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2009年11月

2009年11月30日 (月)

RING CUBE ツギラマワークショップ(1日目)

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11月28日は銀座のRICOH RING CUBE でツギラマのワークショップを開催したのですが、全2回のうちの1日目は、ツギラマの練習作品を作ってもらいました。

練習作品を作ってもらったのは、イキナリ本番だとツギラマ独特のコツが掴み切れない人がいるためですが、この日の生徒は皆さん飲み込みが早く、どれも作品と言って良いような出来栄えです。

あと、ぼく自身は銀座の街でツギラマを撮ったことありませんから、他人の「銀座ツギラマ」を見るのは楽しいです。
次回は宿題で各自が撮影したツギラマの素材を、作品に仕上げる作業をします。

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2009年11月21日 (土)

『日本人のための イスラム教原論』

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橋爪大三郎さんが『世界がわかる 宗教社会学入門』の中で勧めていた、小室直樹さんの『日本人のための宗教言論』を買おうと思って東京駅前の八重洲ブックセンターに行ったのだが、あいにく品切れとのことで、かわりに買ってきたのが『日本人のための イスラム教原論』である。

タイトルどおり、イスラム教についてのみ解説した本かと思うとさにあらず。
「宗教オンチ」の日本人にとって、特になじみの薄いイスラム教を解説するためには、ユダヤ教やキリスト教、儒教などと比較して紹介する必要があり、これ一冊だけで「宗教のなんたるか」がある程度分かってたいへんありがたい。
もちろん、どんな分野も一冊読んだだけで全てが分かると言うことはなく、ぼくがあらかじめ『世界がわかる 宗教社会学入門』を読んでいたことが、この本の理解の役に立ったし、小室直樹さんのほかの著書もぜひ読んでみたい。

そもそも、小室直樹さんのような方を今頃になって知ったのでは遅いのだが、ともかく、アートを志す日本人にとって「宗教とは何か」を知ることは欠かせないのではないか、とますます思ってしまったのである。

例えば、「芸術の価値は金銭に換算できない」という立場をとったとして、「価値とは何か」とか「お金とは何か」とか「資本主義とは何か」について、自分なりの把握の仕方をキチンと説明できなければ、その主張は説得力を欠いてしまうだろう。
そして、そのような概念の元は「宗教」にあり、だから「宗教とは何か」を知ることは「芸術とは何か」を知ることに繋がるのだ。

小室直樹さんの本は、橋爪大三郎さんの本と同じく大変に分かりやすくて読みやすく、いわゆる「入門書」なので当然なのだが、こんな簡単で初歩的なことであっても、知ってるのと知らないとでは、大変な違いになるのだと思う。

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東京コンテンポラリーアートフェア2009

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Nroom artspaceさんに招待されて、「東京コンテンポラリーアートフェア2009」に行ってきた。
写真はNroomさんのブースの様子で、会場まもなく早速作品が売れたそうである。

ぼくは全部のブースを見て回ったが、さすがに疲れてしまった。
現代日本の現代アートは、いまだにぼくには「わからない」ものであって、自分との間にはずいぶんと「距離」があるのだと、あらためて思ってしまった。
昨日のブログでぼくは「芸術は無意識の反映である」というように書いたが、それも単に自分の知識不足による思い込みに過ぎないのかもしれない。
とかなんとか、いろいろと途方にくれてしまった(笑)

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2009年11月20日 (金)

芸術と無意識

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(*このブログで試みている本文とは無関係の「普通の写真」も、自分自身の「無意識」のが貧弱なため、なかなかアートとして成立できないのかもしれない)

芸術を、人間の理性的な創作物とは異なるものだと定義すると、それは「無意識の産物」だと考えることが出来るだろう。
無意識は誰にでもあるもので、だから誰でもアーティストになれそうなものだが、実際はそうではない。
文字通り意識できない「無意識」を、あえて目に見える「作品」の形に置き換えるには、やはりそれなりの能力が必要で、それがアーティストの「才能」だと言うことも出来る。
ぼく自身はそのような「才能」にあこがれ、あこがれると言うことは「才能がない」ということで、それでアーティストへの道を一度断念している。

ところで、最近得た知識によると、「無意識」というのはその人に本来備わっているようなものではなく、それは「他人の言葉」の集積なのである。
そもそも、「言葉」というものは親をはじめとする「他人」から教わるものであり、だから「言葉」とは本質的に「他人の言葉」なのである。
人間は「言葉」という道具を使って「考える」ということをするが、「考える」とは「他人の言葉」をコピー&ペーストすることなのだ、そうして理路整然とした「自分の考え」を創作するのだ。
人間は「他人の言葉」を組み合わせて「自分の考え」を創造し、さまざまな「自分の考え」が理路整然と組み合わされて「意識」の世界が形成される。

そして、自分が見たり聞いたり読んだりした「他人の言葉」の言葉のうち、「意識」を形成する素材にならないものは「無意識」の領域に蓄積される。
自分の「無意識」に蓄積された「他人の言葉」は、「意識」を構成する新たなパーツになるかもしれないし、意図せざる行動や判断に影響を与えるかもしれないし、もちろん「芸術」の創造の源にもなるだろう。

つまり「無意識」が芸術を生み出し、「無意識」が「他人の言葉」の集積なのであれば、よりたくさんの「他人の言葉」を知ることが、芸術の創造には不可欠だと言えないだろうか?
ありていに言えば、出来るだけたくさんの本を読んだりして勉強したほうが、より優れたアーティストになれるかもしれない。
本を読んで勉強することは、より多くの「他人の言葉」を「無意識」にも取り込むことでもあり、勉強して「無意識」の世界が豊かになれば、より自由度の高い「創造」が可能になるはずだ。

ところが、現代のアートを取り巻く常識では、アーティストはあまり勉強ができなくても構わない、というように理解されている。
美大というのは一般に偏差値が低く、「勉強はできないがステイタスは欲しい」というような高校生が、受験したりする。
いやそれは他でもない、ぼく自身のことなのだが(笑)
ともかく、医者や弁護士やエンジニアには勉強ができなくちゃなれないが、アーティストには勉強しないでもなれる、と多くの人が思っている。
もちろん、デッサンの勉強をしなくては美大受験にパスできないが、しかし学科の成績はさほど要求されないのが現状である。
しかし、先に述べた「無意識」の構造を考えると、アーティストにもそれなりに高い学力が必要ではないか?と思ってしまうのだ。

これは一般に言われていることだが、アーティストとしてデビューする若者はたくさんいても、その大半が「一発屋」で終わってしまい、程なくしてアートの世界から去ってしまう。
独自の感性で新鮮なアート作品を発表しても、その後が続かず、見る見る作品が凡庸でつまらなくなる、というパターンは実に多いと思われる。
その原因も「無意識」の特性に照らして解釈することができるだろう。
アーティストとしてデビューする若者は、(ぼくと違って)本来的に意識できない「無意識」を、アートとして視覚化できる特別な才能があるのだろう。
しかし、自分の中の「無意識」にストックされた「他人の言葉」が少ないと、すぐにネタ切れを起こしてしまうのは当たり前だと言える。
ネタに詰まったアーティストがすべきなのは「自分との対話」ではなく、積極的に「他人の言葉」を取り入れることで、つまりはいろいろと「勉強」し、「無意識」を豊かにすることなのかもしれない。

