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2010年2月

2010年2月20日 (土)

高松市美術館の企画展、始まってます

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デュシャンと自作を比較するとは・・・ずいぶん「大きく出たな」という感じですw

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とりあえず、このブログにも掲載した「イメージの連鎖」です。
もちろん、フォトモをはじめいろいろ展示してますが、順次ブログにアップするつもりです。

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2010年2月18日 (木)

高松市美術館での展示の準備・ボツ原稿

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高松市美術館の展示の準備ですが、いろいろ苦労してます。
以下、展示のための原稿ですが、長すぎてボツにしました。
それに、どれくらいわかりやすく書いて、どれくらい不親切にするかの頃合いも、今ひとつ判断できません。
わかりやすくすると、読む人の想像の余地を奪ってしまうので、適当に不親切にするのもテクニックのようで、デュシャンもそれを多用しているのです。
まぁ、いろいろ悩んだりするのも楽しいのですが、締め切りがあるのでいい加減なところで切り上げなくてはいけません。

『イメージの連鎖』

 私はあるとき、自宅のある東京都国分寺市の商店街で、不思議な帽子掛があることに気づいた。その帽子掛けは、帽子が掛けられない状態のまま、洋品屋の店先にずっと置かれたままだった。何より驚いたのは、その佇まいが、マルセル・デュシャンの代表的なレディ・メイド≪瓶乾燥器≫にそっくりなことだった。もちろんその帽子掛けはレディ・メイドなどではなく、単に「似ている」だけにすぎない。しかし私は、この帽子掛けをまるでレディ・メイド=芸術のように鑑賞してしまうのだ。

 この状況を自己分析した結果、私は自分の脳内で「イメージの連鎖」が起きていることに気づいた。「似たもの」というイメージが連鎖することで、本来的には「別カテゴリー」の二つのものが、「同カテゴリー」として認識されるのである。つまり≪瓶乾燥器≫イメージのが「帽子掛け」のイメージと連鎖することで、≪瓶乾燥器≫に含まれる「芸術としての意味内容」が、「帽子掛け」に転移している。と同時に、本来的な「帽子掛けとしての意味内容」は、完全に意識外に追い出されているのだ。

 別の例を挙げると、私は江戸川区小岩の路地裏でレディ・メイド≪自転車の車輪≫にそっくりの「自転車の車輪」を発見した。デュシャンの≪自転車の車輪≫は腰掛けの上にのせられているが、私が発見した「自転車の車輪」はポストの上にのせられている。これも「イメージの連鎖」によって、自分にとって芸術と同じような鑑賞の対象となる。
 このように特定のモデルとなる作品がなくとも、私は芸術からの「イメージの連鎖」によって、路上のありとあらゆるものをまるで芸術のように鑑賞して歩く。芸術作品とは詰まるとこと「人の手による造形物」であり、「芸術のイメージ」は路上のあらゆる造形物と連鎖する。そのように路上で見出された「芸術に似たもの」はレディ・メイドではなく、もちろん私の作品でもなく、あらゆる一人称的な芸術表現とは異なっている。そこで私はこれらを「非人称芸術」と呼ぶことにした。

 「非人称芸術」は、言葉の操作による創造行為の産物でもある。言葉の操作による創造は、デュシャンの作品で多用されている。たとえばデュシャンはSAPOLIN ENAMEL(サポラン エナメル)の広告の綴りに加筆を施しAPOLINELE ENAMELED(エナメルを塗られたアポリネール)と改竄した。その結果、ブリキのベットが詩人(アポリネール)に変身してしまう。デュシャンは言葉の「音」の連鎖を利用し、「音」が本来指し示すべき意味内容とのズレを生じさせている。それがデュシャンの「手で作ること」によらない創造行為となる。

