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2009年10月

2009年10月27日 (火)

原稿の書き直し

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現在『子供の科学』誌に『街かど虫ムシ小宇宙』と言う連載をしているのだが、いまひとつタイトルが気恥ずかしい・・・これは当時の編集者と相談して「自分で」決めたのだが、どうしてこんなタイトルにしたのか・・・

それはそうと、次号分の原稿なのだが、一度入稿したものが書き直しになってしまった。
今回は「モズのはやにえ」の写真なのだが、同じ雑誌の連載『鳥くん♪の 鳥くんと遊ぼ』のテーマも「モズのはやにえ」で、ネタがかぶってしまっていたのだ。
「どうしましょう・・・?」と編集者に言われたのだが、ネタが鳥だけに、鳥の専門家である鳥くん♪に原稿をかえてもらう訳にはいかないだろう。
それでぼくが書き直すことにしたのだが、写真そのものからして差し替えてしまうのは面白くない。
そこで、同じ「モズのはやにえ」をテーマに、鳥くん♪の連載の内容と連動しつつ、ちょっと別の視点を提示してみることにした。

いや元の原稿でも、ぼくと鳥くん♪とでは視点が違っていて、「はやにえ」についての解釈が異なっていた。
鳥くん♪が「はやにえはモズの保存食だが、モズは記憶力がないので場所を忘れることが多い」みたいに断言しているのに対し、ぼくは「諸説あるけど、何のためか分からない謎の行動である」と説明していた。
しかし、同じ号の「子供の科学」に掲載されながら、科学的現象に対しての解釈が違うと読者(子供)が混乱してしまうだろう。

そもそも、ぼくの「モズのはやにえ」についての知識は、ウィキペディアを中心に、ネットで得られた情報のみである。
「何のためかわからない行動である」と言うのも、ウィキに書かれていた主張だった。
だが、動物の行動についての機能的解釈には、「正解」が決められないことも多く、だからぼくはウィキにあった「何のためか分からない」という記述が気に入ったのだ。
しかし鳥くん♪だって専門家だから、その辺は分かった上で、読者(子供)に対し分かりやすくするために、あえて「正解」を提供したのだろうと思う。

鳥くん♪の原稿は、たぶん小学校低学年以下を対象にしているのだ(彼のキャラ的にも)。
しかしぼくは編集部から「ウチの読者は程度が高ですから、子供向けだからって容赦しなくていいですよ」と言われている。
それで、ぼくが容赦をせずに全力を出すと、ちょうど「中学生にもわかる」レベルになるわけで、そのつもりで毎月原稿を書いている。
鳥くん♪の原稿は、言ってみれば「教科書的」な内容で、その意味では「正しい」のだろう。
しかし中学生ともなると、「教科書的正しさ」に疑問を持つようになる子供もいたりして、そういう態度こそが「科学的」だとぼくは思っている。

もちろん、以上の事をストレートには書かないが、そんなような意味を盛り込んだ上で原稿を修正し、編集者のOKも無事もらえることができたのだ。

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ちなみにはじめに掲載したイラスト連載の写真に添えられるもので、実はこの写真をフォトショップの「水彩画」フィルターで加工したものだから、正確にはイラストではない。
また、連載にはまったく別の写真が掲載されることになっている。

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2009年10月24日 (土)

パラペラショーに行ってきた

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12月に一緒にグループ展をやる彦坂敏明くんが、アイショウミウラアーツで開催している「パラペラショー」に出品してるので、そのレセプションに行ってきた。
アイショウミウラアーツは初めてだったが、曙橋商店街のわきの路地を入ると、普通の木造家屋を改装した小さなギャラリーがあって、こんなふうに若い人でにぎわっていた。
オーナーの三浦さんは非常に若くて、ギャラリーはオープンから3年目だそうだが、この前オープンしたユカコンテンポラリーといい、ぼくの知らない間に現代アートの世界はそういうことになっていたのか、とつくづく思ってしまった。

開催されていたパラペラショーは、アーティストが自分で作った作品集(小冊子)を、作品とともに並べた展覧会だった。
アーティストが作る小冊子を、最近では「ジン(ZINE)」と言うらしく、そのようなジンを販売するウェブサイトが「パラペラ(parapera)」で、そのパラペラで扱っているアーティストのジンを展示するのが、この企画展なのだそうだ。

で、そのジンだが、それぞれ予算の範囲内で工夫しながら作り込んでいるようなのだが、どうも印刷や紙質がチープなものが、気になってしまった。
いやぼくは別に「クオリティ主義」ではないのだが、元の作品がオシャレでアーティスティックなのに、ジンの印刷がチープだと、どうも違和感がある。
例えば、青空がきれいでオシャレなスナップ写真の、その青空が印刷のせいでマダラだったりすると、それだけで興ざめしてしまう。
この場合、元の写真がトイカメラやケータイのチープな画質だったら、チープな印刷と相性がよく、それなりに説得力のある「ジン」になるだろうと思う。
しかしどうも、そのあたりを考慮した「ジン」は意外に少なく、そこのところはどうもよく分からない。

などとエラソーなことを考えていたら、ふと過去に自分も「ジン」を作っていたことを思い出した。

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こういうものなのだが、1998年ごろに10冊くらいは作っただろうか?
当時はパソコンなんか無いし、ワープロも無いから表紙のロゴは手書きで、セブンイレブンのカラーコピー機(これがもっとも高画質だった)を使っている。

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中身はこんな感じで、折込のカラーページが4枚。
友達に配ったり、この号は「昆虫ツギラマ」なので、その個展で販売したりもした。
で、自分では当時「チープな持ち味」を生かして作ったつもりだったのだが、これを「パラペラショー」の会場で並べたら、果たして説得力のある「ジン」に見えただろうか? ちょっと自信が無い(笑)

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あと、こんなのも出てきた。

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全ページモノクロで、躍るような手書き文字(笑)
内容は今読むとメチャクチャ恥ずかしいが、結局これは1号限りで終わっている。
この頃からちゃんと続けていれば、今頃はもっとマシな文章が書けるようになっていたのかも知れないが、残念なことだ。
いや、当時はちょっといろいろと勉強してたのだが、その後しばらく中断してしまったのだ。

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2009年10月23日 (金)

自分でフォトモが「わからない」

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12月に文京区のユカコンテンポラリーでのグループ展に参加することになり、オーナーのゆかさんに、まずは作品サンプルとしてフォトモを何点か見ていただいた。
そうしたところ「いいねー」「おもしろいねー」とおおむね好評で、そのときたまたま同席されていたドイツ人アーティストのトーマス・ノイマンさんにも「カワイイデスネー」などと喜ばれた。
と言うことで、とりあえず安心したので、あとは参加作家諸氏とも連絡を取りつつ、グループ展をどうつくりあげるか考えるのみである。

