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2010年1月 1日 (金)

2009年に読んだ本

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2009年に読んだ本を並べてみたのだが、思ったより少なく、カラーボックスの一区画に納まってしまうくらいの量でしかなかった。
読んだ本についてちゃんと記録をとっているわけではないので、まだ他にあるのかもしれないが、倍の量になることはないだろう。
あと読みかけの本もあるが、これは除外した(あ、でも夏目漱石は「坊ちゃん」しか読んでないし、「よのなかのルール」は宮台真司さんのところしか読んでないが)。
それと買っただけでまだ読んでない本も何冊かある。
いずれにしろ、がんばって読んだつもりでこの量では、「頭がいい」とは到底いえない(笑)
先日、グループ展のオープニングの二次会の席で、友人に「糸崎さんは知らないのに知ったかぶりして、みんなはそれに騙されてるだけなんだよ」と言われてしまったのだが、以前同じ人に同じことを言われて反省し、本を読むようになったのだが、しかしこの量では汚名が返上されたとはとても言えないだろう。
というわけで、特に若い人はバンバン読書して、コテンパンにぼくのことを言い負かして欲しい(笑)

ところで、ぼくが読む本はご覧の通り圧倒的に入門書が多い。
入門書というのは、学問の素人に対し「近道」を教えてくれるから、とても効率がいい。
今年の一番の収穫は、小室直樹さんの存在を知ったことだろう。
小室さんによる入門書は、1冊のうちに何冊分もの内容が効率的に圧縮され、圧倒的なスピードによる理解への近道を教えてくれる。
ぼくが読んだ2冊だけで「宗教」というものの何たるかがだいぶ分かった気になる。
この意味で、斉藤環さんの『生き残るためのラカン』もかなりのスピードと効率を誇る本で、非常に役に立つ。

逆に自分にとってハズレだったのが、諏訪哲司さんの『間違いだらけの教育論』で、同じ言い回しがくどいほど繰り返され、水で薄めたような内容だった。
諏訪さんの著書は『オレ様化する子供たち』が面白かったのだが、おそらく『間違いだらけの教育論』は「何を言っても全然理解してくれない相手』に対し、さらにレベルを下げたのだろうと思う。
このように、何が分かりやすくてよい本なのかは、読者のレベルによって異なってくる。
逆に、頭のよい人にとっては、例えばラカンは原著を読まなければ意味が無く、入門書など読むだけ時間の無駄なのだ(というように実際に言われた)。

そのことを、自分の専門分野に当てはめて考えたのだが、ぼくの専門分野は「路上」である。
そして「路上」において「近道」というのはまったくもって無意味でしかなく、同じように「効率」とか「スピード」とか「目的地」などの全てが無意味だ。
「路上」とは「路上」そのものを堪能する行為であり、そこに近道はおろか目的地すらも存在し得ない。
言い換えると、「路上」とは「道に迷うこと」そのものを堪能する行為であり、だから「目的地」に向かって効率よく近道しようとする行為は、じつにクダラナイとしか思えないのだ。
ただ、ぼくは「路上」の専門家であるからそう思うのであって、素人の方にそれを要求する気は無い。
だからぼくはたびたびワークショップを行い、路上を楽しむためのスピーディーな近道を教えたりする。
しかしそれはあくまでパッケージングされた一時の楽しみ方であって、路上の「真髄」とは別物だろうと思う。

ところが、「路上」以外の分野での自分はどうなのかというと、これが「近道」や「効率」や「目的地=理解」を求めていたのである。
平たく言えば「学問のことはよく分からないので、手っ取り早く教えて欲しい」ということで、そういう要求に応えるのが「入門書」の存在なのだ。
ただ、「路上」がそうであるように、「目的地への近道」はあくまで学問の真髄とは別物なのだろう。
ぼくは学問の素人なので「近道」がどうしても必要だが、それが学問の真髄とは異なっている、ということだけは意識したほうがいいだろう。

昨年はデュシャンの本を多く読んだが、これは入門書を選んだと言うより、デュシャンについて書かれた日本語の本は片っ端から読もうと思ったのだが、どれも幸いなことにそれほど難解な本ではなかった。
いや、デュシャンの言葉は時として非常に難解で理解を絶するのだが、そもそもデュシャンは物事を理解すること、例えば「芸術とは何か」を明確に言葉で説明することについて懐疑的で、つまり「芸術への理解」に対して「道に迷うこと」そのものを堪能しているようで、その意味で「学問的」なのかも知れない。

