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2009年12月

2009年12月31日 (木)

遅ればせながら、オープニングの様子とか

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26日のユカコンテンポラリーでのオープニングの様子ですが、写真家の湊雅博さんの撮影です。
このあと、周りの人に「大丈夫?」と言われるくらい酔っ払って、次の日はひどい二日酔いだったり、仕事がいろいろたまったり遅れたりして、忙しい年末でした。
と言うことで、グループ展の詳細は来年あらためてお届けします・・・

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2009年12月25日 (金)

ツギラマ病

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ほとんど滞在製作、と言った感じでギャラリーで作業を続けてますが、今日も終わりませんでした・・・
ツギラマはこれまでの作品の多くはプリントを「重ね貼り」してたのですが、今回は接合面をツライチにカットする方式を採用したので、何倍もの手間がかかってます。

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帰りがけ、足元のこんなものもツギラマに見えて「ちゃんと接がなくちゃ!」と思ってしまいますから、まさにツギラマ病ですw

企画展のオープニングは26日(土)18:00〜ですので、ヨロシクオネガイシマス。
http://www.yukacontemp.com/

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2009年12月17日 (木)

ひさびさのセルフツギラマ

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セルフツギラマ、と言うのはツギラマのセルフポートレートではなく、久しぶりに自分でツギラマを作成したのである。
ここしばらくツギラマはワークショップばかりで、セルフで作成するのは本当に久しぶりだ。
いや、去年は金沢21世紀美術館で、ツギラマの新作を4点製作したのだが、これらは撮影と、パソコンによる「下図」の作成は自分で行ったものの、プリントの張り合わせ作業は金沢美大の学生ボランティアの皆さんに、ほぼ「丸投げ」してたのだ。

と言うわけで、改めて自分でプリントを張り合わせる作業をしてみたのだが、実に大変であることが改めて分かった(笑)
大変なのは、気張って枚数の多い大作になってしまったのと、木の枝の部分がどこにつながるのか分からず、難解なパズルになっているためである。
そのような苦労の末、とりあえずプリントを仮組みした状態まで仕上げたが、さらに位置を微調整して構成を整える必要がある。
このツギラマは、12月26日から開催のグループ展の出展作で、会場となるYUKA CONTEMPORARYで作業を続けている。
展覧会概要は以下のとおり。

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タイトル:『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』
出展作家:彦坂敏昭/糸崎公朗/小林史子/阿部大介/八木貴史
開催日時:2009年12月26日(土)〜2010年1月23日(土)
月、水〜土 11:00 - 19:00 (※12月27、28、29日開廊、1月30〜1月5日休廊)

オープニングレセプション
2009年12月26日(土)18:00〜20:00

シンポジウム「ものの組み合わせには何かルールがありますか。」
2010年1月23日(土)16:00~18:00
パネラー:彦坂敏昭、糸崎公朗、小林史子、阿部大介
ゲスト:沢山遼(美術批評)
参加費:無料

会場:YUKA CONTEMPORARY
東京都文京区関口1-30-9
http://www.yukacontemp.com/

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2009年12月16日 (水)

生物と宗教

宗教とは何か?というのはいろいろな定義の仕方があるだろうが、小室直樹さんの本には「人間のエトス(行動様式)」であると書かれていた。
この定義に従うと、言葉の上では無関係のように思えるマルクス主義や、日本人にありがちな「無宗教」や「世間」なども、みな「宗教」に含まれる。
「人間の行動様式は、全て宗教である」とは言い過ぎと思う人もいるかもしれないが、このような「全ては○○である」という言い方は、あくまで考えるための方法論なのである。
方法論なのだから、その概念をいろいろと広げて、思考実験してみればいいのである。

そして、そのように広げた結果、宗教が「世界観」や「行動様式」だとすれば、人間以外の生物にも「宗教」があるのではないか?
そのようにふと思ってしまったのである。
例えばモンシロチョウは、モンシロチョウ独自の世界観に生きており、それが独自の行動様式によって現れる。
これは従来は「本能」と言われ、最近では「遺伝的プログラム」と言われているが、これを「宗教」と言い換えても差し支えないのでは?と思うのである。
つまり、モンシロチョウとは、「モンシロチョウ教」の敬虔な信徒を指すのである。

宗教と言えば、例えばユダヤ教やイスラム教の教義にはさまざまな戒律が存在する。戒律で代表的なのが「食物規制」で、ユダヤ教もイスラム教も「食べてはいけないもの」が戒律で決められている。
そして「モンシロチョウ教」というものを考えると、これらの宗教以上に食物規制が厳しい宗教だと言える。
何しろモンシロチョウの場合、成人であれば花の蜜、未成年であればアブラナ科の葉、という具合に「食べてよいもの」がかなり狭い範囲に限定されている。
食事の仕方も戒律で決まっており、花の蜜はストローのような口で吸い、アブラナ科の葉は噛み砕いて飲み込まなくてはならない。
この戒律はかなり厳しく、例えば禁を破って肉を食べたりすると、神罰が下って死んでしまう。
もっとも「モンシロチョウ教」の教徒で、その禁を破るなど考えるものはいないというほど、みな戒律には従順である。