しかし後になってふと気付いたのは、ゆかさんに限らず自分以外の皆さんがなぜフォトモを「良い」と思うのか、その理由が実はぼくには「わからない」ということである。
つまり、「非人称芸術」と言うコンセプトを共有しない人が、どのような理由でフォトモを評価するのか、その理由がぼくには「わからない」のだ。
いや、もちろん何となくは「わかる」のだが、しかしそういう「自分勝手な想像」を排して考えると、やっぱり「わからない」ということになる。

ぼくにとって、「非人称芸術」のコンセプトを除外したフォトモが、果たして「良い」と言えるのか? 
あるいはそれが「美術」としての評価に値する作品たりえるのか? 
そこがどうにも「わからない」。

言ってみればぼくのフォトモ作品には、ぼくのつもりとはまったく別の、自分では気付かない種類の「良さ」があり、その「良さ」は作者であるぼく以外の「鑑賞者」によって創造されたものである。
この状況を別の言葉で説明すると、「フォトモ」と言うひとつの作品をめぐって、作者が提示する「良さ」と、鑑賞者が受け取る「良さ」に、不可避的なズレが生じている。
しかし内容の違いはともかく、「良い」と言う評価によって、両者の「利害」は一致している。
つまり両者の利害は「相互的」な関係にある。

そのような意味で、ぼくは「非人称芸術」とは価値観を異にする「現代アート」の分野と、「相互的」に関わっていこうと思っている。
そしてより積極的に、より効果的に「相互性」を高めるためには、自分の価値判断とは異なる「フォトモの魅力」を理解する必要があるのかもしれない。
そう考えて、ぼくは自分の作品であるフォトモの良さがまだ「わからない」状態にあることに、あらためて気付くのだ。

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2009年10月22日 (木)

「わからなさ」のわからなさ

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昨日は思い切って、彦坂尚嘉さんが主宰する「ラカンと美術読書会」に参加してみた。
「思い切って」と言うのは、ぼくはこのブログでも明らかにしてるように、頭が悪くて原著なんか読めないから、まるで場違いなところに参加して、恥をかいたり気まずい思いをするんじゃないか?とかなんとか心配だったからだ。
しかし、例えそういう結果に終わっても、ともかく自分の「客観的な位置」を確認することは必要だから、それで思い切って参加してみたのだ。

それで実際にはどうだったのかと言うと、心配するほどのことも無かったと言うより、予想を超えた何だか奇妙な集会だったのだ。
「読書会」なので、ラカン著『無意識の形成物〈上〉』の見開きのコピーが12枚配られ、それを順番に朗読してゆく。
まるで小学校の国語の授業なのだが、しかしテキストがラカンの原著だけに、何が書いてあるのかぜんぜんわからない。
「現在読まれている文節」が、「直前まで読まれていた文節」とどう関係しているのかまるでわからず、文字を追うだけで頭には何も残らない。

それでコピーの半分ほど読み終えた頃に、彦坂さんの「ちょっと休憩にしましょうか」の一言で中断して、お菓子などバリバリ食べながらの雑談タイムになった。
雑談と言っても、ほとんどが彦坂さんのエンドレストークで、けっきょく休憩もエンドレスになり、ラカンの「読書」は再開されずに終わってしまった。
でもそういう雑談が面白いのであって、半分はそのための集まりなのかもしれない。

ぼくが意外だったのは、「読書」のあとにその内容について解釈したり分析したり、そういうことがほとんどなされなかったことである。
ほんのちょっとの部分について、彦坂さんが簡単に解説してくれはしたが、そのこと自体がこの集まりの目的ではないらしい。
では何が目的なのかと言うと、ラカンをわかろうとするより、ラカンの「わからなさ」に向き合うことこそが、大事らしいのだ。
だから、この日集まったぼく以外のメンバーも、みなラカンについては「ぜんぜんわからない」と言っている。
「だから糸崎さんも安心してくださいよ」とは言ってくれるのだが、「わからなさ」のレベルは人によって違うので、こういう言葉は鵜呑みにはできない。
いや各自のレベルの問題はさておき、ともかくこの「読書会」は、基本的にはみなで集まって朗読して、ただそれだけなのだ。

彦坂さんの指摘では、ぼくは何事もわかろうとしていて、「糸崎さんはラカンもわかろうとしているからダメなんですよ」とおっしゃられていた。
ラカンに限らず、例えば中島義道さんの著書にしても、自分のわからないカント関係の専門書は読まず、理解可能な入門書ばかり選んで読んでいる。
そのようにぼくには一貫して、自分の理解できる範囲内に留まっているだけで、「わからなさ」に向き合おうとしていない、と言う欠点があるのだそうだ。

しかしそう言われて、どうも釈然としないのだが、ぼく自身は自分なりに「わからなさ」と向き合っているつもりでいるのだ。
ぼくのつもりとしては、「自分に理解できる入門書」ばかり選んで読むのは、<世界>に対する「わからなさ」に向き合うためのツールとしてそれを利用するためである。
「非人称芸術」は誰もが当たり前に感じている日常世界を、「わからなさ」として対峙するための方法論のつもりだ。
昆虫などの自然物に対しても、解明して「わかろう」とすることよりも、「わからなさ」を丸ごと引き受けて堪能することを優先しているのだ。

しかし、ここで言葉のズレを修正しながら考えると、それは「わからなさ」と言う言葉の意味の問題になる。
それを踏まえて「自分の理解できる範囲内に留まっている」と言う批判を言い換えると、ぼくは「自分のわかる範囲のわからないことに留まっている」とは言えるかもしれない。
自分にとって「非人称芸術」の「わからなさ」は「わかる」のであり、「昆虫がわからない」という「わからなさ」も「理解できる」。
しかしラカンに対しては、その「わからなさ」そのものが「理解の範囲外」であって「わからない」のだ。

以上の「仮説」で考えると、ラカンの本を「わからない」まま読む人たちは、ラカンの「わからなさ」そのものは理解できており、したがって「わからない」ままに「わからなさ」が堪能できるのだ。
そしてぼくは、ラカンの「わからなさ」そのものが理解できず、「なんにもわからない」まま困惑してしまうのだ。
この関係は、取材などで他の人と一緒に「路上」を歩くときの違和感と同じで、多くの人は「路上」や「非人称芸術」を「わかろう」とするから、結局はぼくが重視している「わからない」と言う感覚が「わかってもらえない」のだ。

「わからなさ」と言うと、最近はちょっと勉強したおかげでデュシャンの「わからなさ」はだいぶ「わかってきた」感じがする。
「美術」や「写真」の「わからなさ」も、この「わからなさ」が「わかればいいんだ」、ということがだんだん「わかってきた」。
ラカンの「わからなさ」も似たようなもんだと思えばちょっとは「わかった」気になるのだが、果たしてどうだろうか?