実はぼく自身は、美大卒業後ほどなくしてそのことにちょっとだけ気付き、ちょっとだけ勉強したのだ。
そしてその成果として、自分の中の「無意識」によらない芸術の方法論を編み出し、そうやって理屈付けしたぶんだけ「無意識」のほうも豊かになり、だから「生き残って」いるのだと思う。
しかしぼくは本来的には勉強は苦手で、だからアーティストの学力の偏差値が今以上にアップすれば、ぼくの存在も危うくなるかもしれない(笑)。

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2009年11月19日 (木)

橘田幸之祐個展-phobia-

昨日は練馬のNroom artspaceで開催の、橘田幸之祐さんの個展のオープニングに行ってきた。

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1階のスペースは、ワイングラスを使用したインスタレーション。

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積み上げられたグラスはいちおう接着してあるが、ぶつかったら簡単に壊れてしまうので、恐怖を誘う。

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2階のスペースには、中国製の電動玩具を使用したインスタレーションが。
先ほどのワイングラスも中国製で、橘田さんはキッチュな製品を大量使用する表現を、試みられている。

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ついこういう場面を撮ってしまうのだが(笑)、この作品は良し悪し以前にメンテナンス性に問題があって、犬の玩具の一匹ごとに電源スイッチをオンオフしなくてはならず、いかにも効率が悪い。
これらの犬は固定もかねて電気コードでつなぎ、電源もスイッチも一括化すれば、作品としてよりエレガントになるだろうと思う。
まだ若いアーティストなので、いろいろと課題はあるようだ。

それで、きのう出掛けにブログに書いた「アーティストへの質問事項」だが、「あなたにとってアートとは?」というのはなかなか面と向かって聞けないもので(笑)、それとなく探りながらいろいろお話を伺った。
とりあえず気になったのは、今回のようなインスタレーション作品は「販売」の対象にならないのでは?ということである。
これについて橘田さんは、「作品を売ることはまったく考えてません」とのことで、つまり「芸術の価値は、本来的に金銭に換算できない」という「芸術至上主義」を共有していることは分かった。

では、ギャラリーとしてそれでいいのか?ということをNroomのオーナーに聞いてみたのだが、「売れるのは嬉しいけど、売れることだけが目的じゃないし、そもそもアートにはボランティアの側面がある」というような答えをいただいた。
つまりギャラリーストもアーティストも、他に仕事を持ちながら、ともにアートという文化を支えている。

「アマチュア」という言葉を「熱心な愛好者」という本来の意味で使うなら、このような形で「芸術のための芸術」に関わる人々こそが「アマチュア」である。
これに対し、「売るため」だけにアートを描いたり売ったりする人は「プロ」だといえるだろう。
もちろん、「アマチュア」や「プロ」というのは理念であって、現実的には人それぞれの「中道」を探っているのではないかと思われる。

ちなみにNroomは「東京コンテンポラリーアートフェア2009」に参加されるそうで、そちらも行ってみようかと思っている。

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2009年11月18日 (水)

アーティストへの質問事項

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(*写真と本文は無関係です。RICOH GR DIGITAL III)

アーティストに対し「この作品は何を意味しているんですか?」と質問することが、その作品の理解にさほど役に立たない場合がある。
そんなときは「あなたにとってアートとは何ですか?」と、より根源的な質問をすると、いいのかもしれない。
よく言われるように、現代は多様化の時代であり、だからお互い同じ「アート」という言葉を使っていても、その定義から違っている可能性がある。
だから現代に相応しい「相互理解」を実現するため、お互いの「アートの定義」を語り合うことは、有効な手段であるように思うのだ。

もちろんこの場合、相手の「アートの定義」を否定してしまっては元も子もないだろう。
目的は自己主張ではなく、いろいろな人の「アートの定義」を「情報」として取り入れることであり、それが「相互理解」なのだと思う。
もし相手が強硬に自己主張し、自分の「アートの定義」を否定するのであれば、無理に議論しようとせずに、そういう相手の態度も含め「情報」として取り入れればいいだろう。
もっとも、そのあたりは多くの人が心得ているようで、だから「ポストモダン状況」などとも言われるのだが、お互いを否定しあう過激な議論(ケンカ)に発展することは、あまりないと思う。

お互い冷静に話が進むようであれば、さらに根源的な質問をしてみるのもいいかもしれない。
例えば「人間は死んだらどうなると思う?」とか「神様っていると思う?」とか、アーティストが把握する「世界観」についてである。
なぜなら「アートの定義」というものは、そのアーティストの「世界観」に含まれているからだ。
もちろん、相手に聞いたからには自分の「世界観」も明らかにしなければならず、これはいろいろな意味でしんどいことなのかもしれない。
しかし、このような深いレベルでのコミュニケーションを媒介するのが、本来の「アート」の役目なのかもしれないのだ。

ということで、アートに対して自分のセンスで判断するだけでなく、アーティスト自身への質問が重要なのは分かっているのだが、どうしても「絶句」してしまうことも多いので、改めて質問事項について考えてみた。
以上はまだ実践していないのだが、とりあえずこれから友人のオープニングに行ってきますw

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2009年11月16日 (月)

「第二十六回東川賞ノミネート』のお願い

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今年も『東川賞』の推薦状が送られてきたのだが、どうしましょう?
というのも、ぼくは写真家を名乗ってはいても、写真のことは詳しくないので、毎年のノミネートに困ってしまうのだ。

東川賞とは、「写真の町宣言」を行なった北海道の東川町が、写真家に与える賞で、「海外作家賞」「国内作家賞」「新人作家賞」「特別賞」のそれぞれがある。
このうち「海外作家賞」はまったくわからず、「特別賞」も北海道にゆかりのある写真家が対象なのでわからず、だから少なくとも「国内作家賞」と「新人作家賞」くらいはと思うのだが、これも今ひとつわからない。

まぁ「国内作家賞」は、国内の偉い写真家が対象なので、偉い審査員にお任せすればいいとして、少なくとも「新人作家賞」はちゃんと推薦しなくてはと思うのだ。
ぼくとしても最近は写真家の友人も増えたし、そういう人の中にはユニークな活動をしている「新人」も少なくないので、その中から推薦したい人はいるのだ。

ところが話に聞くと、どうも「新人作家賞」というのは、写真集を出してないと受賞の対象にはなりにくいそうなのだ。
しかし近年は出版不況と言われてるし、自費出版をするにも膨大なお金がかかるし、そういう状況を考えても「写真集を出した写真家=優れた写真家」とは必ずしもいえないような気もする。
この基準は朝日新聞社主催の『木村伊兵衛賞』も同じのようで、これらの賞狙いで自費出版することを考えると、いかにも効率が悪い。

写真家にとっては、写真集を出すことは大きな目標の一つで、ぼくもその例外ではないのだが、写真一般にとって「写真集の出版」だけが唯一絶対の到達点ではないはずだ。
むしろ、写真集にこだわらす、それに回収できないようなユニークな活動をしている写真家もいるわけで・・・
などと、ろくな知識も無いもくが言うもの何なのだが、いちおうノミネートの「権利」だけは持ってるので、自薦他薦は問わないので、これぞと思う写真家がいたら、このブログのコメント欄か、トップページのメールアドレスに知らせて下さい。

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因みにこんな写真とか・・・

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こんな写真を漫然と撮るだけでは、「新人作家賞」は難しいかもしれないw
写真というのはある意味「企画力」であって、そこが賞の対象になるのではないかと思うからだ。
まぁぼくの一連の写真も、「普通の写真」という企画モノではあるのだが・・・