「モンシロチョウ教」の戒律は、絶対の神の啓示として、モンシロチョウたちに等しく与えられ続ける。
生まれたばかりのモンシロチョウの幼虫は、その戒律の全てをすでに理解しており、ともかく戒律に従ってひたすらアブラナ科の葉を食べる、という修行を行なう。
その修行が成就されると、次は断食の修行に入る。
断食中のモンシロチョウの体は石仏のように固くなり、微動だにしないままひたすら瞑想を続ける。
すると程なくして「覚醒」が訪れ、それに伴い「天界の住人」として羽をもった成虫の姿に生まれ変わる。
成虫となったモンシロチョウは、戒律に定められた手順に従って異性を探し当てて交尾する。
交尾の末にメスは産卵するが、それはアブラナ科の葉に生まなければならないことも、もちろん戒律で決められている。
このように、モンシロチョウは一生を通じて、モンシロチョウ教の戒律にがんじがらめに縛られる。
その代わり、戒律に正しく従っていさえすれば、モンシロチョウは幸せな一生を送ることが出来る。
「モンシロチョウ教」は教義と戒律が一体の宗教で、戒律を守ることがモンシロチョウの生きる目的となる。

モンシロチョウ以外の宗教を考えると、オオスズメバチが信仰する「オオスズメバチ教」はさらに複雑な戒律を持っている。
特徴的なのは、集団生活を行うことで、そのための戒律が事細かに決められている。
また、強力な毒針を持つ武装集団であることでも知られているが、その武器の使用は戒律によって「食物の確保」と「自衛」のみに規制されている。
「オオスズメバチ教」では、例えば「ミツバチの幼虫は食物である」ということが戒律に定められていて、「ミツバチの働きバチは大アゴで噛み殺し、蛹と幼虫のみ巣に持ち帰る」ということも戒律で定められている。
ミツバチの狩では、武器は大アゴのみを使用し、毒針の使用は戒律で禁じられている。
また、巣に持ち帰ったミツバチの幼虫は、まずは幼虫に食べさせる。
すると程なくして、幼虫は口から消化物を分泌するから、働きバチはそれを自らの食物とする。
働きバチが自分でとった獲物を直接自分で食べることは、戒律で厳しく禁じられている。

自衛に関して、「オオスズメバチ教」では「何を敵とみなすか」も例えば戒律によって具体的に細かく決められている。
例えば「巣に近づいてきた、黒い塊は敵である」などと戒律は定めており、そういう敵は問答無用で攻撃しなければいけないことになっている。
しかし、「樹液をなめているそばにゆっくり近づいてきたデジカメ」などは敵とはみなされず、おかげでぼくは今のところオオスズメバチに刺されたことがない。
あくまで戒律に忠実で、戒律に定められた以外の武器の使用は絶対にしないので、きわめて平和的な集団だと言える。
「オオスズメバチ教」の戒律も、絶対的な神の啓示としてオオスズメバチたちに等しく与えられ、だからこそそれに従うことが生きる目的につながるのだ。

以上、ぼくは虫が得意なので二例とも虫になってしまったが、このほかに「カナヘビ教」とか「スズメ教」などいろいろ考えられるだろう。
もっともこれは、はじめに書いたように「本能」とか「行動プログラム」と言われているものを、単に「宗教」と言い換えただけのことなので、それに何の意味があるのか?と思う人がいるかもしれない。
しかし、実のところ大きな意味があるのであって、つまり人間と他の生物とを「宗教」という同じ土俵で比較できるのである。
ぼくは常々「人間と他の生物を、分けずに考えるにはどうしたらいいか?」を模索しており、最近宗教の本を何冊か読んで、これに思い当たったのである。
それで人間のことを考えると、ちょっと変な言い方になるが、人間とは「人間教」の教徒なのである。
いくら「無宗教」や「無神論」と唱えても、その人が「人間教」の教徒であることは逃れられないのだ。

「人間教」とはいかなる宗教か?というと、これは宗教としてはまことに驚くべき特殊性を持っている。
実は「人間教」には、宗教に不可欠なはずの教義が無いに等しく、従って戒律ものもほとんど存在しないのだ。

教義がないことを特徴とする「人間教」は、その信徒である人間に対し、生きる上で何を目的とし、何に価値を置き、何を幸せと思えばいいのかを、まったく教えない。
もちろん、「人間教」にも教義がまったく無いわけではなく、例えば食物規制もかなり緩やかだとは言え、例えば「ドクツルタケ」のような「絶対に食べてはいけないもの」も少なからず教義として存在し、禁を破ると神罰が下って苦しみの末に死がもたらされる。
また、「二足歩行の仕方」も戒律で細かく決められており、この禁を破ると神罰が下って転んで怪我をしてしまう。
また「言葉を使って仲間とコミュニケーションすること」も戒律で決まっており、禁を破って「自分オリジナルの言葉」を一人でしゃべってたりすると、神罰が下って他の人間から精神病者として隔離されたりしてしまう。
このように、細かく見れば「人間教」にもさまざまな戒律が認められる。
しかし、宗教として肝心の、「何を目的に、何を幸せとして生きるか」という教義が存在せず、そのための戒律も「人間教」には存在しないのだ。

先に例であげた「モンシロチョウ教」や、「オオスズメバチ教」では、その信徒に対し「神から与えられた戒律を守ること」を絶対の目的とし、それを果たすことが幸せになることを保障している。
このことは「カナヘビ教」や「スズメ教」でも同じはずである。
つまり生物固有の「行動様式」が成り立つには、それに先立つ「何を目的に、何を幸せとするか」が与えられていなければならず、それが宗教の意味である。
人間も生物である以上、モンシロチョウやオオスズメバチと同じように「何を目的に、何を幸せとするか」という教義が与えられなければ生きていくことは出来ない。
ところが「人間教」にそのような教義が無く、これでは宗教として成り立ちそうにない。