 一方、私は水戸市の駐車場の奥で「アポリネール」にそっくりの「キリン」を発見した。この「キリン」は「イメージの連鎖」に伴う言葉の操作によって見出された「非人称芸術」に他ならない。非人称芸術は、鑑賞者による言葉の操作がなければ存在し得ない。だから原理的に、あらゆる人工物は「非人称芸術」の「可能態」なのである。結局のところ、「非人称芸術」とは「芸術に似たもの」に過ぎないのだが、それが「芸術以上に芸術的」と思えるのかどうかは、まさに「人による」のだろう。

糸崎公朗

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2010年2月17日 (水)

『変身は言葉から デュシャンと対話するフォトモ』

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高松市美術館で展示の準備中ですが、デュシャンの『トランクの中の箱』の中身を出してもらってるところです。
これとフォトモをどう組み合わせるのか・・・は実はまだ考え中で、考えながら作業してます。
以下、企画展のパンフレット用のテキストですが、コンセプト(というか心構え)はまたちょっと変わるかも知れません。
今回は個展ではなく、『コレクション+(プラス) メタモルフォーゼ!!!!!変身アート』の一環です、念のため。

『変身は言葉から デュシャンと対話するフォトモ』


私は今回、自分の作品とマルセル・デュシャンの作品との比較展示を、自らキュレーションすることとなった。デュシャンは言わずと知れた20世紀最大の芸術家であり、自分ごときとを比較するのは、実におこがましいことである。しかし「自分とは何者か」は自分だけ見てもわからず、「他者」との比較によってのみ捉えられる。それは芸術についても同じであって、だから今回はあえてこの「暴挙」を決意したのだ。私は「非人称芸術」という独自のコンセプトによって、芸術家の主体的創造性に疑問を投げかける。一方で私はその「相互的作用」として、写真を素材とする小さな模型「フォトモ」を制作する。そしてこの行為は、マルセル・デュシャンが提示した「レディ・メイド」のコンセプトと何らかの関係があるかも知れない……。何となくそう思っていた私は、美術館による「コレクション+」の企画を利用し、この疑問に対する答えを得ることにした。そこであらためてデュシャンについて勉強してみたのだが、そのうち答えなど簡単に得られるものではないことが、判明する。実はデュシャンは「レディ・メイド」について、科学のように明確な定義を与えていない。デュシャンは「レディ・メイド」のうちに、自分でも定義不可能な要素を認めており、だからその解釈の可能性によって人々を惹きつける。その反面、生半可で身勝手な解釈に陥る危険性も孕んでおり、私自身がすでにその過ちを犯している可能性もある。デュシャンは便器やシャベルなどの既製品に「言葉」を与えることで、それを「レディ・メイド」という形式の芸術に変える。一方でデュシャンは言葉を信用せず、あらゆる論理は前提の反復に過ぎないと批判している。またデュシャンは、芸術家は自ら生み出した芸術の意味を知ることは出来ず、それは鑑賞者だけが知り得るのだ、とも語っている。だから私はまず自分の作品「フォトモ」を差し出し、それらをデュシャンの作品と並べ、あとは沈黙するしかないのかも知れない。そうすれば「フォトモ」は自律的にデュシャン作品との「対話」をはじめるだろう。いや実は、美術館所蔵のデュシャン作品『トランクの中の箱』の中身に、「レディ・メイド」のミニチュアとしての「フォトモ」!が含まれており、そこでもう「対話」が始まっていたのだ。今回は通常のフォトモの他に、過去に他人が写した写真を素材にした「復元フォトモ」や、「非人称芸術」の生成過程を示した『イメージの連鎖』と題したシリーズ、デュシャンが言葉でのみ書き記した「相互的レディ・メイド」の概念モデルなども展示する。今回の企画展から、どのような「対話」を聞き取るのかはまさに鑑賞者に委ねるしかない。もし「非人称芸術」のコンセプトが私だけの妄想でなければ、そこには私自身が決して知り得ないような「客観的妥当性」が含まれているはずなのだ。

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2010年2月16日 (火)

