« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

2010年1月

2010年1月30日 (土)

相互的非人称芸術の目的

Sr8498385
(*この写真は「相互的非人称芸術」ではなく単なる「普通の写真」です)

「非人称芸術」のコンセプトは原理的に「人称芸術」を否定し、従ってアーティストの存在を否定し、美術館やギャラリーやアートマーケットの存在もすべて否定している。
だからこの原理に忠実に従うなら、そのようなアート関係者とはいっさい接触せずに、自分一人で勝手に「非人称芸術」をやっていれば良いだけの話である。
しかし、実際のぼくはそのようなことも無く、美術館やギャラリーで個展やグループ展を開催し、アーティストや写真家のみなさんとも酒を飲んだりして、いろいろと交流している。
これは原理主義的には「不純」なのかもしれないが、しかし人は一つの原理のみでは生きられない。
別の言い方をすれば、一人の人間の中には異なる種類のいくつかの「欲望」が同居し、それらは時としてお互いに矛盾し合っている。

「非人称芸術」のコンセプトに従うことはぼくの欲望の一つなのだが、しかし一方では「美術館で展示したい」という欲望もあり、「アーティストと仲良くしたい」という欲望もある。
これらの欲望の内容は互いに矛盾しているが、一方を無理に否定するよりも、それぞれ並列的に同居させる方が実際的である。
つまり最近のMacはMacOSとWindowsの二つのOSをインストールできるのだが、これと同じように、自分の中に複数のOS(行動原理)をインストールして、場に応じて使い分ければ良いのである。

そして「相互的非人称芸術」とは、ぼくの中にある「非人称芸術」に対する欲望とは別の種類の欲望を満たすために、存在するのである。
そのような別の欲望とは何かと言うと、まずぼくはアーティストのみなさんと仲良くしたいのである。
ところが「非人称芸術」に対する欲望に従うと、そういう人たちと喧嘩になってしまうから、それで「相互的非人称芸術」が必要になるのだ。

自分がなぜ、アーティストと仲良くしたいのかと言えば、話をしてて楽しいからである。
美術家にしろ写真家にしろ、たとえその作品が自分にはよく分からなくとも、アーティスト本人はたいていの場合「ものすごくいい人」であり、話をしてて面白いのだ。
こういう人間関係を大切にしたいと思っているところに、「非人称芸術」の話を持ち込んでぶち壊しにしても仕方が無いので、それを回避するためのコンセプトとして「相互的非人称芸術」があるのだ。

ぼくが他のアーティストの方々と話ができるのは、曲がりなりにもみなさんからぼくがアーティストであると認められているからだろうと思う。
それは「非人称芸術」を抜きにした認められ方なのではあるが、それとは別な部分で「相互了解」が成立しているのだ。
アーティストとは「お金」以外の、世間的には「何の価値もない」とされるものに熱中して、時には命を張ったりもする人たちである。
そういうアーティストは世間的にはいたって不真面目で、しかし別な意味では普通以上に真面目で真摯な人たちであり、気が合うのだ。

それと「非人称芸術」が否定するところのアートの世界は、自分に未知の世界であり、それを知ることは決して無意味ではないはずである。
概念的にいくら否定しても、現にアートもアーティストも存在し続けている。
その現実に直面することは「非人称芸術」を考える上でも必要なことであるように思われる。
もし、そのあげく自分の欲望が「非人称芸術」を否定する方向へ変化したとしても、それこそ意味のある結果だと言えるだろう。

これとは別に、美術館で展示をして自分の作品がお客さんに喜ばれたりすると、これも単純に嬉しくなる。
もちろん「非人称芸術」のコンセプトを喜ぶ人はまずいなくて(そのような人はそもそも美術館に来ないかもしれない)、もっぱら「人称芸術」の文脈で楽しんでくれるのだが、それでも良いと思えてしまう。
この感情も「非人称芸術」のコンセプトとは矛盾しているが、それも自分の自然な欲望に基づく感情であるから、無理に否定することは無いだろう。

ここで整理すると、ぼくのアーティストとしての活動は「非人称芸術」と「相互的非人称芸術」に分裂しているのだ。
本来的には「非人称芸術」のみで成立しうるのだが、その偶然の副産物として「相互的非人称芸術」が生じた。
そして、今のところ「相互的非人称芸術」は「人称芸術」の文脈で一定の評価を得られているのだが、「非人称芸術」はほとんど評価の対象外となっている。
だからまぁ、それぞれどっちも地道に頑張るしかないし、そのうち何かがどうにかなるだろう(笑)。

--

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シンポジウムの反省点(相互的非人称芸術)

Sr8509683

報告が前後してしまったが、1月23日にYUKA CONTEMPORARYで開催された企画展『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』のトークシンポジウムが開催された。
出席者はアーティストの彦坂敏昭さん、小林史子さん、阿部大介さん、八木貴史さん(そしてぼく)に加え、美術批評家の沢山遼さんにも加わっていただき、お客さんも大勢いらして、なかなか盛況だった。