あと、ブログに書きそびれた本に、仲正昌樹さんの『Nの肖像』がある。
これは現代思想家である仲正昌樹さんが、東大在学中から脱退するまで11年間入信していた「統一教会」での体験談である。
現代思想の人がなぜ宗教に?と多くの人は不思議に思うだろうが、ぼくの感想としてはきわめて普通の当たり前のことが書かれていた。
つまり、「宗教団体」というのは、現代日本人とはちょっとだけ違う「一般常識」を共有する集団であり、集団の内部においてはみんな常識的で真面目でいい人たちばかりで、その意味で「常識的日本人」と変わらないのである。
「現代日本の常識」が「ちょっと違う宗教的常識」にずれ込んだりシフトするタイミングは、誰にいつ訪れてもおかしくない。
それがたまたま、東大生時代の仲正さんに訪れただけの話なのだ。
だた、仲正さん自身は著書を読めば分かるとおり偏屈な性格で、だから「常識重んずる集団」に耐え切れず脱退したのだ。
それで、現在は「現代日本の常識」からちょっとシフトしたポジション(大学教授、評論家、物書き)に就いている。
ぼくがこういう「知ったかぶり」を書けるのは、自分自身が「現代日本の常識」からちょっとシフトしてることと、それと合わせてオウム真理教の事件でいろいろと学んだからである。
ただ、この本を読んだ時点ではキリスト教についての基礎知識を欠いていたので、それについて学んだ後に読み返すと、面白いだろう(統一教会はキリスト教の変種なので)。

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コメント

この中の四冊ほど私も読んでます、「よのなかのルール」を宮台さんの部分しか読まなかったのも同じ(笑)

前にフロイトやラカンの精神分析は日本人にはあてはまりそうもないとコメントに書き込みましたが、例のフロイトのエディプスコンプレックスによる自我形成説はラカン自身が「日本人にはエディプスコンプレックスがない(=あてはまらない)」と言っているそうです、さすが。

韓国でのキリスト教信者は全人口の50%近くに増えているそうですが、日本で信者が増えないのはエディプスコンプレックスがないのと関連してキリスト教が父権的であることとマッチしないのかもしれませんね、韓国は明らかに父権的社会ですから。。。

私が観察した限りでは、統一教会は新入り信者がおつまみセットを売り、中堅信者が印鑑を売り、ベテラン信者が薬石と称する壷を売る団体であります(笑)
日本向けの信者引き込み戦略なのか知りませんが先祖供養を熱心に勧めてきますね、そこから先まで観察するには高価な買物をさせられそうなのでやめましたが(笑)

投稿: 遊星人 | 2010年1月 4日 (月) 14時36分

>前にフロイトやラカンの精神分析は日本人にはあてはまりそうもないとコメントに書き込みましたが、例のフロイトのエディプスコンプレックスによる自我形成説はラカン自身が「日本人にはエディプスコンプレックスがない(=あてはまらない)」と言っているそうです、さすが。

読んでいてピンとこない場合、そういうところを疑う必要もあるわけですね・・・
韓国が父系社会であることと、キリスト教徒の親和性は、小室直樹さんの本にも書いてありました(どこにどう書いてあったか、すぐに探し出せないですが・・・)。
ともかく日本人はあらゆる宗教を都合良く「骨抜き」してしまい、韓国社会はそうではない、ということですね。

>私が観察した限りでは、統一教会は新入り信者がおつまみセットを売り、

そう!これは本文で書き忘れましたが、仲正さんの本で初めて知りました。
学生時代、アパートに若者が時々珍味のセットをたびたび売りに来て、何者だろうと思ってた謎が解けました。
こういう物売りは「万物復帰」というのだそうで、仲正さんはこの修行がうまくいかず(つまりものが売れず)肩身の狭い思いをしてたそうです。
たぶん、ぼくが入信しても同じだろうと思いますw

投稿: 糸崎 | 2010年1月 9日 (土) 00時03分

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