しかしだからこそ、人間は自らの「何を目的に、何を幸せとするか」を自前で生み出してきたのである。
つまり「人間教」には、「人間が自前で教義を生み出す」という教義が存在するのだ。
絶対の神は人間に対し「教義は自分で作りなさい」という教義を与えた。
さらに神は、人間が自前で宗教的教義を生み出すための道具として、「言葉」というものを与えた。
「言葉で教義を作ること」が、人間に与えられた「人間教」の戒律である。
この戒律を破れば、当然のことながら神罰が下り、人間は人間として生きることが出来ず滅んでしまう。
そのようなわけで、人間は自前でさまざまな宗教を生み出すことになった。

人間は古今東西さまざまに異なる宗教を生み出してきたが、その全ては「人間教」の諸宗派あり、そのような宗派に分かれるのが「人間教」の特徴でもある。
これに対し「モンシロチョウ教」も「オオスズメバチ教」も「カナヘビ教」も「スズメ教」も、その他生物に固有の宗教は、常に一枚岩であって宗派に分かれることは無い。
「宗派」というのは「人間教」だけが持つ固有の特徴なのである。
このように捉えると、例えばキリスト教や仏教などの人間の宗教の特殊性と、ハラビロカマキリやアフリカゾウなどの生態の特殊性を、「まったく別のもの」ではなく同列に考えることが出来る。
それに何の利点があるのか?というとハッキリとは言えないが、ともかくぼくは「アナロジー」とか「類化性能」で物事を考えるのが、好きなのだ。

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2009年12月13日 (日)

芸術と可能態

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前回紹介した『リカちゃんトリオハウス』だがこれについて

>いやこれが芸術じゃなかったら、一体何を芸術と呼べばいいのか?

と書いたのだが、それについての補足を。
この品物が「芸術」であるのは、ある理由に基づいているのだが、それは「芸術を意図して作られていない」ということである。
もし、この品物が誰かアーティストの意図的な作品であったら、たとえそれが同じものであっても、「つまらなく」なってしまうだろう。
つまり、この場合の「芸術か否か?」の判断の根拠は、その品物に内在しているのではなく、「品物が存在している理由」が第一なのである。

これに限らず「優れた芸術作品」と言うものの、「優れた」と言う要素は、作品内部には存在しない。
それはあくまで作品の「外部」に存在する、と言うのがぼくの立場である。

このことは、「ピカソの作品が優れているのは、ピカソが描いたからだ」という教条主義的なものの言い方に似ている。
しかし、ピカソは所詮は人であって、傑作も描けば駄作を描くこともある。
だから現実的には、「ピカソの芸術が優れているのは、ピカソが描いたからだ」と言い切ることはできない。

しかし「ピカソ」を「非人称」に置き換えたらどうだろうか?
すなわち「非人称芸術が優れているのは、非人称が描いたからだ」と言うことである。
そしてまさに、非人称は人であって人を超えたものであるので、この教条(ドグマ)は成立するのである。
というか、そのドグマを「方法論的」に成立させるのが「非人称芸術」の考え方だと言える。

別の言い方をすると、「非人称芸術」はシュルレアリスムの延長にあって、「非人称」とは実のところ「無意識」なのである。
無意識と言うのはフロイトによると人間の意識下=人間の「内部」に存在するものである。
しかしラカンによると(ぼくの理解した限りでは)、無意識の自動的作用は、「システムとしての言葉」が持つ自動作用であり、だから無意識は「システムとしての言葉」という人間の「外部」の存在なのである。

「人称芸術」として描かこうとされる「無意識」は、「意識」のノイズが混入する可能性があり、方法として不完全である。
しかし「非人称芸術」には文字通りアーティストの「意識」が混入する余地が無いため、「無意識」の自動作用が純粋な形になって現れるだろう。
これはあくまでも方法論的に、仮説として考えるのである。

「非人称芸術」の鑑賞対象は、まずはその「造形」である。
しかし、同じ「造形」であっても、もしそれが意図的な「人称芸術」の場合、鑑賞の対象から外れてしまう。
と言うことは、実は「非人称芸術」における鑑賞の対象とは、ものの造形そのものではなく、造形を通して現れた「非人称」そのものなのである。
「非人称芸術」を鑑賞する人間は、「非人称」そのものに感動しているのだ。

ところで、ある造形物が「非人称芸術」としてどれほど優れているのか?と言う判断は、結局のところ「意識」でなされるのではないかと思う。
言い方をかえると、デュシャンが批判するところの「趣味的判断」にならざるを得ない。
実のところ、何を優れた「非人称芸術」と判断するのか?は、所詮は「人間考え」でしかないと、自分でも思う。

理屈で言うと、「非人称」によるすべての造形物は、そのどれもが等しく優れた「非人称芸術」のハズである(そのように、方法論的に前提されている)。
しかし、人間の意識(趣味)では、その「良さ」のすべてを等しく感知することができない。
原理的に、都市空間はあらゆる「非人称芸術」で埋め尽くされているのだが、人間はそれらの「非人称芸術」のごく一部しか感知することができない。
だから人間の主観では【すべての「非人称」による造形物=「非人称芸術」】と考えることはできない。
そこでぼくは【すべての「非人称」による造形物=【「非人称芸術」の可能態】と言うように捉えている。

抽象論ばかりだと何なので、具体例を示してみる。

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これはヤフオクに出ていた『リカちゃんトリオハウス』だが、どうもはじめに挙げたものとバージョンが違うようだ。

