« 『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』 | トップページ | シニフィエ(意味内容)の連鎖 »

2010年1月13日 (水)

忙しいので人に会ってた

公立美術館での二つの企画展を間近に控え、いよいよ切羽詰まってきたのだが、しかし高松市美術館の展示は特に「自分とは何か」を問うものであるので、それを明らかにするためにも他人と積極的に会うことにした。

Sr8499994

まず1月9日は、東京アートミュージアムで開催中の「GinEn」のオープニング。
タイトル通り、すべて銀塩写真によるグループ展だ。
このオープニングの締めの話で面白かったのが、「高品質のモノクロ写真を得ることを考えると、デジタルより銀塩の方がコストが安くすむ」ということで、これがキヤノンの技術者の言葉なのでなおさら現実味がある(この写真には写ってない方だが)。

それとこの後の2次会で、東京的日乗さんに以前「日経アーキテクチュア」に掲載されたぼくの渋谷のツギラマがえらく好評で、「カッコイイ、やればできるじゃん!」とほめられたことが意外だった。
しかし、これは完全なる注文制作であり、ぼく自身の「趣味」の完全なる欠如による作品だ。
「趣味」の弊害は何かと言えば、結局自分の趣味の範囲外の作品は制作できず、だからこの「かっこいいツギラマ」は、それを取り払った効果と言えるかもしれない。

あと、平井正義さんという方に「作品で成立している人が、それを理屈で補強する必要があるのか?」みたいなことを言われたが、確かにそれはそうなのかもしれないのである。
加えて、「フォトモは面白いけど、糸崎さんの虫の写真はイマイチで、そもそもフォトモとの関連が見えてこない」とも言われたが、確かにそういう面もあるだろうし、そもそもそのようにハッキリ批判してくれる人は大変ありがたいし、信用できる。
実際に平井さんは、大変語り口の熱い方なのだった。
それと、あえて「自分は網膜的だ」という態度を表明されていた点も、興味深い。
まぁ、酔っぱらいの席なので、記憶が定かでない部分もあるかもしれないが・・・


Sr8500034

1月11日は、藤沢にある彦坂尚嘉さんのアトリエにお邪魔したのだが、それは彦坂さんからデュシャンについてのお話とか、ぼくの作品との関係とか相違点とか、その辺のところをお伺いしたかったのだ。
しかし、お互いアートについての問題意識が違えばデュシャンについての捉え方も違うわけで、ましてぼくの作品について、特にデュシャンとの関係についてなんて、他人に早々判断できることではないのだった。
ただ、彦坂さんにとってもデュシャンは非常に重要な作家で、作品も素晴らしいが他人の作品を選ぶ目も素晴らしく肥えていて、フィラデルフィア美術館にある本物の作品を見ずしてデュシャンは語ることはできないと言われ、もうそれだけで「教え」としては十分以上にありがたい。
そして隣の女性は彦坂さんのアトリエの「気体分子ギャラリー」で個展開催中の栃原比比奈さんなのだが・・・

Sr8500030

アトリエで滞在製作中だった。
あらためて「油絵を描いてるなぁ!」と思ってしまったが、油絵はぼくも高校から大学にかけてちょこっと描いていたものの、ちゃんとマスターしないまま止めてしまった。
ぼくは同じアートとは言っても原点であるところの油絵からだいぶ遠くへ来てしまった気がするだけに、油絵を描いているのをあらためて目の当たりにして、妙な感慨に耽ってしまった。
油絵は確かに楽しかったが、いまとなって放てしなく面倒くさく、よほどのことが無い限りぼくは再開することは無いだろう。
しかし「よほどのこと」というのは、ひょんなことで起きる可能性があるのだが・・・

--

|

« 『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』 | トップページ | シニフィエ(意味内容)の連鎖 »

展覧会鑑賞」カテゴリの記事

コメント

「作品で成立している人が、それを理屈で補強する必要があるのか?」

既存の価値観の中で動いているときには理屈をいわなくても周りが勝手に理解してくれますが、
新しい分野を開拓する時にはジャスティフィケーションや理論武装が必要と感じられるのかもしれませんね。

投稿: schlegel | 2010年1月18日 (月) 07時08分

トマス・クーンの「科学革命の構造」からの引用の引用ですが、ひとまず読んでみてください。(引用元は「臨床の知とは何か(岩波新書)中村雄二郎著」)

“通常科学の目的には、新しい現象を引き出すことは含まれていない。そこでは、鋳型に嵌らないものは、まったく見落とされてしまう。こうして科学者はふつう、新しい理論を発明しようとめざしているのではなく、むしろ、パラダイムによってすでに与えられている現象や理論を磨き上げる方向に向かうのである。しかし、パラダイムに対する確信から生じるこのような視野の限定は、科学の発展に本質的なものである。つまり、きわめて専門的な小さな分野に注意を集中することによって、自然の或る部分を、かつて考えられなかったほど詳細に探求させるのである。そして通常科学では、これまでのパラダイムが有効に働かなくなれば、研究の絞られた分野を緩めることが起き、この点に至って、扱う問題の性格が変わることになる。”
 パラダイムは「思考の枠組みが惰性化して社会的に制度になっているもの」と読んでいただくのがよろしいかと思います。

この文章は「科学」を「芸術」、「現象」を「表現作品または表現技法」、「理論」を「芸術性」に置き換えても成り立ちます、違うのは科学は論理的なもので芸術は感覚的な要素が強いことですが、感覚的なものが社会的なものに影響されているのは「流行」を考えれば明らかなことで、そこから外れていると評価されなかったりするわけです。

昔はこれが固定的だったわけで、デュシャンが皮肉を込めてアンデパンダンに匿名で、というかスラングで「成金のアホ」という意味のある偽名を書き込んで「泉」を出品したのも当時の硬直した美術界への挑戦状みたいなものだと思うのですね。
ただ、デュシャンは言葉ではなく行為だけでやっているわけですが、分かる人には分かるだろうという直感があったのでしょうね、つまり、第一次世界大戦直後の欧米には既存の固定的だった価値観がマンネリ化していてそれが壊される期待があるのが分かっていたのでしょう。

「芸術に言葉はいらない」というのはschlegelさんがおっしゃるように同じ枠内でしか通じない話しでして、自分の作品の解説は不要かもしれませんが、それと自分の創作姿勢を言葉にしておくのとは意味が違うのだよね。。。

投稿: 遊星人 | 2010年1月18日 (月) 22時31分

言葉には「文脈」というものがあって、「作品で成立している人が、それを理屈で補強する必要があるのか?」という言葉も誰がどのような文脈で語ったかによって意味が違ってきます。
これが、いかにも何も考えてなさそうな人が言えば、それはあまり相手にする必要は無いのかもしれませんがW、この時はそうではなかった、ということです。
その言葉の深い意味は、さらにコミュニケーションを深めないと判明できませんが、ともかく自分について思ってもいなかった意見を言われたので、それが新鮮だったのです。

写真で作品を撮る写真家は「語る」のが好きな人が多いので面白いです。
そこがいわゆる「カメラマン」との違いではないかと思います。
写真家とは「いかに自分がカメラマンとは違うのかの説明を要する人」と定義できるかもしれません。
カメラマンは職人なので、その意味では説明不要です。
ぼくも説明が面倒な時は「カメラマン」と名乗りますW

>既存の価値観の中で動いているときには理屈をいわなくても周りが勝手に理解してくれますが、

つまり同じ「写真家」という枠内では共通の価値観が成立していても、「世間」とか「家族」は勝手になんか理解してくれるわけ無いので、それぞれ苦労してるんじゃないかと思うわけです。
もちろん同じ「写真家」の枠内でも価値観にずれがあるわけで、そこに議論の余地が出てきます。
さらに、そういう前提の上に「作品で成立している人が、それを理屈で補強する必要があるのか?」という意見が出てくるわけで・・・

デュシャンは「すべての理論はトートロジーでしかない」というふうに語ってますが、議論とは雪ダルマ式に増量するトートロジーなのかもしれません。

投稿: 糸崎 | 2010年1月21日 (木) 10時34分

「作品で成立している人が、」
までで、糸崎さんのことを評価されている方なのだとわかりつつ、
このようなコメントをいただいて糸崎さんが理屈をコネなくなったらつまらない(笑)
といらぬ心配をしたわけで失礼しました。
黙って写真を見てくれ、という立場もよく分かるし、
写真に関しては僕自身、写真にタイトルを付けるという感覚すら理解できないていどの素人なもので、、

投稿: schlegel | 2010年1月24日 (日) 17時32分

>写真に関しては僕自身、写真にタイトルを付けるという感覚すら理解できないていどの素人なもので、、

有り体に言えば、同じ写真でもタイトルが違うと全く違う内容に見えてしまう、ということですね。
写真雑誌のフォトコンテストでも、「写真は良いけどタイトルで台無し」というような批評がたびたび見られます。
しかしセンスでタイトルを付けるのは、恣意的なだけに難しいものがありぼくも苦手です。

恣意的ではなく必然ということなら、それは報道写真であり、科学写真の分野がそうですね。
写真雑誌に掲載される有名写真家の作例のキャプションに「一匹のハチが・・・」などと書かれてる場合、かなりの確率でアブだったりするので、まさに「台無し」ですw

ぼくの場合はだからタイトルやキャプションは科学的、必然的になって、だから「理屈っぽい」になるのかもしれません。
ただ、理屈に「ユーモア」を加えてはいけないということは無いので、それが自分の目指す「作風」なのですが・・・

投稿: 糸崎 | 2010年1月25日 (月) 12時37分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/204678/32974144

この記事へのトラックバック一覧です: 忙しいので人に会ってた:

« 『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』 | トップページ | シニフィエ(意味内容)の連鎖 »