企画展『新潟への旅』

新潟市美術館で開催中の企画展『新潟への旅』ですが、このように新潟市内を撮影した古写真から「復元フォトモ」を12点出展してます。
非常にあわただしく制作したので、途中経過の写真や、完成写真は撮ってません・・・

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展示の状況はこのような感じだそうですが、実はぼくはまだ会場に入ってないのです。高松市美術館の企画展の準備のため、来週頭まで高松に滞在なのです。
当然のことながら、新潟市美術館の方はオープニングも出られず、写真だけ学芸員さんに送ってもらいました。

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もう一枚。
しかしこの写真だと今ひとつ展示状況はわかりませんw

Niigata01
オープニングのトークの様子のようですが、他の作家さんにお会いしてないので、誰が誰だかわかりませんw
少なくとも、ワークショップの際は新潟の会場に行きます。

ぼくの展示の解説は、以下の通りです。

****

私が提示するのは、過去の新潟へのタイムトラベルである。

今回の作品は、明治から昭和にかけて新潟市内で撮影された写真を素材にしている。これらの写真をデジタル加工後にプリントアウトし、そこに写る建物や人物などのオブジェクトをハサミで切り抜き、立体的に配置する。すると写真のようにリアルなミニチュアの街並が完成する。これは写真に内在する立体情報を復元することでもあり、この手法を「復元フォトモ」と名付けた。この作品が単なる懐古趣味に終わらず、現在の「新潟への旅」に新鮮な発見をもたらすことを私は期待している。

糸崎公朗

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2010年2月 7日 (日)

彼女の独身者によって裸にされた東京の花嫁、さえも

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2月5日は東京大学駒場キャンパスの美術博物館に行ってきた。
ここに収蔵されているデュシャンの『大ガラス・東京バージョン』を見るためである。
実は、この美術博物館は館内整理のため休館中なのだが、特別の計らいで『大ガラス』のみ見せていただいたのだった。
なぜ『大ガラス』を見に行ったのかというと、先日アーティストの大先輩の彦坂尚嘉さんに「デュシャンの作品の実物を見ないでデュシャンについて語るのは馬鹿げている」というように非難されたのだが、デュシャンの作品の大半が収蔵されているフィラデルフィア美術館にすぐ飛んで行くわけにはいかないし、しかし『大ガラス』だったら東京に『東京バージョン』があるではないかと思い、腰の調子もだいぶよくなったので行ってみたのだった。

それでこちらのページに画像が掲載されていた『大ガラス・東京バージョン』だが、ごらんの通りオリジナルの『大ガラス』と異なりヒビの入っていないツルリン状態で、どうも不思議な気がする。
いやそれ以前に、ガラスに描かれた『大ガラス』の、レプリカとは言えオリジナルに忠実に作られた「実物」は、なかなかに不思議な存在だ。
平面に描かれたオブジェクトが宙に浮いているような感じで、デュシャンが「四次元の投影」としたのも頷ける気がする。
また透けて見える『大ガラス』には裏も表もないだろうと何となく思っていたのだが、そうではないこともあらためて確認できた。
「裏」は絵の具を保護するために全体に鉛箔が貼られているので、オブジェクトがシルエットになっている。
これが経年変化でまた微妙な色彩を帯び、一部は剥離しかけていたりして、表とはまた違う「作品」に見えるから面白い。
オリジナルの『大ガラス』は割れたガラスを2枚のガラスで挟んであるが、割れていない「東京バージョン」は一枚のガラスなので、剥離した状態もリアルに確認できる。
この「東京バージョン」は制作から今年で30年だそうで、基本的には修復はせずに経年変化に任せる方針なのだそうだ。
ちなみに春から、その30周年を記念した展示も企画してるらしいので、そちらも楽しみだ。
ともかく、この「東京バージョン」の細部をしっかり目に焼き付け、その周囲をぐるぐると何回も回ったりして、十分に堪能したのだった。
これでもう一度、『マルセルデュシャン全著作』の『グリーンボックス』に書かれた項目を読めば、一段と理解が深まるかも知れない。