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これはこちらのブログで紹介されていたものだが、さらにバージョンが違うようだ。

で、3つを比較すると、ぼくとしてははじめに紹介したバージョンが、一段と「キツい」感じがして、圧倒的に好みである。
別の言い方をすると「常軌を逸してる」感がより強い。
あとの2つは、それなりに味わい深いが、比較するとちょっとおとなしい気がする。
「非人称芸術」として3つを比較すると、1番目が最も優れていると判断できる。

しかしこの判断は、所詮はぼくの「趣味」でしかない。
どういうことかというと、もしかすると、あとの2つのバージョンにも別の優れた要素があるのかもしれないが、単にぼくが見出せないだけなのだ、と言う可能性は常に付きまとうのだ。
つまりこれらのバージョンは、「可能態」としての「非人称芸術」だと考えることができる。

芸術的な良し悪しが「趣味」でしか判断できないとしても、「可能態」という概念を導入することで自分の「趣味」を絶対視することを回避できる。
もしかすると、これによってデュシャンが指摘する「趣味的判断」の問題を、自分なりに回避できるかもしれない。

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2009年12月12日 (土)

ドールハウスその後

前回の記事を書いた後、ドールハウスについて調べてみたのだが、デュシャンの友人キャリー・ステットハイマーのドールハウスの本が出ていることが判明。
amazonで購入できるようだ。
http://www.amazon.co.jp/Stettheimer-Dollhouse-Sheila-W-Clark/dp/0764948024

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Flickrに、その内部写真が出てた。
http://www.flickr.com/photos/88544224@N00/1372795586

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ドールハウスと言うと、重厚なヨーロッパ調をイメージしてたのだが、意外にすっきりとモダンな感じだ。

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素人写真で不鮮明だが、写真真ん中に見える絵が、デュシャンから贈られた『階段を下りる裸体』の複製ミニチュア(約5×7.5cm)らしい。
手前の彫刻も名のある作品なのだろうが、まさにミニチュア美術館であって、ここからデュシャンが『トランクの中の箱』のアイデアを着想したことは、容易に想像できる。

ところで、ぼくが高松市美術館で『トランクの中の箱』を見たとき、ぼくが似ていると思った、子供のころ妹が持っていた『リカちゃんハウス』も特定できた。
「リカ年表」と言うのがあったので、これで当たりをつけて検索したのだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ellen/a/doll_097.htm

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それがこれなのだが、『ハウス』ではなく『お買い物ストアー』だった。
以下の画像は、「ドウニモトマラナイ」というコレクターのサイトからの引用。
http://lovelovelicca06.web.infoseek.co.jp/index.html

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家にあったのは、確かこのパンやさんだったような気がする。

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閉じるとこんな感じのバッグになる。
ちなみに蓋=床はブリキ製で、リカちゃんの靴の裏の磁石がくっつくという、驚くべきシステムが採用されている。
しかしこうして改めて確認してみると、このアイテム自体は『トランクの箱の中』にあまり似てるとはいえない。
むしろ自分が知らなかった『リカちゃんハウス』のほうがソックリだったことが意外だ。

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そのほかにこのタンスとか・・・

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この勉強机とかも家にあった気がする。
ぼくは特にままごとはしなかったが、こういうミニチュアの感覚は、プラモデルとともに「フォトモ」に少なからず影響を与えているのではないかと思う。
取っ手のメッキの質感とか、イスの形とか、妙なところがリアルに思い出される。

と言うわけで、デュシャンとの類似はともかく、リカちゃんのアイテムも独特で面白いと思い、サイト内をいろいろ見回ってしまった。
その中で、ぼくとしては究極の逸品といえるのがこれである。

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『リカちゃんトリオハウス』。
リカちゃんハウスの豪華版のようで、これは家にはなかった。

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で、何が凄いかと言えば、内装の何もかもがとにかく凄すぎる・・・
前回紹介したリカちゃんハウスもなかなかだったが、大幅に凌駕している気がする。

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空間畏怖的に、どこもかしこも「芸術」でびっしり埋め尽くされている・・・
ツッコミどころ満載だが、キリが無いのでノーコメント(笑)

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「照明用ガス」ならぬ電気スタンドが絵で表現。

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芸術のある暮らし。
風景画も素晴らしいけど、それ以外の何もかもが芸術尽くしの家。
楳図かずおの『ダリの男』という短編に、不気味な芸術だらけの「ダリの家」(本家ダリより不気味)が出てきたが、決してそれに引けをとらないと思う。

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これは付属品の家具で、チープなバキュームフォーム製。
そして何もかもが芸術にしか見えない。
もはや『トランクの中の箱』の類似性を越えて凄すぎる。
いやこれが芸術じゃなかったら、一体何を芸術と呼べばいいのか?
まぁ、そう思うのはあくまで「非人称芸術」のロジックの延長でしかないのだが・・・

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2009年12月10日 (木)

アートと類似

マルセル・デュシャンの伝記をようやく読み終えたが、けっきょく2週間もかかってしまった。
分厚い上に文字が二段組なので確かに量は多いのだが、取り立てて読みにくい本でもないので、これはちょっとかかりすぎかもしれない。
地頭の悪いのはいかんともし難いが、ともかく読んだ分だけの知恵は付いたのだろうと思う。
長い伝記だけあって、いろいろな事柄について具体的かつ詳細に書かれていて、かなり勉強になった。