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『世界がわかる 宗教社会学入門』

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橋本治さんによる現代語訳の『古事記』を読んだあと、橋爪大三郎さんの『世界がわかる 宗教社会学入門』(ちくま文庫)を買ってみたのだが、あえてこれを読む前に、前回の記事で自分の「芸術観」と結び付けた「宗教観」というものを文字にあらわしてみた。
しかし、改めて『世界がわかる 宗教社会学入門』を読んでみると、自分の書いたことがいかに恥ずかしいか、身に沁みてよく分かった気がした。

やはり何事も、よく知らないくせに知ったつもりになってものを言うと、恥をかくことになる。
いや、人間は油断していると、自分がよく知らないことについて、知ったつもりで勝手な判断をして、自信を持って語ることが良くある。
だから「宗教」についても、この際だから自分の「知ってるつもり」のことをあえて書いて、その後で本を読んで知識を得て、その「落差」を確認してみようとしたわけである。

この本を読んでまず「わかった」ことは、宗教というのは、「人間が思考の限界を超えて思考しようとした歴史の積み重ね」であり、その途方もない壮大さは決してナメてかかってはならない、ということだ。
宗教というのは「人間の最も上等な知性」の膨大な蓄積と連鎖で成り立っており、現代の哲学や思想や科学に、決して引けをとらない優れた構造を有している。
ただ「考える道具」としての実用性で考えると、現代の思想や科学のほうが「即効性」があると言えるのかもしれない。
宗教は「考える道具」としてはいささか旧式になったのかもしれないが、現代思想や科学に比べると歴史が長いだけあって、道具としてはかなり「立派」なのではないかと思う。

つまり歴史のある「立派な道具」としての宗教には、現代思想や科学に回収できない数々の「知恵」がぎっしりと詰まっていて、単に「古い道具だから」という理由で捨ててしまうのは、あまりにもったいないことなのだ。
もちろん、だからと言って今からキリスト教徒やイスラム教徒になる必要はないだろうが、しかし現代日本人として、宗教と何らかの関わり方があるはずで、その方法論のひとつが「宗教社会学」なのだろうと思う。

日本以外のいろいろな社会を知る上で、その社会を成り立たせている宗教を知ることは、非常に有効な手段となる。
どんな社会も特有の宗教に基づいているし、その社会(国)の人の考え方や感じ方を理解するうえで、その根拠となる宗教観を理解することが有効なのだ。
われわれ日本人の大多数は「宗教を持たない=無宗教」とされているが、「それがどういうことなのか?」ということも、宗教を持つほかの社会との比較で明らかになるだろう。

例えば「現代アート」も欧米が発祥であって、その源流の西洋美術の歴史も含め、キリスト教のなんたるかの基本くらい知らなくては、理解したことにならないだろう。
そして同時に、「無宗教」であるところのわれわれ日本人が「現代アート」を行なうこと(製作、鑑賞とも)の意味を考える必要があるかも知れない。
その意味で、ぼくは独自に<神>(あるいは認識の境界面)を直感したつもりになって、それを基礎に自分の芸術観を構築してきた。
しかし、そのようなぼくの「勝手な宗教」は、歴史ある「本格的な宗教」と比較して、なんとチャチなものかと改めて打ちのめされてしまった。
これはひとえに「勉強不足」の結果で、宗教について独自に何か気付いたのだったら、その時点でそれなりの勉強を始めればよかったのである。
まぁ、後悔しても始まらないので、遅ればせながら勉強はこれからやるしかない。

ぼくの「勝手な宗教」と、キリスト教やイスラム教や仏教などの違いは、なんと言っても「パースペクティブの深さ」だろうと思う。
今回は改めて、宗教というのは一種のパースペクティブだと、改めて思ったのである。
どういうことかというと、ぼくは曲がりなりにも自分で、五感で認識できる「可知領域」とは異なる「超越領域」の存在を直感した。
ということは「可知領域」の向こう側にパースペクティブを見たのである。
しかしぼくが見たパースペクティブは、「可知世界」と「不可知領域」の二層であって、その意味では「浅い」のだ。
それに比べると、キリスト教も、イスラム教も、仏教も、「可知世界」を超えるパースペクティブが格段に、そして途方もなく「深い」のだ。

いや、ぼくの浅はかな思い込みはともかく、「アート」というものは「パースペクティブ」を扱うものだから、「パースペクティブとしての宗教」を知ることは、アーティストにとってプラスになるだろうと思う。
そもそも、ヨーロッパ発祥のパースペクティブ理論は、元をただせばキリスト教的世界観から発生しており、そのことは同じ橋爪さんの『はじめての構造主義』にも取り上げられている。
ぼくはこの本を10年以上も前に読んでいたはずなのに、そこからキリスト教そのものについて知ろうとしなかったことが悔やまれる・・・というと繰り返しになってしまうが、ともかく「現代アート」をやろうとする人は、人並み以上にいろいろと勉強したほうがいいのではないかと、今回は改めて思ってしまった。

ぼくはもう、残念ながらオジサンなので、これから勉強しても頭に入ることは高が知れている。
『世界がわかる 宗教社会学入門』のあとがきには、「本文を、声に出して繰り返し呼んで欲しい。そして、丸ごと暗記して欲しい。そういう目的で書いたのだから。」とあるが、ぼくにはもう丸暗記なんで、とてもじゃないけど無理だろう。
でも、この本が本来対象とする若い人にはそれが可能で、そうであればたいへんな武器になるに違いなく、非常にうらやましい。

近年、学校教育での学力低下が問題視されているが、アーティストの世界は、それ以前から偏差値が著しく低い状態がキープされているのかも知れない。
近代以前の「アート」が、宗教と共にあったのだとすれば、その時代のアーティストたちの「偏差値」は、現代に比べられないくらい高かったのかもしれない。
まして日本人は「無宗教」だから、宗教に匹敵する知的根拠に基づいて、自らのアートを構築する必要があるだろう。

ところでぼくは、多くの日本人アーティストがそうであるように、岡本太郎の『今日の芸術』という本に多大な影響を受けている。
『今日の芸術』の言わんとすることを強引にまとめると、「アーティストは考えなくていい」ということで、それがテレビCMでの言葉「芸術は爆発だ!」にも現れている。
ところが、当の岡本太郎自身はフランスに留学し、文化人類学者マルセル=モースの元で学んだインテリで、そのインテリが「考えなくていい」と言ったのでぼくを含めた多くのアーティストが信じてしまったのだ。

しかし!、その考えないできた結果が「今日の自分」であって、今頃になって勉強をしてこなかったことに対し非常に後悔している。
だから皆さんもぜひ『世界がわかる 宗教社会学入門』を読んで、いつか一緒に世界の神様についてのお話をしましょう!(笑)

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2009年11月12日 (木)

アヒルの神様

*あとで挿絵を追加するかもしれません。

先日『古事記』を読んで改めて思ったように、「神様」と一口に言っても、「それが何であるか」の定義が文化によって、時代によって、驚くほどちがっている。
これと同じように、「芸術」についても一様な定義は存在し得ず、同じ現代人であっても、その定義は実にさまざまであることが想像できる。