しかし個人的には決定的な反省点があって、そのおかげでいまひとつ他の方と話が噛み合ず、自分だけ空回り気味になってしまったように思う。
というのも、今回のシンポジウム参加に際してのコンセプトを決めてなかったので、グダグダになってしまったのだ。
いや、普通はコンセプトなんて不要なのだろうが、ぼくの場合は「非人称芸術」という特殊なコンセプトを掲げているので、ほかのアート関係者と対話する際は、そのためのコンセプトをきちっと設定しなければならないのだ。
なぜそれが必要なのかと言えば、早い話「非人称芸術」は原理的にその他のアート(人称芸術)を否定してしまうので、その原理に忠実に従えば喧嘩になって対話が成立しないのだ。
もちろん、ぼくは誰にも喧嘩をふっかけるつもりも無く、しかしそうするとコンセプトが曖昧になり、それでトークがグダグダになってしまったのだ。
しかし、そもそもぼくはいわゆる「人称芸術」のアーティストとの関係を成立させるために「相互的非人称芸術」というコンセプトを思い付いていたので、トークの際もそれを採用すれば良かったのである。
ただ、ぼく自身もまだ「相互的非人称芸術」がどういうものか理解しきれておらず、その実践の仕方も分かっていないのだ。

「相互的非人称芸術」とは、デュシャンの「相互的レディ・メイド」の概念が元になっている。
デュシャンは「相互的レディ・メイド」について、以下のように書いている。

別な機会に、芸術とレディ・メイドの間にある矛盾を強調するために、レディ・メイド レシプロック(リシプロカルレディ・メイド)つまり<相互的レディ・メイド>を想像した。
例えば、レンブラントの絵をアイロン台として!使うというものだ。

(「レディ・メイドについて」マルセル・デュシャン)

つまり、便器やスコップなどの既製品にサインをして芸術作品とするレディ・メイドとは逆に、芸術作品の持つ「意味」を受け取らず、それを「実用品」として使用する行為が「相互的レディ・メイド」なのである。
この概念を「非人称芸術」に応用するとどうなるか?

まず「非人称芸術」は美術館やギャラリーの「外」に存在しているもので、原理的に「人称芸術」のように展示することは不可能である。
ところが「非人称芸術」を、フォトモやツギラマなどの「写真作品」に置き換えると、その他のアートと同じように展示することが可能になる。
フォトモやツギラマとして置き換えられた「非人称芸術」は、「非人称芸術」としての意味を無視した「人称芸術」として鑑賞可能になるのだ。

別の見方をすれば、「非人称芸術」はアーティストの手仕事を完全に否定した、純粋に「言語」の作用による創造行為である(この点はレディ・メイドと似通っている)。
ところがフォトモやツギラマは「手仕事」の産物であるので、形態的には「人称芸術」と同じになってしまうのだ。

つまり、レンブラントの絵をアイロン台として!使うように、「非人称芸術」を「人称芸術」として!使うのが「相互的非人称芸術」なのである。
そしてこの「相互的非人称芸術」の効果によって、ぼくは美術館やギャラリーで展示やイベントができているのだ。
この「効果」は、ぼくがフォトモやツギラマを始めた当初から働いていたのだが、その原理である「相互的非人称芸術」はごく最近見出された、というわけだ。

平たく言えば、「非人称芸術」は自分にとって非常に重要なコンセプトであるが、誰もそれを受け入れてくれず、しかし一方ではフォトモなどの作品はアートとして人々に受け入れられている、という現状がある。
この状況は「非人称芸術」の原理主義的に考えると、あまり喜ばしいとは言えないだろう。
しかし、一人の人間が「一つの原理」だけに従わなくてはならない理由は無く、自分の中に「複数の矛盾し合う原理」を同居させて使い分ける方が実際的である。
だからぼくもアートについて「非人称芸術」と「人称芸術」の二つの原理を採用することが可能なはずで、その橋渡しをするのが「相互的非人称芸術」なのである。
ただ、ぼくはもうだいぶ以前に「非人称芸術」に転向してしまったので、あらためて「人称芸術」とどう接するかはなかなか難しく、いろいろ試している最中である。
いろいろ試す一環として、今回のグループ展やシンポジウムがあったのだが、いろいろ失敗したおかげで得たものも多かった。

それで今回のシンポジウムでの最大の反省点なのだが、ともかくぼくは「相互的非人称芸術」のコンセプトに徹した態度で他の人とトークをすれば良かったのだ。
どういうことかと言えば、みんなが「アイロン台」の話をしているときに、一人で「レンブラントの絵」の話をしても意味が無いのである。
アイロン台やレンブラントの絵は例えだが、アートのシンポジウムで「非人称芸術」の話は誰も興味が無いだけに意味が無い。
それなのに、ぼくは中途半端に「非人称芸術」に言及してしまったので、喧嘩にまではならないものの、一人で空回り気味だったのだ。
「非人称芸術」はぼくの自己主張だが、それを封じるのであれば、質問して他人の自己主張を聞けば良かったのだ。
ぼくは自分の作品が「人称芸術」としてどのように意味があり評価されているのか知らないし、そもそも「人称芸術」の意味や文脈もよく掴めてないのだから、それをみんなに教えてもらえば良かったのだ。

