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2010年2月 2日 (火)

感覚的事実と客観的証拠

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(*写真は本文と無関係です)

マルセル・デュシャンは、ピエール・カバンヌとの対談で以下のように語っている。

ウィーンの論理学者はある体系を練り上げたわけですが、それによれば、私が理解した限りでは、全てはトートロジー、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へと行くわけですが、全ては最初の定理の中にあるのです。ですから、形而上学はトートロジー、宗教もトートロジー、全てはトートロジーです。このブラック・コーヒーを除いて。なぜなら、ここに感覚の支配がありますから。
私がブラック・コーヒーを見ている。感覚器官のコントロールが働いています。これは真実です。他の残りはいつでもトートロジーです。

(「デュシャンの世界」朝日出版社 P238)

これについて、デュシャンの「真意」は今ひとつわかりかねるのだけど、自分に当てはめて思いついたことを書いてみる。

「ヤングマガジン」という漫画雑誌に古屋実さんの『ヒメノアール』という漫画が連載されている(いつも立ち読みだが)。
それで先週は、殺人を目撃した青年(漫画家)が、数日後に犯人がファミレスにいるのを発見し、犯人の目の前の席に座り「通報するからな!」と宣言して警察に携帯電話をかける、という場面があった。
ところが、電話の向こうの警察官は、イタズラだと思って全く相手にしない。
あせった青年は、ファミレスの店員にも「こいつは殺人犯だから警察を呼んでください!」と訴えるが、これもヘンな人だと思われて相手にされない。
殺人犯はその間、抵抗もせず黙って落ち着いてその様子を見ており、やがてふつうに会計を済ませて店を出てしまった。
それで青年は犯人の後を追い、公園にさしかかった際に野球用バットを拾い、「これでおまえを殴って警察に引き渡す」と脅しを掛ける。
ところが殺人犯は警官から奪った拳銃を隠し持っており、青年は殺されてしまう。

・・・というところで先週は終わり、今週の『ヒメノアール』は別のシーンから始まっているのだが、それはさておき。
有り体に考えると、殺人犯を目撃した青年は、ちゃんとした「証拠」を示した上で警察に通報すればよかったのだ。
それをしなかったために警察に信じてもらえず、自分もまた犯人に殺されることになってしまった。

で、これをデュシャンの言葉と合わせて考えると、殺人の証拠をいくら詳細に調べ上げても「あいつが犯人だ!」という事実そのものに変化はない。
自分は実際にこの目で殺人の現場を目撃したのだから、その後でいくら客観的な証拠を集めようとも「あいつが犯人だ!」という言葉は同じであり、つまりはトートロジーなのである。
この場合「自分が見た」という感覚的真実を重視するなら、トートロジーに意味はない。
しかし殺人を目撃した青年は、その「感覚的真実」を重視した結果、犯人に殺されてしまったのだ。
だから日常生活においては「感覚的真実」に頼りすぎず、トートロジー的に理論を積み重ねる事は重要である。
だが、日常生活を逸脱した芸術にとっては「感覚的真実」こそがすべてであり、トートロジーに意味はない・・・とデュシャンは言ってるのかどうか、それはちょっとわからない。

しかし自分に当てはめて考えると、これまで「感覚的真実」を重視しすぎていたようで、そのことを最近になって反省しはじめているのだ。
この場合のぼくにとっての「感覚的真実」とは、「非人称芸術」の存在であり、そのコンセプトの妥当性である。
つまりぼくは「犯人は非人称芸術だ!」と折に触れ世間に訴え続けてきたのだけど、ほとんど誰にも相手にされないでいる。
その大きな原因の一つは、ぼくが「感覚的真実」ばかり訴えて、「客観的証拠」をほとんど提示しなかったことにあるだろう。
「非人称芸術」の原理に忠実に従えば、それは誰にも理解される必要もなく、だから「客観的証拠」も必要ない。
証拠集めはトートロジーであり、同じ事の繰り返しは芸術をつまらないものにしてしまう。
しかし自分の芸術を世間の人に認めてもらいたいのであれば、そのための「証拠」を提示する必要がある。

「世間に認められたい」という欲望は、純粋に芸術に殉じたいという欲望とは別物なので、別のプロセス=トートロジーが必要となる。
具体的に言えば、ぼくは何人かの友人から「糸崎さんは芸術のことをろくに知りもせず、作品もほとんど見てないにもかかわらず、上から目線で芸術を否定する」と言うように非難されているのだが、実際にはまぁその通りである。
ぼくにとって「非人称芸術」のコンセプトが正しいことは自明であって、いくらその他の芸術をたくさん見たからと言って、それが覆ることはなく、つまりはトートロジーに過ぎないのだ。
しかしそれではいつまで経っても友人たちを説得できず、そこで対話が成立することもなく、つまりは友人関係の継続が不可能になってしまう。
そこにはすでに「別の欲望」が働いており、そのための「別の方法論」が必要なのだ。

だから最近のぼくは、「非人称芸術」が犯人であることを示すための「客観的証拠」を探そうとしているのだ。
この場合の「客観的証拠」とは「美術史」のことであり、つまり「非人称芸術」というものを、その他の芸術家との「関係性」で示す、ということである。
それでまず手始めにデュシャンについて、いろいろ勉強しているのだ。
そして今日はヨーゼフ・ボイスの本『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命(フィルムアート社)』を買ってしまったのだが、以前は全く興味がなかったのに、今読むと面白く感じてしまうから不思議である。
ボイスは「社会彫刻」という概念を提唱しているのだが、これもまた「非人称芸術」とある意味で共通点があるようで、いろいろと発見がある。

以上、デュシャンの言葉からちょっと脱線してしまったが、「感覚的真実」と「客観的証拠」はうまく使い分ける必要がある、という考えはアリだろうと思うのだ。

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