このような「さまざまな芸術のあり方」を捉える上でまず必要なのは、ほかならぬ自分自身の「芸術観」の確認である。
いや、もしかすると自分の「芸術観」が曖昧なままでも、「さまざまな芸術観」を考えることはできるのかもしれないが、しかしぼくとしては何らかの「足がかり」があった方が、何事も捉えやすいと思うのだ。
もちろん、自分の「芸術観」は固定したものではなく、いろいろな「芸術観」を知る中で変化してゆく可能性もある。

ということで、ここで改めて自分の「芸術観」について明らかにしてみようと思うのだ。
ところで、そのようなぼくの理解の範囲では、芸術と宗教は、本来的に不可分に結びついている。
「芸術と宗教は不可分に結びついている」というのが、ぼくの「芸術観」だとも言える。
しかし、それだけでは何も言ったことにはならず、つまりぼく自身の「宗教観」が明らかにされなければ、「芸術観」もまた明らかにされ得ないのだ。

ただ、現代日本において自分の「宗教観」を語ることは、大変に厄介な問題を含んでいる。
端的に言うと、イマドキ大真面目に「宗教」を語ると「ヘンな人」だと思われて、相手にされないばかりか、下手をすると多くの人の信頼を失うことになるだろう。
それで無くとも「宗教」の問題は仏教の「悟り」のように、本来的に「語りえないこと」を多く含んでおり、何を語っても「誤解」にしか繋がらない可能性がある。
「語りえないことは、沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの言葉どおり、何か思っても黙っているほうが得策に決まっている。
しかし「芸術」について真面目に語ろうとすると、やはり「宗教」についても語らざるを得ず、自分にとってこの問題は不可避なのだ。

まず、はじめにお断りしておきたいのだが、ぼくは特定の宗教団体には所属していないし、特定の宗教を信仰しているわけではない。
ぼくは仏教徒でも、キリスト教徒でもなく、幸福の科学の信者でもなく、創価学会員でもない。

しかしそうでありながら、ぼくは実は「無神論者」ではないのである。
ありていに言うと、いや非常に言いにくいことなのだが、自分は<神>の存在を認めているのだ。
ただ、もう一度確認すると、この場合の<神>とは特定の宗教に基づいたのではなく、あくまでぼくの個人的な経験から、独自に見出されたものである。
その「経験」もまことに言葉にしにくいのだが、つまりは本来的に「語りえないこと」なのだが、何とか言語化を試みようと思う。

それは1992年ごろだったか、もうだいぶ記憶が曖昧で、そのときに感じたリアリティーもかなり失われてしまっている。
ぼくは大学を卒業し、玩具会社に1年間だけ就職した後に、アルバイトをしながら暮らしていた。
当時はアートへの挫折から、赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」の影響を受け、そちらに自分の行くべき活路を見出し始めていたころだった。

休日は「トマソン」を探して路上を徘徊し、同時に「トマソン」の定義に収まらない「超芸術」の可能性についても模索して、その記録としての写真も撮り始めていた。
そんなある日、ぼくは埼玉県志木市の住宅街で、普通の家の玄関先に、一羽のアヒルが飼われているのを発見したのだ。
アヒルの首には紐が巻きつけられていて、まるでイヌのように飼われていたのが面白くて、写真を撮ったのだった(その写真は残念ながらすぐは出てこないが)。

それから半年後か、1年後か、もうちょっと後だったのかは覚えてないが、確か板橋区のどこかの路上で、またしても普通の家にアヒルが飼われてるのを発見したのである。
そのアヒルはコンクリートブロックの塀の上から顔だけを覗かせて、ぼくに向かってガァガァ鳴いていた。
ぼくだけではなく、塀の向こうの道路に人が通るたびに、ガァガァと訴えるように鳴いている。
たぶん庭に放し飼いにされ、退屈なので通行人に向かって鳴いているのだろう。
これも面白くてカワイイので、写真に撮った(この写真も部屋のどこかにはあるだろうと思う)。

しかし実はこのとき、ぼくは突然ものすごいことに気付いて、衝撃を受けたのだった。
アヒルが普通の家で飼われていることは、非常にまれである。
事実、ぼくはこの2例を見て以来、こんな形で飼われたアヒルを見たことが無い。
そのように珍しいアヒルを、ぼくは短期間のうちに2例も目撃してしまったのである。
このことはいったい何を意味するのか?

つまりは先日見たアヒルと、今目の前にいるアヒルこそが、すなわち<神>なのである!
いや、書いているそばからそれが「語りえぬこと」であることが分かるのだが、ともかくそのときは、無前提にそう直感したのだった。
正確に言うとアヒルは<神>そのものではなく、<神>の存在を示す「神の使い」なのである。
まぁ、読んでる人はあきれるだろうが、ともかくその時自分が感じたことを、できるだけ言葉で再現してみようと思う。

ぼくはこの「経験」の以前から、「何で宗教なんか信じる人がいるんだろう?」ということでなんとなく興味を持っていて、何か適当な本なんかも読んでいたように思う。
その知識を寄せ集めて解釈すると、まず<神>というのは、人間の認識の「外」にあるから、人間は<神>そのものを見ることは出来ない。
人間は五感で<世界>を認識するが、見方を変えれば「認識の内側」に閉じ込められているのが人間である。
だから「認識の外部」としての<神>を人間は認識することはできない。
ところで、「認識の内側/認識の外部」という二分法を考えると、その間に「認識の境界面」が想定される。
その「認識の境界面」を通して、人間は「認識の外部」としての<神>を垣間見ることができるかもしれない。

そのようなわけで、ぼくが見た2羽のアヒルは「認識の境界面」であり、<神>の存在を伝える<神の使い>と認識されたのだ。
とはいっても、ただちょっと珍しいだけのアヒルが、何故に「認識の境界面」などという大げさなものになりうるのか?
それは「自分がそのときたまたまそう感じたから」に他ならない。
「自分がその時たまたまそう感じた」からこそ、それは「認識の境界面」としての<神>に他ならないのだ。

これはどういうことかというと、実はこの「経験」のちょっと前に、ぼくは「認識の内部」は全て「言葉」で出来ている!ということに突然気が付いたのだった。
電車の車窓から流れ行く風景を眺めているうち、速度が速すぎでそれが何だか認識できないものは、自分にとって存在しないのと同じことだ、塗布と思ったのである。
そして、認識できないものは「言葉で言い当てられないもの」であり、すなわち人間は<世界>を「言葉」に置き換えながら認識し、「言葉」に置き換え不可能なものは認識できない=存在しないのである。

その話を友人にしたら、その考えは「構造主義」に近いと言われ、それで「構造主義」の思想を知ることになったのだ。
「構造主義」は「ソシュール言語学」をベースにしており、これによると、物理的客観的には「同じもの」であっても、それに「別の言葉」を当てはまると「別のもの」になってしまう。
かなり強引な要約だが、この考えを広げると、ぼくが2羽のアヒルに対して<神>という言葉を当てはめてしまえば、それは<神>になってしまうのだ!
これもかなり強引な解釈だが、ともかくそのように直感してしまったのである。

しかしそうは言っても、ぼくはアヒルを<神>と崇める「アヒル教」の開祖になろうとしたわけではない。
なぜかというと、ぼくが<神>だと思ったアヒルは、そう思った直後にはも<神>でもなく、「認識の境界面」でもなくなっていた。
目の前にいるのは、単なるアヒルであり、もはやそのようにしか思えなくなってしまっている。
ぼくはアヒルに対し<神>という言葉を当てはめ、アヒルを通して「認識の境界面」としての<神>を認識したのだけれど、その直後にはもう「アヒル」の存在と<神>という言葉は結びつきを失ってしまった。
ぼくの目の前には「アヒルが<神>であるはずがない」という常識的な「言葉」で覆われた「認識の内部」が広がるのみである。