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2009年10月21日 (水)

描かれたレディ・メイドと「レディ・メイド」

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のっけから引用画像なのだが、言わずと知れたデュシャンのレディ・メイド「泉」である。
いちおう解説してみると、これは見ての通り単なる「便器」なのだが、デュシャンはこれに「R.MUTT 1917」と言う偽名のサインを入れ、ニューヨーク・アンデパンダン展(無審査展)に出品したところ展示を拒否され、その後美術界にたいへんな物議をもたらした。
デュシャンは一般的に販売されている既製品(レディメイド)を無作為にセレクトし、それを「美術品」として扱うと言うコンセプトを思い立ち、それらの物品を「レディ・メイド」と名づけた。
「レディ・メイド」は、「芸術」と「芸術でないもの」の境界線をあらためて人々に見せつけ、それ以降の現代アートの流れに決定的な影響と与えることになった。

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さて、次の画像も引用なのだが、18世紀のフランスの画家、シャルダンによる「銅製の給水器」である。
で、ふと思ったのは、このような静物画に描かれる「静物」は、実のところ「レディ・メイド」そのものではないか?と言うことである。
この「銅製の給水器」の原題は「La fontaine de cuiver」であり、「泉」の原題は「Fontaine」である。
つまり、シャルダンの描いた「fontaine」も、デュシャンが選んだ「fontaine」も、既製品の「Fontaine」と言う点では同じなのである。
そう思うと、シャルダンの「銅製の給水器」が、ますます「レディ・メイド」に見えてきてしまうのだ。
もしデュシャンが、シャルダンが描いたのと同じ「銅製の給水器」を選んだとしても、「レディ・メイド」としてまったく違和感が無いだろうと思う。

しかし、シャルダンの描いた「fontaine」は、それが「描かれている」と言う点で、デュシャンの「レディ・メイド」とは決定的に異なっている。
つまりシャルダンにおいては、「fontaineが描かれた絵画」にこそ価値があるのであって、「物品としてのfontaine」には何の価値も無いのだ。
シャルダンが描くような静物画は、本来は何の価値も無い静物(既製品)を描くことによって、価値の高い「芸術作品」を生み出すことに意味がある。
意味があるのは芸術としての「絵画」であって、静物(既製品)はその意味を生み出す手段に過ぎない。

そう考えると、デュシャンの「レディ・メイド」とは、伝統的な「絵画」と「モチーフ」の関係を転倒させる試みだと言えるかもしれない。
デュシャンの「泉」は「描かれた fontaine」ではなく、「現物の fontaine」である。
そして「現物の fontaine」に対して直接、「描かれた fontaine」と同等以上の「芸術的価値」を見出すことの可能性を、デュシャンは示したのだ。

まぁしかし、以上のようなことはちょっと考えればすぐ分かるようなことではある。
ぼくが本当に悩んでいたのは「非人称芸術」といわゆる「普通の写真」との関係で、そのために「静物画」と「レディ・メイド」の違いについて考えてみたのだ。

「非人称芸術」のコンセプトは、デュシャンの「レディ・メイド」の延長上にある。
「非人称芸術」とは早い話が「レディ・メイド」なのであるが、その選択基準に「非人称」と言う概念を導入した分だけ「改良」されている。
この改良のおかげで、「路上」の何もかもが美術的な「鑑賞」の対象になりうる、と言う可能性の世界が広がることになった。
「非人称芸術」という「思考の方法論」を使えば、日常世界である「路上」の何もかもが、「非人称芸術」として鑑賞可能になる。

しかしそうなると、「非人称芸術」と、最近良くある「路上スナップ写真」との違いがわからなくなってくる。
「路上スナップ写真」には文字通り「路上の一角」が写っているから、それはすなわち「非人称芸術」を写したものでもあるのだ。
実際に、さまざまな「路上スナップ写真」を見ると、そこには確かに「非人称芸術」が写っていることが確認できるのである。
もし、「路上スナップ写真」を撮る人の多くが「レディ・メイド」や「非人称芸術」的なことを自覚しながら撮っているのなら、ぼくは誰もが知っている当たり前のことを、さも新しいことのように大仰に叫んでいるだけになってしまう。
いや別にそれならそれで良いのだが、実際のところを知りたいのである。

それで何人かの写真家の友人に聞いてみたところ、あまり自覚的ではないにしろ、「非人称芸術」と共通の感覚を持ちながら「路上スナップ写真」を撮っている人は割と普通にいるようなのである。
しかし彼らと話していて、最後のところで意気投合に至らないのが、彼らの目的があくまで「写真」だと言う点である。
「路上」と言うフィールドに対し、いかに「非人称芸術」的な共通感覚を持っていたとしても、それを「写真のための手段」と捉える限り、その感覚は「非人称芸術」とは決定的に異質なものだと思う。
それは、先にあげたシャルダンの「fontaine」と、デュシャンの「fontaine」との決定的な違いに対応するだろう。
シャルダンだって「fontaine」を「良い」と思ったからモチーフに選んだのかもしれないが、それはデュシャンが選んだ「fontaine」における「良い」とは意味がまったく異なっている。

と言うことで、ただ単に「路上スナップ写真」を撮っただけでは、それは「非人称芸術」にはなりえない。
写真家が提示するのはあくまで「描かれた非人称芸術」であり、それは本来的な「非人称芸術」とは決定的に異なっている。
別の言い方をすれば、「写真至上主義」である限り、何を撮っても「非人称芸術」とは無関係である。
いや「写真」にしろ「現物」にしろ、「それが何であるか」は解釈によって異なり、「非人称芸術」とは解釈のための方法論なのである。
だからこそ「写真至上主義」と言う異なる解釈方法とは、対立せざるを得ないのだ。

一方ぼくは「非人称芸術」を撮影した「写真」や「フォトモ」によって、「写真至上主義」(もしくは作品至上主義)の世界と「相互的」に関わっている。
それは実のところ「非人称芸術」の本質とはあまり関係なく、ぼく自身が「写真家・美術家」として生きていく上で必要なことである。
そのためにぼくは最近、自分にとっては未知の価値体系である「写真至上主義」について、知りたいと思っている。
だからこのブログでたびたび発表しているように、「普通の写真」を撮ることを試している。

しかしこれまでの自分は、「普通の写真」の内容が「非人称芸術」とバッティングしないように、わざと「人物スナップ」を撮っていた。
だが、「写真至上主義」の視点に立つ限り、何を撮っても「非人称芸術」とは無関係なのであれば、「バッティング」などは気にせずに、みなと同じように「路上スナップ」を撮ればいいのだ。
「みなと同じ」と言うのは「まねる=学ぶ」であって、ぼくが「写真至上主義」を理解する上で取り入れた方法論である。
だからまねるべき対象を「人物スナップ」に限定することは、学ぶと言う観点からはあまりよくないことなのだ。

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2009年10月20日 (火)

客観的にはサボってるだけの、純粋な非人称芸術

今月上旬に高松市に滞在していたのは、来年2月に高松市美術館で開催される企画展と、地元商店街で同時開催されるアートイベントの準備が主な目的だった。
そしてその合間に「路上ネイチャー」の写真を撮ったし、もちろん「非人称芸術」の写真も撮影している。

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例えばこれなのだが、 ビルに二次元の木造家屋が張り付いて、非常にすばらしい・・・

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そのバリエーションとしてこんなのもあって、さらに素晴らしい・・・