そのようなことに気付いたのはトークが終わった後だったが、その後の飲み会には腰痛のため出席できず、まことに残念。
特に批評家の沢山遼さんにはいろんなお話が聞けそうだったのだが、それはまたの機会に・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月29日 (金)

PHOTOGRAPHERS SUMMIT 6

報告遅れました、と言うか、腰痛だったりして告知もままならず・・・申し訳ありませんでした。
1月26日に「PHOTOGRAPHERS SUMMIT 6」というイベントに参加しまして、プレゼンテーションを・・・平たく言えば写真の発表会なのですが(笑)をやりました。
どういうイベントかと言うと、

Sr8509719
会場は渋谷のO-EASTです。
普段の自分とは縁もゆかりも無い、なんだかよく分かりませんがともかくナウいところです。

Sdsc00004
フォトグラファーの南条さんが楽屋に登場。
風邪気味で具合悪いそうですが、普段からローテンション&落ち着きキャラなので、普段通りに見えます。
まぁ、ぼくも腰痛で調子悪いですが、舞台に立つとその時だけは調子が戻ったりするものです。

Sr8509720
原稿を見ながらトークの練習・・・
フォトグラファーのプレゼンテーションの持ち時間は5分で、その間に自分の言いたいことを伝えなければならないのでタイヘンです。

Sr8509732
いよいよ本番で、こんな風にスクリーンに自分の作品を上映しながらコンセプトなどを語ります。
というか、南条さんはもっと緊張したり、とちったりするかと思ったのに、そういうことも無く落ち着いてトークしてたので、その意味でちょっと残念でした(笑)

Sr8509740
こんな風にお客さんがぎっしりですが、実際は舞台からは真っ暗でほとんど見えず、意外に緊張せずにしゃべれます(この写真は最後の舞台挨拶なので明るいのです)。

全体の内容はデジカメWatchの記事が分かりやすいですが、総じてちょっとマニアックな感じがあって、見に来ていただいたOIKAWAさんは「ちょっと場違いなところに来てしまったかも」とおっしゃっていましたが、ぼくもOIKAWAさんも基本的にどこでも場違いな作風なので(笑)こんなもんじゃないかと思いますw

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2010年1月17日 (日)

付箋の花

Sr0010069_2

デュシャンのインタビュー集や伝記から、デュシャンの言葉で重要と思われるものを抜き書きしている。
高松市美術館での展示のための準備なのだが、研究して論文書く人はみんなこういう作業はしてるんだろうな、とか思ったり。
と言うか、実はなぜか腰が突然痛くなって、立ったり座ったりがつらくて、つまり寝ながらでないと作業できない状態で、困ってしまった。
今回は特にグキッとやったわけではないのに、いつの間にか腰が痛くなっていたのだ。
おそろしや・・・

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2010年1月16日 (土)

シニフィエ(意味内容)の連鎖

Sr0010068_2

「デュシャンもあっと驚くこの価格!」

まぁ、これくらいのパロディはすでに誰かがやってるかもしれない。
シニフィエの連鎖とは所詮、通俗的なパロディに過ぎないのである。
と言うか、これがシニフィアン(記号表現)の連鎖ではなく、イメージの連鎖でもなく、シニフィエの連鎖なのかどうか、自分でもよく分かってないのだが・・・
とりあえず思い付きの試作品。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月13日 (水)

忙しいので人に会ってた

公立美術館での二つの企画展を間近に控え、いよいよ切羽詰まってきたのだが、しかし高松市美術館の展示は特に「自分とは何か」を問うものであるので、それを明らかにするためにも他人と積極的に会うことにした。

Sr8499994

まず1月9日は、東京アートミュージアムで開催中の「GinEn」のオープニング。
タイトル通り、すべて銀塩写真によるグループ展だ。
このオープニングの締めの話で面白かったのが、「高品質のモノクロ写真を得ることを考えると、デジタルより銀塩の方がコストが安くすむ」ということで、これがキヤノンの技術者の言葉なのでなおさら現実味がある(この写真には写ってない方だが)。

それとこの後の2次会で、東京的日乗さんに以前「日経アーキテクチュア」に掲載されたぼくの渋谷のツギラマがえらく好評で、「カッコイイ、やればできるじゃん!」とほめられたことが意外だった。
しかし、これは完全なる注文制作であり、ぼく自身の「趣味」の完全なる欠如による作品だ。
「趣味」の弊害は何かと言えば、結局自分の趣味の範囲外の作品は制作できず、だからこの「かっこいいツギラマ」は、それを取り払った効果と言えるかもしれない。