どういうことなのかというと、ぼくは「認識の外部」の存在に気付いたのだ。
いや「認識の外部」は存在でもないし、そもそも認識できないのだから、正確に言えば「認識の内部に閉じ込められている」ことに気付いたのだ。
それが知識や理屈として理解されたのではなく、「経験」として突然訪れたのである。

「認識の境界面」は、「認識の内部」そのものとは異なるから、「認識の内部」に独特の「立ち現れ方」をする。
「このアヒルが<神>なのだ!」と気付いた瞬間、それはもうただのアヒルに成り代わっている。
<神>は、人間の「認識の内部」に、そのような仕方で立ち現れるのだ。
言い換えると、「認識の境界面」は人間の「言葉」と、独特の結び付き方をする。
アヒルに対し「これが<神>である」と言い当てた瞬間、その<神>という言葉はアヒルとの結びつきを永遠に失ってしまう。

この考えでいくとアヒルを崇める「アヒル教」などありえないし、それはおろかキリスト教やイスラム教など、特定の対象を<神>を崇める宗教そのものがありえなくなってしまう。
ぼくの宗教観は、原始的宗教と言われるアニミズムに近いように思われる。
アニミズムとは多神論の一種で、あらゆる物に<神>は宿る、とする宗教観だ。

ぼくが直感した宗教観によると、<神>はアヒルを通してのみ現れるわけではない。
「認識の内部」は「認識の外部」に包括され、そして「認識の境界面」は「認識の内部」のどこにでも現れる可能性がある。
「認識の内部」に存在するあらゆる「もの」を通して、<神>はその姿を現しうる。
ぼくが見たアヒルは、その一例に過ぎないのだ。

「認識の境界面」は、「認識の端っこ」でもあるのだが、その端っこは「認識の内部」の「全ての部分」に隣接している。
「認識の内部」と「認識の境界面」は、重なり合っている。
だからふと気が付くと、「認識の内部」に存在する「言葉で言い当てられたもの」の「言葉の結び付き」が解体され、「認識の境界面」が突然そこに立ち現れることがある。
<神>はどこにでも存在しうるし、だからアニミズムの世界観に近いような気がするのだ。

そもそもアニミズムは原始宗教であり、つまり「はじめの宗教」ということである。
つまり<神>というものに初めて接した人間は、<神>をアニミズム的に捉える。
しかし「<神>を見た人」の経験談をもとに、「<神>を見ていない人」が宗教を作り上げると、それは「はじめの宗教」から遠ざかってしまう。
恐らくそれが「一神教」であろうと、実はよく知らないのだが、そのときは勝手にそう思ってしまったのである。

しかし「多神論」と「一神教」の違いは、二次元と三次元の比喩を使うと、実は同じものとしてまとめることが出来る。
例えば、三次元に存在する「立方体」を、二次元平面に投影すると、そのシルエットは「正方形」になったり、「五角形」になったりする。
二次元平面の住人たちは、それぞれ「<神>は正方形だ」というものと「<神>は五角形である」という宗教に分かれる。
さらに二次元に投影した「立方体」は、さまざまに異なる「五角形」のシルエットとなるから、「<神>は五角形である」という宗教は、いくつもの宗派に分化する。
この状況を、三次元に住むわれわれが見れば「同じ立方体なのに・・・」と思えてしまう。

この例えで考えると、宗教をいうものは「一神教」の方が正しそうだが、しかし二次元の住人は、そもそも「立方体」を「ひとつのもの」として捉える能力がないのである。
二次元の住人にとって、「ひとつの立方体」は、必ず「たくさんの異なる図形」として認識される。
これをわれわれが住む三次元空間に現れる<神>の関係に置き換えると、例え「<神>はひとつ」であっても、それは必ず「たくさんの<神>」となって現れることになる。
ただしこの例えは、「こういうふうに考えることも出来る」という「概念モデル」に過ぎない。

ともかくぼくは、この「経験」以来しばらくは、日常のあらゆるところで<神>を見ることが出来た。
例えば、喫茶店のおしぼりで手を拭きテーブルに置くと、それは二度と同じ形にならない「唯一無二」の形態になり、そこに突然<神>を見て驚いたのだった。
またあるときはゴミ捨て場にあった木製の車輪に対し、「このものに姿を借りて<神>が現れているのだ」と感動したりもした。
もちろん、これらの<神>も認識した直後には、単なる「おしぼり」や「ごみ」に戻っている。

しかし最近のぼくは、このように<神>を感知する能力がほとんどなくなってしまい、そのころのリアルな感動や驚きの感覚も忘れてしまった。
というのも、ぼくの中ではこの<神>が、いつの間にか「非人称芸術」に置き換わっていたのだ。
ここで誤解して欲しくないのは、<神>=「非人称芸術」ではないことである。
しかしぼくの<神>の捉え方と「非人称芸術」のコンセプトは、ともに自分なりの解釈の「構造主義」をベースとしている。
「非人称芸術」も、「言葉がものを創りだす」という「構造主義」の考えを応用している。
つまり「芸術でないもの」に対し「芸術である」と言い当てることで、「非人称芸術」は創造される。
このことは「<神>と言い当てることにより<神>が現れる」という宗教観と、同じ<構造>の上に成り立っている。

ところで、目に見えるあらゆる物を<神>として言い当てることを想像すると、その先に何があるのか?
実はさっきも「思考実験」してみたのだが、それを頻繁に繰り返していると、恐らく発狂してしまうのではないかと思うのだ。
「認識の内部」は「言葉」と「言葉」の複雑な連鎖で出来ているが、その結びつきを疑うことで<神>が見えるのだとすれば、疑いが恒常化すれば「認識の内部」が崩壊する可能性がある。
などと書いているだけでも恐ろしくなるので、例え「思考実験」だとしてもあまり危険なことはしないに越したことはない。

しかし<神>ではなく「非人称芸術」だと言い当てることは、まったく発狂の心配もなく安全である。
なぜなら「芸術」とは、「ただ見て楽しんでいればいいもの」だからである。
ぼくが理解するところの「現代芸術」とは、「芸術以外の意味を持たないもの」を指す。
つまり「現代芸術」とは「意味のないもの」の代名詞で、それは「ただ見て楽しめばいいもの」なのである。

だから「認識の内部」の「言葉」と「言葉」の連鎖を解体し、あらゆる「意味あるもの」を「無意味なもの」へと転化させても、そこに既知の概念である「芸術」を代入すれば、「認識の内部」の崩壊は起こりえないのだ。
「非人称芸術」とは<神>と同じく「認識の境界面」の現れであることには違いない。
しかし「ただ見て楽しむだけ」を実現するには、「認識の内部」という確固たる「立脚点」が必要になる。
つまり「非人称芸術」の鑑賞の最中は、「認識の境界面」と「認識の内部」が、「クラインの坪」のように繋がっているのだと解釈できる。
そもそもぼくの解釈では、「芸術」とは「認識の境界面」なのであり、「非人称芸術」はその概念の延長に見出されたものなのだ。
そのようなわけで、ぼくの中では<神>の認識が徐々に「非人称芸術」へと移行したのである。