しかし「厳選」とは言っても、実のところぼくは数ある「非人称芸術」の中から、特に優良な物件だけを選んで撮影しているわけではない。
そうではなく、「写真として表現可能なもの」だけを選んで撮影しているのである。
この写真の物件も、「ゲンバクタイプ」と言うカテゴリーに分類できることもあって、その「良さ」が写真で表現しやすい。
しかしその逆に、「非人称芸術」の大半は「写真では表現し得ないもの」であり、文字通りの「絵にも描けない美しさ」なのである。

「非人称芸術」は本質的に「絵にも描けない美しさ」を持っているが、それは客観的な「モノ」として目の前にあるのではなく「体験」そのものだからだろう。
「モノ」は写すことができても、「体験」を写真で撮るのは無理である。
「非人称芸術」は、人間によって「意味あるもの」で埋め尽くされた日常世界を、日常ならざるものへ「読み換える」ための方法論である。
日常世界から読み換えられた「非人称芸術」は、日常ならざる世界として「体験」されることになる。

もちろんこれは「理想的状態」であって、人間の先入観は強力で、なかなか上手く行かないこともある。
だが高松は初めて訪れる遠隔地と言うこともあって、仕事の合間の短時間であっても「非人称芸術」の世界にかなり埋没できて、満足している。
この状態は、客観的に見ればただ「路上」を歩き回っていると言うか、ありていに言えばフラフラと散歩をしているだけである。
しかしその最中こそが、ぼくの「美術家」としての「創造行為」そのものなのである。

「非人称芸術」をそのコンセプトから純粋に考えると、それは鑑賞者の主観的な世界であって、何の客観性も無いのだ。
「非人称芸術」とは、自分だけが主観的に「芸術」を堪能するための、方法論だと言ってもいい。
ぼくは高松での滞在中に、ごく短時間とは言え、ものすごいエネルギーを使って「非人称芸術」の「創造」を行なった。
しかし客観的に見れば、この行為は何も生み出しておらず、「糸崎さんは仕事もせずにサボってる」と言うふうにしか見えない。

「非人称芸術」と言うコンセプトに「限界」があるのだとすれば、それは「主観的に閉じている」ことであり、「客観的に何も生み出さない」ことにあるだろう。
だがそのことは同時に、「非人称芸術」のさらなる可能性をも示しているのであり、そのことは常に見据えていなければならない。

だがぼくは気が弱いとことがあって、写真を撮ったりフォトモを作ったりして、客観的に「仕事をしてますよ」というアピールをしてしまう。
いかにフラフラして遊んでいるように見えても、最後にその成果を「作品」と言う客観で示せば、その分だけ人々に認めてもらうことができる。
しかし逆に言えば、自分がなまじそういうことをするから、「非人称芸術」が誤解されてしまうのだ。
いや、そもそも「非人称芸術」のコンセプトは理解してもらうこと自体が非常に困難なのだ。
だからたとえ誤解であっても、それが「認識」されるだけでもありがたいことなのかもしれない。

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趣味的判断の弊害

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P.カバンヌによるデュシャンへのインタビューを収録した『デュシャンとの対話』(ちくま文庫)を買おうと思ったのだが、実はすでに自分が持っていた『デュシャンの世界』(朝日出版社)と同じ内容(訳)であることが分かったので、そっちを再読することにした。
ただ、本文をブログに引用するなら、手に入りやすいちくま文庫版のページを示したほうが親切だったかもしれない。
でもとりあえず、朝日出版社『デュシャンの世界』からの引用。

P.96

カバンヌ ●レディ・メイドの選択では、何が決め手になったのですか。
デュシャン ●それはものによります。一般には「外見(ルック)」に惑わされないようにしなければなりません。あるオブジェを選ぶというのは、たいへんにむずかしい。半月後にそれを好きなままでいるか、それとも嫌いになっているのかわかりませんからね。美的な感動を何にも受けないような無関心の境地に達しなければなりません。レディ・メイドの選択は常に視覚的な無関心、そしてそれと同時に好悪を問わずあらゆる趣味の欠如に基づいています。
カバンヌ ●あなたにとって趣味とは何ですか。
デュシャン ●ひとつの習慣です。すでに受け入れたものを反復すること。何かを何度も繰り返していれば、それは趣味になります。いいにしろ悪いにしろ、同じようなものです。やはり趣味であることには変わりません。

ここで言われている「趣味」について、デュシャン関連の本にたびたび出てきて気になっていたのだが、ようやく納得できたような気がする。
つまり、20世紀のモダンアートの定義が「常に新しくあろうとすること」だとすれば、「趣味=すでに受け入れたものを反復すること」とは明らかに相反する。

「反復」と言うことであれば、ぼくは「路上」と言うフィールドを飽きもせず歩き回っているが、これこそが「趣味」なのだ。
いや、それ自体は何も悪いことはないように思える。
しかし見方を変えると、ぼくは自分の「趣味」によって「非人称芸術」の可能性を、「路上」だけに限定してしまっているのだ。
その「路上」の中でもぼくの「趣味」は、どちらかと言うと古い町並みや狭い路地などに偏る傾向がある。
このような「趣味」によって、ぼくは自らの可能性を限定してしまっているのだと言える。
その「趣味」による限界を超えるため、他人が撮影した写真を素材とした「復元フォトモ」も試みてはいるが、完全に自分の「趣味」から自由になっているとは言い難い。

「非人称芸術」は字義通りに捉えると、なにも「路上」的なものに限定される必然はまったく無い。
「非人称芸術」の概念が「路上」と相性がいいのは事実だろうが、「非人称芸術」の可能性はそれだけに限定されるものではないはずだ。
そもそも、現在の「非人称芸術」が「路上」をフィールドとするのは、その発端に赤瀬川原平の「超芸術トマソン」にあり、未だにその流れを引いているだけだともいえるのだ。
もし「非人称芸術」の概念が、デュシャンのレディ・メイドから直接導き出されていたならば、それはまったく別の色を帯びていたのかもしれない。

「非人称芸術」とは、世界認識のためのひとつの方法論だと、ぼくは考えている。
だから本来的に、「非人称芸術」の視点はさまざまな<世界>に対し応用可能なはずである。
人間は目の前のさまざまな物事に対し、ことごとく「意味づけ」をしながら、「それが何であるか」を認識する。
そのような人間による「意味づけ」を捨象し(意図的にその意味を忘れ)、意味づけられる以前の「世界そのもの」へ、可能な限り接近しようとするための方法論が「非人称芸術」なのである。
もちろん、意味づけ以前の「世界そのもの」は、人間にとって認識外の不可知領域である。

しかし不可知領域に「限りなく接近」し、その「境界面」までは明らかにすることまでは可能で、その方法論のひとつが「芸術」なのだと自分では解釈している。
その意味での「芸術」には、認識世界と不可知領域の「境界面」が現れている。
しかし「芸術」は「芸術作品」と言う「もの」である以上、それは「認識世界」に属している。
この「芸術作品」の持つ危うさを克服するため、ぼくは「芸術」から「芸術作品」を差し引いた「非人称芸術」にたどり着いた。
「芸術作品」を生み出す「芸術家」に成り代わって、「非人称」の作用が「非人称芸術」を生み出す。
その「非人称芸術」を見出し、その世界を体感し味わい尽くすための方法論が、「非人称芸術」のコンセプトなのだ。

