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2010年3月 1日 (月)

壮絶な空回り

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2月13日に高松市に行って、26日にようやく東京に帰ってきた。
その間ほとんど働きづめで、遊ぶ時間が、と言うか路上観察や自然観察の時間がほとんど無かった。
いつも地方に行くと、仕事するふりして遊んでばかりいるので、その意味で今回はモッタイナイことした。

しかし、自分がキュレーションする展示のテーマが他ならぬ「デュシャン」なので、気を抜くわけにはいかない。
それに、ぼくがデュシャンの勉強をきちんとはじめたのが昨年10月頃からなので、つまり付け焼き刃の受験勉強みたいなものなので、なおさら焦るのだ。
それで高松にきてからも、あーでもない、こーでもない、と本当に直前まで悩むことになった。

実のところ、自分が勉強したことはなるべく展示に反映させたくなってしまうもので、ものすごい数の「キャプション」を用意して、その準備にまたすごい手間を掛けたのだったが、実際に展示すると即「ウザイ」ことが判明し、ほとんど撤去することになった。
キャプションとは具体的には本に書かれていたデュシャンの言葉を抜き書きし、ハガキ台の緑のカラーケントに印刷したもので、デュシャンの『グリーンボックス』に因んだつもりのものだ。
この「グリーンカード」のデュシャン語録を会場のいたるところ、たとえばフォトモの展示台にも貼ったりすると、いろんな「意味」が立ち上がって面白かろうと思ったのだが、いかんせん他に要素が多すぎてウザイだけでしかないのだ。

また、高松市美術館に所蔵の『トランクの中の箱』なのだが、中に収納された複製画のすべてを、今回の展示前にデジカメで複写した。
これもインクジェットでプリントしたものを、壁面にたくさん貼ろうと思ったのだが、これもウザイので取りやめた。
美術館収蔵のデュシャン作品だけで、展示会場としては「おなかいっぱい」なのだ。
これが美術館ぜんぶを使って、「デュシャンと対話するフォトモ」を企画するのなら別だが、今回はあくまで「企画展の一室」の展示なので、あまり要素を詰め込むことはできない。

さらに「デュシャンとは誰か」とか、「レディ・メイドとは何か」と言った説明も、キャプションとして掲示するのはあきらめた。
ぼく自身、展覧会で長いキャプションを読むのは苦痛だし、長すぎるキャプションを読ませる展示はダサイと思うたちなのだ。
展示空間というのは「不親切」と思わせるくらいがちょうどよく、それくらいが押しつけがましくなくてちょうどいい。
そこが「展示」と「本」の違いなのだが、直前まで本ばかり読んでいたせいで、いつの間にか本を作るつもりで展示を考えていたのかも知れない。
そのおかげで「展示しない展示物」の制作に膨大な手間を掛け、それがつまり「壮絶な空回り」であって、美術館スタッフの皆さんにも少なからず迷惑を掛けてしまった。

いや、そうでなくてもぼくは「空間畏怖」的なところがあって、なにかと詰め込みすぎてしまうのだ。
それがいい方向に働くこともあるのだろうが、少なくとも「デュシャン的」ではなく、今回はデュシャン的であろうとしたつもりが、全く実行できてないw
展示が終わった数日後にあらためて会場をチェックしてみると、まだ要素が多すぎで、さらに間引きしたい気分だ。
特に「フォトモ」作品が多すぎで、これはほんの数点のみでよかったと反省している。

つまり今回は「イメージの連鎖」というせっかくの新機軸を打ち立てたのに、フォトモのおかげでそれが全く目立たなくなってしまった。
「イメージの連鎖」こそがデュシャンと自分とのリンクを示す「仕掛け」のはずが、これでは意味が半減してしまう。
大多数の高松の皆さんにとって「フォトモ」は初めて見るものだろうから、それだけで十分おなかいっぱいのはずなのに、さらにデュシャンがどうたらとか、そっちの方が蛇足になってしまうだろう。

などと、いろいろ反省点はあるけれど、自分としてはいろいろ面白い「実験」ができて、その実験そのものには大いに満足してるので、それなりに楽しめる展示になってるはずだと思う。
ともかく、「デュシャンの実作品」を使った実験などそうそうできるわけもなく、このような機会を与えてくれた高松市美術館の牧野さんに非常に感謝しています。

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