さて、先に「現代芸術」とは「芸術以外に意味のないもの」だと書いたが、それが近代ヨーロッパで発生した「芸術のための芸術」という概念である。
ではそれ以前、芸術は何のためにあったのかと言えば、芸術は「宗教のため」にあったのである。
つまり<神>の存在を表現するためのイラストレーションとして「芸術」は存在していた。
もしくは「すごい芸術」を描くことによって、「<神>のすごさ」を表現していた。

ところが時代が近代になって、「科学」によって<神>の存在が否定されると、「芸術」は<神>の付属物から独立し「芸術のための芸術」となったのだ。
「芸術のための芸術」とは、宗教的世界観から開放された人間の「自由の可能性の追求」と言い換えることが出来る。
つまり「芸術のための芸術」「人間の自由の可能性」が表現されており、つまりは「近代の素晴らしさを表現したイラストレーション」なのである。
そして「近代(モダニズム)」という概念も、宗教を否定しているようで、それがひとつの「世界観」を構築しているのであり、「世界観を構築するもの」はすなわち「宗教」なのである。
だから「近代」というのも「宗教」のひとつであると、かなり乱暴にまとめるとそう解釈できる。

つまり乱暴な解釈を続けると、人は誰でも「宗教」から逃れることは出来ず、そして「宗教」と「芸術」は不可分に結びついている。
そして「ポストモダン」と言われる現代において、人々の世界観=宗教観は多様であり、それに伴い「芸術」の捉え方もさまざまであると推測される。
そのような時代の「芸術」を取り巻く状況を把握するためには、まず自らの「宗教観」からハッキリさせなければならない。
ということで、「語りえないこと」を承知で、とりあえず書き起こしてみた次第である。

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2009年11月10日 (火)

外に出たと思ったら、内にこもってた

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11月8日は、12月に開催するグループ展の打ち合わせを、会場となるユカコンテンポラリーで行なった。
メンバーは彦坂敏昭さん、阿部大介さん、小林史子さん、と糸崎公朗さん。
ぼくだけ他の人たちより10以上年上で、ちょっと浮いてますねw
浮いてると言うと、年齢以上にぼくだけが「非人称芸術」というおかしなコンセプトを掲げていて、このコンセプトの何がおかしいかと言えばいわゆる「人称芸術」を否定する立場にあるから、本来的にぼくがこういう場にいること自体がおかしいのだ。

しかし、そうやって自分のコンセプトに忠実に従ってると誰とも会う理由がなくなってしまい、それもどうもヘンなので、「相互的」というコンセプトのもと、アートや写真の分野の人ともコミュニケーションを図ろうとしている。
「相互的」というのは、お互いに語り合えない話題については沈黙し、語り合えることについて模索する、相互的コミュニケーションの方法論で、まぁ誰もが普通に行なってることなのだろうが、自分はイマイチ出来ていなかったのかもしれない。

ともかく、具体的に言えば、ぼくはアートというフィールドに対し「相互的非人称芸術」としての「作品」を差し出すということで、これは形態としては「人称芸術」と変わらないから、そこで他人とのコミュニケーションが成立する。
反対に、もしぼくが他人に対し「非人称芸術」のコンセプトを直接差し出してしまうと、これはたいていのアーティストの立場を否定することになるから、コミュニケーションが成り立たない。
つまり、「非人称芸術」は分かる人だけが自分たちだけで考えればいいのであって、それを必要としないアーティストに対し、何らかの問いかけをする必要は無いのだ。

「非人称芸術」とは、言ってみれば芸術の「外部」に出た、メタ芸術(芸術の上位概念)からの視点のつもりである。
しかし最近気付いたのだが、実はぼくの立場は「外に出たと思ったら、内にこもってた」だけなのかもしれない。
先日の記事で赤瀬川原平さんの作品『宇宙の缶詰』は、広大な宇宙を丸ごと包み込む「メタ宇宙」なのだが、しかしその実「缶詰の中の狭い空間」でしかない。
考えてみれば、人間が認識世界の「外部」に出るのはそう簡単なはずもなく、というか「全ての認識の外部」に出るのは原理的に(「言葉」というものの定義上)不可能であり、「外に出たと思ったら、内にこもってた」という事はごく当たり前なのだと思う。

とはいえ、今のところぼくは「非人称芸術」を捨て去ることはできないから、とりあえずは「缶詰」に閉じこもりながらも目玉や角を出して、「外部世界」の住人とコミュニケーションをとりつつ、自分の「位置」を確認するしかないだろう。
そう思って皆さんの話を聞くと、同じ「芸術」であっても、それぞれに捉え方が違ってなかなか面白い。
それは旧約聖書の「神様」と、古事記の「神様」が違うように、同じ「芸術」であってもまったく異なる「芸術」なのだ。

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それで夜は、彦坂敏明さんが借りている共同アトリエの鍋パーティーに招待されたのだが、皆さんそれぞれ活躍している若いアーティストで、「外部世界」はこんなふうになっていたのかと、改めて思った次第である。

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2009年11月 7日 (土)

日本人なら「古事記」を読め!

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読め! とは言いながら、当然のことながら自分はちゃんと読んだことがなく、しかしこういう「基本」となる本は子供のうちに読んでおかなければならないはずで、だから古本屋の書棚で「少年少女」向けのを見つけてすかさず購入したのだ。
口語訳も橋本治さんなので、間違いはないだろう。

それで、改めて読んでみると、予想以上にみょうちきりんな話なのに、ちょっと驚いてしまった。
いや、神話なので破天荒でつじつまが合わないのは当たり前なのだろうが、ぼくがこれまで知る神話のパターン(と言ってもごくわずかだが)にはないものだったのだ。

その特徴は、橋本治さんがあとがきで簡潔にまとめているのだが、この神話は「神様」と「人間」の関係がちょっとおかしい。
例えば旧約聖書だと、まず神様がいて、神様が人間を作った事になっている。
しかし古事記の場合、まず神様が現れて、その神様が子を生んで子孫が増え、その末裔がいつの間にか「人間」になっている。
「神様」と「人間」が系統的に連続していて、神々の時代を描いた「神話」から、天皇の系譜を描いた「歴史」が区別なく連続しているのが「古事記」の特徴なのだ。

だからすごくヘンなのだが、しかし「正しい日本人」としては順番が逆で、まず先に「古事記」に描かれた世界観に親しんで、その後で旧約聖書を読んで「ヘンな神様」だと思わなければいけない。
いや、順番はどうでもいいが、きっと昔の日本人はそう思ったに違いない。

ともかく、一神教に対して多神教があることは知ってはいたが、しかし多神教にこれほどまでに違いがあるとは思わなかった。
「神様」と一口に言っても実にいろいろな捉え方があるもので、いったい「神様」ってなんだろう?とあらためて考えてしまった。
そして「神とは何か?」という問いは、そのまま「芸術とは何か?」に通じるのではないかとぼくは思うのだ。

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2009年11月 6日 (金)

高橋治希 展 -磁器の蔓草-

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銀座のINAXギャラリー2で開催中の、「高橋治希 展 -磁器の蔓草-」を見に行ったのだが、どうも人物写真は撮りなれてなくて、素人の記念写真みたいになってしまったw
高橋さんは金沢在住で、今日は会場におられるとは思わなかったのだが、芸大時代の恩師に不幸があり、それでたまたま東京におられたそうである。
高橋さんとは、キリン・コンテンポラリー・アワード1999で同期入賞して以来の友人で、去年の金沢滞在でもいろいろお世話になったので、なんにしてもお会いできてよかった。