「非人称芸術」の世界は、「意味づけられたもの」の意味を捨象することで、体感することができる。
そして人間にとっての「意味づけられたもの」の世界は、「路上」に限らず生活の至るところに広がっている。
自分のようにことさら「フリーのアーティスト」などを気取らなくとも、普通にサラリーマンをしたりアルバイトをして生活する中にも、「非人称芸術」を見出すことは十分可能だろう。
たとえば仕事上の人間関係のトラブルの、その些細な不快感のうちに、独自の「非人称芸術」の味わいを見出すことができるかもしれない。
平凡で幸福な日々の一切を、丸ごと「非人称芸術」に転じて、無意味で無根拠な脅威に満ちた世界として、堪能し尽くすこともできるかもしれない。
人間は世界を「意味あるもの」で埋め尽くすから、その「意味あるもの」の間の「穴」としての「非人称芸術」は、いつでもどこでもどんな状況にでも存在しうる。

デュシャンの指摘によって、自分自身の「趣味」が「非人称芸術」のあらゆる可能性をスポイルしているだろうことは明らかになった。
しかし、これを克服するのはなかなか難しく、もしかするとぼくなんかをはるかに凌駕するような「別の才能」に期待したほうがいいのかもしれない。

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2009年10月17日 (土)

質問力と観察力

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広告製版社さんというところから、『するところ』という施設の内覧会のご案内をいただいたので行ってみる。
建物は古い工場を、建築家の後藤哲夫さんが改築したそうで、2階のワークショップスペースの吹き抜けから1階の工場が見下ろせたりして、なかなか面白い作りになっている。

ついでに近辺の現代アートのギャラリーを一通り見て回ってみた。
先日ブログに書いた、現代アートに対する「客観的判断」を実践するためである。

しかし、はじめに入ったギャラリーでさっそく躓いてしまった。
そこに飾られていた油絵が、あまりに「普通」だったので思わず絶句してしまったのだ。
いや、普通はアートは黙って見るものだが、ことの機は会場の出入り口に作家さん(と思しき人)がおられて、他に客もいなかったし、ぼくに何か言って欲しそうな目をしていたのだった。
それは単に思い込みだったのかもしれないが、ともかくぼくは「なんか言わなきゃ」と思いつつも、そこに並んでいる作品にたいしてつい「主観的判断」をしてしまい、そして文字通り「絶句」してしまったのだ。
それで作家さん(と思しき人)に「名前を書いてください」と芳名帳を出され、ぼくは「どうも・・・」と言うような挨拶だけして会場を出たのだった。

しかし直後に思い返したのだが、自分が絶句しているなら、あの場にいたあの人に絵の説明をしてもらえばよかったのだ。
つまり「この絵はどういうものなんですか?」と質問すれば良かったのだ。
それが自分のクダラナイ「主観的判断」に惑わされず、「客観的判断」を得るための方法だったのだ。

そのあと清澄白河へ行き、アーティストの白濱雅也さんが運営する「深川ラボ」に伺った。
さすがにここでは「絶句」することは無く、白濱さんといろいろお話したのだが、結局は「主観的判断」をしてしまって、それはそれで楽しいのだが、「客観的判断」につながる気の利いた質問がいまひとつできずに終わってしまった。
やはり質問するには「質問力」という創造の力が必要で、場数を踏んで慣れないうちはなかなか難しい。

さらにそのあと白濱さんに場所を教わって、現代アートの最先端のギャラリーが集うビルにも初めて行ってみたのだが、ここは非常に「お高い」のであまり気軽に質問できる雰囲気ではない。
だからもっぱら「見るだけ」だったのだが、ここでも自分の「主観的判断」では絶句してしまうような作品が、百数十万の値段が付いていて、しかも適当に売れているのでまた絶句してしまう。
こういう目の前の「理解しがたい現実」引き受けることも「客観的判断」であって、それには創造的な「観察力」が必要となる。
だがぼくはもちろん現代アートに対する「観察力」がぜんぜん養われていないから、結局はほとんど何も分からないまま、その場を後にしたのだった。

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中学生でもわかるデュシャン

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先日読んだ斉藤環さんの『生き延びるためのラカン』は、「中学生にも分かるラカン入門書」と謳った本であった。
そして今、続けて新宮一成さんの『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)を読んでいるの最中なのだが、これはamazonのレビューで「高校生にもわかるラカン」と評されていている。
しかし、中学生と高校生はレベルが違うのであり、『ラカンの精神分析』はぼくには難しく、なかなか理解できないでいる。
まぁ、ぼくはいちおう大卒なのだが、高校は普通ランク以下のDQN校だったし、大学と言っても美大なので、頭のレベルは中学生段階でストップしてると言えるかもしれない。

それはともかく、ラカンの入門書の中学レベルと高校レベルの「差し引き」を考えると、本来難しいことを誰にでも分かるレベルに落として解説するために、一種の「詐術」を使わざるを得ないのだと、想像できるのだ。
例えばラカンの独特の概念である「対象a」について、『生き延びるためのラカン』では「それは欲望の原因のことだ」と実に分かりやすく解説されている。
それに対し、『ラカンの精神分析』では「対象aは、√5-1/2で書き記される黄金数である」と言うように書かれていて、これはちょっとすぐには分からない。
しかし「対象a」について、「√5-1/2で書き記される黄金数である」と解説したほうがよりラカンの「本来の主張」に近く、実のところそれ以上に平易な言葉で表現するのが難しいのであれば、「対象aとは欲望の原因のことだ」と平易な言葉で言い切ってしまうことは、一種の「詐術」である可能性がある。
実際に『生き延びるためのラカン』についてのamazonのレビューでは、「ラカンはフロイトのラディカルな学説が、とりわけアメリカで「分かりやすく」され、やがて単なる凡庸な「幸福論」へと堕ちていったことへの腹立ちを繰り返し述べているのは、もはや有名なエピソードである。」と言う書き出しの批判もされている。
ただ、前にも書いたように、レヴィ=ストロースの「どんなデタラメな分類も、何も分類しないよりマシである」と言う言葉に従うなら、原著とは異なる通俗的解釈の入門書であっても、一定の「機能」や「効能」は存在するはずである。

さて、ラカンとは直接関係のないデュシャンについてだが、本質的に中学生にわからせるのは無理だろう、と言う点では共通してるかもしれない。
ぼくが高松に一週間ほど滞在した間に、高松市美術館所蔵のデュシャン関係の資料をいろいろと調べてあらためて知ったのは、実に多くの人々がデュシャンと言う作家に魅せられて、さまざまな解釈を試みているという「客観的事実」である。
なぜかくも多くの人がデュシャンにひきつけられるのか?
と言うのは恐らく、デュシャンのそれぞれの作品が「謎」として、あるいは「答えのない問い」として人々に提示されているからだと思う。
デュシャンの「問い」は、とても中学生レベルでは理解することができず、それで大の大人が寄ってたかってその「謎」にはまってしまうのだ。