あと、平井正義さんという方に「作品で成立している人が、それを理屈で補強する必要があるのか?」みたいなことを言われたが、確かにそれはそうなのかもしれないのである。
加えて、「フォトモは面白いけど、糸崎さんの虫の写真はイマイチで、そもそもフォトモとの関連が見えてこない」とも言われたが、確かにそういう面もあるだろうし、そもそもそのようにハッキリ批判してくれる人は大変ありがたいし、信用できる。
実際に平井さんは、大変語り口の熱い方なのだった。
それと、あえて「自分は網膜的だ」という態度を表明されていた点も、興味深い。
まぁ、酔っぱらいの席なので、記憶が定かでない部分もあるかもしれないが・・・


Sr8500034

1月11日は、藤沢にある彦坂尚嘉さんのアトリエにお邪魔したのだが、それは彦坂さんからデュシャンについてのお話とか、ぼくの作品との関係とか相違点とか、その辺のところをお伺いしたかったのだ。
しかし、お互いアートについての問題意識が違えばデュシャンについての捉え方も違うわけで、ましてぼくの作品について、特にデュシャンとの関係についてなんて、他人に早々判断できることではないのだった。
ただ、彦坂さんにとってもデュシャンは非常に重要な作家で、作品も素晴らしいが他人の作品を選ぶ目も素晴らしく肥えていて、フィラデルフィア美術館にある本物の作品を見ずしてデュシャンは語ることはできないと言われ、もうそれだけで「教え」としては十分以上にありがたい。
そして隣の女性は彦坂さんのアトリエの「気体分子ギャラリー」で個展開催中の栃原比比奈さんなのだが・・・

Sr8500030

アトリエで滞在製作中だった。
あらためて「油絵を描いてるなぁ!」と思ってしまったが、油絵はぼくも高校から大学にかけてちょこっと描いていたものの、ちゃんとマスターしないまま止めてしまった。
ぼくは同じアートとは言っても原点であるところの油絵からだいぶ遠くへ来てしまった気がするだけに、油絵を描いているのをあらためて目の当たりにして、妙な感慨に耽ってしまった。
油絵は確かに楽しかったが、いまとなって放てしなく面倒くさく、よほどのことが無い限りぼくは再開することは無いだろう。
しかし「よほどのこと」というのは、ひょんなことで起きる可能性があるのだが・・・

--

| | コメント (5) | トラックバック (0)

『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』

自分が出品中のグループ展の紹介を忘れてました。

YUKA CONTEMPORARYで開催中の『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』です。
シンポジウム:2010年1月23日(土)16:00〜18:00、というのも開催されます(最終日)

Sr8499781

それでぼくのフォトモなのですが、裏が黒いです。
高級感を持たせるため、銀塩ペーパーの裏に黒ケントを貼ってみたのですが、このために大幅に手間が掛かってしまいました。
切り抜きにハサミが使えないので、デザインカッターを使ったのですが、思った以上に大変でした。

sr8499782

これが表ですが、江戸川区にある駄菓子屋さんです。
このフォトモのポイントは、まず被写体をぼくの「趣味」で選んでいない点です。
デュシャンがレディ・メイドの選択から「趣味」を完全に排除していると書いていたので、ぼくも方法論的にそれに倣ってみたのです。
ぼくの場合、いかに趣味を排除したかといえば、早い話このフォトモは「注文制作」なのです。
このフォトモはもとは、テレビの深夜番組「東京セレソンDX」の番組内で使われたもので、この駄菓子屋も監督に依頼されて撮影したのです。
被写体としての駄菓子屋はあまりにも「ベタ」でだからテレビ的なのですが、しかし「非人称芸術」の観点からは「すべてが非人称芸術の可能態」なのです。
ですから理由がどうであれ、このようにフォトモとして切り取られた場面は、結果的にはすばらしい非人称芸術として見いだされるわけです。
重要なのは、この駄菓子屋さんは何のウケ狙いもなく、昔と同じように淡々と営業を続けている点で、周囲の建物を含めすべてが自然で非人称的なのです。

Sr8499791

このフォトモはさっきのと同じようで何かが違う・・・実はこれは「第1バージョン」で、オープニングの際はこの作品が展示してありました。
実はこの作品は、テレビ用の小道具そのもので、監督の依頼によって駄菓子屋さんの周囲の街並が、実際と異なるものに差し替えられています。
ですのでこれは「ニセモノの風景」なのですが、フォトショップで巧妙に合成してあるので自分で見ても全くわかりませんw
実景を忠実に再現した「第2バージョン」もフォトショップが駆使されていて、駄菓子屋さんの店内などは超広角レンズで撮影した何枚もの写真を、変形して何枚も張り合わせたり、いろいろやってます。
こういうデジタル的な苦労は、うまく処理すればするほど苦労が表に現れず報われませんw

