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2009年12月10日 (木)

アートと類似

マルセル・デュシャンの伝記をようやく読み終えたが、けっきょく2週間もかかってしまった。
分厚い上に文字が二段組なので確かに量は多いのだが、取り立てて読みにくい本でもないので、これはちょっとかかりすぎかもしれない。
地頭の悪いのはいかんともし難いが、ともかく読んだ分だけの知恵は付いたのだろうと思う。
長い伝記だけあって、いろいろな事柄について具体的かつ詳細に書かれていて、かなり勉強になった。

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例えばレディメイドのひとつ「ビン掛け」なのだが、これがデュシャンによって購入された1914年当時、フランスの一般家庭ではワインを買うときに空きビンを酒屋に持って行き、樽からワインを入れてもらうのが普通だったそうである。
その空きビンを掛けておくための器具が「ビン掛け」で、どこの家にもあるようなごく当たり前の日用品だったのだ。
ここまでの情報は他のどの本にも書いていないので、深く納得してしまう。

また、実は「ビン掛け」を購入した当時は「レディメイド」の概念を思いついておらず、その証拠にレディメイドにつき物のタイトルが書かれていない。
そこでデュシャンは、2年後にニューヨークからフランスにいる妹のシュザンヌに手紙を書き、アトリエ「自転車の車輪」と「ビン掛け」に自分が指示するとおりの文字を書いてくれるように頼んだ。
ところがそのとき妹は、それらの品物は当然不要のゴミだと思って捨ててしまった後だったのだ。
この手紙は最後のほうの文字が不鮮明で、デュシャンがこれらのレディメイドにどんな文を書けと指示したのかが不明のままで、デュシャン自身も思い出せないと言う。
それで後年に作られたこれらのレディメイドのレプリカ(上記写真もそのひとつ)には、タイトルもサインも書かれていないのだ。

このエピソードは「ゴミ」と「アート」の関係を考察する上での格好の素材と言えるかもしれないが、その他に、レディメイドの概念が天啓の様に一気に見出されわけではないことが分かり、なかなか興味深い。
その後もデュシャンはレディメイドが何なのかを定義できずにいて、終生それについて考察し続けたようだ。
と言うよりも、デュシャンは「理論」と言うものを信用していなかったようなので、「定義できない」がレディメイドの定義なのかも知れない。
だからこそ、レディメイドとは何か?は誰がどう解釈しても自由なのだ。
実際、デュシャンはあらゆる他人による解釈を、決して否定しなかったらしい。
たとえ自分の作品について書かれていたことであっても、それが「他人の文章」である以上、自分とは無関係と言うことなのかもしれない。

ともかくぼくは、デュシャンと違って、大して頭が良くない割りに(だからこそ?)理屈が好きで、しかもいくら理屈付けしても「芸術の神秘」がスポイルされないための「ツボ」を心得ていると勝手に思っているので、とりあえずそういう感じで行きたい。

ところでデュシャンの「トランクの中の箱」なのだが、ぼくはこの作品と自分の「フォトモ」とを組み合わせると言う、まことに大それた展示を、高松市美術館の企画展の一部として来年2月に開催する予定である。
この作品についても伝記に詳細が書かれており、かなり参考になった。
「トランクの中の箱」は1938年に着想された、デュシャンのそれまでの絵画作品の複製印刷や、レディメイドなどの立体のミニチュアや写真などを箱に収めた作品である。
いわば個人美術館のミニチュアのようなもので、しかもマルチプル(複製芸術)として300部あまりが作られた。
製作はデュシャンによって細々と、長期にわたって行われ、最後のエディションはデュシャンの死後、助手の手によって1971年に作り終える。
高松市美術館にコレクションされた、外装に赤い羊皮紙が使われたものは、この最後のエディションらしい。
ちなみに最初のエディションの一部は、外装の製作を「箱」の作品で有名なジョセフ・コーネルが請け負ったらしいのだが、どれがコーネル作なのかは区別がつかないそうだ。