ポストモダン・アートが、「さまざまな解釈の可能性に開かれているアート」だとすれば、デュシャンの作品はその際たるものだと言えるだろう。
だから「中学生でも分かるアート」は、もう分かった時点で解釈の可能性が「閉じて」しまうから、その意味で現代的なアートとは呼べないのかもしれない。
いや、実のところぼくが主観的に定義する現代アートとは、何らかの「謎」が提示された作品を指すのである。
現代アートと言われる作品は本質的に「謎」や「問い」や「分からなさ」を内包しており、それにとって「イラスト」や「デザイン」や「サブカルチャー」とは区別される。
そしてぼく自身が提示する「非人称芸術」は、その意味で現代アートの系譜にあるものだと自負しているのだ。

そのような観点でデュシャンと自分とをあらためて比較すると、両者は「謎」のあり方が全く違っているように思うのだ。
デュシャンの作品は、そこに内包された「謎」の提示の仕方そのものが、方法論的に「謎」に包まれている。
いわば「謎」が「謎」を呼び、そのサイクルの中に「解釈の幅」が豊かに広がり、多くの人々が惹きつけられる要因になる。

対して「非人称芸術」に内包される「謎」は、その鑑賞者としての自分の「主観的世界」の中に閉じ込められている。
その「謎」を「客観的」に示すためには、「非人称芸術」のコピーとしての「作品」を製作する必要がある。
「フォトモ」などのぼくの作品は、自分の「主観的な謎」のコピー品なのである。
しかし実際の、と言うか「客観的世界」における自分の作品の人々の反応を見ると、どうも「コピーとしての謎」には、「オリジナルとしての謎」の要素があまり含まれておらず、その大半がゴッソリ抜け落ちてしまっているようなのだ。

これはもしかすると、現代思想や哲学書の「原著」と「入門書」の関係と似ているのかもしれない。
実際、ぼくは「非人称芸術」は原理的に中学生のような子供に理解させるのは無理だと思っており、自ら開催するワークショップでも「大人向け」と「子供向け」では、その前提を明確に分けている。
しかしぼくの「作品」のほうは、結果としてどれもことごとく「中学生にも分かる」レベルになってしまう。
つまりぼくの作品は「中学生にも分かる非人称芸術」であって、その実「非人称芸術の本質」とはすっかり異なってしまっている。
でも、「どんなデタラメな分類も、何も分類しないよりマシである」ことだし、理由はどうであれ自分の作品を喜ぶ人がいるのはアーティストとしては喜ばしいことであり、それはそれで良いことである。

しかし一方では、「主観的な謎としての非人称芸術」を、どうにか客観として示したいとも思っている。
そのためにぼくは「非人称芸術」の解説として、構造主義とデュシャンを絡めた理論を構築しようと目論んでいる。
だがぼくの頭のレベルと嗜好を考えると、構造主義と絡めることも含め、ぼくのデュシャン解説は「中学生にもわかるデュシャン」にならざるを得ないだろうと思う。
いやぼくの欠点は、自分の「主観的な謎」を、「中学生にもわかる謎」として解説しようとし、それしか出来ない点にあるのかもしれない。
ぼくは自分の作品集や雑誌記事、あるいはこのブログで「非人称芸術」の解説をたびたび試みているのだが、それは自分の嗜好に合わせ「中学生にもわかるレベル」を目指して書いている。
もちろん、実際の中学生を対象にしているわけではなく、自分と同程度以上の「中学生レベルの大人」が対象なのではあるが。

いずれにしろ、つまるところぼくの「主観的世界」には確かに「謎」としての世界が広がっているのだが、しかしぼくの「作品」や「テキスト」そのものには「謎」が含まれておらず、その意味で人々が惹きつけられる事は無いのかも知れない。
ぼくの「主観的世界」の中では、「非人称芸術」のコンセプトは、デュシャンが提示したコンセプト(謎)に決して劣ることは無いと言う確信がある。
しかし「客観的世界」の評価のされ方は、ぼくはデュシャンに比べるまでも無く、まさに無限の開きがある。
それは恐らく「客観的世界」における「謎」の提示の仕方の差ではないかと、あらためて気付いた次第である。
いや自分としては、「中学生にもわかるデュシャン」の有効性について、あきらめ切れない気持ちも強くあるのだが・・・

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2009年10月16日 (金)

主観的判断から客観的判断へ

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ぼくは「非人称芸術」と言う分野に転向して以来、いわゆる「普通の芸術」に対し素直な気持ちで「主観的判断」ができなくなってしまった。
いやもちろん、「非人称芸術」はあくまで「芸術」の延長上にあるから、ぼくにだって好きな芸術作品と言うのはある。
しかし原理的に「非人称芸術」は、芸術家の手による「芸術」の存在を否定することで成立している。
平たく言えば、どんなに「良い」と思われる芸術作品も、「非人称芸術」の圧倒的スケール感やダイナミズムに比べると、どうしても見劣りしてしまう。
そのような見方をするのが、芸術から「非人称芸術」へ転向した現在の自分の立場なのだ。
そのような立場から芸術作品を見て、例えそれが「良い」と思えたとしても、以前のように純粋に「最高だ」と思う気持ちとは異なっている。

つまり今のぼくにとって、芸術鑑賞において自分の「主観的判断」を持ち込むこと自体が無意味になってしまったことに、ふと気付いたのだ。
ぼくは「非人称芸術」の何たるかをより深く知るために、ある意味その対概念となる「芸術」について知りたいと思うようになった。
そう思って、以前よりは他人の芸術作品を見るようにはなったのだが、その際に「主観的判断」をしていたのでは、まったく意味がないことに、あらためて気付いたのだ。
自分に必要なのは、そのアート作品が自分にとってどう感じられるかではない。
そうではなく、その作品について「他人が何を語っているか」と言うような情報こそが、自分にとって必要だったのだ。

「自分がどう感じるか」は「主観」の世界であり、「他人が何を語っているか」は「客観」の世界であり、それこそが「現実」と言えるものだ。
実のところ「非人称芸術」とは、「自分が見たもの」で構成された「主観的世界」の産物である。
いや「自分の目の前にあるもの」は、「客観的世界」と言えるのかもしれない。
しかし、目の前のあらゆるものの「客観的意味」を捨象し「非人称芸術」として再解釈する行為は、その意味で「主観的世界」の産物なのだ。

だがぼくは、そのような「主観的世界」を構成する「非人称芸術」というコンセプトの、「客観的な立ち位置」を把握したいのだ。
そのためには、それに対置される「芸術」について「客観」として把握しなければ意味がない。
ぼくが探求すべき「芸術とは何か?」は、「他人は芸術をどう定義しているか?」であり、それが「非人称芸術」の「客観的な立ち位置」を把握につながるのだ。
つまり、「芸術とは何か?」を主観的に追及した先に「非人称芸術」が立ち上がり、一方では「芸術とは何か?」を他人を通して客観的に把握しようとする目があり、その両面から「芸術とは何か?」を攻めようと言うわけだ。