今回の高橋さんの作品は、イマドキの現代アートには珍しく「ぼくにも分かる」作品で、主観的にはたいへん素晴らしいと思える。
個人的には「植物らしさ」が非常にうまく表現されているのが第一のポイントで、いくら他で凝っていても、生き物が生き物らしく表現できてない作品は、それだけで興ざめしてしまう。
高橋さんの植物は、種類が特定できるほどリアルではないが、しかし植物の「勢い」とか「動き」と言った要素が確かに表現されている。

まぁしかし、ぼくがなれない評論をするより、リンク先の解説を見てもらったほうがいいだろう(ちゃんとした写真も掲載されてるし)。
ただひとつ付け加えると、この作品の鑑賞のさいは、カバン類を会場の隅に置いてからにしたほうがいい。
作品は非常に繊細な磁器でできているから、カバンなどを持ったままだと知らずにどこかぶつけてしまいそうで、非常に怖いのだ。
あまりに繊細で壊しそうで、だから怖くて近づきたくないのだが、しかしどうしても近づいて見たくなるのがこの作品の魅力だ。
恐らく高橋さんが巨匠になると、この作品もガラス越しでしか見られなくなるだろうから、作品を「正しく」鑑賞できるのは今のうちかもしれない。
などと、結局は下手な評論を加えてしまったがw

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あと、リコーRING QUBEに置かれてる、自分のツギラマ作品のチェックなど。
告知のため、ワークショップスペースに立てかけてある。
右端のツギラマはリコーGX8での撮影で、他2点はフィルムでの撮影である。

ツギラマワークショップのお知らせはこちら。
http://www.ricoh.co.jp/dc/ringcube/workshop/index.html

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2009年11月 5日 (木)

効率の良すぎる理論

「非人称芸術」のコンセプトは、それだけですべての芸術を「人称芸術」として否定してしまうから、その意味で非常に「効率の良い」理論だと言うことができる。
この効率の良さは、赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」から引き継がれたもので、赤瀬川さんはトマソンに関した記事に「従来の芸術はもう古くなった」などとたびたび書いている。
トマソンに限らず、美術家としての赤瀬川さんはある種の「効率の良い理論」に向かう傾向にあるようで、ぼくはそこに非常に影響を受けている。

例えば赤瀬川さんは1960年代に、さまざまな物品を梱包する「梱包芸術」を始めたのだが、その究極の形態として「宇宙の缶詰」と言う作品を発表している。
これは、市販の缶詰の中身を取り出し(食べ)、空になった内側に缶詰のラベルを貼り、缶のふたを閉めて半田付けした作品だ。
反転した缶の内側に、宇宙全体が封入されたことになり、それがすなわち「究極の梱包芸術」となったのだ。

「梱包芸術」と言うと、ブルガリア出身でアメリカ在住のクリストが有名である。
クリストの「梱包芸術」は1950年代末から始まったようだが、初期の作品は赤瀬川さんによると「自分のものに似ていた」そうである。
ところがクリストの梱包は「建築」や「島」など、物理的に巨大な方向へ進化し現在に至る。
「宇宙の缶詰」を、クリストの「巨大梱包」と比較すると、その「効率の良い」ことがより理解できる。

赤瀬川さんは「宇宙の缶詰」と同時期に、千円札を精密に拡大模写した絵画作品も製作している。
これは1960年代に、新しい芸術のさまざまな可能性が追求された「読売アンデパンダン展」と言う無審査の公募展があり、そうした時代の熱気の果てに「もう何も描くことがなくなった」ことを表明するために「もっとも描く意味のないもの」として描かれたもので、美術家としての赤瀬川原平の終止符ともなる作品となった。
この「描くことがなくなったことの表明」という理論も非常に「効率の良い」もので、そんなことを真に受けたら後の人はどんな「芸術」も描けなくなってしまう。
そしてこの延長上に、「超芸術トマソン」の着想があるのだといえる。

一方、赤瀬川さんが著書『芸術原論』(岩波現代文庫)で「超芸術トマソン」と深く関連していることを示している、デュシャンについてはどうだろうか?
デュシャンの示した「レディ・メイド」の概念は、赤瀬川さんの「千円札」や「宇宙の缶詰」や「超芸術トマソン」と非常に近しいものと解釈できる。
確かに、デュシャンの「レディ・メイド」はそれまでの「芸術」のあり方を否定してしまったので、その意味では「効率が良い」と言えるかもしれない。
その一方でデュシャンの言葉は、理論的な「効率の良さ」を意図的に阻んでいるようにも思える。
「効率のいい理論」はいろいろな欠点もあって、だからデュシャンはそうなることを避けるため、理論とは異なる言葉使いを交えたのかもしれない。

分かりやすくてシンプルな「効率の良い理論」は、時として人々をだまして扇動する働きを持つ。
例えば、ヒトラーの唱えた「反ユダヤ主義」なども、それに当たるだろうと思う。
しかし「ユダヤ人がいなくなれば世界は良くなる」という理論は「ウソ」であるために、実際的な「効率」も存在しない、いわば「効率の良すぎる理論」でしかない。
「反ユダヤ主義」ほど大げさではなくとも、世の中にはさまざまな「効率の良すぎる理論」がまかり通っており、人々をだまし続けている。

だから「効率の良い理論」が示されたときは、まずそれが「効率の良すぎる理論」であることを疑うべきなのかもしれない。
ところがぼくのように頭のよろしくない人間は、「効率の良い理論」の検証をすることがなかなかできない。
だからシロートの思いつきの「効率の良すぎる理論」は、あまり相手にしないのが得策だと言える。
それよりも、頭の良い人たちにとっては「複雑で効率の悪い理論」のほうが格段に魅力的で、そういうものは世の中にいくらでもあるのだ。

という理由で、専門家は「超芸術トマソン」にあまり言及せず、したがって「非人称芸術」もまるで相手にされず、そこがデュシャンとの「違い」になってるような気もするのだが、どうだろうか?

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言語ゲームと構造主義

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(*写真は本文と関係ありません。GRD3)

橋爪大三郎さんの『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書)を読んだ。

ぼくがはじめて橋爪さんの本を読んだのは、『はじめての構造主義』(講談社現代新書)だったが、この本ではじめて「構造主義」という思想と、その生みの親であるレヴィ=ストロースを知ったのだった。
と思ったら、つい先日の10月30日、そのレヴィ=ストロースが100才で亡くなられたことを、2ちゃんのレスで知った。
ともかくぼくは、『はじめての構造主義』を読んだ後に、レヴィ=ストロースの著作である『野生の思考』(みすず書房)を読み、そこで「ブリコラージュ」という概念を知った。
ブリコラージュというのは、このブログの上にも書いてあるが、「思考の断片をつなぎ合わせる思考法」というような意味だ。
ぼくはあまり頭がよろしくなく、難しい原著もどうも読みこなすことができず、『野生の思考』も結局途中までしか読めないままでいるのだが、そういう頭のよくない人間でも採用できるのが「野生の思考」としてのブリコラージュなのだ。