とは言え、もちろん彦坂さんの指摘通り、フィラデルフィアで「オリジナル」を見なければ本当の意味で十分とは言えないだろう。
いや『大ガラス』のみであれば、『東京バージョン』だけでもかなり十分かも知れない。
しかしフィラデルフィア美術館には『遺作』をはじめとするデュシャンの作品のほとんどが収蔵されており、デュシャン自身も自分の作品を一カ所にまとめて展示することを強く望んでいたのである。
つまり『大ガラス』は、『遺作』や「レディ・メイド」や『階段を降りる裸体』などデュシャンの他の作品とともに見なければ意味が半減してしまう。
デュシャンの作品群は、全体を一つの作品のように捉えなければならないのだ。
もちろん作品だけではなく、『グリーンボックス』などのデュシャンのテキストもあわせて読む必要がある。

ともかくぼくはレプリカとはいえ『大ガラス』は見たし、日本語に訳されたデュシャンの文章はだいぶ目を通したし、『トランクの中の箱』は実物を間近で子細に見ることも出来たし、半年前に比べると格段に「語る資格」が得られたのではないかと思う。
しかしこの「語る資格」とはあくまで対外的なもので、客観的証拠集めのようなものである。
前回の記事でも書いたのだが、自分の主観的事実としてはもう「犯人」はわかっているのだから、その意味で証拠集めはトートロジーに過ぎない。
そう思っていたので、2005年に横浜美術館で『マルセル・デュシャンと20世紀美術』が開催され、そこに『大ガラス・東京バージョン』も『トランクの中の箱』もレディ・メイドもいろいろと展示されたにもかかわらず、行かなかったどころか展覧会の存在すら知らなかったのである。
しかし、最近は「主観的事実」のみでは警察に相手にされず、犯人は逮捕してもらえない事がわかったので、いろいろと見るようにしているのだ。

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2010年2月 2日 (火)

感覚的事実と客観的証拠

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(*写真は本文と無関係です)

マルセル・デュシャンは、ピエール・カバンヌとの対談で以下のように語っている。

ウィーンの論理学者はある体系を練り上げたわけですが、それによれば、私が理解した限りでは、全てはトートロジー、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へと行くわけですが、全ては最初の定理の中にあるのです。ですから、形而上学はトートロジー、宗教もトートロジー、全てはトートロジーです。このブラック・コーヒーを除いて。なぜなら、ここに感覚の支配がありますから。
私がブラック・コーヒーを見ている。感覚器官のコントロールが働いています。これは真実です。他の残りはいつでもトートロジーです。

(「デュシャンの世界」朝日出版社 P238)

これについて、デュシャンの「真意」は今ひとつわかりかねるのだけど、自分に当てはめて思いついたことを書いてみる。

「ヤングマガジン」という漫画雑誌に古屋実さんの『ヒメノアール』という漫画が連載されている(いつも立ち読みだが)。
それで先週は、殺人を目撃した青年(漫画家)が、数日後に犯人がファミレスにいるのを発見し、犯人の目の前の席に座り「通報するからな!」と宣言して警察に携帯電話をかける、という場面があった。
ところが、電話の向こうの警察官は、イタズラだと思って全く相手にしない。
あせった青年は、ファミレスの店員にも「こいつは殺人犯だから警察を呼んでください!」と訴えるが、これもヘンな人だと思われて相手にされない。
殺人犯はその間、抵抗もせず黙って落ち着いてその様子を見ており、やがてふつうに会計を済ませて店を出てしまった。
それで青年は犯人の後を追い、公園にさしかかった際に野球用バットを拾い、「これでおまえを殴って警察に引き渡す」と脅しを掛ける。
ところが殺人犯は警官から奪った拳銃を隠し持っており、青年は殺されてしまう。