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例えばレディメイドのひとつ「ビン掛け」なのだが、これがデュシャンによって購入された1914年当時、フランスの一般家庭ではワインを買うときに空きビンを酒屋に持って行き、樽からワインを入れてもらうのが普通だったそうである。
その空きビンを掛けておくための器具が「ビン掛け」で、どこの家にもあるようなごく当たり前の日用品だったのだ。
ここまでの情報は他のどの本にも書いていないので、深く納得してしまう。

また、実は「ビン掛け」を購入した当時は「レディメイド」の概念を思いついておらず、その証拠にレディメイドにつき物のタイトルが書かれていない。
そこでデュシャンは、2年後にニューヨークからフランスにいる妹のシュザンヌに手紙を書き、アトリエ「自転車の車輪」と「ビン掛け」に自分が指示するとおりの文字を書いてくれるように頼んだ。
ところがそのとき妹は、それらの品物は当然不要のゴミだと思って捨ててしまった後だったのだ。
この手紙は最後のほうの文字が不鮮明で、デュシャンがこれらのレディメイドにどんな文を書けと指示したのかが不明のままで、デュシャン自身も思い出せないと言う。
それで後年に作られたこれらのレディメイドのレプリカ(上記写真もそのひとつ)には、タイトルもサインも書かれていないのだ。

このエピソードは「ゴミ」と「アート」の関係を考察する上での格好の素材と言えるかもしれないが、その他に、レディメイドの概念が天啓の様に一気に見出されわけではないことが分かり、なかなか興味深い。
その後もデュシャンはレディメイドが何なのかを定義できずにいて、終生それについて考察し続けたようだ。
と言うよりも、デュシャンは「理論」と言うものを信用していなかったようなので、「定義できない」がレディメイドの定義なのかも知れない。
だからこそ、レディメイドとは何か?は誰がどう解釈しても自由なのだ。
実際、デュシャンはあらゆる他人による解釈を、決して否定しなかったらしい。
たとえ自分の作品について書かれていたことであっても、それが「他人の文章」である以上、自分とは無関係と言うことなのかもしれない。

ともかくぼくは、デュシャンと違って、大して頭が良くない割りに(だからこそ?)理屈が好きで、しかもいくら理屈付けしても「芸術の神秘」がスポイルされないための「ツボ」を心得ていると勝手に思っているので、とりあえずそういう感じで行きたい。

ところでデュシャンの「トランクの中の箱」なのだが、ぼくはこの作品と自分の「フォトモ」とを組み合わせると言う、まことに大それた展示を、高松市美術館の企画展の一部として来年2月に開催する予定である。
この作品についても伝記に詳細が書かれており、かなり参考になった。
「トランクの中の箱」は1938年に着想された、デュシャンのそれまでの絵画作品の複製印刷や、レディメイドなどの立体のミニチュアや写真などを箱に収めた作品である。
いわば個人美術館のミニチュアのようなもので、しかもマルチプル(複製芸術)として300部あまりが作られた。
製作はデュシャンによって細々と、長期にわたって行われ、最後のエディションはデュシャンの死後、助手の手によって1971年に作り終える。
高松市美術館にコレクションされた、外装に赤い羊皮紙が使われたものは、この最後のエディションらしい。
ちなみに最初のエディションの一部は、外装の製作を「箱」の作品で有名なジョセフ・コーネルが請け負ったらしいのだが、どれがコーネル作なのかは区別がつかないそうだ。

この作品の着想の20年前の1918年、デュシャンはニューヨークでフランス語を教えていた女友達に、代表作の絵画『階段を下りる裸体』の複製のミニチュアをプレゼントしている。
彼女はドールハウスに非常に凝っていて、その一室に飾ってもらうためのものである。
伝記には、そのことと後の『トランクの中の箱』の結びつきは特に書いてはいないが、そういわれるとこの作品はドールハウスに似ている。
いや実は、ぼくが高松市美術館で初めて『トランクの中の箱』を見せてもらったとき、あるものに非常に似ていると感じたことを、改めて思い出したのだ。
そこでその「あるもの」と『トランクの中の箱』がどれくらい似ているのか、改めて確認することにした。
比較対象は、ネットの検索によって得られた画像である。

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まずは『トランクの中の箱』。
もとのページに「1935-41」とあったので、最初のエディションなのだろう。
トランクに入れられた「箱」の蓋を開け、レールに仕組まれた衝立を左右に引き出す構造になっている。
箱の中央には、セルロイドに印刷された『大ガラス』のミニチュアがしつらえられている(小ガラス?)。
中央左にはレディメイドの立体ミニチュア、上から『パリの空気』、『旅行用折りたたみ品』、『泉』が並んでいる。
右の衝立は上から『きみはぼくを』、レディメイド『櫛』(写真の切り抜き)、『九つの雄な鋳型』(セルロイドに印刷)。
左衝立は右が『俊敏な裸体に囲まれた王と女王』、左が『花嫁』。
箱の下部の奥に『ローズ・セラヴィよなぜくしゃみをしない?』(フォトモ!)、開けられた蓋の内側に『チョコレート挽き器』。
そのほか複製画や写真などの平面が大量に納められている。

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これは「箱」を開いただけの状態で、赤い羊皮紙仕上げは高松市美術館と同じエディションだろう。
下部の蓋の表には『ソナタ』、右には『3つの停止原器』(写真印刷)が折りたたまれている。
さて、次は肝心の「似たもの」を見ていただこう。

