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2010年3月

2010年3月31日 (水)

2010年3月tweet

知り得ないことが存在するのは、それについてのルールが存在しないからである。
他人とケンカになるのは、ゲームの中に「この人とはケンカになるかも知れない」というルールが設定されているからである。ゲームの中に「この人とは絶対にケンカしない」というルールを設定すれば、ケンカになることは絶対にない。
非人称芸術を「フォトモ」に置き換えると護美になる。つまりそれは他の護美と同じく、美しい故に護られる対象として認識される。
美術館は護美集積所であって、美しいものは護られなければならない。
ルールを決めなければゲームを始めることは出来ない。 ルールを決めなければ、既存のゲームのルールに巻き込まれてしまう。
私は科学が使えないので呪術を使います。 現代の呪術は科学の断片で出来ています。
アーティストになりたい人は、いろいろなアートの真似をすればいい。真似が出来ない人は独自の道を歩み、アーティストにはなれない。
超芸術トマソンは非人称芸術の代替物に過ぎない。
蝶番を複数箇所に設けること。そうすれば反転の反転は元通りにはならない。
もっと素直に、芸術っぽい作品はやっぱり芸術なんだと、そう考えて良いのかも知れない。
信仰を変えること。そうすれば美術家にも写真家にもなれるだろう。
おそらく、自分の「好み」が非人称芸術のコンセプトを妨げている。
自分自身の感想が一番クダラナイ。
フォトモは非人称芸術の身代わりに過ぎない。
私は「美術」も「写真」も疑っているが、「非人称芸術」だけは疑っておらず、それが最大の欠点だ。
「写真」を疑ったら写真家になることは出来ない。
「美術」を疑ったら美術家になることは出来ない。
私はの視点は「写真家的視点」から絶えず逸らされている。
写真家になりたければ、写真家的に世界の捉え方を変えればいい。
知りたければ真似をしてみればいい。
言語を解体し、自分も解体する。

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2010年3月28日 (日)

仏教の次は旧約聖書

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ブッダのこと スッパニパータ』に続いて『旧約聖書』を再び読み始めたのだが、両方の内容の落差に頭がクラクラしてしまった。
とりあえず『出エジプト記』まで読んだのだが、分厚い上に文字が小さいので先は長い・・・

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2010年3月26日 (金)

高松市の『変身アート』は28日まで!

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撮影者から「この写真を使ってくれ」と言われた気がしたので・・・w
高松市美術館の展示も、地元丸亀町商店街でのアートイベントも、もうすぐ終わりです。

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2010年3月23日 (火)

実験・ストリートでのフォトモ展示

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お知らせ遅れましたが、高松市丸亀町の商店街のアートイベントで「復元フォトモ」を展示中です。
これは国鉄時代の高松駅前ですが・・・

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スタッフの皆さんと協議した結果、こんな展示になりました。
「ストリート」ということで、フォトモの中から出てきた人間(ヒトガタ)がその辺を歩き回ってる、と言うイメージです。

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ぼくは高松滞在中にヒトガタの画像データと試作品だけを作り、制作とレイアウトはスタッフにお願いしました(この写真もスタッフによる撮影です)。
丸亀町商店街の「一番街」というショッピングビルの通路です。

この展示が「成功」なのかは微妙ですが、ともかくフォトモをストリートに展示するのは困難で、いろいろアイデアを出して実験してみるしかありません。

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2010年3月21日 (日)

『ブッダのことば スッパニパータ』

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とりあえず読み終わりました。
「とりあえず」こういうものは繰り返し読んでこそ意味があって、religion(宗教)には「繰り返し読む」という意味があるのだそうです。
最も古い仏教書ということですが、その内容はかなり「実用的」で、例えば論争の仕方なども書いてあるのですが、そのコツは「論争をしてはならない」ということで、「自説の正しさ」にこだわると必然的に「おまえの説は間違いだ」と他人を非難することになり、お互いケンカになってしまう。
これを避けるには「自説の正しさにこだわらない」ということで、これは至極当たり前のことのようだけど、あまりにも当たり前すぎて他の本には書かれておらず、そのようなことが他にもこの本にはいろいろ書かれていて、その意味では非常に「実用的」であって、繰り返し読む必要があるのではないかと思うわけです。

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2010年3月18日 (木)

実験・トランクの中の箱とリカちゃんハウス

前回の記事で、高松市美術館の企画展での新作として『イメージの連鎖』を紹介したのだが、これらは「組写真」としては確かに新作なのだが、素材写真はフィルムで撮影された古いものだったりする。
しかし、今回の展示に合わせて特別に制作した、正真正銘の「新作」も出品している。

