。
ぼくも以前は、他人のBBSとか、自分のBBSでも、「吊るし上げ」を他人に対して行なう側だったので、これはまさに「因果応報」だろうと思う。
ぼくは今では、過去に自分が他人に対して行なった「吊るし上げ」はよくない行為だったと反省している。
だからそれだけに、いざ自分自身が「吊るし上げ」の対象になった場合、何らかのキチンとした形で対応して見せなければ、過去に自分が「吊るし上げ」を仕掛けた人に対し、申し訳が立たない。

「吊るし上げ」というのは、つまりは「相手の否を正直に指摘する」ということで、それをネット上の公共空間で行なうと「吊るし上げ」になる。
ぼくは日本人の多くが何事もなぁなぁで済ませようとし、それでいてひそかに自分の願望を押し通そうとする「行動プログラム」が嫌いで、だからネット上で何度か他人にケンカを売ったりしていたのだ。
ところが、いざ自分が他人から「お前の考えはクダラナイ」というように公然と批判されると、意外にもかなりうろたえてしまうのだから情けない。
ぼくは議論には「覚悟」が必要だ、などと思っていたのだが、実際はそんな覚悟はぜんぜん出来ていなかったのだ。

議論に際しての覚悟とは、つまりは「負ける覚悟」である。
議論というのは勝ち負けはあるのだが、しかしスポーツではないのだから、勝つことが議論の目的ではない。
では議論の目的とは何かというと、「よりよく考えること」もしくは「考えを新たにすること」なのだといえる。
議論に「負ける」というのはつまり、その人の考えが「相手よりよくなかった」もしくは「間違っている」ということである。
だから議論に負けた人は、相手の意見を受け入れ、そうすれば議論の目的である「よりよく考えること」や「考えを新たにすること」を手に入れることができるのだ。

ところが、「自分の考えを変える」ということは、子供はともかく大人には非常に困難で、かつ頭の悪い人間ほどそれが苦手なのである。
だから多くの議論の場合、お互いが自分の正しさを主張し、絶対に非を認めず、ケンカ別れすることが多い。
議論の場合は、客観的にどれだけ理論が破堤して見えても、自分が「負け」を認めない限りは「勝ち」になる。
つまり議論に勝つのは実は簡単なことで、それより負けることのほうがある意味難しいのだ。

「議論に負ける」ということは、「考えを新たにする」ことであり、これまで馴染んできた「自分の考え」を捨て去ることである。
これは大変にエネルギーが要る、大変にクリエイティブな行為だといえる。
そう考えると、「議論に負ける」という大変な行為を、相手に対し安易に要求してはならないのである。
議論というのは、お互いに相手を「言い負かそう」としてはじめることも多いと思うが、それは相手に対して要求が大きすぎる。
だから多くの議論が不毛なケンカに終わってしまうのだ。

それよりも、「いかに負けるか」を目的に議論を行なうほうが、議論本来の目的にかなっているのかもしれない。
いや、ぼくのように頭の悪い人間は、つい自分を棚に上げて相手に過大な要求をしてしまうから、「負ける」を目的に議論をするくらいがちょうど良いだろう。
そのようなわけで、彦坂さんに対しては、自分の足りないアタマを総動員して、精一杯「議論に負けた」つもりである。
もちろん、負けを認めるということは、相手の批判をどれだけ理解しているかの「告白」であり、それが頭のいい相手に認められるかどうかは保証の限りではないだろう。

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