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『リカちゃんハウス』なのだが・・・どうだろうか?
正確には『リカちゃんハウスデラックス』(二代目リカちゃん用)なのだが、ぼくとしては思った以上にソックリだったのでコーフンしてしまった(笑)
いや、人によってはぜんぜん似てないと思われるかもしれないが、いろいろと類似点は指摘できるのだ。

まず目が釘付けになってしまうのが、レディメイドのミニチュア!である。
イス、テーブル、ハンガー、シャンデリア?、などのレディメイドのミニチュアが、確かに入っているのだ。
次に目を引くのが「ガラス」であるところの鏡である。
さらに「窓」にも目が行ってしまうのだが、トランクの中の箱』にも『フレッシュウィドゥ』と『オステルリッツの喧騒』という窓のレディメイドの印刷複製が入っている。
絵画の複製も何点か入っており、それぞれが実に味わい深い作品である。
「説明書」に描かれたイラストは「機械的な描線」で、これはデュシャンが『チョコレート挽き器』などで試みた描法である。
また活字文字による作品は、デュシャンにも『日曜のランデヴー』があり、これも『トランクの中の箱』に含まれている。
そして何と言ってもが外装がトランク状で持ち運び可能で、赤色なのも同じだ(これはエディションによるが)。

実は、高松市美術館で『トランクの中の箱』をはじめて見たとき、子供のころ妹が持っていたリカちゃんハウスを思い出したのだ。
それは時代的に初代ではないだろうし、確かハウスではなく何かのお店だったと思うのだが、改めて画像検索してみると、この『初代リカちゃんハウス』が思った以上に『トランクの箱の中』に似ていて驚いてしまったのである。

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上記サイトに『二代目リカちゃん ファッションハウス』も掲載されていたので、ついでに見ていただくが、これも良く似ている。
こちらは『泉』ならぬ『シャワールーム』が完備されているのがポイント高い。

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これは同じサイトから内容物を紹介したもので、こういう並べ方をするといかにも「作品」と言う感じで、さらに類似性が強調される(笑)。
イスのレディメイドも素晴らしいが、仕切り用の「紙箱」の無意味さ加減も『旅行用折りたたみ品』を髣髴とさせる。

で、ぼくが何を言いたいのかと言うと、「リカちゃんハウスはデュシャンの影響を受けている」、のようなことでは断じてない。
常識的に考えて、その可能性は限りなくゼロに近いだろう。
デュシャンの『トランクの中の箱』の源泉は友人のドールハウスにあったのかもしれないが、それが同じくドールハウスの流れを汲む『リカちゃんハウス』と似るのは当たり前のことである。

実は、『リカちゃんハウス』の原型となった「折りたたみ式ドールハウス」が欧米にあったのかと思い、いろいろ検索してみたのだが、さしあたりそういうものは見付からなかった。
いずれにしろ、デュシャンの友人宅にあったドールハウスはお金持ち用の立派なものだったはずだから、それは折りたたみ式では無いだろう。
「リカちゃんハウス」が折りたたみ式なのは、狭い家に住む日本の中家庭に合わせたのであって、旧タカラのオリジナルアイデアなのかもしれない。
デュシャンが『トランクの中の箱』を折りたたみにしたのは、ドールハウスよりも中世の祭壇を参考にしたと言われるが、これが『リカちゃんハウス』と似たのも単なる偶然だろう。
だから普通に考えると、『トランクの箱の中』と『リカちゃんハウス』がちょっとくらい似ていたとしても、両方は何の関係もなく、従って類似性を指摘することに何の意味も無いのである。

しかし、ぼくとしては本来的に無関係だからこそ、「似ている」という事実に過敏に反応してしまうのだ。
『トランクの箱の中』と『リカちゃんハウス』はアートとトイというまったく別物であって、だからこそこの両者が「似ている」ことに興奮してしまうし、「重要」だと感じてしまうのだ。
これに限らず、ぼくは何事においても同一(ホモロジー)よりも、類似(アナロジー)に反応してしまう。
例えば生物の分類学はホモロジーだが、生物の擬態(コノハムシと木の葉など)や、収斂進化(魚類とイルカなど)はアナロジーであって、そちらの神秘性に興味が惹かれてしまう。

そもそも、アートの本質はホモロジーではなくアナロジーにある。
「絵画」というのは本質的に立体物のアナロジーとして、平面に描かれる。
そしてデュシャンのレディメイドは、アートの類似物であってアートではないところが、まさに「アート」なのである。
対して、現代に至るデュシャン以外のアーティストのほとんどは、アート作品の「同一物」を製作している。
アートの本質が「類似物」なのであれば、アートの同一物はアートと言えるのか?と言う疑問も生じる。

もちろん、「非人称芸術」もアートの類似物であり、その点でぼくは非常に自信を持っている(ほとんど誰も認めてくれないが)。
ちなみに「フォトモ」は「非人称芸術」の類似物であって、だから反転してアートの同一物になり、ギャラリーで展示可能となる。
そのような観点で『リカちゃんハウス』を見ると、これは確かに『トランクの中の箱』の類似物であり、だから「レディメイド」であり「非人称芸術」であると解釈できるのだ。
「リカちゃんハウス」はデュシャンのことなどまったく意識せずに作られたからこそ、まさに「非人称芸術」であり、しかもかなり素晴らしいのであって、見てるだけでドキドキしてしまう。
ただ、デュシャンは晩年レディメイドについて以下のように語っている。