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それが『イメージの連鎖(トランクの中の箱とリカちゃんハウス』である。
ぼくは、高松市美術館で初めて『トランクの中の箱』を見た際、子供の頃妹が遊んでいた「リカちゃんハウス」を思い出してしまった。
そこであらためてネットで画像検索して、思った以上に両者が「そっくり」だったこ とに驚いてしまったのだ。
と言うことは、「アートと類似」という記事で詳細に語っている。
しかし、今回の高松市美術館の展示は驚く無かれ・・・

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これはどういうことかというと、実は展示会場では『トランクの中の箱』の実物の隣に、「リカちゃんハウス」の実物が並べられているのだ
そして、この「実物を並べた展示」を実現するため、ぼくはネットショップで見つけた「リカちゃんファッションハウス」のデットストック品を、結局のところよんまんごせんえんで購入してしまったのだ!
それだけではなく、ご覧の『トランクの中の箱』のための展示ケースも、この企画を実現するために自腹(じゅうまんえん)で注文制作したのだ!!
なぜなら美術館にはこの半分のサイズの展示ケースしか無く、しかも美術館は年度末で予算もなく、だったらぼくが自腹で!!!というふうに思い切ったのだ。

ともかく、この場に置かれたリカちゃんハウスを「まるで『トランクの中の箱』の 別バージョンのようだ」と思うか、それとも「こんな比較はそもそも馬鹿馬鹿しい」と思うのかは、まさにその人の「アート」のとらえ方によるだろう。
アートの捉え方が異なれば「何をシニフィアンと見なすか」も異なり、ぼくが提示した「シニフィアン連鎖」も全員に通用するとは限らない。
その意味で、ぼくは自分なりの「アートの概念」を提示しているつもりではある。

この展示はまた、ぼくが普段から行っている路上(フィールド)での「イメージの連鎖」を、美術館(実験室)で試みた再現実験だとも言えるだろう。
前回の記事で紹介したその他の『イメージの連鎖』は、あくまでフィールドで発見されたものの記録であり、「室内の実験」とはその意味で異なっている。
果たしてこの「実験」は成功なのか?と言うと、自分としてはまずは成功であり満足している。
いや金を掛けた分、成功だと思いたいだけなのかも知れないが・・・

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イメージの連鎖(本番)

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以前に「イメージの連鎖」というタイトルの記事をアップして、後で加筆しようと思ってそのまま放置になってしまったのだが、今回の高松市美術館での企画展が「本番」なのである。

すでに説明したとおり、ぼくは高松市美術館の企画展の一コーナーで、美術館コレクションのデュシャン作品と、自分の作品を組み合わせる展示を自分で企画することになった。
ぼくは自分が提唱する「非人称芸術」と、デュシャンが示した「レディ・メイド」のコンセプトとは何らかの関係があると感じていた。
だからこの 機会に自分のアート観を捉え直す意味でも、デュシャンと自分の「実作品」と組み合わせた展示を行ったら・・・今から思えば大変に無謀なことを考 え、そのキュレーション(展示企画)を引き受けたのである。

ところが、あらためてデュシャンに関する本をいろいろと読んでみると、これまでの自分の知識がいかにいい加減であったかが思い知らされてしまった。
と同時に、デュシャンの言葉は全ては理解できないものの非常に刺激的であり、おかげでいろいろなアイデアが思い浮かび収拾が付かなくなってしまった。

それでいろいろ悩んだあげく、デュシャンと自分とを結ぶ一点として思い至ったのが「イメージの連鎖」というコンセプトである。
まずは、ぼくが展示用に書いたテキストを引用してみよう。

『イメージの連鎖』

あるとき、自宅そばの洋品屋の店先に、帽子が掛けられていない帽子掛けがずっと置かれていることに気づいた。
何より驚いたのは、その佇まいが、マルセ ル・デュシャンの代表的なレディ・メイド『瓶掛け』にそっくりなことだった。
もちろんその帽子掛けはレディ・メイドなどではなく、単に「似ている」だけに すぎない。しかし私は、この帽子掛けをまるでレディ・メイド=芸術のように鑑賞していた。


この状況を自己分析すると、自分の脳内で「イメージの連鎖」が起きていることに気づく。
つまり『瓶掛け』のイメージが「帽子掛け」のイメージと連鎖する ことで、『瓶掛け』に含まれる「芸術としての意味内容」が、オブジェとしての帽子掛けに転移結合している。
と同時に、「実用品としての帽子掛け」という本 来的な意味内容は完全に見失われている。


このように特定のモデルとなる作品がなくとも、私は芸術からの「イメージの連鎖」によって、路上の建物や街並みなどを、まるで芸術のように鑑賞しながら 歩く。
芸術作品とは「人の手による造形物」であり、「イメージとしての芸術」は路上のあらゆる造形物と連鎖する可能性を持つ。


そのように路上で見出された「芸術に似たもの」はレディ・メイドではなく、もちろん私の作品でもなく、あらゆる一人称的な(芸術家による)芸術とは異 なっている。
そこで私はこれらを「非人称芸術」と呼ぶことにした。
イメージの連鎖は全くの主観的作用であり、「非人称芸術」の存在は鑑賞者の主観のみに委ねられているのである。


糸崎公朗

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まずは『イメージの連鎖(瓶掛けと帽子掛け)』を見ていただこう。
額装した状態ではわかりにくいので、4枚組写真を1枚に再構成してみた。
左上が デュシャンの『瓶掛け』であり、デュシャンはワインの空き瓶を逆さに掛ける器具をデパートで購入し「レディ・メイド」とした。
左下は「シュルレアリスム展」での『瓶掛け』の展示写真で、ダリの作品なども並んでいる(これらの図版は作品集をスキャンして引用)。

右の2枚はぼくが自宅そばで見かけた「帽子掛け」で、このように並べると我ながら感慨深いものがある。
これは美術史家の高階修爾さんの受け売り (ブリコラージュ)なのだが、絵画や彫刻をはじめとするアートの原点は「実物そのもの」ではなく「実物に似ている」という点にある。
それは「写真」も同じ であり、写真は「三次元の実物に似た二次元平面」だからこそアートになりうる。
その意味で、ぼくは路上でアートとは異なる「アートに似たもの」を探し出 し、それを「非人称芸術」と呼んでいるのだ。

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次の組写真は『イメージの連鎖(自転車の車輪)』で、左がデュシャンによる最初のレディ・メイド『自転車の車輪』で、右はぼくが江戸川区小岩の路地で発見した「自転車の車輪」である。
この「自転車の車輪」は、ポストの上に何の気なしに置かれたのだろう。
少なくとも「アートとしての意図」によって置かれたとは考えにくく、だからこそ「非人称芸術」として指し示すことが出来る。
この場合の「非人称」とは「主体が無い行為」を意味している。
例えば「雨が降った」という文の主語は「非人称」である。
また、裁判で判決を下すのは一人称(私)としての裁判官ではなく、「非人称的な日本国民」を代表した裁判官なのである。

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この組写真は『イメージの連鎖(アポリネールとキャメル)』で、上の『エナメルを塗られたアポリネール』は、デュシャンによる「手を加えられたレ ディ・メイド」のひとつである。
デュシャンは「SAPOLIN ENAMEL(サポラン エナメル」という塗料の広告に加筆して、「APOLINERE ENAMELD(エナメルを塗られたアポリネール)」と改竄した。
その結果、少女にエナメルを塗られた金属製ベッドが、詩人(アポリネール)に変身してし まっている。

これは精神分析の分野で「シニフィアン連鎖」といわれる現象を利用した創造手法だと言える(デュシャンはそのような用語を使ってはいないが)。
この場合の「シニフィアン」とは文字や音声など、言葉の持つ「記号的側面」を指す。『エナメルを塗られたアポリネール』では、「SAPOLIN」と 「APOLINERE 」という似た記号が連鎖することで、アートとしての「新しい意味」が生じている。
一般的に「言葉遊び」とか「地口」と言われるものと同じだが、デュシャン は「シニフィアン連鎖」の手法を自作の多くに取り入れている。

それに対しぼくは「イメージの連鎖」により「アポリネール」にそっくりの「キャメル」を水戸市で発見してしまう(下)。
これは駐車場奥の車止め であり「キャメル」は店名なのだろう。しかし「キャメル」と名づけられたそれは「ペンキを塗られたキャメル(アポリネールの亜種)」だとしか思えないのである。

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さて、再びデュシャンの作品『L.H.O.O.Q』(左)を見てもらうが、この作品は市販されたモナリザの複製印刷に鉛筆で口ひげとあごひげが描かれ、絵の下に同じく鉛筆で「L.H.O.O.Q」という文字が書かれている。
この「L.H.O.O.Q」の文字列はフランス語で続けて発音すると「Elle a chaud au cul(彼女のお尻は熱い)」となり、ダヴィンチが男色家であったことや、モナリザは実はダヴィンチの自画像であったことの説への暗示となっている。
これもまさに、言葉の記号的側面が連鎖する「シニフィアン連鎖」を利用した創造なのである。

そのようなデュシャンに対し、ぼくは自分自身の創造的方法論として「イメージの連鎖」を採用していたことに思い当たったのだが、しかし「イメージの連鎖」もまた「シニフィアン連鎖」のひとつなのだ。
つまり「似たイメージ」に反応することは、イメージを「記号」として捉えることと同意なのだ。
ソシュールによると、言葉(シーニュ)は記号表現(シニフィアン)と意味内容(シニフィエ)の結びつきなのだが、「イメージ」は記号表現として認識されることもあるし、意味内容として認識されることもある。

例えば「犬」という言葉からいろいろな犬の姿をイメージすれば、それは意味内容(シニフィエ)である。
対して「犬」という文字は活字であっても、へたくそな手書き文字でも、同じ「犬」という字として認識されるが、それがイメージとしての記号表現である。
だらか「イメージの連鎖」とは、さまざまなイメージを「文字」のように認識することであり、それによって新たな「意味内容」を読み取ることなのだと、言い換えられるかも知れない。

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デュシャンの『トランクの中の箱』

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前回の記事の続きだが、3月28日まで高松市美術館の企画展で展示中のデュシャン作品の紹介である。
ともかく、ぼくの今回のキュレーションした展示コーナー『デュシャンと対話するフォトモ』に何の価値も見出せなかったとしても、この『トランクの中の箱』だけでも見る価値は十分にあるだろうと確信する。
これは、デュシャン作品の複製印刷やミニチュアなどが納められた、「携帯式移動美術館」といった作品で、1941年から1971年にかけて基本的に 同じものが300点あまり作られたマルチプル(複数制作品)である。

この作品は収納状態では文字通り「箱」なのだが、その箱を開け、左右の「引き戸」を展開すると、中央にデュシャンの代表的な大作『大ガラス』のセルロイド製ミニチュアと、その 左に並んだ「レディ・メイド」などがお目見えする。
さらに下部の蓋を開けると、中には絵画やスケッチ、立体作品の写真などの複製印刷物が数十点納められており、今回の展示ではこれらを周囲に重ねて配置している。
デュシャンは『トランクの中の箱』について、以下のように語っている。

ささやかな商売です、まったくのところ。そのほうが新しい絵を描くよりはるかに容易だし、一人の人間の生活を表現するものをひとまとめに するのはもっと面白い。

デュシャンの書簡集を読むと、『トランクの中の箱』の制作のため、作品の撮影を友人のマン・レイなどに依頼したり、気に入った印刷所を探したり、『大ガラス』のミニチュアのための透明素材を吟味したり、いろいろ手はずを整えている様子がうかがえて興味深い。
ともかく単なる「作品集」とは概念の異なる前代未聞の作品であり、だからこそデュシャンも情熱を注ぐことが出来たのだろう。

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『トランクの中の箱』を裏から見るのも実に感慨深い。
『大ガラス』のミニチュアも裏から透かしてみることが出来る。
ボードの裏側の「逆M字」の構造体も目を引くが、工芸品的にもキッチリ作られていることに、当然のことながら感心してしまう。
この設計は当然デュシャンによるものだが、組み立てには助手も使われ、初期のロットにはジョセフ・コーネルが手がけたものが含まれているそうだ。
高松市美術館の収蔵品は最終ロットで、デュシャンの死後を引き継いだアンリ・マティスの孫が組み立てを請け負っている。

手前に見える『階段を降りる裸体No2』は、前回の記事で紹介した複製印刷と基本的に同じもののようで、デュシャンは『トランクの中の箱』の資金調達のため、前もって印刷した複製印刷の一部を販売したそうだ。

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個人的に目を引くのがレディ・メイドのミニチュアで、下に見えるのが言わずと知れた『泉』で、つまりは便器である。
その上は『旅行用折りたたみ品』で、もとはunderwood社製タイプライターのカバーである(経年変化で素材が痛んでいるが)。
さらにその上に、ここには写っていないが『パリの空気』(元は空の血清アンプル)と、3つのミニチュアが納められている。

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さて、これは展示準備中の『トランクの中の箱』で、中の複製印刷を一通り並べたところだ。
本来は、このように内容物が全て見えるような展示をするのが本来的なようにも思えるのだが、実はそれは不可能なのである。

なぜなら、ぼくも実物を見て驚いてしまったのだが、複製印刷は黒ラシャ紙の「両面」に貼り付けられ、ものによっては二つ折りにされたラシャ紙の内側にも貼られており、だから「全作品を同時に見せる展示」は不可能なのだ。

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また本体下部の、複製印刷が納められた箱の表には初期のキュビズム的絵画『ソナタ』の複製が貼られており、この蓋を開くと内側の『チョコレート粉砕器No2』しか見えなくなってしまう。
さらにその隣には『停止原器』のミニチュアが納められているが、これも「蓋」を開くと隠れてしまう。

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この『停止原器』のミニチュアは紙に印刷されたものではあるが、このような折りたみの仕掛けがしてある。
が、これも当然このような形で展示することは不可能だ。

つまりこの作品の正式な鑑賞方法は、複製印刷を一枚ずつめくって見るしかなく、今回それが可能だったのは事前に作品をチェックしたぼく(と学芸員さ ん)だけなのであり、だからもう、それだけで今回の企画展を引き受けてよかったと思えるのだ。

ともかく、「不完全な形でしか展示できない」というのは『トランクの中の箱』の大きな特徴であり、その意味で「美術館」という制度そのものが否定されていると解釈することも出来る。
デュシャンの実作品の大半が、デュシャンの意志によってフィラデルフィア美術館に収められている以上、その他の美術館はこの「携帯式移動美術館」をコレクションするしかないのだが、そのような「矛盾」が仕掛けられているところがデュシャン作品の魅力でもあるのだ。

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高松市美術館ではデュシャンが見られます!

3月28日まで開催中の高松市美術館の企画展『コレクション+(プラス)メタモルフォーゼ!!!!! 変身アート』だが、その紹介記事を某メディアに持ち込んだところボツになってしまったので(笑)、あらためてこのブログで順次紹介しようと思う。

以前の記事でも書いたのだが、ぼくがキュレーション(笑)した『デュシャンと対話するフォトモ』というコーナーはいろいろと失敗したと反省しているが、しかしぼくの作品が「スカ」であっても、少なくともデュシャン作品の「実物」は見られるわけで、今回はそれについて。

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まず右のデュシャンの肖像写真のポスターなのだが、以下のサイトにあるのと同じもののようだ。
http://www.artnet.com/artwork/426022874/425363454/marcel-duchamp-the-oculist-witnesses-poster.html
デュシャンは透明なガラスを持って写真に撮られ、そこに『大ガラス』の構成要素のひとつ『眼科医の証人』の図柄が銀で印刷されているという、非常にカッコイイもの。
このようなカッコイイセンスはぼくは「皆無」であって、その意味では対極的だし、全く合わないと言えるかも知れない。

右は『階段を降りる裸体No2』複製印刷で、郵便切手が貼られそこにサインが書いてあるのがまたシャレている。
デュシャンは生涯に残した作品は少ないが(最小限の制作しかしなかった)、そのほとんどはフィラデルフィア美術館に展示されている。
だから、それ以外の美術館が所蔵しているデュシャンは基本的に複製品であり、高松市美術館も例外ではない。
もちろん、デュシャンはアートにおけるオリジナルと複製の関係にも疑問を投げかけたので、デュシャンの複製品には特別の意味があったりするのだが。

で、さらにこの左隣にマン・レイによる撮影の『埃の培養』のオリジナルプリントがあるのだが、記録を撮り忘れたので省略・・・

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こちらの壁には『エッチングシリーズ・大ガラス』を並べてみた。
『大ガラス』についてはここで説明しないが、ともかくその全体像の図柄と、各要素の図柄をエッチングにした連作で、1965年という晩年の作である。
興味深いのは、元の『大ガラス』がアーティストの「手さばき」を消すために、金属線を膠で貼り付けるといった「機械的技法」で描かれているのに対し、このエッチングシリーズは半ばフリーハンドで描かれ、ガリガリとした味わい深い「手さばき」があらわれている点だ。

などと言いながら、実のところぼくのセンスと頭脳では『大ガラス』は全然分からず、そういう分からないものを分からないまま展示したのも、良くなかったかも知れない。
ただ、ぼく以外の「好きな人」にとってはたまらない作品のはずなので、じっくり味わっていただければと思う。

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これはぼくのセンスでは非常によく分かるし好きな作品なのだが、左が『L.H.O.O.Q』で『ひげの生えたモナリザ』として有名な作品。
さらに右の『ひげをそったL.H.O.O.Q』とセットなのがポイント高い。

意外だったのが『ひげをそったL.H.O.O.Q』の実物がとても小さいことで、これは市販のトランプそのものなのだ。
デュシャンはモナリザの絵柄が印刷されたトランプを、個展のオープニングの招待状に貼り、そこに『ひげをそったL.H.O.O.Q』と書き添えたのだ。

もう一つ意外なのが『L.H.O.O.Q』のオリジナルが1919年の制作だったのに対し、『ひげをそったL.H.O.O.Q』の制作年が1965年とだいぶ開きがあることだ。
もしかするとデュシャンのことなので、『L.H.O.O.Q』の制作後ほど無くして『ひげをそったL.H.O.O.Q』を着想したのだが、すぐには発表せずにその機を46年間伺っていたのかも知れない。

デュシャンはレディ・メイド『泉』をスキャンダルが巻き起こるよう手際よく発表したり、20年間秘密裏に制作した『遺作』を自分の死後に公開するよう手はずしたり、ともかく「機を見る」のが非常にうまい人であり、要領が悪く無計画なぼくとはまさに正反対だ。

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で、これが高松市美術館所蔵のデュシャン作品のうち、ぼくが最も感銘を受けた『トランクの中の箱』なのだが、詳しい紹介は次回にしよう。

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2010年3月17日 (水)

『アヴァンギャルドの時代』

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自分は「シュルレアリスムの影響を受けているのだ」と言いながら、実はよく知らないで語っていたので、古本屋さんで『アヴァンギャルドの時代』(塚原史/未來社)というのを買ってみた。
これが割と薄い本なのですぐに読めると思ったのだが、自分にとってえらく読みにくくずいぶん時間が掛かってしまった。
こういう本は自分には合わないので中断した方が良いのでは?とも思ったが、そういうことはこれまで何度も繰り返しているので、とにかく意味がわからなくても最後まで読むことにしたのだ。
この本がなぜ読みにくいか?というと、まぁぼく自身が基本的に読書が苦手、と言うことが第一だろう。
自分はおそらく「イメージの人」なので、基本的に「言葉だけで構築された世界」になじむことが出来ず、だから「イメージを想起させる言葉」以外は受け付きにくい、と考えられるかも知れない。
後は、興味の問題で、どれだけわかりやすく書いてあろうとも、自分に興味のない内容は頭に入りずらく「難しい内容」に思えてしまう。
いわゆる「頭のいい人」は、自分に興味のない内容でも、「自分の興味」を棚に上げて読書に集中できるらしいのだが(相でなければ少なくとも「比較研究」はできないだろう)、ぼくにはそのような余裕がないのだ。

もちろん、この本に書かれたことの何もかもがチンプンカンプンというわけではなく、自分なりに収穫はあった。
例えば、ぼくは美術に関しての「基礎」が欠けているから、アヴァンギャルド芸術に、未来派(マリネッティ)>ダダ(ツァラ)>シュルレアリスム(ブルトン)、というだいたいの流れのあったことは把握できた。
その未来派のマリネッティは「イメージの連鎖」という概念を提唱しているのだが、ぼくは高松市美術館での新作シリーズに『イメージの連鎖』というタイトルをつけたので、ちょっと驚いてしまった。

詩は新しいイメージの耐えることのない連鎖とならねばならない。さもなければ、詩は貧血と萎黄病に過ぎない。
イメージは、より広大な関係を含んでいればいるほど、人びとをあっといわせる力を長い間持続し続ける。

マリネッティ

しかしあらためて考えると、これはさほど驚くに当たらない。
なぜならアヴァンギャルドはこの本の表紙にもある、ソシュールが言い放ったあの言葉__「シニフィアンとシニフィエに結びつけている絆は恣意的なものである」___言語と意味作用の切断、という概念を「同時多発的」に共有しているからだ。
「言語と意味作用の切断」は、自分が提唱する「非人称芸術」の根拠でもあるのだが、ぼくは同じ概念を、構造主義の入門書で仕入れているので、かつてのアヴァンギャルドと考えが似るのは当たり前だと言える。
言い方を換えれば、例え「美術の基礎」を欠いていたとしても、別の分野の基礎知識を仕入れていさえいれば「当たらずとも遠からず」で美術に接近することは出来る、ということだろう。
もしくは現代では何を考える上でも、「シニフィアンとシニフィエに結びつけている絆は恣意的なものである」が前提となっているので、単にそのことが確認できたに過ぎないのかも知れない。

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2010年3月 7日 (日)

新潟市美術館『新潟への旅』

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遅くなってしまったが、現地に行って会場写真を撮ってきた。
まずは入り口、映像を中心とした展示である。

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第一会場の「復元フォトモ」は透明の台に置かれてるのが斬新だが、ちょっと低すぎる感じ。
でも基本的に、センスのある展示だと思う。
今回の展示構成はぼくはほとんど口を出さず、基本的に美術館の学芸員さんにお任せである。
ちなみに左手には、秋山さやかさんの新潟での滞在制作作品が展示されている。

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フォトモは第二会場にも流れ込んでいる。中央の大型スクリーンには新潟の古写真が投影され、周囲の壁面には新潟市出身の安宅安五郎の絵画などが並ぶ。

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今回制作した「復元フォトモ」は12点で、すべて「一枚の写真」から制作している。 正直、準備期間が少なくて満足な写真素材が集まらなかった・・・とはじめは思ったのだが、そのおかげで復元フォトモについての新しい技術も開発され、それは来週開催予定の「フォトモワークショップ」にも応用されるはずである。

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さらに「復元フォトモ」のアップ。
元のネガはコロタイプと思われる昔の写真絵はがきをブローニー版で複写したもので、独特の質感がある。

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2010年3月 4日 (木)

新潟でのツギラマ追加撮影

昨日は新潟市美術館の依頼で、新潟市内の万代橋で以下のようなツギラマを撮影した。
これは昔のパノラマ写真との比較として、大伸ばしして展示に加えられる予定である。
リコーGXR A10ユニットの70mm相当での撮影。
このほかに、オリンパスプロサロンからE-P2と50-200mmをお借りして、超望遠400mm相当で大幅に枚数を増やしたツギラマも撮影したのだが、こちらは1/3程度がピンぼけで大ショック!
ピピッとピントのあった音はするのだが、実際にはピンぼけのことがあり・・・E-P2のコントラストAFは通常撮影でも若干遅めのようだが、アダプターを使っての超望遠の撮影には全く適さない。
EVFで露出が確認できるので、EP-2はツギラマに適してる・・・と思ったのだが、とんだ落とし穴だった。
まぁ、プロだったら自選に機材をテストすべきなのでこれば自分のミスなのだが、その辺が「プロ」とは若干職種が異なるアーティストのダメなところだ。
しかし、結果的にはいかに掲載したツギラマがシンプルでよかったので、結果オーライなのである。

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2010年3月 2日 (火)

まだ終わらない高松市での展示準備

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どうもいろいろとグダグダで告知がちゃんとできていなかったのだが、今回の高松市での展示は、高松市美術館で『コレクション+(プラス) メタモルフォーゼ!!!!!変身アート』という企画展があって、その一室をぼくが『デュシャンと対話するフォトモ』としてキュレーションしたのだが、その他に、地元の商店街でアートイベントがあり、そっちにも作品を出展しているのだ。

それが丸亀町商店街で開催中の『ストリート的!?展 メタモルフォーゼ!!!!!変身アート』で、美術館との連携イベントなのである。
しかし、ぼくは高松の前に新潟市美術館の『新潟への旅』への作品制作を終わらせなければならず、『デュシャンと対話するフォトモ』も気合いを入れすぎてえらく時間がかかり、結局『ストリート的!?展』のための作品制作は、初日を終えてから取りかかることになり、帰り際の25日にようやく『復元フォトモ』5点の制作を終えたのだった。

ああそれと、高松市美術館で開催した「フォトモワークショップ」の生徒作品も、合わせて『ストリート的!?展』に展示するのだけど、問題は展示場所である。
事前に「ここに展示しますから」という場所に、美術館から借りた展示ケースだけ並べておいてもらったのだけど、あらためて確認してみるとどうも展示場所がよろしくない。

端的に言って、あまり人通りのない目立たない場所なのだけど、屋外というのは制約があって、どこでも何でも置いていいというものではないので難しい。
それでもとりあえず、イベントの主催者といろいろ話し合って、少しでもいい場所においてもらえるようにしてもらったのだけど、重量の展示ケースをすぐ移動してもらうわけにはいかないので、それは後日と言うことになっている。

まぁ、期間の長いアートイベントで、しかも街としても初めての試みなので、考えながら徐々に変えればいいでしょうと、そういうことになったのだ。
そしてついでながら、ストリートにただフォトモの入った展示ケースを並べただけでは面白くないだろうということで、「40cmくらいのフォトモのヒトガタを、展示ケースの間に点在させたら?」と言うアイデアを出したのだった。

しかしそのアイデアは帰り際に出たもので、ぼくはプリント用のデータと試作を2体作って、あとは高松のボランティアの皆さんにお任せすることになったのだ。

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で、そのボランティアさんから画像を送ってもらったのだが、このように続々とヒトガタができている・・・

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奮起されてるのはヒロッキー氏で、鉄工から木工から何でもこなし、おまけにフォトモワークショップに参加されてその技術をほぼ完全にマスターしたという、誠に頼りになるお方である。
ということで、高松市での準備はまだつづいているのであるが、週末には完成するそうなので、ぼくも楽しみにしている。
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ブッダとデュシャン

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仏教とデュシャンの関連づけなんて、多くの人がすでにしてるんだろうと思うけど、ともかくデュシャンの言葉はブッダの言葉に似てるかも?と思いながら仏教の本を読むと、これがなかなか面白かったりするのだ。

今日読んでた岩波書店『ブッダのことば』は、もっとも古い仏教の聖典とされており、まだ最初の「蛇の章」しか読んでいないのだけど、なかなか心に沁み入る。
特に繰り返し出てくるフレーズ「犀の角のようにただ一人歩め」はまさにデュシャン的な生き方、態度を示しているように思えてしまったりする。
こういうのはもしかしたら「勘違い」なのかも知れないが、それを意識して楽しんでいれば「やけど」はせずにすむのではないかと思う。

で、これを読みながら神田小川町のオリンパスプロサロンで仕事用のレンズを借りて、帰りに神田の古本屋で東野芳明さんの『マルセルデュシャン』を買って、最初のところだけ読んだのだが、これもまたすばらしい本で、現在絶版で入手困難なのが実に残念なことだ。
東野さんの強みはデュシャンに「実際に会っている」ということで、そういう人のことばは重みがある。