実のところ「非人称芸術」のコンセプトに純粋に従えば、ただ路上を歩いて「非人称芸術」そのものを堪能すればいいのであって、本質的には写真を撮ったり、ましてフォトモを作ったりする必然はまったくないのだ。
つまり「非人称芸術」は本来的に、鑑賞者の「主観的世界」に完全に閉じている。
主観的に閉じた世界だからこそ「無限の可能性に開かれている」とも言えるだろう。

ところが、無限の広がりを持つ「非人称芸術」のうちからごく一部を「写真」として、あるいは「フォトモ」としてピックアップすると、それは「客観的世界」の存在物となる。
客観的世界の存在物とは、すなわち「作品」と言うことである。
こうして「非人称芸術」から、副産物としての「作品」が生じ、それはその他の「芸術作品」で構成される「客観的世界」に投げ込まれる。
そうなると、それが例え自分の「作品」だったとしても、主観的に自己満足しているだけでは意味がない。
ここはやはりその他の芸術作品と同じく、それについて「他人が何を語るか?」と言う「客観的判断」が必要になる。

実はぼくは12月ごろにとあるギャラリーで、数人の若手アーティストと企画展を開催する予定なのだが、その際はなるべく「客観的判断」として関わる実験をしてみるつもりである。
とは言え、今はまだ実験の方法もよく分からず、どんな成果につながるのかはまったく不明なのではあるが・・・

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復元フォトモとレディ・メイド

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高松では、美術館でデュシャンのお勉強をするとともに、「復元フォトモ」の製作準備もしていた。
2月に高松市美術館で開催される「コレクションプラス展」では、美術館のコレクションのデュシャン作品と、自分の作品とを絡めた展示を予定している。
その際、高松での新作も依頼されたのだが、そのための作品として「復元フォトモ」を選んだのだ。

いや実のところ、ぼくは自分で撮影する「普通のフォトモ」にちょっと飽きてしまっているのだ。
ぼくにとって、路上の「非人称芸術」は何もかも「良い」のであって、と言うか自分にとって路上の何もかもが「非人称芸術の可能態」なので、そこから自分の恣意的な意図で「フォトモに適した被写体」をピックアップすることが、どうにもやりにくくなってしまった。
いや、以前は嬉々としてそれを行なっていたはずなのだが、結局ぼくは「フォトモ」よりも「非人称芸術」そのものに、より深く魅せられていったのかもしれない。

しかしここにきて「フォトモ」は、「復元フォトモ」という新たな展開を見せることになった。
「復元フォトモ」の素材写真は、言うまでもなく「他人が撮った写真」だから、自分で被写体を選ぶ必要がなく、その意味で非常に気が楽だ。
しかも写真を選ぶ際、「フォトモになるかどうか」が基準になるので、ここでも自分の「恣意的な意図」を廃除することができる。

そのように自分の意図を極力排除すると、結果として非常に面白い「復元フォトモ」が出来上がるのだ。
いや、先に書いたように、路上の何もかもが「非人称芸術の可能態」であるから、なるべく自分の意図を排除しつつ、路上から「非人称芸術の記録としてのフォトモ」をピックアップしたいのだ。

言ってみれば、「復元フォトモ」の素材写真は、他人によって撮影された「レディ・メイド」であり、「復元フォトモ」は「手を加えられたレディ・メイド」である。
そう考えた場合、「レディ・メイド」の選択の際に自分の「趣味的判断」をある程度排除する仕組みを持ちながら、しかし最終的には「趣味」により選ばざるを得ないのが「復元フォトモ」の限界であり課題だと言えるかもしれない。
なぜならデュシャンは、「レディ・メイド」について以下のように書いているからである。

私がどうしてもハッキリさせておきたい点があるが、それはこれら<レディ・メイド>の選択が何かしらの美的楽しみには決して左右されなかったということだ。
この選択は、視覚的無関心という反応に、それと同時に良い趣味にせよ悪い趣味にせよ趣味の完全な欠如・・・・・・実際は完璧な無感覚状態での反応に基づいていた。
(『マルセル・デュシャン全著作』 未知谷刊 P287)

ぼくにはどうも、ここのところがいまひとつ分からず、そこがデュシャンに届かないところなのだ。
いったい、美的な楽しみ、あるいは趣味的な良し悪しと「無関係」なところに「美術」は成立しうるのか?
ぼくは「復元フォトモ」において、個人的な「美的な楽しみ」あるいは「趣味的な良し悪し」を極力排除しようとした。
しかし、自分の楽しみとは「無関係」に美術としての「復元フォトモ」が成立するとはまったく考えていない。
デュシャンは自身のレディ・メイド『櫛』について、以下のように書いている。

(前略)レディ・メイドとしてこれを選んでから48年がづぎましたが、その間、この小さい鉄製櫛は本当のレディ・メイドとしての特徴を守ってきました。すなわち、美も醜も、この櫛には特に美的なものは何もなく・・・・・・ それは48年間盗まれもしませんでした!
(前掲書 P335)

ぼくが製作した「復元フォトモ」は、我ながら惚れ惚れするような作品であり、その意味で「美的なもの」にあふれている。
そう考えると、デュシャンの「レディ・メイド」とはまるで正反対であり、近づこうとしても離れるばかりである。
しかし自分の「ご都合」に合わせて解釈すると、ぼくの方法論はデュシャンからそうは離れていないようにも思えるのだ。

ぼくにとって路上の何もかもが「非人称芸術の可能態」なのである。
自分の趣味的判断では、路上の何もかもが「良い」のであり、しかも自分がまだ気付いていない「可能性としての良さ」が路上には埋もれている(ついでに言うと、「復元フォトモ」は「可能性としての良さ」を引き出すための手法でもある)。
これに対し、通常の芸術愛好家にとって「良い」とは、「芸術作品」だけを指している。
通常の芸術愛好家が「芸術」と「芸術でないもの」を区別するのに対し、ぼくはそのような区別をせず、むしろ「世界」そのものを「芸術」として読み解こうとしている。

つまり、通常の芸術家が「良し悪し」を区別するのに対し、「非人称芸術」は全てを良しと前提するところで成立している。
そう考えると「非人称芸術」のコンセプトは、良し悪しとは無関係とされる「レディ・メイド」に、かなり接近しているように思える。
なぜなら「良し悪し」を区別する芸術愛好家にとって、「良し悪しとは無関係」と「全てを良しと前提する」は同じように受け入れがたい態度に思われるからだ。
もちろん、これはぼくの「ご都合」による解釈の可能性が大だから、さらに考え続ける必要があるのだが。

