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2009年12月16日 (水)

生物と宗教

宗教とは何か?というのはいろいろな定義の仕方があるだろうが、小室直樹さんの本には「人間のエトス(行動様式)」であると書かれていた。
この定義に従うと、言葉の上では無関係のように思えるマルクス主義や、日本人にありがちな「無宗教」や「世間」なども、みな「宗教」に含まれる。
「人間の行動様式は、全て宗教である」とは言い過ぎと思う人もいるかもしれないが、このような「全ては○○である」という言い方は、あくまで考えるための方法論なのである。
方法論なのだから、その概念をいろいろと広げて、思考実験してみればいいのである。

そして、そのように広げた結果、宗教が「世界観」や「行動様式」だとすれば、人間以外の生物にも「宗教」があるのではないか?
そのようにふと思ってしまったのである。
例えばモンシロチョウは、モンシロチョウ独自の世界観に生きており、それが独自の行動様式によって現れる。
これは従来は「本能」と言われ、最近では「遺伝的プログラム」と言われているが、これを「宗教」と言い換えても差し支えないのでは?と思うのである。
つまり、モンシロチョウとは、「モンシロチョウ教」の敬虔な信徒を指すのである。

宗教と言えば、例えばユダヤ教やイスラム教の教義にはさまざまな戒律が存在する。戒律で代表的なのが「食物規制」で、ユダヤ教もイスラム教も「食べてはいけないもの」が戒律で決められている。
そして「モンシロチョウ教」というものを考えると、これらの宗教以上に食物規制が厳しい宗教だと言える。
何しろモンシロチョウの場合、成人であれば花の蜜、未成年であればアブラナ科の葉、という具合に「食べてよいもの」がかなり狭い範囲に限定されている。
食事の仕方も戒律で決まっており、花の蜜はストローのような口で吸い、アブラナ科の葉は噛み砕いて飲み込まなくてはならない。
この戒律はかなり厳しく、例えば禁を破って肉を食べたりすると、神罰が下って死んでしまう。
もっとも「モンシロチョウ教」の教徒で、その禁を破るなど考えるものはいないというほど、みな戒律には従順である。

「モンシロチョウ教」の戒律は、絶対の神の啓示として、モンシロチョウたちに等しく与えられ続ける。
生まれたばかりのモンシロチョウの幼虫は、その戒律の全てをすでに理解しており、ともかく戒律に従ってひたすらアブラナ科の葉を食べる、という修行を行なう。
その修行が成就されると、次は断食の修行に入る。
断食中のモンシロチョウの体は石仏のように固くなり、微動だにしないままひたすら瞑想を続ける。
すると程なくして「覚醒」が訪れ、それに伴い「天界の住人」として羽をもった成虫の姿に生まれ変わる。
成虫となったモンシロチョウは、戒律に定められた手順に従って異性を探し当てて交尾する。
交尾の末にメスは産卵するが、それはアブラナ科の葉に生まなければならないことも、もちろん戒律で決められている。
このように、モンシロチョウは一生を通じて、モンシロチョウ教の戒律にがんじがらめに縛られる。
その代わり、戒律に正しく従っていさえすれば、モンシロチョウは幸せな一生を送ることが出来る。
「モンシロチョウ教」は教義と戒律が一体の宗教で、戒律を守ることがモンシロチョウの生きる目的となる。

モンシロチョウ以外の宗教を考えると、オオスズメバチが信仰する「オオスズメバチ教」はさらに複雑な戒律を持っている。
特徴的なのは、集団生活を行うことで、そのための戒律が事細かに決められている。
また、強力な毒針を持つ武装集団であることでも知られているが、その武器の使用は戒律によって「食物の確保」と「自衛」のみに規制されている。
「オオスズメバチ教」では、例えば「ミツバチの幼虫は食物である」ということが戒律に定められていて、「ミツバチの働きバチは大アゴで噛み殺し、蛹と幼虫のみ巣に持ち帰る」ということも戒律で定められている。
ミツバチの狩では、武器は大アゴのみを使用し、毒針の使用は戒律で禁じられている。
また、巣に持ち帰ったミツバチの幼虫は、まずは幼虫に食べさせる。
すると程なくして、幼虫は口から消化物を分泌するから、働きバチはそれを自らの食物とする。
働きバチが自分でとった獲物を直接自分で食べることは、戒律で厳しく禁じられている。

