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2010年3月18日 (木)

イメージの連鎖(本番)

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以前に「イメージの連鎖」というタイトルの記事をアップして、後で加筆しようと思ってそのまま放置になってしまったのだが、今回の高松市美術館での企画展が「本番」なのである。

すでに説明したとおり、ぼくは高松市美術館の企画展の一コーナーで、美術館コレクションのデュシャン作品と、自分の作品を組み合わせる展示を自分で企画することになった。
ぼくは自分が提唱する「非人称芸術」と、デュシャンが示した「レディ・メイド」のコンセプトとは何らかの関係があると感じていた。
だからこの 機会に自分のアート観を捉え直す意味でも、デュシャンと自分の「実作品」と組み合わせた展示を行ったら・・・今から思えば大変に無謀なことを考 え、そのキュレーション(展示企画)を引き受けたのである。

ところが、あらためてデュシャンに関する本をいろいろと読んでみると、これまでの自分の知識がいかにいい加減であったかが思い知らされてしまった。
と同時に、デュシャンの言葉は全ては理解できないものの非常に刺激的であり、おかげでいろいろなアイデアが思い浮かび収拾が付かなくなってしまった。

それでいろいろ悩んだあげく、デュシャンと自分とを結ぶ一点として思い至ったのが「イメージの連鎖」というコンセプトである。
まずは、ぼくが展示用に書いたテキストを引用してみよう。

『イメージの連鎖』

あるとき、自宅そばの洋品屋の店先に、帽子が掛けられていない帽子掛けがずっと置かれていることに気づいた。
何より驚いたのは、その佇まいが、マルセ ル・デュシャンの代表的なレディ・メイド『瓶掛け』にそっくりなことだった。
もちろんその帽子掛けはレディ・メイドなどではなく、単に「似ている」だけに すぎない。しかし私は、この帽子掛けをまるでレディ・メイド=芸術のように鑑賞していた。


この状況を自己分析すると、自分の脳内で「イメージの連鎖」が起きていることに気づく。
つまり『瓶掛け』のイメージが「帽子掛け」のイメージと連鎖する ことで、『瓶掛け』に含まれる「芸術としての意味内容」が、オブジェとしての帽子掛けに転移結合している。
と同時に、「実用品としての帽子掛け」という本 来的な意味内容は完全に見失われている。


このように特定のモデルとなる作品がなくとも、私は芸術からの「イメージの連鎖」によって、路上の建物や街並みなどを、まるで芸術のように鑑賞しながら 歩く。
芸術作品とは「人の手による造形物」であり、「イメージとしての芸術」は路上のあらゆる造形物と連鎖する可能性を持つ。


そのように路上で見出された「芸術に似たもの」はレディ・メイドではなく、もちろん私の作品でもなく、あらゆる一人称的な(芸術家による)芸術とは異 なっている。
そこで私はこれらを「非人称芸術」と呼ぶことにした。
イメージの連鎖は全くの主観的作用であり、「非人称芸術」の存在は鑑賞者の主観のみに委ねられているのである。


糸崎公朗

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まずは『イメージの連鎖(瓶掛けと帽子掛け)』を見ていただこう。
額装した状態ではわかりにくいので、4枚組写真を1枚に再構成してみた。
左上が デュシャンの『瓶掛け』であり、デュシャンはワインの空き瓶を逆さに掛ける器具をデパートで購入し「レディ・メイド」とした。
左下は「シュルレアリスム展」での『瓶掛け』の展示写真で、ダリの作品なども並んでいる(これらの図版は作品集をスキャンして引用)。

右の2枚はぼくが自宅そばで見かけた「帽子掛け」で、このように並べると我ながら感慨深いものがある。
これは美術史家の高階修爾さんの受け売り (ブリコラージュ)なのだが、絵画や彫刻をはじめとするアートの原点は「実物そのもの」ではなく「実物に似ている」という点にある。
それは「写真」も同じ であり、写真は「三次元の実物に似た二次元平面」だからこそアートになりうる。
その意味で、ぼくは路上でアートとは異なる「アートに似たもの」を探し出 し、それを「非人称芸術」と呼んでいるのだ。