この作品の着想の20年前の1918年、デュシャンはニューヨークでフランス語を教えていた女友達に、代表作の絵画『階段を下りる裸体』の複製のミニチュアをプレゼントしている。
彼女はドールハウスに非常に凝っていて、その一室に飾ってもらうためのものである。
伝記には、そのことと後の『トランクの中の箱』の結びつきは特に書いてはいないが、そういわれるとこの作品はドールハウスに似ている。
いや実は、ぼくが高松市美術館で初めて『トランクの中の箱』を見せてもらったとき、あるものに非常に似ていると感じたことを、改めて思い出したのだ。
そこでその「あるもの」と『トランクの中の箱』がどれくらい似ているのか、改めて確認することにした。
比較対象は、ネットの検索によって得られた画像である。

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まずは『トランクの中の箱』。
もとのページに「1935-41」とあったので、最初のエディションなのだろう。
トランクに入れられた「箱」の蓋を開け、レールに仕組まれた衝立を左右に引き出す構造になっている。
箱の中央には、セルロイドに印刷された『大ガラス』のミニチュアがしつらえられている(小ガラス?)。
中央左にはレディメイドの立体ミニチュア、上から『パリの空気』、『旅行用折りたたみ品』、『泉』が並んでいる。
右の衝立は上から『きみはぼくを』、レディメイド『櫛』(写真の切り抜き)、『九つの雄な鋳型』(セルロイドに印刷)。
左衝立は右が『俊敏な裸体に囲まれた王と女王』、左が『花嫁』。
箱の下部の奥に『ローズ・セラヴィよなぜくしゃみをしない?』(フォトモ!)、開けられた蓋の内側に『チョコレート挽き器』。
そのほか複製画や写真などの平面が大量に納められている。

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これは「箱」を開いただけの状態で、赤い羊皮紙仕上げは高松市美術館と同じエディションだろう。
下部の蓋の表には『ソナタ』、右には『3つの停止原器』(写真印刷)が折りたたまれている。
さて、次は肝心の「似たもの」を見ていただこう。

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『リカちゃんハウス』なのだが・・・どうだろうか?
正確には『リカちゃんハウスデラックス』(二代目リカちゃん用)なのだが、ぼくとしては思った以上にソックリだったのでコーフンしてしまった(笑)
いや、人によってはぜんぜん似てないと思われるかもしれないが、いろいろと類似点は指摘できるのだ。

まず目が釘付けになってしまうのが、レディメイドのミニチュア!である。
イス、テーブル、ハンガー、シャンデリア?、などのレディメイドのミニチュアが、確かに入っているのだ。
次に目を引くのが「ガラス」であるところの鏡である。
さらに「窓」にも目が行ってしまうのだが、トランクの中の箱』にも『フレッシュウィドゥ』と『オステルリッツの喧騒』という窓のレディメイドの印刷複製が入っている。
絵画の複製も何点か入っており、それぞれが実に味わい深い作品である。
「説明書」に描かれたイラストは「機械的な描線」で、これはデュシャンが『チョコレート挽き器』などで試みた描法である。
また活字文字による作品は、デュシャンにも『日曜のランデヴー』があり、これも『トランクの中の箱』に含まれている。
そして何と言ってもが外装がトランク状で持ち運び可能で、赤色なのも同じだ(これはエディションによるが)。

実は、高松市美術館で『トランクの中の箱』をはじめて見たとき、子供のころ妹が持っていたリカちゃんハウスを思い出したのだ。
それは時代的に初代ではないだろうし、確かハウスではなく何かのお店だったと思うのだが、改めて画像検索してみると、この『初代リカちゃんハウス』が思った以上に『トランクの箱の中』に似ていて驚いてしまったのである。

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上記サイトに『二代目リカちゃん ファッションハウス』も掲載されていたので、ついでに見ていただくが、これも良く似ている。
こちらは『泉』ならぬ『シャワールーム』が完備されているのがポイント高い。

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これは同じサイトから内容物を紹介したもので、こういう並べ方をするといかにも「作品」と言う感じで、さらに類似性が強調される(笑)。
イスのレディメイドも素晴らしいが、仕切り用の「紙箱」の無意味さ加減も『旅行用折りたたみ品』を髣髴とさせる。