自衛に関して、「オオスズメバチ教」では「何を敵とみなすか」も例えば戒律によって具体的に細かく決められている。
例えば「巣に近づいてきた、黒い塊は敵である」などと戒律は定めており、そういう敵は問答無用で攻撃しなければいけないことになっている。
しかし、「樹液をなめているそばにゆっくり近づいてきたデジカメ」などは敵とはみなされず、おかげでぼくは今のところオオスズメバチに刺されたことがない。
あくまで戒律に忠実で、戒律に定められた以外の武器の使用は絶対にしないので、きわめて平和的な集団だと言える。
「オオスズメバチ教」の戒律も、絶対的な神の啓示としてオオスズメバチたちに等しく与えられ、だからこそそれに従うことが生きる目的につながるのだ。

以上、ぼくは虫が得意なので二例とも虫になってしまったが、このほかに「カナヘビ教」とか「スズメ教」などいろいろ考えられるだろう。
もっともこれは、はじめに書いたように「本能」とか「行動プログラム」と言われているものを、単に「宗教」と言い換えただけのことなので、それに何の意味があるのか?と思う人がいるかもしれない。
しかし、実のところ大きな意味があるのであって、つまり人間と他の生物とを「宗教」という同じ土俵で比較できるのである。
ぼくは常々「人間と他の生物を、分けずに考えるにはどうしたらいいか?」を模索しており、最近宗教の本を何冊か読んで、これに思い当たったのである。
それで人間のことを考えると、ちょっと変な言い方になるが、人間とは「人間教」の教徒なのである。
いくら「無宗教」や「無神論」と唱えても、その人が「人間教」の教徒であることは逃れられないのだ。

「人間教」とはいかなる宗教か?というと、これは宗教としてはまことに驚くべき特殊性を持っている。
実は「人間教」には、宗教に不可欠なはずの教義が無いに等しく、従って戒律ものもほとんど存在しないのだ。

教義がないことを特徴とする「人間教」は、その信徒である人間に対し、生きる上で何を目的とし、何に価値を置き、何を幸せと思えばいいのかを、まったく教えない。
もちろん、「人間教」にも教義がまったく無いわけではなく、例えば食物規制もかなり緩やかだとは言え、例えば「ドクツルタケ」のような「絶対に食べてはいけないもの」も少なからず教義として存在し、禁を破ると神罰が下って苦しみの末に死がもたらされる。
また、「二足歩行の仕方」も戒律で細かく決められており、この禁を破ると神罰が下って転んで怪我をしてしまう。
また「言葉を使って仲間とコミュニケーションすること」も戒律で決まっており、禁を破って「自分オリジナルの言葉」を一人でしゃべってたりすると、神罰が下って他の人間から精神病者として隔離されたりしてしまう。
このように、細かく見れば「人間教」にもさまざまな戒律が認められる。
しかし、宗教として肝心の、「何を目的に、何を幸せとして生きるか」という教義が存在せず、そのための戒律も「人間教」には存在しないのだ。

先に例であげた「モンシロチョウ教」や、「オオスズメバチ教」では、その信徒に対し「神から与えられた戒律を守ること」を絶対の目的とし、それを果たすことが幸せになることを保障している。
このことは「カナヘビ教」や「スズメ教」でも同じはずである。
つまり生物固有の「行動様式」が成り立つには、それに先立つ「何を目的に、何を幸せとするか」が与えられていなければならず、それが宗教の意味である。
人間も生物である以上、モンシロチョウやオオスズメバチと同じように「何を目的に、何を幸せとするか」という教義が与えられなければ生きていくことは出来ない。
ところが「人間教」にそのような教義が無く、これでは宗教として成り立ちそうにない。

