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2009年11月16日 (月)

『世界がわかる 宗教社会学入門』

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橋本治さんによる現代語訳の『古事記』を読んだあと、橋爪大三郎さんの『世界がわかる 宗教社会学入門』(ちくま文庫)を買ってみたのだが、あえてこれを読む前に、前回の記事で自分の「芸術観」と結び付けた「宗教観」というものを文字にあらわしてみた。
しかし、改めて『世界がわかる 宗教社会学入門』を読んでみると、自分の書いたことがいかに恥ずかしいか、身に沁みてよく分かった気がした。

やはり何事も、よく知らないくせに知ったつもりになってものを言うと、恥をかくことになる。
いや、人間は油断していると、自分がよく知らないことについて、知ったつもりで勝手な判断をして、自信を持って語ることが良くある。
だから「宗教」についても、この際だから自分の「知ってるつもり」のことをあえて書いて、その後で本を読んで知識を得て、その「落差」を確認してみようとしたわけである。

この本を読んでまず「わかった」ことは、宗教というのは、「人間が思考の限界を超えて思考しようとした歴史の積み重ね」であり、その途方もない壮大さは決してナメてかかってはならない、ということだ。
宗教というのは「人間の最も上等な知性」の膨大な蓄積と連鎖で成り立っており、現代の哲学や思想や科学に、決して引けをとらない優れた構造を有している。
ただ「考える道具」としての実用性で考えると、現代の思想や科学のほうが「即効性」があると言えるのかもしれない。
宗教は「考える道具」としてはいささか旧式になったのかもしれないが、現代思想や科学に比べると歴史が長いだけあって、道具としてはかなり「立派」なのではないかと思う。

つまり歴史のある「立派な道具」としての宗教には、現代思想や科学に回収できない数々の「知恵」がぎっしりと詰まっていて、単に「古い道具だから」という理由で捨ててしまうのは、あまりにもったいないことなのだ。
もちろん、だからと言って今からキリスト教徒やイスラム教徒になる必要はないだろうが、しかし現代日本人として、宗教と何らかの関わり方があるはずで、その方法論のひとつが「宗教社会学」なのだろうと思う。

日本以外のいろいろな社会を知る上で、その社会を成り立たせている宗教を知ることは、非常に有効な手段となる。
どんな社会も特有の宗教に基づいているし、その社会(国)の人の考え方や感じ方を理解するうえで、その根拠となる宗教観を理解することが有効なのだ。
われわれ日本人の大多数は「宗教を持たない=無宗教」とされているが、「それがどういうことなのか?」ということも、宗教を持つほかの社会との比較で明らかになるだろう。

例えば「現代アート」も欧米が発祥であって、その源流の西洋美術の歴史も含め、キリスト教のなんたるかの基本くらい知らなくては、理解したことにならないだろう。
そして同時に、「無宗教」であるところのわれわれ日本人が「現代アート」を行なうこと(製作、鑑賞とも)の意味を考える必要があるかも知れない。
その意味で、ぼくは独自に<神>(あるいは認識の境界面)を直感したつもりになって、それを基礎に自分の芸術観を構築してきた。
しかし、そのようなぼくの「勝手な宗教」は、歴史ある「本格的な宗教」と比較して、なんとチャチなものかと改めて打ちのめされてしまった。
これはひとえに「勉強不足」の結果で、宗教について独自に何か気付いたのだったら、その時点でそれなりの勉強を始めればよかったのである。
まぁ、後悔しても始まらないので、遅ればせながら勉強はこれからやるしかない。

ぼくの「勝手な宗教」と、キリスト教やイスラム教や仏教などの違いは、なんと言っても「パースペクティブの深さ」だろうと思う。
今回は改めて、宗教というのは一種のパースペクティブだと、改めて思ったのである。
どういうことかというと、ぼくは曲がりなりにも自分で、五感で認識できる「可知領域」とは異なる「超越領域」の存在を直感した。
ということは「可知領域」の向こう側にパースペクティブを見たのである。
しかしぼくが見たパースペクティブは、「可知世界」と「不可知領域」の二層であって、その意味では「浅い」のだ。
それに比べると、キリスト教も、イスラム教も、仏教も、「可知世界」を超えるパースペクティブが格段に、そして途方もなく「深い」のだ。

いや、ぼくの浅はかな思い込みはともかく、「アート」というものは「パースペクティブ」を扱うものだから、「パースペクティブとしての宗教」を知ることは、アーティストにとってプラスになるだろうと思う。
そもそも、ヨーロッパ発祥のパースペクティブ理論は、元をただせばキリスト教的世界観から発生しており、そのことは同じ橋爪さんの『はじめての構造主義』にも取り上げられている。
ぼくはこの本を10年以上も前に読んでいたはずなのに、そこからキリスト教そのものについて知ろうとしなかったことが悔やまれる・・・というと繰り返しになってしまうが、ともかく「現代アート」をやろうとする人は、人並み以上にいろいろと勉強したほうがいいのではないかと、今回は改めて思ってしまった。

ぼくはもう、残念ながらオジサンなので、これから勉強しても頭に入ることは高が知れている。
『世界がわかる 宗教社会学入門』のあとがきには、「本文を、声に出して繰り返し呼んで欲しい。そして、丸ごと暗記して欲しい。そういう目的で書いたのだから。」とあるが、ぼくにはもう丸暗記なんで、とてもじゃないけど無理だろう。
でも、この本が本来対象とする若い人にはそれが可能で、そうであればたいへんな武器になるに違いなく、非常にうらやましい。

近年、学校教育での学力低下が問題視されているが、アーティストの世界は、それ以前から偏差値が著しく低い状態がキープされているのかも知れない。
近代以前の「アート」が、宗教と共にあったのだとすれば、その時代のアーティストたちの「偏差値」は、現代に比べられないくらい高かったのかもしれない。
まして日本人は「無宗教」だから、宗教に匹敵する知的根拠に基づいて、自らのアートを構築する必要があるだろう。

ところでぼくは、多くの日本人アーティストがそうであるように、岡本太郎の『今日の芸術』という本に多大な影響を受けている。
『今日の芸術』の言わんとすることを強引にまとめると、「アーティストは考えなくていい」ということで、それがテレビCMでの言葉「芸術は爆発だ!」にも現れている。
ところが、当の岡本太郎自身はフランスに留学し、文化人類学者マルセル=モースの元で学んだインテリで、そのインテリが「考えなくていい」と言ったのでぼくを含めた多くのアーティストが信じてしまったのだ。

しかし!、その考えないできた結果が「今日の自分」であって、今頃になって勉強をしてこなかったことに対し非常に後悔している。
だから皆さんもぜひ『世界がわかる 宗教社会学入門』を読んで、いつか一緒に世界の神様についてのお話をしましょう!(笑)

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