・・・というところで先週は終わり、今週の『ヒメノアール』は別のシーンから始まっているのだが、それはさておき。
有り体に考えると、殺人犯を目撃した青年は、ちゃんとした「証拠」を示した上で警察に通報すればよかったのだ。
それをしなかったために警察に信じてもらえず、自分もまた犯人に殺されることになってしまった。

で、これをデュシャンの言葉と合わせて考えると、殺人の証拠をいくら詳細に調べ上げても「あいつが犯人だ!」という事実そのものに変化はない。
自分は実際にこの目で殺人の現場を目撃したのだから、その後でいくら客観的な証拠を集めようとも「あいつが犯人だ!」という言葉は同じであり、つまりはトートロジーなのである。
この場合「自分が見た」という感覚的真実を重視するなら、トートロジーに意味はない。
しかし殺人を目撃した青年は、その「感覚的真実」を重視した結果、犯人に殺されてしまったのだ。
だから日常生活においては「感覚的真実」に頼りすぎず、トートロジー的に理論を積み重ねる事は重要である。
だが、日常生活を逸脱した芸術にとっては「感覚的真実」こそがすべてであり、トートロジーに意味はない・・・とデュシャンは言ってるのかどうか、それはちょっとわからない。

しかし自分に当てはめて考えると、これまで「感覚的真実」を重視しすぎていたようで、そのことを最近になって反省しはじめているのだ。
この場合のぼくにとっての「感覚的真実」とは、「非人称芸術」の存在であり、そのコンセプトの妥当性である。
つまりぼくは「犯人は非人称芸術だ!」と折に触れ世間に訴え続けてきたのだけど、ほとんど誰にも相手にされないでいる。
その大きな原因の一つは、ぼくが「感覚的真実」ばかり訴えて、「客観的証拠」をほとんど提示しなかったことにあるだろう。
「非人称芸術」の原理に忠実に従えば、それは誰にも理解される必要もなく、だから「客観的証拠」も必要ない。
証拠集めはトートロジーであり、同じ事の繰り返しは芸術をつまらないものにしてしまう。
しかし自分の芸術を世間の人に認めてもらいたいのであれば、そのための「証拠」を提示する必要がある。

「世間に認められたい」という欲望は、純粋に芸術に殉じたいという欲望とは別物なので、別のプロセス=トートロジーが必要となる。
具体的に言えば、ぼくは何人かの友人から「糸崎さんは芸術のことをろくに知りもせず、作品もほとんど見てないにもかかわらず、上から目線で芸術を否定する」と言うように非難されているのだが、実際にはまぁその通りである。
ぼくにとって「非人称芸術」のコンセプトが正しいことは自明であって、いくらその他の芸術をたくさん見たからと言って、それが覆ることはなく、つまりはトートロジーに過ぎないのだ。
しかしそれではいつまで経っても友人たちを説得できず、そこで対話が成立することもなく、つまりは友人関係の継続が不可能になってしまう。
そこにはすでに「別の欲望」が働いており、そのための「別の方法論」が必要なのだ。

だから最近のぼくは、「非人称芸術」が犯人であることを示すための「客観的証拠」を探そうとしているのだ。
この場合の「客観的証拠」とは「美術史」のことであり、つまり「非人称芸術」というものを、その他の芸術家との「関係性」で示す、ということである。
それでまず手始めにデュシャンについて、いろいろ勉強しているのだ。
そして今日はヨーゼフ・ボイスの本『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命(フィルムアート社)』を買ってしまったのだが、以前は全く興味がなかったのに、今読むと面白く感じてしまうから不思議である。
ボイスは「社会彫刻」という概念を提唱しているのだが、これもまた「非人称芸術」とある意味で共通点があるようで、いろいろと発見がある。

以上、デュシャンの言葉からちょっと脱線してしまったが、「感覚的真実」と「客観的証拠」はうまく使い分ける必要がある、という考えはアリだろうと思うのだ。

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