Sr8499787

ツギラマは横幅1.6mくらいあります。
撮影はデジタル一眼レフですが、つぎはぎ作業は手でやってます。
これをデジタル処理でやってしまうと「視点移動」のリアリティがなくなってしまうので、ツギラマとしての特徴がだいぶスポイルされてしまいます。
今回は写真の貼り方を「重ね貼り」ではなく「面一」にしてるので、ものすごい手間でした。
この被写体も、ぼく自身が選んでいないのがポイントで、ギャラリーのオーナーのゆかさんに選んでもらいました。
というか、ギャラリーの前の風景なのですが、左右で360度の視覚があります。
自分で選ぶと多分この桜並木は撮らなかったと思いますが、結果としては枝振りのフラクタル模様がなかなか見事です(この部分のつぎはぎが特に大変でしたが)。
まぁ、デュシャンの言う「趣味の排除」はおそらく意味がだいぶ違うのかもしれませんが、ぼく自身もこのところ「選択」の問題で悩んでいたのも確かなのです。

Sr8499794

ツギラマとフォトモはこんな風に展示され、奥に小林史子さんのインスタレーションのビデオが流れてます。

Sr8499795

右が彦坂敏明さんの作品で、左が阿部大介さんの作品。
今回の企画展は、ぼくが彦坂敏明さんに「何か一緒にできたら面白いかも?」と飲み会の席で何気なく言ったのが発端でした。
阿部大介さんはINAX銀座の個展を見てぼくが誘い、名古屋からわざわざ設置に来ていただきました(シンポジウムも参加されます)。
彦坂さんと阿部さんについては、『デジタル写真生活』の自分の連載で、写真に絡めた文脈で紹介していますので、そちらもぜひご覧ください。

Sr8499798

阿部さんの作品の右にあるのが八木貴史さんの作品で、彼はゆかさんが発掘した新人ですが、若いのに技術レベルはすごいものがあります。
ということで、はじめはどうなることかと思いましたが、なかなか面白い展示になったと思います。
ちなみにタイトルの「ものの組み合わせには何かルールがありますか。」はぼくが考えたのですが、この一説は小林史子さんの作品ファイルから抜粋したもので、つまりブリコラージュの手法を使ってみたのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月11日 (月)

イメージの連鎖

*あとで加筆修正するかもしれません。

S03r8389245b
デュシャンのレディ・メイド「瓶掛け」。

S04r8389249b もとの品物は、このようにデパートのカタログに載っている。

S011
これはぼくが発見した、「瓶掛け」に良く似た「帽子掛け」。

S010
このように、用品やさんの店先においてあった。

S05r8389251b
デュシャンの最初のレディ・メイド「自転車の車輪」。

S012
これはぼくが見つけた「自転車の車輪」の類似物。

S08r8389240b
デュシャンによる「手を加えられたレディ・メイド」の一つ「エナメルを塗られたアポリネール」。
もとは「サポリンエナメル」の広告だが、加筆して文字が変えられている。

S013
これはぼくが見つけた、「アポリネール」の類似物の「キャメル」。

「似ている」と言う判断は、そのものの本質的意味を無視した「イメージの連鎖」であり、それが「非人称芸術」の根拠になっている。
それに対しデュシャンは「シニフィアン連鎖」を取り入れていると思われ、底が自分とはだいぶ違っているのだ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2010年1月 9日 (土)

「No Man's Land 創造と破壊@フランス大使館」

解体前のフランス大使館の建物で、アートイベントがあるというので行ってきた。

Sr8499823
入り口にあった巨大なペーパークラフト・・・と言うか、樹脂段ボール製スカルプチャー。
これくらいの規模のフォトモを作ってみるのも面白いかもしれない。

Sr8499930
解体前の建物なので、思いっきり自由にペイントが施されている。

Sr8499884
内部も各アーティストによって、かっちょよくペイント&インスタレーションされている。

Sr8499911
アーティスト自らが空間の撮影の指南をしたりとか。

Sr8499830
*おばちゃんは作品に含まれません。

ぼくとしてはこれがベストだった(笑)
このほか作品は盛りだくさんで、入場無料で、パンフレット100円で、撮影も自由なのでかなりお得感がある。
1月31日まで。
公式サイトが見られないのはMacだから???

| | コメント (2) | トラックバック (0)

画家のようにばか

R849997720100109111351

最近、デュシャンについての勉強をして痛感したのは、自分は勉強というものの「基礎」が全然なっていない、ということである。
「生物と宗教」の記事のコメント欄に

>新しい発見や科学の進歩というものも、直感などの人間による主観的な要素が必要みたいですね。

という書き込みをいただいたとおり、「直感」はとても大切で、ぼくはもっぱら直感のみに頼ってこれまできたのだが、それだけでは「発見」は弱く「進歩」もおぼつかないものになってしまう。
だから「直感」を活かすためにも、基礎的な勉強はある程度必要で、自分にはそれが全然身に付いていないことに今更ながら気づいたのである。
「基礎」とは言っても、たとえば橋本治さんによると社会に共通の「基礎教養」というものは現在ではなくなりつつあるので、どんなに偏った「雑学」でも、とにかく何か勉強した方がいい。
その勉強の度合いが自分は全然足りてなかったし、勉強の仕方も、理論の組み立て方も、全然なっていないのだ。