「考え方としては、美的な面からはいかなる魅力も無い品物を見つけ出そうと言うことだった」

そうなるとぼくの「素晴らしい」と言う感情はデュシャンの思いからズレる(後退する?)ことになる。
だからぼくとしては、このズレが後退なのか、それとも違う何かなのか、引き続き考える必要があるだろう。

少なくとも言えることは、この『リカちゃんハウス』のアンティークトイを、気に入ったからと言って数万の値段で購入すると、「こんなガラクタを高い金で買って・・・」と後悔する可能性大である(笑)。
あんなに欲しかったのに、いざ買ってみるとどうにもつまらないものにしか思えない、と言うことは大いにあり得る。
それは恐らく、購入あるいは所有することで、アートの「類似」だったものが、限りなくアートの「同一」へと近づいてしまうせいかもしれない。
「類似」と言うのは何らかの実態を指すわけではなく、「同一」との関係において成り立っている。
だから関係が変わってしまえば、アートを成立させていた「類似」もまた消えてしまうのだ。

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2009年12月 9日 (水)

RING CUBE ツギラマワークショップ(2日目)

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遅ればせながら、12月5日に行われたRING CUBEでのツギラマワークショップでの続き。
皆さんには宿題としてツギラマを撮影してきてもらったのだが、どれも大作ばかりで驚いてしまった。
ツギラマは枚数が多くなると、写真を張り合わせる順番を考えないと収拾が付かなくなってしまう。
その順番はセオリーがあるようで作品ごとに異なるので、教えるほうもかなり頭を使う。
作業は結局予定時間を大幅にオーバーしてしまったが、皆さんには充実して楽しんでいただけたようだ。
実際、どれもすばらしい作品に仕上がり、ぼく自身も大変に刺激になった。
また、生徒作品はRING CUBE内で展示することになったので、ぜひご覧いただければと思う。

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2009年12月 4日 (金)

『変身は言葉から―デュシャンと対話するフォトモ』

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(デュシャンの分厚い伝記・・・)

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(高いのでちゃんと読まないと・・・)

高松市美術館で来年2月20日から開催される企画展『コレクション+(プラス) メタモルフォーゼ!!!!! 変身アート』に出展することになっている。
この企画展で、ぼくは美術館のコレクションのうちマルセル・デュシャンの作品を、自分のフォトモとを組み合わせた展示空間を、自らキュレーションすることになっている。
それで先日、企画展のチラシを入稿することになり、自分の展示コーナーのタイトルを『変身は言葉から―デュシャンと対話するフォトモ』というふうに決めてしまった。
企画意図は、ぼくが提唱する「非人称芸術」は、デュシャンの「レディ・メイド」の概念を、「構造主義」と絡めて発展させたものであることを、分かりやすく示すことにある。
幸いにも、高松市美術館のコレクションにはデュシャンの作品がいくつかあり、中でも『トランクの中の箱』は、自分の「フォトモ」と関連付ける上でうってつけなのである。
そこで、自分の作品は「フォトモ」だけに絞り、デュシャンの『トランクの中の箱』を中心に対比させるように展示し、壁面には、「レディ・メイド」と「非人称芸術」の関係を解説したパネルを並べようと考えている。
壁面のパネルは、ぼくがいつも公演で行なう内容を、アレンジするつもりだ。

このプランを何人かの友人知人に話したところ、「思い切ったことするね」とか「無謀だね」というような反応が、当然のごとく返ってくる。
デュシャンと言えば、20世紀のもっとも偉大なアーティストであり、その作品や思想は「現代アート」のあり方に決定的な影響を与えたとされ、多くの専門家によってさまざまな解釈がされている。
だから普通に考えれば、ぼくのように生半可な知識しか持たない人間が、何か語ろうとしても恥をかくだけでしかないのだ。

ただ、ぼくが知る限りでは、デュシャンのレディ・メイドを「非人称芸術」のような文脈で語った人は、どうもいないようである。
いや、赤瀬川原平さんが「超芸術トマソン」の源流として語っているのだが、しかしその流れの後に続けてコンセプトを発展させた人はいないのだ。
だからまぁ、これは自分がやるしかないのである。
もちろん、ぼくの解釈の何もかもが「間違い」である可能性はゼロではないが、それをズバリ指摘してくれる人も今のところおらず、そもそも自分の考えを形にしないことには、批判もしてもらえないのだ。

しかし、それにしても自分はデュシャンについての知識をあまりに欠いているから、秋ごろからあわてて本を読んで勉強している。
最近はデュシャンの長い伝記を読んでいて、これはずいぶん時間がかかってようやく2/3位まで読み進んだところだ。
この本は分厚いだけあって、いろいろなことが具体的かつ詳細に書かれていて、なかなか面白い。
これを読み終えたら、ぜひ他の本もいろいろ読まなくてはいけないのかもしれないが、そろそろ展示の時期が近づいているから、適当なところで切り上げなくてはいけない。
まぁ言ってみれば「研究の中間報告」みたいなつもりで、自分の考えをまとめ、展示を構成するしかないだろう。

それにしてもあらためて思ったのは、勉強したぶんだけいろいろとデュシャンのことが分ったにもかかわらず、デュシャンに対する自分の解釈は基本的に変わらない、ということだ。
これは考えようによっては、何も学んでおらず、まったく進歩がないと言えるかも知れない。
一方では、結局のところ「はじめの直感」が正しかったことの証だと考えることも出来るだろう。
もちろん、自分は後者として解釈したいが、いずれにしろいくら直感が正しくとも、説明に必要な知識を欠いたままでは説得力が無い。
例えるならば、ある犯罪を目撃した人が「あいつが犯人だ!」と名指ししたところで、証拠がなければ誰にも信じてもらえないのと似ている。

