芸術と可能態
前回紹介した『リカちゃんトリオハウス』だがこれについて
>いやこれが芸術じゃなかったら、一体何を芸術と呼べばいいのか?
と書いたのだが、それについての補足を。
この品物が「芸術」であるのは、ある理由に基づいているのだが、それは「芸術を意図して作られていない」ということである。
もし、この品物が誰かアーティストの意図的な作品であったら、たとえそれが同じものであっても、「つまらなく」なってしまうだろう。
つまり、この場合の「芸術か否か?」の判断の根拠は、その品物に内在しているのではなく、「品物が存在している理由」が第一なのである。
これに限らず「優れた芸術作品」と言うものの、「優れた」と言う要素は、作品内部には存在しない。
それはあくまで作品の「外部」に存在する、と言うのがぼくの立場である。
このことは、「ピカソの作品が優れているのは、ピカソが描いたからだ」という教条主義的なものの言い方に似ている。
しかし、ピカソは所詮は人であって、傑作も描けば駄作を描くこともある。
だから現実的には、「ピカソの芸術が優れているのは、ピカソが描いたからだ」と言い切ることはできない。
しかし「ピカソ」を「非人称」に置き換えたらどうだろうか?
すなわち「非人称芸術が優れているのは、非人称が描いたからだ」と言うことである。
そしてまさに、非人称は人であって人を超えたものであるので、この教条(ドグマ)は成立するのである。
というか、そのドグマを「方法論的」に成立させるのが「非人称芸術」の考え方だと言える。
別の言い方をすると、「非人称芸術」はシュルレアリスムの延長にあって、「非人称」とは実のところ「無意識」なのである。
無意識と言うのはフロイトによると人間の意識下=人間の「内部」に存在するものである。
しかしラカンによると(ぼくの理解した限りでは)、無意識の自動的作用は、「システムとしての言葉」が持つ自動作用であり、だから無意識は「システムとしての言葉」という人間の「外部」の存在なのである。
「人称芸術」として描かこうとされる「無意識」は、「意識」のノイズが混入する可能性があり、方法として不完全である。
しかし「非人称芸術」には文字通りアーティストの「意識」が混入する余地が無いため、「無意識」の自動作用が純粋な形になって現れるだろう。
これはあくまでも方法論的に、仮説として考えるのである。
「非人称芸術」の鑑賞対象は、まずはその「造形」である。
しかし、同じ「造形」であっても、もしそれが意図的な「人称芸術」の場合、鑑賞の対象から外れてしまう。
と言うことは、実は「非人称芸術」における鑑賞の対象とは、ものの造形そのものではなく、造形を通して現れた「非人称」そのものなのである。
「非人称芸術」を鑑賞する人間は、「非人称」そのものに感動しているのだ。
ところで、ある造形物が「非人称芸術」としてどれほど優れているのか?と言う判断は、結局のところ「意識」でなされるのではないかと思う。
言い方をかえると、デュシャンが批判するところの「趣味的判断」にならざるを得ない。
実のところ、何を優れた「非人称芸術」と判断するのか?は、所詮は「人間考え」でしかないと、自分でも思う。
理屈で言うと、「非人称」によるすべての造形物は、そのどれもが等しく優れた「非人称芸術」のハズである(そのように、方法論的に前提されている)。
しかし、人間の意識(趣味)では、その「良さ」のすべてを等しく感知することができない。
原理的に、都市空間はあらゆる「非人称芸術」で埋め尽くされているのだが、人間はそれらの「非人称芸術」のごく一部しか感知することができない。
だから人間の主観では【すべての「非人称」による造形物=「非人称芸術」】と考えることはできない。
そこでぼくは【すべての「非人称」による造形物=【「非人称芸術」の可能態】と言うように捉えている。
抽象論ばかりだと何なので、具体例を示してみる。
これはヤフオクに出ていた『リカちゃんトリオハウス』だが、どうもはじめに挙げたものとバージョンが違うようだ。
これはこちらのブログで紹介されていたものだが、さらにバージョンが違うようだ。
で、3つを比較すると、ぼくとしてははじめに紹介したバージョンが、一段と「キツい」感じがして、圧倒的に好みである。
別の言い方をすると「常軌を逸してる」感がより強い。
あとの2つは、それなりに味わい深いが、比較するとちょっとおとなしい気がする。
「非人称芸術」として3つを比較すると、1番目が最も優れていると判断できる。
しかしこの判断は、所詮はぼくの「趣味」でしかない。
どういうことかというと、もしかすると、あとの2つのバージョンにも別の優れた要素があるのかもしれないが、単にぼくが見出せないだけなのだ、と言う可能性は常に付きまとうのだ。
つまりこれらのバージョンは、「可能態」としての「非人称芸術」だと考えることができる。
芸術的な良し悪しが「趣味」でしか判断できないとしても、「可能態」という概念を導入することで自分の「趣味」を絶対視することを回避できる。
もしかすると、これによってデュシャンが指摘する「趣味的判断」の問題を、自分なりに回避できるかもしれない。
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