そのように改めて思ったのは、まさにデュシャンが<芸術家は大学に行くべきか>という講演テキストを書いていたからである。
面倒くさいので後で全文引用するが、デュシャンはフランスの昔の諺「画家のようにばか」と言われないために、芸術家も大学に行くべきだと書いている。
大学と言うことなら、ぼくだって「東京造形大学」を卒業してるのだが、デュシャンの言っている「大学」はそういうものではないらしい。

>そして弁護士、医師などと対等であると感じるために、<芸術家>は同じ大学教育を受けなければいけません。

つまりこのように書いている以上、それは「美大」ではなく、少なくとも日本の美大はデュシャンの言う「大学」の要件を満たしていないのだ。
いや、ほかの美大は知らないが、ぼくが卒業した時代の東京造形大学は「卒業制作」はあったけど「卒業論文」と言うものがなかった。
「卒業論文」を書いた友人もいたけど、「卒業制作」を選択した人は「卒業論文」を書く必要はなかった。
だから端的に言ってぼくは、論文の書き方を知らないし、勉強の仕方も知らないし、研究のまとめ方も知らない。
今から考えれば、学校は「卒業制作」とともに「卒業論文」を提出させるべきなのだが、当時の東京造形大学はそういう教育体制になってなかったように思う。
学生に「卒業制作」だけさせて、つまり「手を動かしていればいい」と教えるのは、まさに「画家のようにばか」を養成しているのと同じだろう。
そしてその通りに、ぼくも「画家のようにばか」のまま、主に「直感」を頼りにこれまで来てしまったのだ。

実際的なことを言うと、ぼくは自分の「非人称芸術」のコンセプトにより説得力を持たせるため、その根拠をデュシャンのレディ・メイドに求めたのである。
自分の説に説得力を持たせるため、過去の偉人の成果を根拠にすることは、科学の世界では常套手段である(具体例はすぐ出てこないが、村上陽一郎さんの本で読んだ)。
ただ、過去に根拠を求めるには、単に直感に頼るだけではなく、それなりのちゃんとした「手続き」が必要になる。
手続きというは、端的に言えば「ちゃんと勉強して調べる」ことなのだが、つまり例えば「犯人はあいつだ!」と直感で分かってしまったとしても、十分な証拠固めをしなければ逮捕できないのと同じことである。
それでぼくは直感によってデュシャンが「犯人」だと目星を付け、手っ取り早く逮捕してしまったのだけど、改めて調べてみるとどうも証拠不十分で釈放せざるを得ない・・・と言うことで困っているのだ(笑)
いや釈放するだけなら黙ってそうすればいいのだが、ぼくは2月に高松市美術館で開催される企画展で、デュシャンと自作を組み合わせた展示を予定しているのだ。
まぁ、研究が終わりなくどこまでも続くものなら、「中間発表」というのは当然アリなので、そういう感じにしようとは思うのだが、果たしてどうなるか・・・?