ぼくのデュシャンの解釈は当初から偏りがあって、作品のうち「レディ・メイド」のみを重視し、しかもそれにかなり独自の解釈を加え「非人称芸術」と結び付けている。
一方でデュシャンには通称「大ガラス」と呼ばれる代表作があるが、自分としてはこの作品はさして重要視していない。
また、多くの人を惹き付けて止まない、デュシャンによる謎めいた言葉の数々も、ぼくにとっては理解の範囲外で価値が見出せないでいる。
もちろん、勉強したぶんだけ理解は進んだと言えるが、しかし自分にとって意味があるのは「レディ・メイド」である点であることに変わりはない。
それも自分独自の解釈を与えた上で意味のあることに過ぎない。

このような手前勝手な解釈は、当然のことながらデュシャンの意図から外れている可能性が大である。
しかしながら、デュシャン自身は、自作に対する明確な「答え」を用意しようとはせず、むしろそれを意図的に回避するように、曖昧かつ謎を秘めた言葉を断片的に残している。
「レディ・メイド」についても、「自分はこれをどのように定義していいか分からない」というように語っている。
これに対し、当時からさまざまな人々がさまざまな解釈を与えたが、デュシャンはそのどれも肯定することも、否定することもなく「誰がどのように解釈しようとも自由だ」というふうに述べている。

だから、ぼくが「レディ・メイド」についてどう解釈しても、少なくとも「デュシャンの意図から外れてるから間違いだ」と誰に言われる筋合いもないのだ。
つまりぼくは「レディ・メイド」に対し「解釈の一例」を示そうと強いているに過ぎない。
もっと言えば、ぼくは「非人称芸術」の自説のために、「レディ・メイド」をダシに使ってるだけなのだ。
でもそれは、多くの人が行なっている「考えを発展させる」ということなので、そのこと自体も非難の対象にはならないだろう。
問題はあくまで「「内容」であって、テーマがデュシャンなだけにみんなから「大丈夫?」と心配されているのだが、やると決めた以上は当たって砕けるしかないだろう(笑)

ちなみに「構造主義」については、タイトルの「変身は言葉から」に引っ掛けてあるつもりだ。
「ポスト構造主義」などといわれる現在、「いまさら」感が強いのかもしれないが、「構造主義」は自分の中では一番使いこなせているつもりの「考える道具」なので、当面これを外すことはできないだろう。
ただ、今回は展示という特性を考えると解説は出来るだけ短い言葉で済ませる必要があり、なおかつ「中学生にも分かる」レベルを目指そうと思っているので、「構造主義」という言葉そのものは示すことを控えようと思っている。

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2009年12月 1日 (火)

11月末の日記

11月27日は、銀座のツァイトフォトサロンで開催の「佐藤時啓 作品展 『 Tree 』 光ー呼吸シリーズより」のオープニングパーティーへ。
長時間露光と手鏡を使用した、非常に手間のかかった作品だが、その中の一枚に「先生の心霊写真が写ってる!」と佐藤さんの教え子の芸大生たちが大喜びしていた。
芸大、美大の先生でも「作家活動」をしてる人は少ないようなので、その意味で佐藤さんは学生たちに信頼されているのではないかと思う。
ぼくもこういう先生に教わっていたら、もっとちゃんとした写真家になっていたかもしれない(笑)

このあと友人写真家たちと飲みに行き、その中のS君がウィトゲンシュタインを読んでいるというので、その辺の話をちょっと聞く。
ぼくの場合、本を読んで勉強するのは自分のアートのコンセプトに結びつけるためなのだが、S君は特にそういうことは意識せず「ただ面白いから」と言う理由でウィトゲンシュタインなんかを読んでるらしい。
もちろん興味を持って読んだからには、何らかの形で自分の作品に反映される可能性はあるだろうが、あらかじめその効果を期待して読書をしているわけではないそうだ。

彼の読書は良い意味での「趣味」であって、おそらくぼくよりは地頭がいいのだろう。
それに比べてぼくは基本的に読書は苦手なので、「せっかくだから役立てよう」と思ってガツガツしてしまう。
その場にいた「別のS君」からは、「糸崎さんはツマラナイ作品を、理屈でカッコ付けようとしてるだけなんだよ」と言われてしまったが、それは単に本当のことなので腹も立たず(笑)、つまりそれが「コンセプチュアル・アート」なのである

そして11月29日は、深川ラボで開催された「行儀の悪い額縁展」のギャラリートークへ。
この展覧会は、リンク先を見ていただくと分かるのだが、中国製のキッチュな額縁を素材に、それぞれのアーティストが独自の作品に仕上げると言う、ユニークな企画展だ。
今後はアーティストを増やして規模を拡大して開催されるかも知れず、「そうなったら、ぜひ糸崎さんも出してくださいよ」と彦坂尚嘉 さんに言われてしまった。

ただ、「非人称芸術」のモードで考えると、このようなキッチュな物件はもうそれだけで完成されているから、それ以上何か「意図」を加える必然がない。
もし、ぼくがこの企画展に参加し「課題」に望むとすれば、それは一度捨て去った「アーティスト」の立場に戻ることであり、そうなると「アートの才能の無い自分」に再び対峙することになり、考えただけでも冷や汗が出る。
まぁしかし、「普通の写真」の実験もしてることだし、たまにはそういう「悪い汗」をかいてみると何か発見があるかもしれない。

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