そのブリコラージュ的な頭で考えると、「構造主義」と「言語ゲーム」の概念の違いが、いまひとつ分からないままでいた。
「言語ゲーム」は、哲学者のウィトゲンシュタインが提唱した概念で、「構造主義」と同じく「言語」を扱っているのだが、多分アプローチが違うのだろうな、という風になんとなく思っていた。
それで、だいぶ以前に永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)を買ってみたのだが、はじめの章の途中からもう読み進めることができない。
それは多分、ぼくの中での「言語」というものの理解は、「構造主義」に依拠してしまっており、それ以外の理解の仕方を受け入れる余裕が無かったのだろうと思う。

しかし、「構造主義」に関する橋爪大三郎さんのほかの著書や、高田明典さんの本など読むと、「言語ゲーム」という言葉はたびたび出てくる。
そしてそのように「言語ゲーム」という言葉に触れるうち、ぼくの中では何となく「構造主義=言語ゲーム」という風に何となくなってしまったのである。
これがまさしく「ブリコラージュ」の効果なのだが、いい加減なものだ。

そもそも「構造主義」では、まず「現実のものごと」があって、そこに人間が「言葉」を当てはめたのだ、とは考えない。
そうではなく、人間にとってはまず「言葉」が先にあって、「言葉」というフィルターを通して「現実のものごと」を認識する。
「言葉」は実体がなく、それは「関係の連鎖」というシステムで出来上がっている。
人間は「言葉」というシステムによって「現実」を把握し、だから人間には「現実のものごと」には秩序があるように思えてしまうのだ。
この考えを応用すると、「現実」の秩序に何か問題が生じた場合(例えば人間関係のトラブルなど)、その「困った現実」の元となる「言葉」と「言葉」の関係性である「構造」を明らかにすれば、より効率的に問題が解決できるかもしれない。
ぼくが理解するところの「構造主義」を要約するとこのようになる。

そういう理解の仕方で「言語ゲーム」という言葉を考えると、「構造主義」でいうところの「関係の連鎖」というのは、まさに「ゲーム」という言葉に置き換えられるように思えてしまう。
「ゲーム」は決められた「ルール」によってできており、「ルール」とは実体のない「関係の連鎖」に他ならないからである。
「構造主義」では、人間は見えない「構造」に縛られているとするが、それは「見えないゲームのルールに縛られている」と言い換え可能ではないか?
現実の問題を解決する手段として、見えない「構造」を明らかにすることと、見えない「言語ゲーム」を明らかにすることは、同じことではないだろうか?

そういう風に自分勝手に「言語ゲーム」という言葉を解釈すると、これはなかなか使い勝手のいい概念に思えてしまう。
そして実際に、ぼくは自分流の「言語ゲーム」の概念を、たびたび使用して物事を考えていたのである。
例えば友人と考えや価値観が違って仲たがいした場合、「それはお互いがプレイする「言語ゲーム」が違うのだ」、と思えば納得してあきらめることができる。
さらにその友人と「仲直り」したい場合は、自分のプレイする「言語ゲーム」のルールを変更するとか、お互いの「言語ゲーム」を包括するさらに大きな「言語ゲーム」に参加するとか、お互いの「言語ゲーム」とはまた別に、両者が共通してプレイできるような「言語ゲーム」を新たに作り出すとか、いろいろ考えられるだろう。

まぁしかし、それはあくまで我流の間違った解釈による「言語ゲーム」であって、本当の意味の「言語ゲーム」は知らないままでいたのだった。
しかし、あらためて橋爪大三郎さんの『はじめての言語ゲーム』を読むと、ぼくの「言語ゲーム」の解釈は、あながち間違いではないような気がしたのだ。
もっとも『はじめての言語ゲーム』は『はじめての構造主義』の作者と同一だから、ぼくはそのような理解の仕方に誘導されていたのかもしれない。
そもそも『はじめての言語ゲーム』は、橋爪大三郎さんが理解し主張するところの「言語ゲーム」であり、ウィトゲンシュタインの原著から取り出された「思考の断片」にしか過ぎず、『はじめての構造主義』もまた同じなのだ。
いやもしかすると、ぼくは我流の理解(ブリコラージュ)に囚われすぎていて、橋爪さんの2冊の本から「大事な箇所」を読み落として誤解し続けているのかもしれない。

そのようなわけで、これをきっかけに「構造主義」と「言語ゲーム」の差異について、自分なりに考えてゆく必要があるだろうと思う。
などと、知識もないのに適当なことを書く自分が空恐ろしくなってしまうが、ウィトゲンシュタインが「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」と書いていたように?、知らないことについては語らないのが「利口な振舞い」なのだと言える。
しかし、書くことが自分の恥をひけらかすと言うことを自覚するのであれば、少なくとも「恥知らず」にならずにすむのではないかと思うのだ。

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いろいろ行ってきた

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10月30日(金)

三鷹天命反転住宅」というところへ行ってきた。
知らないおじさんが写ってるが、肉眼では何も見えず、最近のデジカメは夜景が肉眼より明るく写るのである。
(GRD3+ワイコン)

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住宅内部の「球体の部屋」からリビングを覗いたところ。
いろいろ撮ったつもりがろくな写真がなく、内部が凄すぎて、撮るほうが負けてしまった・・・

アーティストの榎本寿紀さんがワークショップ開催のため短期滞在されるので、パーティーを開催してくれたのだが、ぼくは橋本さんとは面識がなく、某美術館の学芸員さんに誘われたのだ(皆さんありがとうございます)。
榎本さんは、元は絵を描いていたのだが、描くことは筆を持って動くことであって、そこから「動き」の表現であるパフォーマンスに興味を持たれたそうで、なかなか興味深いお話である。
このほか榎本さんから、武蔵野美術大学に在籍していた1980年中ごろ当時、通学路の玉川上水沿いにホタルがたくさん舞っていた、というお話も伺った。
現在は川底がコンクリート打ちされているそうで、お陰でホタルはすっかりいなくなってしまったようだ(一部で養殖されている)。

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10月31日(土)

横浜市民ギャラリーで開催の「横浜市所蔵カメラ・写真コレクション展+企画展 フォト・コミュニケーション」のオープニングに招待されたのだが、会場写真を撮り忘れたのでリーフレットを掲載。
1階は現代若手写真家3名の写真が展示されている。

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2階はダゲレオタイプから始まる、貴重なコレクションの展示。
黎明期の写真は撮るだけでも大変で、撮られるほうも相当に気合が入っている。
現在は写真撮影が日常化し、1階に展示してあるような「写真家が撮る写真作品」がスペシャルなものとして認識されているが、その昔は写真そのものが「スペシャルなもの」だったのだ。

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11月2日(月)

アーティストの彦坂尚嘉さんがディレクターを務める『第16回アート・スタディーズ』に参加してみた。
同じ日の同じ時間から同じINAX:GINZAのギャラリー2で、友人の高橋治希さんのアーティスト・トークも開催されたのだが、迷った挙句そっちはあきらめてしまった。

さて、「20世紀日本建築・美術の名品はどこにある?」というテーマについてだが、実のところ「建築」も「アート」も、「非人称芸術」にとっては「外部」の存在としてこれまでは興味が持てなかった、というか半ば意図的に回避していた。
しかし最近は、外部としての「客観世界」を把握するため、見聞を広げることは無駄ではないと思うようになったのだ。
しかしさすがに初心者にはとっつきにくい話もあったりして、そのあとの懇親会のほうがおもしろかった。
帰りは終電を逃して武蔵小金井から国分寺まで歩いて帰ったが、おかげで思わぬ収穫があった。

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