**

学校

<芸術家は大学に行くべきか>

画家のようにばか

フランスのこの諺は、少なくともミュルジェールのボヘミアン生活の時代まで、1889年前後に遡り、議論のなかで冗談として用いられます。
なぜ<芸術家>は世間の皆さんに比べ知的に劣るものと見なさなければならないのでしょうか。
その技術的巧みさとは本質的に手先の器用さであり、知性との直接関係がないからでしょうか。
ともかく、画家は偉大な<芸術家>になるために特殊な教育を受ける必要がないと、一般的に主張されています。
しかし、こうした考察は今日では通用しません。<芸術家>と社会との関係は、前世紀末に<芸術家>が自由を強く主張したときから変わりました。
一人の君主あるいは教会が雇う職人である代わりに、今日の<芸術家>は自由に描いています。そして芸術庇護者たちにはもはや仕えないで、反対に自分たち自身の美学を芸術庇護者たちに課すのです。
言い換えれば、<芸術家>は今や完全に社会に統合されています。
<芸術家>は今日、一世紀以上前から解放されて、一人の自由人のように現れ、普通の市民と同じ権利を付与されて作品の買い手と対等に話をします。
当然のことですが、<芸術家>のこうした解放は、代償として<芸術家>がのけ者や知的に劣るものでしかないときには知らないで済んだ責任のいくつかを負います。
これらの責任のうち最も重要なものの一つは、知性の<教育>です。たとえ専門的に見て知性が芸術的才能の養成の基礎でなくとも、です。
きわめて明白なことですが、<芸術家>という職業は今日の社会では「自由」業のレベルに比較できるようなレベルに達しました。以前のように、もはや一種の高級職人ではありません。
このレベルでとどまるために、そして弁護士、医師などと対等であると感じるために、<芸術家>は同じ大学教育を受けなければいけません。
その上、<芸術家>は現代社会では、職人や道化役よりも重要な役割を演じています。
<芸術家>は容赦のない物質主義に基づく世界と退治しています。その物質主義にあっては、すべてが<物質的幸福感>に応じて評価され、宗教が多くの活動領域を失い、もはや精神的価値の大きな分配者ではありません。
今日<芸術家>は、日々の<機能主義>との絶対的対立をなす疑似精神的価値の興味深い貯蔵庫なのです。一方科学の方はこの<機能主義>のゆえに盲目的賞賛を受けているわけですが、私が盲目的というのは、こうした科学的解決の最高権威的重要性を信じないからです。
たとえば、宇宙旅行はいわゆる「科学的進歩」への最初の歩みの一つであるように思えます。にもかかわらず結局は、それは人間の自由になる領土の拡大でしかありません。これは、現今の<物質主義>の単なる変形と見なさざるを得ません。この物質主義は個人をその内的自我から次第に遠くへと運んでしまうのです。
そのゆえにわれわれは、今日の<芸術家>ががどのような仕事を重要とすべきかという問題へと導かれるのです。つまり、この私の考えでは、いわゆる「<日々の物質的進歩>」の情報を入手し、それに通じていなければならないのです。
重りとして大学教育を与えられた<芸術家>は、同時代の人々との関係においてコンプレックスに襲われる恐怖を抱く必要はないのです。こうした教育のおかげで<芸術家>は、適切な道具を、つまり精神的な価値の枠内で自我を崇拝することによって、こうした物質主義的な状態と対立するための、適切な道具を手に入れることになりましょう。
今日の経済世界における<芸術家>の状況を例証するためには、次のことを見ればわかるでしょう。つまり、通常のどんな仕事でも多かれ少なかれそれを完遂するのに費やした時間に応じて報酬が支払われるのですが、一枚の絵画の場合は、その値段を決めるとき制作に費やされる時間は計算に入りませんし、値段は一人一人の<芸術家>の知名度によって変わるのです。
上で言及した精神的価値あるいは内的価値は、<芸術家>がいわばそれらの分配者になるわけですが、バラバラにされた個人にしか関わらないのです。そしてそうした価値は、社会の一部としての個人に適用される全体的価値とはコントラストをなすのです。
そして見た目がこうであれば、変装してでも、人類の一員としてこう言いたくなります。個人は実際は全くただ一人であり、集団化したすべての個人に共通な特徴は、自分自身に身をゆだねる個人の孤独な爆発とはいかなる関係もありません。
マックス・シュティルナーは、前世紀に、そのすばらしい著作『唯一者とその所有』においてこうした区別を非常に明快に行いました。教育の大部分がこうした社会的特徴の発達に適用されるのに対して、大学教育のほかの部分は、これも大きな部分をなすのですが、個人のさらに深い能直とわれわれの精神的遺産の自己分析と認識とを発達させるのです。
<芸術家>が大学で獲得する重要な長所とは、そういうものですが、これらの長所によって<芸術家>は、宗教自身がすでにつながりを失ってしまったような偉大な精神的伝統を生き生きとしたものにしておけるのです。
思うに、こんにちは<芸術家>はかつてないほど果たすべきこうした疑似宗教的任務を持っています。つまり、芸術作品がしようとにとってもっとも有事綱表現となるような内的視像の炎を照らし続けるという任務を持っています。
言うまでもないことですが、この任務を遂行するには、最高度の教育が不可欠です。

1960年5月13日にホフストラで実施されたシンポジウムにおいて、マルセル・デュシャンが行った講演テクスト(英語)

(『マルセル・デュシャン全著作』未知谷 北山研二訳 P349−352)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年1月 1日 (金)

2009年に読んだ本

S_8499695

2009年に読んだ本を並べてみたのだが、思ったより少なく、カラーボックスの一区画に納まってしまうくらいの量でしかなかった。
読んだ本についてちゃんと記録をとっているわけではないので、まだ他にあるのかもしれないが、倍の量になることはないだろう。
あと読みかけの本もあるが、これは除外した(あ、でも夏目漱石は「坊ちゃん」しか読んでないし、「よのなかのルール」は宮台真司さんのところしか読んでないが)。
それと買っただけでまだ読んでない本も何冊かある。
いずれにしろ、がんばって読んだつもりでこの量では、「頭がいい」とは到底いえない(笑)
先日、グループ展のオープニングの二次会の席で、友人に「糸崎さんは知らないのに知ったかぶりして、みんなはそれに騙されてるだけなんだよ」と言われてしまったのだが、以前同じ人に同じことを言われて反省し、本を読むようになったのだが、しかしこの量では汚名が返上されたとはとても言えないだろう。
というわけで、特に若い人はバンバン読書して、コテンパンにぼくのことを言い負かして欲しい(笑)

