シンポジウムの反省点(相互的非人称芸術)
報告が前後してしまったが、1月23日にYUKA CONTEMPORARYで開催された企画展『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』のトークシンポジウムが開催された。
出席者はアーティストの彦坂敏昭さん、小林史子さん、阿部大介さん、八木貴史さん(そしてぼく)に加え、美術批評家の沢山遼さんにも加わっていただき、お客さんも大勢いらして、なかなか盛況だった。
しかし個人的には決定的な反省点があって、そのおかげでいまひとつ他の方と話が噛み合ず、自分だけ空回り気味になってしまったように思う。
というのも、今回のシンポジウム参加に際してのコンセプトを決めてなかったので、グダグダになってしまったのだ。
いや、普通はコンセプトなんて不要なのだろうが、ぼくの場合は「非人称芸術」という特殊なコンセプトを掲げているので、ほかのアート関係者と対話する際は、そのためのコンセプトをきちっと設定しなければならないのだ。
なぜそれが必要なのかと言えば、早い話「非人称芸術」は原理的にその他のアート(人称芸術)を否定してしまうので、その原理に忠実に従えば喧嘩になって対話が成立しないのだ。
もちろん、ぼくは誰にも喧嘩をふっかけるつもりも無く、しかしそうするとコンセプトが曖昧になり、それでトークがグダグダになってしまったのだ。
しかし、そもそもぼくはいわゆる「人称芸術」のアーティストとの関係を成立させるために「相互的非人称芸術」というコンセプトを思い付いていたので、トークの際もそれを採用すれば良かったのである。
ただ、ぼく自身もまだ「相互的非人称芸術」がどういうものか理解しきれておらず、その実践の仕方も分かっていないのだ。
「相互的非人称芸術」とは、デュシャンの「相互的レディ・メイド」の概念が元になっている。
デュシャンは「相互的レディ・メイド」について、以下のように書いている。
別な機会に、芸術とレディ・メイドの間にある矛盾を強調するために、レディ・メイド レシプロック(リシプロカルレディ・メイド)つまり<相互的レディ・メイド>を想像した。
例えば、レンブラントの絵をアイロン台として!使うというものだ。(「レディ・メイドについて」マルセル・デュシャン)
つまり、便器やスコップなどの既製品にサインをして芸術作品とするレディ・メイドとは逆に、芸術作品の持つ「意味」を受け取らず、それを「実用品」として使用する行為が「相互的レディ・メイド」なのである。
この概念を「非人称芸術」に応用するとどうなるか?
まず「非人称芸術」は美術館やギャラリーの「外」に存在しているもので、原理的に「人称芸術」のように展示することは不可能である。
ところが「非人称芸術」を、フォトモやツギラマなどの「写真作品」に置き換えると、その他のアートと同じように展示することが可能になる。
フォトモやツギラマとして置き換えられた「非人称芸術」は、「非人称芸術」としての意味を無視した「人称芸術」として鑑賞可能になるのだ。
別の見方をすれば、「非人称芸術」はアーティストの手仕事を完全に否定した、純粋に「言語」の作用による創造行為である(この点はレディ・メイドと似通っている)。
ところがフォトモやツギラマは「手仕事」の産物であるので、形態的には「人称芸術」と同じになってしまうのだ。
つまり、レンブラントの絵をアイロン台として!使うように、「非人称芸術」を「人称芸術」として!使うのが「相互的非人称芸術」なのである。
そしてこの「相互的非人称芸術」の効果によって、ぼくは美術館やギャラリーで展示やイベントができているのだ。
この「効果」は、ぼくがフォトモやツギラマを始めた当初から働いていたのだが、その原理である「相互的非人称芸術」はごく最近見出された、というわけだ。
平たく言えば、「非人称芸術」は自分にとって非常に重要なコンセプトであるが、誰もそれを受け入れてくれず、しかし一方ではフォトモなどの作品はアートとして人々に受け入れられている、という現状がある。
この状況は「非人称芸術」の原理主義的に考えると、あまり喜ばしいとは言えないだろう。
しかし、一人の人間が「一つの原理」だけに従わなくてはならない理由は無く、自分の中に「複数の矛盾し合う原理」を同居させて使い分ける方が実際的である。
だからぼくもアートについて「非人称芸術」と「人称芸術」の二つの原理を採用することが可能なはずで、その橋渡しをするのが「相互的非人称芸術」なのである。
ただ、ぼくはもうだいぶ以前に「非人称芸術」に転向してしまったので、あらためて「人称芸術」とどう接するかはなかなか難しく、いろいろ試している最中である。
いろいろ試す一環として、今回のグループ展やシンポジウムがあったのだが、いろいろ失敗したおかげで得たものも多かった。
それで今回のシンポジウムでの最大の反省点なのだが、ともかくぼくは「相互的非人称芸術」のコンセプトに徹した態度で他の人とトークをすれば良かったのだ。
どういうことかと言えば、みんなが「アイロン台」の話をしているときに、一人で「レンブラントの絵」の話をしても意味が無いのである。
アイロン台やレンブラントの絵は例えだが、アートのシンポジウムで「非人称芸術」の話は誰も興味が無いだけに意味が無い。
それなのに、ぼくは中途半端に「非人称芸術」に言及してしまったので、喧嘩にまではならないものの、一人で空回り気味だったのだ。
「非人称芸術」はぼくの自己主張だが、それを封じるのであれば、質問して他人の自己主張を聞けば良かったのだ。
ぼくは自分の作品が「人称芸術」としてどのように意味があり評価されているのか知らないし、そもそも「人称芸術」の意味や文脈もよく掴めてないのだから、それをみんなに教えてもらえば良かったのだ。
そのようなことに気付いたのはトークが終わった後だったが、その後の飲み会には腰痛のため出席できず、まことに残念。
特に批評家の沢山遼さんにはいろんなお話が聞けそうだったのだが、それはまたの機会に・・・
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