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ヤクが切れてきた

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ヤクが切れてきた。
いや、ぼくはもちろん覚醒剤なんかやってないが、現代人はみな「お金」というヤクの依存症患者なのである。
「お金」と言うのは覚醒剤と似ていると言うか、それ以上に依存性の高い危険なヤクだと言えるのだ。
そして現代の人々はみな、そんな危険な「お金」というヤクにどっぷりと浸っていて、しかもそのことにほとんどの人が気付かないままでいる。
「お金」と言うヤクは人間に異常な精神の向上をもたらし、あるいはさまざまな幻覚を見せるのだが、それがどれだけ異常なことなのかは、「お金」の毒に浸りきっている人々は気付かない。

しかしひとたび「お金」が切れそうになると、その禁断症状により、意味の無い激しい不安感にさいなまれることになる。
ここで、ようやく人は自分が「お金」と言うヤクの中毒患者であったことを、自覚することになる。
いや、ここにいたって自覚できない人が、禁断症状による過度の不安感のため、時にコンビニ強盗や引ったくりなどの安易な犯罪を起こすのだ。

覚醒剤の依存症を断ち切る場合、マンガやテレビで見る通り「ヤク抜き」というのを行なう。
激しい禁断症状に苦しみ暴れまわる患者を、ベットや柱などに縛りつけたりして、一定期間拘束する。
そして苦しみの峠を乗り越えると、体内からヤクが抜け切り「キレイな体」に戻るのだ。

実は、これは「お金」の依存症もまったく同じであって、「お金」の禁断症状に苦しむ患者にさらにヤクを与えてしまっては元も子もないのである。
「お金」の依存症を断ち切るには、禁断症状の激しい苦しみに耐えながらの「ヤク抜き」をしなければならない。
現代日本でも「お金」のヤク抜きに成功した人は少数だが存在する。
体内から「お金」が抜けきった「キレイな体」を持つ人は、例えば駅の通路の片隅とか、河川敷などで寝泊りされているのを見ることができる。

で、今のぼくはヤクの禁断症状により、意味の無い不安にさいなまれている最中である。
これを解消するためにどうにかしてヤクを手に入れるか、それとも意を決して「ヤク抜き」をするのか・・・
いや「ヤク抜き」は最後の手段だから、とりあえずは合法的なヤクの入手方法を考えますw

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2009年10月 9日 (金)

箱の中

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今日は高松市美術館で、この箱の中をあけてもらって、中の写真を撮ったりとかしてました。
分かる人だけうらやましがってくださいw

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2009年10月 8日 (木)

デュシャンのお勉強

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ここしばらく高松市に滞在中なのだが、それは来年二月に高松市美術館で開催される企画展『コレクション+(プラス)メタモルフォーゼ!!!!! 変身アート』の準備のためである。
「コレクション+」というのは、高松市美術館のコレクション作品に、招待作家の作品を加えて展示するということで、全体のテーマが「変身(メタモルフォーゼ)」ということだ。

それでぼくの作品の何が「変身」なのかというと、何に限らずテーマなんていくらでもこじつけられるから、そこはどうでもいい(笑)
それよりもぼくが興味を持ったのは「コレクション+」のほうで、しかも担当学芸員さんから「ご自分の好きな作家と組み合わせていいですよ」とか「糸崎さんコーナー作りますから、そこは自分でキュレーションされてもいいですよ」と言われてしまったのだ。
しかも、高松市美術館の所蔵品目録を見ると、デュシャンの作品がけっこうある。
ぼくは常々「非人称芸術の原点はデュシャンにあり」と主張してきたので、それアピールするには絶好の機会ではないか。
それができるんだったら、タダで引き受けてもいいくらい・・・
まぁ、タダではないが、いつも安いけどさらに安いくらいの条件で引き受けることにしたのだ。

それで今してることは、美術館に通って資料を見せてもらいながら、デュシャンのお勉強である。
ぼくは「非人称芸術の原点はデュシャンにあり」と言う割りに、デュシャンのことも美術史のこともあまり知らないので、改めて勉強する必要がある。
いや別に試験直前の受験勉強ではないのだから、今慌てることも無さそうだが、実はこの滞在中に美術館のコレクションからデュシャンの『トランクの箱の中』と言う作品を出してもらって、展示に必要な写真を撮らなければならない。
『トランクの箱の中』は、8月に美術館を訪問したときに一度出して見せていただいたのだが、あらためて「非人称芸術」にとっても「フォトモ」にとっても重要な作品であることを認識した。
だからこの作品はあらためて撮影し、自分の作品と絡めた解説パネルを作成する必要がある。
だが貴重な作品であるし、学芸員さんの手を何度も煩わせることはできないから、あらためて勉強して準備してから『トランクの箱の中』を出してもらおうと思っているのだ。

しかし、ぼくはどうも美術系の硬い文章を読むのが苦手で、ことばは頭に入ってこないしつい眠くなったりしてあまり勉強ははかどらない。
だいたいにおいて、受験勉強がそんな感じであまりいい学校にも行けなかったから、そんなもんだろう(笑)
それでももちろん、デュシャンについていろいろ新たな知識が身について面白かったりするのだが、しかしデュシャンについていかに新たな情報が出てこようとも、ぼく自身の主張はかわらないだろうことも分かってきた。
つまりいくら本を読んだところで、恐らく「非人称芸術の原点はデュシャンにあり」という主張が「間違いである」という証拠にはぶち当たらないだろう、と言うことである。

そもそも、ぼくの主張は赤瀬川原平の「超芸術トマソンの原点はデュシャンにあり」と言う理論をベースにしているのだが、この理論は美術界では完全に無視されているようで、間違いを指摘される以前に取り扱われていないのだ。
例えば、『マルセル・デュシャンと20世紀美術』の展覧会カタログには、赤瀬川原平もトマソンも載っていない。
赤瀬川原平は著書『芸術原論』に、超芸術トマソンとデュシャンとの関係を示すエッセイを書いているのだが、その流れは完全に無視されている。
コピーの時代』は、デュシャンをコピーアートの原点とした企画展で、このカタログには赤瀬川原平は掲載されているのだが、その作品は『千円札』でありトマソンではない。
現在の美術界では、アーティストとしての赤瀬川原平の頂点は『千円札』をめぐる作品群であって、それ以降のトマソンなどは「アートから遠ざかってしまった」と認識されているようだ。

まぁ、ぼくにしても「デュシャンが好き」と言う割りに、横浜美術館でつい最近、『マルセル・デュシャンと20世紀美術』が行なわれたことも知らなかったくらいだから、かなりいい加減なものである。
いや、最近はちょっと反省して、美術のことももっと勉強して、最近の動向も注目しようと思っているのだが、しかしそれをしたところで自分の主張の根本はとりあえずは変わりそうにない。
恐らくそれは、「はじめに結論ありき」で物事を判断しているためだろう。
これは一般的に頭のいいやり方ではないかもしれないし、トンデモ理論やインチキ宗教の常套手段でもある。
でも少なくともそういう「落とし穴」を自覚していれば、自分の中のバカの暴走は食い止められるかもしれない。
いずれにしろ、自分の実力は省みずに「オレのデュシャン論」を勝手に展開して、自爆する覚悟で臨まねばならないだろう(笑)

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