ところで、ぼくが読む本はご覧の通り圧倒的に入門書が多い。
入門書というのは、学問の素人に対し「近道」を教えてくれるから、とても効率がいい。
今年の一番の収穫は、小室直樹さんの存在を知ったことだろう。
小室さんによる入門書は、1冊のうちに何冊分もの内容が効率的に圧縮され、圧倒的なスピードによる理解への近道を教えてくれる。
ぼくが読んだ2冊だけで「宗教」というものの何たるかがだいぶ分かった気になる。
この意味で、斉藤環さんの『生き残るためのラカン』もかなりのスピードと効率を誇る本で、非常に役に立つ。

逆に自分にとってハズレだったのが、諏訪哲司さんの『間違いだらけの教育論』で、同じ言い回しがくどいほど繰り返され、水で薄めたような内容だった。
諏訪さんの著書は『オレ様化する子供たち』が面白かったのだが、おそらく『間違いだらけの教育論』は「何を言っても全然理解してくれない相手』に対し、さらにレベルを下げたのだろうと思う。
このように、何が分かりやすくてよい本なのかは、読者のレベルによって異なってくる。
逆に、頭のよい人にとっては、例えばラカンは原著を読まなければ意味が無く、入門書など読むだけ時間の無駄なのだ(というように実際に言われた)。

そのことを、自分の専門分野に当てはめて考えたのだが、ぼくの専門分野は「路上」である。
そして「路上」において「近道」というのはまったくもって無意味でしかなく、同じように「効率」とか「スピード」とか「目的地」などの全てが無意味だ。
「路上」とは「路上」そのものを堪能する行為であり、そこに近道はおろか目的地すらも存在し得ない。
言い換えると、「路上」とは「道に迷うこと」そのものを堪能する行為であり、だから「目的地」に向かって効率よく近道しようとする行為は、じつにクダラナイとしか思えないのだ。
ただ、ぼくは「路上」の専門家であるからそう思うのであって、素人の方にそれを要求する気は無い。
だからぼくはたびたびワークショップを行い、路上を楽しむためのスピーディーな近道を教えたりする。
しかしそれはあくまでパッケージングされた一時の楽しみ方であって、路上の「真髄」とは別物だろうと思う。

ところが、「路上」以外の分野での自分はどうなのかというと、これが「近道」や「効率」や「目的地=理解」を求めていたのである。
平たく言えば「学問のことはよく分からないので、手っ取り早く教えて欲しい」ということで、そういう要求に応えるのが「入門書」の存在なのだ。
ただ、「路上」がそうであるように、「目的地への近道」はあくまで学問の真髄とは別物なのだろう。
ぼくは学問の素人なので「近道」がどうしても必要だが、それが学問の真髄とは異なっている、ということだけは意識したほうがいいだろう。

昨年はデュシャンの本を多く読んだが、これは入門書を選んだと言うより、デュシャンについて書かれた日本語の本は片っ端から読もうと思ったのだが、どれも幸いなことにそれほど難解な本ではなかった。
いや、デュシャンの言葉は時として非常に難解で理解を絶するのだが、そもそもデュシャンは物事を理解すること、例えば「芸術とは何か」を明確に言葉で説明することについて懐疑的で、つまり「芸術への理解」に対して「道に迷うこと」そのものを堪能しているようで、その意味で「学問的」なのかも知れない。

あと、ブログに書きそびれた本に、仲正昌樹さんの『Nの肖像』がある。
これは現代思想家である仲正昌樹さんが、東大在学中から脱退するまで11年間入信していた「統一教会」での体験談である。
現代思想の人がなぜ宗教に?と多くの人は不思議に思うだろうが、ぼくの感想としてはきわめて普通の当たり前のことが書かれていた。
つまり、「宗教団体」というのは、現代日本人とはちょっとだけ違う「一般常識」を共有する集団であり、集団の内部においてはみんな常識的で真面目でいい人たちばかりで、その意味で「常識的日本人」と変わらないのである。
「現代日本の常識」が「ちょっと違う宗教的常識」にずれ込んだりシフトするタイミングは、誰にいつ訪れてもおかしくない。
それがたまたま、東大生時代の仲正さんに訪れただけの話なのだ。
だた、仲正さん自身は著書を読めば分かるとおり偏屈な性格で、だから「常識重んずる集団」に耐え切れず脱退したのだ。
それで、現在は「現代日本の常識」からちょっとシフトしたポジション(大学教授、評論家、物書き)に就いている。
ぼくがこういう「知ったかぶり」を書けるのは、自分自身が「現代日本の常識」からちょっとシフトしてることと、それと合わせてオウム真理教の事件でいろいろと学んだからである。
ただ、この本を読んだ時点ではキリスト教についての基礎知識を欠いていたので、それについて学んだ後に読み返すと、面白いだろう(統一教会はキリスト教の変種なので)。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »