*あとで挿絵を追加するかもしれません。
先日『古事記』を読んで改めて思ったように、「神様」と一口に言っても、「それが何であるか」の定義が文化によって、時代によって、驚くほどちがっている。
これと同じように、「芸術」についても一様な定義は存在し得ず、同じ現代人であっても、その定義は実にさまざまであることが想像できる。
このような「さまざまな芸術のあり方」を捉える上でまず必要なのは、ほかならぬ自分自身の「芸術観」の確認である。
いや、もしかすると自分の「芸術観」が曖昧なままでも、「さまざまな芸術観」を考えることはできるのかもしれないが、しかしぼくとしては何らかの「足がかり」があった方が、何事も捉えやすいと思うのだ。
もちろん、自分の「芸術観」は固定したものではなく、いろいろな「芸術観」を知る中で変化してゆく可能性もある。
ということで、ここで改めて自分の「芸術観」について明らかにしてみようと思うのだ。
ところで、そのようなぼくの理解の範囲では、芸術と宗教は、本来的に不可分に結びついている。
「芸術と宗教は不可分に結びついている」というのが、ぼくの「芸術観」だとも言える。
しかし、それだけでは何も言ったことにはならず、つまりぼく自身の「宗教観」が明らかにされなければ、「芸術観」もまた明らかにされ得ないのだ。
ただ、現代日本において自分の「宗教観」を語ることは、大変に厄介な問題を含んでいる。
端的に言うと、イマドキ大真面目に「宗教」を語ると「ヘンな人」だと思われて、相手にされないばかりか、下手をすると多くの人の信頼を失うことになるだろう。
それで無くとも「宗教」の問題は仏教の「悟り」のように、本来的に「語りえないこと」を多く含んでおり、何を語っても「誤解」にしか繋がらない可能性がある。
「語りえないことは、沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの言葉どおり、何か思っても黙っているほうが得策に決まっている。
しかし「芸術」について真面目に語ろうとすると、やはり「宗教」についても語らざるを得ず、自分にとってこの問題は不可避なのだ。
まず、はじめにお断りしておきたいのだが、ぼくは特定の宗教団体には所属していないし、特定の宗教を信仰しているわけではない。
ぼくは仏教徒でも、キリスト教徒でもなく、幸福の科学の信者でもなく、創価学会員でもない。
しかしそうでありながら、ぼくは実は「無神論者」ではないのである。
ありていに言うと、いや非常に言いにくいことなのだが、自分は<神>の存在を認めているのだ。
ただ、もう一度確認すると、この場合の<神>とは特定の宗教に基づいたのではなく、あくまでぼくの個人的な経験から、独自に見出されたものである。
その「経験」もまことに言葉にしにくいのだが、つまりは本来的に「語りえないこと」なのだが、何とか言語化を試みようと思う。
それは1992年ごろだったか、もうだいぶ記憶が曖昧で、そのときに感じたリアリティーもかなり失われてしまっている。
ぼくは大学を卒業し、玩具会社に1年間だけ就職した後に、アルバイトをしながら暮らしていた。
当時はアートへの挫折から、赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」の影響を受け、そちらに自分の行くべき活路を見出し始めていたころだった。
休日は「トマソン」を探して路上を徘徊し、同時に「トマソン」の定義に収まらない「超芸術」の可能性についても模索して、その記録としての写真も撮り始めていた。
そんなある日、ぼくは埼玉県志木市の住宅街で、普通の家の玄関先に、一羽のアヒルが飼われているのを発見したのだ。
アヒルの首には紐が巻きつけられていて、まるでイヌのように飼われていたのが面白くて、写真を撮ったのだった(その写真は残念ながらすぐは出てこないが)。
それから半年後か、1年後か、もうちょっと後だったのかは覚えてないが、確か板橋区のどこかの路上で、またしても普通の家にアヒルが飼われてるのを発見したのである。
そのアヒルはコンクリートブロックの塀の上から顔だけを覗かせて、ぼくに向かってガァガァ鳴いていた。
ぼくだけではなく、塀の向こうの道路に人が通るたびに、ガァガァと訴えるように鳴いている。
たぶん庭に放し飼いにされ、退屈なので通行人に向かって鳴いているのだろう。
これも面白くてカワイイので、写真に撮った(この写真も部屋のどこかにはあるだろうと思う)。
しかし実はこのとき、ぼくは突然ものすごいことに気付いて、衝撃を受けたのだった。
アヒルが普通の家で飼われていることは、非常にまれである。
事実、ぼくはこの2例を見て以来、こんな形で飼われたアヒルを見たことが無い。
そのように珍しいアヒルを、ぼくは短期間のうちに2例も目撃してしまったのである。
このことはいったい何を意味するのか?
つまりは先日見たアヒルと、今目の前にいるアヒルこそが、すなわち<神>なのである!
いや、書いているそばからそれが「語りえぬこと」であることが分かるのだが、ともかくそのときは、無前提にそう直感したのだった。
正確に言うとアヒルは<神>そのものではなく、<神>の存在を示す「神の使い」なのである。
まぁ、読んでる人はあきれるだろうが、ともかくその時自分が感じたことを、できるだけ言葉で再現してみようと思う。
ぼくはこの「経験」の以前から、「何で宗教なんか信じる人がいるんだろう?」ということでなんとなく興味を持っていて、何か適当な本なんかも読んでいたように思う。
その知識を寄せ集めて解釈すると、まず<神>というのは、人間の認識の「外」にあるから、人間は<神>そのものを見ることは出来ない。
人間は五感で<世界>を認識するが、見方を変えれば「認識の内側」に閉じ込められているのが人間である。
だから「認識の外部」としての<神>を人間は認識することはできない。
ところで、「認識の内側/認識の外部」という二分法を考えると、その間に「認識の境界面」が想定される。
その「認識の境界面」を通して、人間は「認識の外部」としての<神>を垣間見ることができるかもしれない。
そのようなわけで、ぼくが見た2羽のアヒルは「認識の境界面」であり、<神>の存在を伝える<神の使い>と認識されたのだ。
とはいっても、ただちょっと珍しいだけのアヒルが、何故に「認識の境界面」などという大げさなものになりうるのか?
それは「自分がそのときたまたまそう感じたから」に他ならない。
「自分がその時たまたまそう感じた」からこそ、それは「認識の境界面」としての<神>に他ならないのだ。
これはどういうことかというと、実はこの「経験」のちょっと前に、ぼくは「認識の内部」は全て「言葉」で出来ている!ということに突然気が付いたのだった。
電車の車窓から流れ行く風景を眺めているうち、速度が速すぎでそれが何だか認識できないものは、自分にとって存在しないのと同じことだ、塗布と思ったのである。
そして、認識できないものは「言葉で言い当てられないもの」であり、すなわち人間は<世界>を「言葉」に置き換えながら認識し、「言葉」に置き換え不可能なものは認識できない=存在しないのである。
その話を友人にしたら、その考えは「構造主義」に近いと言われ、それで「構造主義」の思想を知ることになったのだ。
「構造主義」は「ソシュール言語学」をベースにしており、これによると、物理的客観的には「同じもの」であっても、それに「別の言葉」を当てはまると「別のもの」になってしまう。
かなり強引な要約だが、この考えを広げると、ぼくが2羽のアヒルに対して<神>という言葉を当てはめてしまえば、それは<神>になってしまうのだ!
これもかなり強引な解釈だが、ともかくそのように直感してしまったのである。
しかしそうは言っても、ぼくはアヒルを<神>と崇める「アヒル教」の開祖になろうとしたわけではない。
なぜかというと、ぼくが<神>だと思ったアヒルは、そう思った直後にはも<神>でもなく、「認識の境界面」でもなくなっていた。
目の前にいるのは、単なるアヒルであり、もはやそのようにしか思えなくなってしまっている。
ぼくはアヒルに対し<神>という言葉を当てはめ、アヒルを通して「認識の境界面」としての<神>を認識したのだけれど、その直後にはもう「アヒル」の存在と<神>という言葉は結びつきを失ってしまった。
ぼくの目の前には「アヒルが<神>であるはずがない」という常識的な「言葉」で覆われた「認識の内部」が広がるのみである。
どういうことなのかというと、ぼくは「認識の外部」の存在に気付いたのだ。
いや「認識の外部」は存在でもないし、そもそも認識できないのだから、正確に言えば「認識の内部に閉じ込められている」ことに気付いたのだ。
それが知識や理屈として理解されたのではなく、「経験」として突然訪れたのである。
「認識の境界面」は、「認識の内部」そのものとは異なるから、「認識の内部」に独特の「立ち現れ方」をする。
「このアヒルが<神>なのだ!」と気付いた瞬間、それはもうただのアヒルに成り代わっている。
<神>は、人間の「認識の内部」に、そのような仕方で立ち現れるのだ。
言い換えると、「認識の境界面」は人間の「言葉」と、独特の結び付き方をする。
アヒルに対し「これが<神>である」と言い当てた瞬間、その<神>という言葉はアヒルとの結びつきを永遠に失ってしまう。
この考えでいくとアヒルを崇める「アヒル教」などありえないし、それはおろかキリスト教やイスラム教など、特定の対象を<神>を崇める宗教そのものがありえなくなってしまう。
ぼくの宗教観は、原始的宗教と言われるアニミズムに近いように思われる。
アニミズムとは多神論の一種で、あらゆる物に<神>は宿る、とする宗教観だ。
ぼくが直感した宗教観によると、<神>はアヒルを通してのみ現れるわけではない。
「認識の内部」は「認識の外部」に包括され、そして「認識の境界面」は「認識の内部」のどこにでも現れる可能性がある。
「認識の内部」に存在するあらゆる「もの」を通して、<神>はその姿を現しうる。
ぼくが見たアヒルは、その一例に過ぎないのだ。
「認識の境界面」は、「認識の端っこ」でもあるのだが、その端っこは「認識の内部」の「全ての部分」に隣接している。
「認識の内部」と「認識の境界面」は、重なり合っている。
だからふと気が付くと、「認識の内部」に存在する「言葉で言い当てられたもの」の「言葉の結び付き」が解体され、「認識の境界面」が突然そこに立ち現れることがある。
<神>はどこにでも存在しうるし、だからアニミズムの世界観に近いような気がするのだ。
そもそもアニミズムは原始宗教であり、つまり「はじめの宗教」ということである。
つまり<神>というものに初めて接した人間は、<神>をアニミズム的に捉える。
しかし「<神>を見た人」の経験談をもとに、「<神>を見ていない人」が宗教を作り上げると、それは「はじめの宗教」から遠ざかってしまう。
恐らくそれが「一神教」であろうと、実はよく知らないのだが、そのときは勝手にそう思ってしまったのである。
しかし「多神論」と「一神教」の違いは、二次元と三次元の比喩を使うと、実は同じものとしてまとめることが出来る。
例えば、三次元に存在する「立方体」を、二次元平面に投影すると、そのシルエットは「正方形」になったり、「五角形」になったりする。
二次元平面の住人たちは、それぞれ「<神>は正方形だ」というものと「<神>は五角形である」という宗教に分かれる。
さらに二次元に投影した「立方体」は、さまざまに異なる「五角形」のシルエットとなるから、「<神>は五角形である」という宗教は、いくつもの宗派に分化する。
この状況を、三次元に住むわれわれが見れば「同じ立方体なのに・・・」と思えてしまう。
この例えで考えると、宗教をいうものは「一神教」の方が正しそうだが、しかし二次元の住人は、そもそも「立方体」を「ひとつのもの」として捉える能力がないのである。
二次元の住人にとって、「ひとつの立方体」は、必ず「たくさんの異なる図形」として認識される。
これをわれわれが住む三次元空間に現れる<神>の関係に置き換えると、例え「<神>はひとつ」であっても、それは必ず「たくさんの<神>」となって現れることになる。
ただしこの例えは、「こういうふうに考えることも出来る」という「概念モデル」に過ぎない。
ともかくぼくは、この「経験」以来しばらくは、日常のあらゆるところで<神>を見ることが出来た。
例えば、喫茶店のおしぼりで手を拭きテーブルに置くと、それは二度と同じ形にならない「唯一無二」の形態になり、そこに突然<神>を見て驚いたのだった。
またあるときはゴミ捨て場にあった木製の車輪に対し、「このものに姿を借りて<神>が現れているのだ」と感動したりもした。
もちろん、これらの<神>も認識した直後には、単なる「おしぼり」や「ごみ」に戻っている。
しかし最近のぼくは、このように<神>を感知する能力がほとんどなくなってしまい、そのころのリアルな感動や驚きの感覚も忘れてしまった。
というのも、ぼくの中ではこの<神>が、いつの間にか「非人称芸術」に置き換わっていたのだ。
ここで誤解して欲しくないのは、<神>=「非人称芸術」ではないことである。
しかしぼくの<神>の捉え方と「非人称芸術」のコンセプトは、ともに自分なりの解釈の「構造主義」をベースとしている。
「非人称芸術」も、「言葉がものを創りだす」という「構造主義」の考えを応用している。
つまり「芸術でないもの」に対し「芸術である」と言い当てることで、「非人称芸術」は創造される。
このことは「<神>と言い当てることにより<神>が現れる」という宗教観と、同じ<構造>の上に成り立っている。
ところで、目に見えるあらゆる物を<神>として言い当てることを想像すると、その先に何があるのか?
実はさっきも「思考実験」してみたのだが、それを頻繁に繰り返していると、恐らく発狂してしまうのではないかと思うのだ。
「認識の内部」は「言葉」と「言葉」の複雑な連鎖で出来ているが、その結びつきを疑うことで<神>が見えるのだとすれば、疑いが恒常化すれば「認識の内部」が崩壊する可能性がある。
などと書いているだけでも恐ろしくなるので、例え「思考実験」だとしてもあまり危険なことはしないに越したことはない。
しかし<神>ではなく「非人称芸術」だと言い当てることは、まったく発狂の心配もなく安全である。
なぜなら「芸術」とは、「ただ見て楽しんでいればいいもの」だからである。
ぼくが理解するところの「現代芸術」とは、「芸術以外の意味を持たないもの」を指す。
つまり「現代芸術」とは「意味のないもの」の代名詞で、それは「ただ見て楽しめばいいもの」なのである。
だから「認識の内部」の「言葉」と「言葉」の連鎖を解体し、あらゆる「意味あるもの」を「無意味なもの」へと転化させても、そこに既知の概念である「芸術」を代入すれば、「認識の内部」の崩壊は起こりえないのだ。
「非人称芸術」とは<神>と同じく「認識の境界面」の現れであることには違いない。
しかし「ただ見て楽しむだけ」を実現するには、「認識の内部」という確固たる「立脚点」が必要になる。
つまり「非人称芸術」の鑑賞の最中は、「認識の境界面」と「認識の内部」が、「クラインの坪」のように繋がっているのだと解釈できる。
そもそもぼくの解釈では、「芸術」とは「認識の境界面」なのであり、「非人称芸術」はその概念の延長に見出されたものなのだ。
そのようなわけで、ぼくの中では<神>の認識が徐々に「非人称芸術」へと移行したのである。
さて、先に「現代芸術」とは「芸術以外に意味のないもの」だと書いたが、それが近代ヨーロッパで発生した「芸術のための芸術」という概念である。
ではそれ以前、芸術は何のためにあったのかと言えば、芸術は「宗教のため」にあったのである。
つまり<神>の存在を表現するためのイラストレーションとして「芸術」は存在していた。
もしくは「すごい芸術」を描くことによって、「<神>のすごさ」を表現していた。
ところが時代が近代になって、「科学」によって<神>の存在が否定されると、「芸術」は<神>の付属物から独立し「芸術のための芸術」となったのだ。
「芸術のための芸術」とは、宗教的世界観から開放された人間の「自由の可能性の追求」と言い換えることが出来る。
つまり「芸術のための芸術」「人間の自由の可能性」が表現されており、つまりは「近代の素晴らしさを表現したイラストレーション」なのである。
そして「近代(モダニズム)」という概念も、宗教を否定しているようで、それがひとつの「世界観」を構築しているのであり、「世界観を構築するもの」はすなわち「宗教」なのである。
だから「近代」というのも「宗教」のひとつであると、かなり乱暴にまとめるとそう解釈できる。
つまり乱暴な解釈を続けると、人は誰でも「宗教」から逃れることは出来ず、そして「宗教」と「芸術」は不可分に結びついている。
そして「ポストモダン」と言われる現代において、人々の世界観=宗教観は多様であり、それに伴い「芸術」の捉え方もさまざまであると推測される。
そのような時代の「芸術」を取り巻く状況を把握するためには、まず自らの「宗教観」からハッキリさせなければならない。
ということで、「語りえないこと」を承知で、とりあえず書き起こしてみた次第である。
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