というわけで、本当は高松市美術館での展示物を順次ブログで紹介しようと思ったのだけど、「デジカメWatch」で紹介記事を書かせてもらうことになったので、そちらの方をしばしお待ちいただければと思う。

あと、3月20日発売の『デジタルカメラマガジン』に、高松市美術館でも展示についての飯沢耕太郎さんによるインタビュー記事が掲載される(モノクロ見開き)。
飯沢さんにデュシャンと絡めた展示物の話をしたところ、えらくウケがよかったので、どんな記事にまとめてくれるのか楽しみだ。
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2010年3月 1日 (月)

壮絶な空回り

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2月13日に高松市に行って、26日にようやく東京に帰ってきた。
その間ほとんど働きづめで、遊ぶ時間が、と言うか路上観察や自然観察の時間がほとんど無かった。
いつも地方に行くと、仕事するふりして遊んでばかりいるので、その意味で今回はモッタイナイことした。

しかし、自分がキュレーションする展示のテーマが他ならぬ「デュシャン」なので、気を抜くわけにはいかない。
それに、ぼくがデュシャンの勉強をきちんとはじめたのが昨年10月頃からなので、つまり付け焼き刃の受験勉強みたいなものなので、なおさら焦るのだ。
それで高松にきてからも、あーでもない、こーでもない、と本当に直前まで悩むことになった。

実のところ、自分が勉強したことはなるべく展示に反映させたくなってしまうもので、ものすごい数の「キャプション」を用意して、その準備にまたすごい手間を掛けたのだったが、実際に展示すると即「ウザイ」ことが判明し、ほとんど撤去することになった。
キャプションとは具体的には本に書かれていたデュシャンの言葉を抜き書きし、ハガキ台の緑のカラーケントに印刷したもので、デュシャンの『グリーンボックス』に因んだつもりのものだ。
この「グリーンカード」のデュシャン語録を会場のいたるところ、たとえばフォトモの展示台にも貼ったりすると、いろんな「意味」が立ち上がって面白かろうと思ったのだが、いかんせん他に要素が多すぎてウザイだけでしかないのだ。

また、高松市美術館に所蔵の『トランクの中の箱』なのだが、中に収納された複製画のすべてを、今回の展示前にデジカメで複写した。
これもインクジェットでプリントしたものを、壁面にたくさん貼ろうと思ったのだが、これもウザイので取りやめた。
美術館収蔵のデュシャン作品だけで、展示会場としては「おなかいっぱい」なのだ。
これが美術館ぜんぶを使って、「デュシャンと対話するフォトモ」を企画するのなら別だが、今回はあくまで「企画展の一室」の展示なので、あまり要素を詰め込むことはできない。

さらに「デュシャンとは誰か」とか、「レディ・メイドとは何か」と言った説明も、キャプションとして掲示するのはあきらめた。
ぼく自身、展覧会で長いキャプションを読むのは苦痛だし、長すぎるキャプションを読ませる展示はダサイと思うたちなのだ。
展示空間というのは「不親切」と思わせるくらいがちょうどよく、それくらいが押しつけがましくなくてちょうどいい。
そこが「展示」と「本」の違いなのだが、直前まで本ばかり読んでいたせいで、いつの間にか本を作るつもりで展示を考えていたのかも知れない。
そのおかげで「展示しない展示物」の制作に膨大な手間を掛け、それがつまり「壮絶な空回り」であって、美術館スタッフの皆さんにも少なからず迷惑を掛けてしまった。

いや、そうでなくてもぼくは「空間畏怖」的なところがあって、なにかと詰め込みすぎてしまうのだ。
それがいい方向に働くこともあるのだろうが、少なくとも「デュシャン的」ではなく、今回はデュシャン的であろうとしたつもりが、全く実行できてないw
展示が終わった数日後にあらためて会場をチェックしてみると、まだ要素が多すぎで、さらに間引きしたい気分だ。
特に「フォトモ」作品が多すぎで、これはほんの数点のみでよかったと反省している。

つまり今回は「イメージの連鎖」というせっかくの新機軸を打ち立てたのに、フォトモのおかげでそれが全く目立たなくなってしまった。
「イメージの連鎖」こそがデュシャンと自分とのリンクを示す「仕掛け」のはずが、これでは意味が半減してしまう。
大多数の高松の皆さんにとって「フォトモ」は初めて見るものだろうから、それだけで十分おなかいっぱいのはずなのに、さらにデュシャンがどうたらとか、そっちの方が蛇足になってしまうだろう。

などと、いろいろ反省点はあるけれど、自分としてはいろいろ面白い「実験」ができて、その実験そのものには大いに満足してるので、それなりに楽しめる展示になってるはずだと思う。
ともかく、「デュシャンの実作品」を使った実験などそうそうできるわけもなく、このような機会を与えてくれた高松市美術館の牧野さんに非常に感謝しています。

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