しかしだからこそ、人間は自らの「何を目的に、何を幸せとするか」を自前で生み出してきたのである。
つまり「人間教」には、「人間が自前で教義を生み出す」という教義が存在するのだ。
絶対の神は人間に対し「教義は自分で作りなさい」という教義を与えた。
さらに神は、人間が自前で宗教的教義を生み出すための道具として、「言葉」というものを与えた。
「言葉で教義を作ること」が、人間に与えられた「人間教」の戒律である。
この戒律を破れば、当然のことながら神罰が下り、人間は人間として生きることが出来ず滅んでしまう。
そのようなわけで、人間は自前でさまざまな宗教を生み出すことになった。

人間は古今東西さまざまに異なる宗教を生み出してきたが、その全ては「人間教」の諸宗派あり、そのような宗派に分かれるのが「人間教」の特徴でもある。
これに対し「モンシロチョウ教」も「オオスズメバチ教」も「カナヘビ教」も「スズメ教」も、その他生物に固有の宗教は、常に一枚岩であって宗派に分かれることは無い。
「宗派」というのは「人間教」だけが持つ固有の特徴なのである。
このように捉えると、例えばキリスト教や仏教などの人間の宗教の特殊性と、ハラビロカマキリやアフリカゾウなどの生態の特殊性を、「まったく別のもの」ではなく同列に考えることが出来る。
それに何の利点があるのか?というとハッキリとは言えないが、ともかくぼくは「アナロジー」とか「類化性能」で物事を考えるのが、好きなのだ。

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コメント

ハチやアリの社会が理想的な共産主義、という喩えは聞いたことがあるように思いますが、モンシロチョウ教やスズメバチ教を思いついたのは糸崎さんが初めてかもしれませんね。
ユダヤジョークの叡智という本を図書館で借りてきました。いろいろな困難をくぐり抜ける中ためにジョークで笑うことが必要だった、ということらしいですが、ジョークも一種の不条理なので、そうした型にとらわれない発想というのがいろいろな力のもとになってるのかもしれないと思いました。

投稿: schlegel | 2009年12月27日 (日) 20時39分

忙しくて返信が遅れました。
思い起こせばぼくは日高敏孝さんの『動物という文化』と言う本に影響を受けているのです。
http://www.amazon.co.jp/dp/4061588540
これは動物の大まかな分類について書かれた本ですが、例えばクラゲにはクラゲの文化があって、ミミズにはミミズの文化があって、サルにはサルの文化があって、それらは「文化の違い」でしかないから「進化してるほうがエライ」なんてことはない、と言うように書かれてました。
そのように生き物を「文化」に例えられると、それを「宗教」に置き換えるのはたやすいことです(笑)

ユダヤジョークはネットで検索するといろいろ出てきますね。
http://www.geocities.jp/asamayamanobore/joke/kami/kami1-50.html
ユダヤ人を揶揄するものも多いようですが、自虐ネタも多いみたいです。

投稿: 糸崎 | 2010年1月 1日 (金) 00時23分

「主体」はsubject、「客体」はobjectの訳語で、「主観的」はsubjective、「客観的」はobjectiveの訳語ですから字面から考えて対応した概念のはずですが、これが固定的に分離できるものだと思っているのはキリスト教的アタマだけでしょうね(笑)

100年ほど前にドイツのユクスキュルは、生物はそれぞれが持ち合わせている外部感知能力で内的に世界像を構築して行動していると考えたのですが、これは当時の生物学界から「科学的でない」と無視されたそうで、同意したのはローレンツなど一部の人たちだけだったそうです。
その40年後ぐらいに、若かりし日高敏隆さんがユクスキュルの視点での研究を提示したら、やはり、周囲から「主観的で科学ではない」という否定的反応を受けたそうです。

