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2009年12月 4日 (金)

『変身は言葉から―デュシャンと対話するフォトモ』

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(デュシャンの分厚い伝記・・・)

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(高いのでちゃんと読まないと・・・)

高松市美術館で来年2月20日から開催される企画展『コレクション+(プラス) メタモルフォーゼ!!!!! 変身アート』に出展することになっている。
この企画展で、ぼくは美術館のコレクションのうちマルセル・デュシャンの作品を、自分のフォトモとを組み合わせた展示空間を、自らキュレーションすることになっている。
それで先日、企画展のチラシを入稿することになり、自分の展示コーナーのタイトルを『変身は言葉から―デュシャンと対話するフォトモ』というふうに決めてしまった。
企画意図は、ぼくが提唱する「非人称芸術」は、デュシャンの「レディ・メイド」の概念を、「構造主義」と絡めて発展させたものであることを、分かりやすく示すことにある。
幸いにも、高松市美術館のコレクションにはデュシャンの作品がいくつかあり、中でも『トランクの中の箱』は、自分の「フォトモ」と関連付ける上でうってつけなのである。
そこで、自分の作品は「フォトモ」だけに絞り、デュシャンの『トランクの中の箱』を中心に対比させるように展示し、壁面には、「レディ・メイド」と「非人称芸術」の関係を解説したパネルを並べようと考えている。
壁面のパネルは、ぼくがいつも公演で行なう内容を、アレンジするつもりだ。

このプランを何人かの友人知人に話したところ、「思い切ったことするね」とか「無謀だね」というような反応が、当然のごとく返ってくる。
デュシャンと言えば、20世紀のもっとも偉大なアーティストであり、その作品や思想は「現代アート」のあり方に決定的な影響を与えたとされ、多くの専門家によってさまざまな解釈がされている。
だから普通に考えれば、ぼくのように生半可な知識しか持たない人間が、何か語ろうとしても恥をかくだけでしかないのだ。

ただ、ぼくが知る限りでは、デュシャンのレディ・メイドを「非人称芸術」のような文脈で語った人は、どうもいないようである。
いや、赤瀬川原平さんが「超芸術トマソン」の源流として語っているのだが、しかしその流れの後に続けてコンセプトを発展させた人はいないのだ。
だからまぁ、これは自分がやるしかないのである。
もちろん、ぼくの解釈の何もかもが「間違い」である可能性はゼロではないが、それをズバリ指摘してくれる人も今のところおらず、そもそも自分の考えを形にしないことには、批判もしてもらえないのだ。

しかし、それにしても自分はデュシャンについての知識をあまりに欠いているから、秋ごろからあわてて本を読んで勉強している。
最近はデュシャンの長い伝記を読んでいて、これはずいぶん時間がかかってようやく2/3位まで読み進んだところだ。
この本は分厚いだけあって、いろいろなことが具体的かつ詳細に書かれていて、なかなか面白い。
これを読み終えたら、ぜひ他の本もいろいろ読まなくてはいけないのかもしれないが、そろそろ展示の時期が近づいているから、適当なところで切り上げなくてはいけない。
まぁ言ってみれば「研究の中間報告」みたいなつもりで、自分の考えをまとめ、展示を構成するしかないだろう。

それにしてもあらためて思ったのは、勉強したぶんだけいろいろとデュシャンのことが分ったにもかかわらず、デュシャンに対する自分の解釈は基本的に変わらない、ということだ。
これは考えようによっては、何も学んでおらず、まったく進歩がないと言えるかも知れない。
一方では、結局のところ「はじめの直感」が正しかったことの証だと考えることも出来るだろう。
もちろん、自分は後者として解釈したいが、いずれにしろいくら直感が正しくとも、説明に必要な知識を欠いたままでは説得力が無い。
例えるならば、ある犯罪を目撃した人が「あいつが犯人だ!」と名指ししたところで、証拠がなければ誰にも信じてもらえないのと似ている。

ぼくのデュシャンの解釈は当初から偏りがあって、作品のうち「レディ・メイド」のみを重視し、しかもそれにかなり独自の解釈を加え「非人称芸術」と結び付けている。
一方でデュシャンには通称「大ガラス」と呼ばれる代表作があるが、自分としてはこの作品はさして重要視していない。
また、多くの人を惹き付けて止まない、デュシャンによる謎めいた言葉の数々も、ぼくにとっては理解の範囲外で価値が見出せないでいる。
もちろん、勉強したぶんだけ理解は進んだと言えるが、しかし自分にとって意味があるのは「レディ・メイド」である点であることに変わりはない。
それも自分独自の解釈を与えた上で意味のあることに過ぎない。

このような手前勝手な解釈は、当然のことながらデュシャンの意図から外れている可能性が大である。
しかしながら、デュシャン自身は、自作に対する明確な「答え」を用意しようとはせず、むしろそれを意図的に回避するように、曖昧かつ謎を秘めた言葉を断片的に残している。
「レディ・メイド」についても、「自分はこれをどのように定義していいか分からない」というように語っている。
これに対し、当時からさまざまな人々がさまざまな解釈を与えたが、デュシャンはそのどれも肯定することも、否定することもなく「誰がどのように解釈しようとも自由だ」というふうに述べている。

だから、ぼくが「レディ・メイド」についてどう解釈しても、少なくとも「デュシャンの意図から外れてるから間違いだ」と誰に言われる筋合いもないのだ。
つまりぼくは「レディ・メイド」に対し「解釈の一例」を示そうと強いているに過ぎない。
もっと言えば、ぼくは「非人称芸術」の自説のために、「レディ・メイド」をダシに使ってるだけなのだ。
でもそれは、多くの人が行なっている「考えを発展させる」ということなので、そのこと自体も非難の対象にはならないだろう。
問題はあくまで「「内容」であって、テーマがデュシャンなだけにみんなから「大丈夫?」と心配されているのだが、やると決めた以上は当たって砕けるしかないだろう(笑)

ちなみに「構造主義」については、タイトルの「変身は言葉から」に引っ掛けてあるつもりだ。
「ポスト構造主義」などといわれる現在、「いまさら」感が強いのかもしれないが、「構造主義」は自分の中では一番使いこなせているつもりの「考える道具」なので、当面これを外すことはできないだろう。
ただ、今回は展示という特性を考えると解説は出来るだけ短い言葉で済ませる必要があり、なおかつ「中学生にも分かる」レベルを目指そうと思っているので、「構造主義」という言葉そのものは示すことを控えようと思っている。

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