で、ぼくが何を言いたいのかと言うと、「リカちゃんハウスはデュシャンの影響を受けている」、のようなことでは断じてない。
常識的に考えて、その可能性は限りなくゼロに近いだろう。
デュシャンの『トランクの中の箱』の源泉は友人のドールハウスにあったのかもしれないが、それが同じくドールハウスの流れを汲む『リカちゃんハウス』と似るのは当たり前のことである。

実は、『リカちゃんハウス』の原型となった「折りたたみ式ドールハウス」が欧米にあったのかと思い、いろいろ検索してみたのだが、さしあたりそういうものは見付からなかった。
いずれにしろ、デュシャンの友人宅にあったドールハウスはお金持ち用の立派なものだったはずだから、それは折りたたみ式では無いだろう。
「リカちゃんハウス」が折りたたみ式なのは、狭い家に住む日本の中家庭に合わせたのであって、旧タカラのオリジナルアイデアなのかもしれない。
デュシャンが『トランクの中の箱』を折りたたみにしたのは、ドールハウスよりも中世の祭壇を参考にしたと言われるが、これが『リカちゃんハウス』と似たのも単なる偶然だろう。
だから普通に考えると、『トランクの箱の中』と『リカちゃんハウス』がちょっとくらい似ていたとしても、両方は何の関係もなく、従って類似性を指摘することに何の意味も無いのである。

しかし、ぼくとしては本来的に無関係だからこそ、「似ている」という事実に過敏に反応してしまうのだ。
『トランクの箱の中』と『リカちゃんハウス』はアートとトイというまったく別物であって、だからこそこの両者が「似ている」ことに興奮してしまうし、「重要」だと感じてしまうのだ。
これに限らず、ぼくは何事においても同一(ホモロジー)よりも、類似(アナロジー)に反応してしまう。
例えば生物の分類学はホモロジーだが、生物の擬態(コノハムシと木の葉など)や、収斂進化(魚類とイルカなど)はアナロジーであって、そちらの神秘性に興味が惹かれてしまう。

そもそも、アートの本質はホモロジーではなくアナロジーにある。
「絵画」というのは本質的に立体物のアナロジーとして、平面に描かれる。
そしてデュシャンのレディメイドは、アートの類似物であってアートではないところが、まさに「アート」なのである。
対して、現代に至るデュシャン以外のアーティストのほとんどは、アート作品の「同一物」を製作している。
アートの本質が「類似物」なのであれば、アートの同一物はアートと言えるのか?と言う疑問も生じる。

もちろん、「非人称芸術」もアートの類似物であり、その点でぼくは非常に自信を持っている(ほとんど誰も認めてくれないが)。
ちなみに「フォトモ」は「非人称芸術」の類似物であって、だから反転してアートの同一物になり、ギャラリーで展示可能となる。
そのような観点で『リカちゃんハウス』を見ると、これは確かに『トランクの中の箱』の類似物であり、だから「レディメイド」であり「非人称芸術」であると解釈できるのだ。
「リカちゃんハウス」はデュシャンのことなどまったく意識せずに作られたからこそ、まさに「非人称芸術」であり、しかもかなり素晴らしいのであって、見てるだけでドキドキしてしまう。
ただ、デュシャンは晩年レディメイドについて以下のように語っている。

「考え方としては、美的な面からはいかなる魅力も無い品物を見つけ出そうと言うことだった」

そうなるとぼくの「素晴らしい」と言う感情はデュシャンの思いからズレる(後退する?)ことになる。
だからぼくとしては、このズレが後退なのか、それとも違う何かなのか、引き続き考える必要があるだろう。

少なくとも言えることは、この『リカちゃんハウス』のアンティークトイを、気に入ったからと言って数万の値段で購入すると、「こんなガラクタを高い金で買って・・・」と後悔する可能性大である(笑)。
あんなに欲しかったのに、いざ買ってみるとどうにもつまらないものにしか思えない、と言うことは大いにあり得る。
それは恐らく、購入あるいは所有することで、アートの「類似」だったものが、限りなくアートの「同一」へと近づいてしまうせいかもしれない。
「類似」と言うのは何らかの実態を指すわけではなく、「同一」との関係において成り立っている。
だから関係が変わってしまえば、アートを成立させていた「類似」もまた消えてしまうのだ。

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