ユクスキュルが否定されたのは、たぶん、人間以外の生物は単なる物体(object)としてしか見ないキリスト教の構図から抜け出していない科学者が多かったからで、今でも欧米の生物学者には生物をあくまでもobjectとして考えたがる機械論者が多いですからね。
一方、日高先生に対して「主観的だ」と否定したのは日本人ですから、こちらはアタマの柔軟性が悪くて理解できなかったとしか考えられません(笑)

今だったら複数種類のセンサーを使ってロボットの制御系を設計することでも考えれば、コンピュータプログラムの中に何らかの形で動作環境のシュミレートモデルを組み込まなければならないことぐらい分かりますから、動物にも外界のシュミレートモデルが内在すると考えるのがあたりまえで、宗教も集団内での相互ルールを含む擬似世界モデルと考えれば少しもヘンではないような気がします。

投稿: 遊星人 | 2010年1月 4日 (月) 14時33分

あとで気づきましたが、進化の今西説なんかは生物の宗教に近いものがありますね。カゲロウなんかの棲み分けは、種ごとの宗派のようで、宗派が生まれるところにはとりあえず理屈はいらない。だいぶ前によんだ解説書によると、棲み分けによる進化(種分化)も何者かに導かれるように起きる、と考えるらしいのでまさしく宗教的です。こういう考え方は僕自身は前は門前払い的に避けていましたが、今西さん自身も別に自分は科学的な議論をしている訳ではない、と説明されていたことを知り、最近ではそう見える、という主張はまぁそうなのかなと思うようになりました。今西説は別としても、すでに認められた客観的事実の組み合わせで確実に言える事柄だけでは閉じた議論しかできないので、新しい発見や科学の進歩というものも、直感などの人間による主観的な要素が必要みたいですね。普通に考えると一見不条理な仮説も掘り下げる不屈の気力、そうしたものがユダヤ的な考えにはあるのかもしれません。

ユダヤジョーク、たしかに自虐ネタも多いと書いてありました。。笑いというより、ひねくったシニカルな面白さ、で日本人受けはあまりしなさそうです。教えていただいたページのものはひとつだけ本にも出ていました。

投稿: schlegel | 2010年1月 4日 (月) 22時28分

コメントありがとうございます。

>ユクスキュルが否定されたのは、たぶん、人間以外の生物は単なる物体(object)としてしか見ないキリスト教の構図から抜け出していない科学者が多かったからで、

旧約聖書の創世記だけ読みかけて、長すぎるので続きを読むのはとりあえず後回しにしたのですがw、神様はすべての生物をお作りになって、でも「失敗したかな?」と思って滅ぼしたり、自由自在ですね。
この辺がまさに自然を神と崇める原始的呪術との違いで、自然から独立した「文明」としての「宗教」なんだなと思いました。

>100年ほど前にドイツのユクスキュルは、生物はそれぞれが持ち合わせている外部感知能力で内的に世界像を構築して行動していると考えたのですが、

レヴィ・ストロースの構造主義以降、こういう考えはだいぶ理解されやすくなったのだろうと思います。
何しろ人間でさえ、文化的背景(宗教観や使用言語など)によって「それぞれが持ち合わせている外部感知能力で内的に世界像を構築して行動している」と考えられるようになったわけですから。

>あとで気づきましたが、進化の今西説なんかは生物の宗教に近いものがありますね。

そういえば、今西さんの本も昔は読みましたが、最近は全然読んでないですね・・・今読むと、その昔とは別の感想を持つかもしれません。

>新しい発見や科学の進歩というものも、直感などの人間による主観的な要素が必要みたい ですね。

ぼくはこれまで直感に頼りすぎて、それである程度まではうまくいったみたいなのですが、「それ以上」となると基礎というものが必要になる、ということを改めて痛感してますw

投稿: 糸崎 | 2010年1月 9日 (土) 00時04分

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