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次の組写真は『イメージの連鎖(自転車の車輪)』で、左がデュシャンによる最初のレディ・メイド『自転車の車輪』で、右はぼくが江戸川区小岩の路地で発見した「自転車の車輪」である。
この「自転車の車輪」は、ポストの上に何の気なしに置かれたのだろう。
少なくとも「アートとしての意図」によって置かれたとは考えにくく、だからこそ「非人称芸術」として指し示すことが出来る。
この場合の「非人称」とは「主体が無い行為」を意味している。
例えば「雨が降った」という文の主語は「非人称」である。
また、裁判で判決を下すのは一人称(私)としての裁判官ではなく、「非人称的な日本国民」を代表した裁判官なのである。

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この組写真は『イメージの連鎖(アポリネールとキャメル)』で、上の『エナメルを塗られたアポリネール』は、デュシャンによる「手を加えられたレ ディ・メイド」のひとつである。
デュシャンは「SAPOLIN ENAMEL(サポラン エナメル」という塗料の広告に加筆して、「APOLINERE ENAMELD(エナメルを塗られたアポリネール)」と改竄した。
その結果、少女にエナメルを塗られた金属製ベッドが、詩人(アポリネール)に変身してし まっている。

これは精神分析の分野で「シニフィアン連鎖」といわれる現象を利用した創造手法だと言える(デュシャンはそのような用語を使ってはいないが)。
この場合の「シニフィアン」とは文字や音声など、言葉の持つ「記号的側面」を指す。『エナメルを塗られたアポリネール』では、「SAPOLIN」と 「APOLINERE 」という似た記号が連鎖することで、アートとしての「新しい意味」が生じている。
一般的に「言葉遊び」とか「地口」と言われるものと同じだが、デュシャン は「シニフィアン連鎖」の手法を自作の多くに取り入れている。

それに対しぼくは「イメージの連鎖」により「アポリネール」にそっくりの「キャメル」を水戸市で発見してしまう(下)。
これは駐車場奥の車止め であり「キャメル」は店名なのだろう。しかし「キャメル」と名づけられたそれは「ペンキを塗られたキャメル(アポリネールの亜種)」だとしか思えないのである。

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さて、再びデュシャンの作品『L.H.O.O.Q』(左)を見てもらうが、この作品は市販されたモナリザの複製印刷に鉛筆で口ひげとあごひげが描かれ、絵の下に同じく鉛筆で「L.H.O.O.Q」という文字が書かれている。
この「L.H.O.O.Q」の文字列はフランス語で続けて発音すると「Elle a chaud au cul(彼女のお尻は熱い)」となり、ダヴィンチが男色家であったことや、モナリザは実はダヴィンチの自画像であったことの説への暗示となっている。
これもまさに、言葉の記号的側面が連鎖する「シニフィアン連鎖」を利用した創造なのである。

そのようなデュシャンに対し、ぼくは自分自身の創造的方法論として「イメージの連鎖」を採用していたことに思い当たったのだが、しかし「イメージの連鎖」もまた「シニフィアン連鎖」のひとつなのだ。
つまり「似たイメージ」に反応することは、イメージを「記号」として捉えることと同意なのだ。
ソシュールによると、言葉(シーニュ)は記号表現(シニフィアン)と意味内容(シニフィエ)の結びつきなのだが、「イメージ」は記号表現として認識されることもあるし、意味内容として認識されることもある。

例えば「犬」という言葉からいろいろな犬の姿をイメージすれば、それは意味内容(シニフィエ)である。
対して「犬」という文字は活字であっても、へたくそな手書き文字でも、同じ「犬」という字として認識されるが、それがイメージとしての記号表現である。
だらか「イメージの連鎖」とは、さまざまなイメージを「文字」のように認識することであり、それによって新たな「意味内容」を読み取ることなのだと、言い換えられるかも知れない。

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