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2010年4月

2010年4月28日 (水)

世界史で洗脳

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一昨日やっと『バウッダ[仏教]』を読み終えたのだが、普通の入門書よりもちょっと専門的で、量も多めで読むのは大変だったのだが、どれだけ頭に入ったかはともかく何とか読み終えた。
恐らくこれまでの自分だったら、途中で投げ出していたかも知れないが、何というか「難しさそのものも味わう」という態度で臨んでみたのだった。

で、次に何を読もうかと思って、同じ中村元さんの著書で大乗仏教の基本とされる『龍樹』を買ってみたのだが、これを読む前に「そもそも世界史が全然分かってないじゃないか!」と言うことにあらためて気づき、以前買ってあった『一冊でわかるイラストでわかる図解世界史』を本棚から引っ張り出したのだ。

とりあえずはじめの「文明の誕生」だけじっくり読んだのだが、これだけでもだいぶ頭がスッキリする。
というか、読み進むたびに脳のシワにたまった茶色い垢が洗い流されるようで、まさに「洗脳」といった感じだ。
いや、これくらいですべての垢が洗い落とされるわけではないだろうが、ともかく使っていない脳みそというのは垢まみれか錆まみれであって、そういう汚れは新たな知識によって洗い流さなければならない。

というか、世界史の基本なんて中高時代にマスターすべきもので、「新しい知識」でも何でもないはずだが、ぼくはその当時は(これまでも)「歴史は苦手」というふうに頭から決め込んで覚えることをサボっていたのだった。
それを今から取り戻すのは「手遅れ」という気もするが、最近興味を持っているユダヤ・キリスト教にしても、仏教にしても、「世界史」の基本を欠いたままで十分な理解は得られないだろう。

ぼくが言うまでもないことだが、歴史というのは「知的体系の脊椎」のようなもので、それなくしてはあらゆる知識が無脊椎動物のようにぐんにゃりしてしまう。
いや、無脊椎動物にも概念的には「骨格」があるのだが、人間が脊椎動物である以上、知的体系も脊椎に沿って整理した方が良いのかも知れない。

とこのように、いろいろな物事を生物学に例えると、「生物学の基本」も「知的体系の脊椎」になるのかも知れないが、しかし例えば生物進化論があくまでも人類史のアナロジーであるわけで、やっぱり基本は「歴史」にあるんじゃないかと思う。

いや普通に生活する上で、学校時代に勉強した「世界史」なんか忘れても知らなくても支障はないだろうが、ぼくは「非人称芸術」などという大口を叩いているので、やはりそれなりの知識をベースにしてないと、そんな大それた口を叩くだけの資格がそもそも無いのだ。
ということに、仏典『スッタニパータ』やデカルトの『方法序説』やオルテガ『大衆の反逆』を読んであらためて気づいたのだった。

特にオルテガの「大衆」の概念は、現代に特有の問題であり、都市に特有の問題でもあり、だから「非人称芸術」の問題とも直結しているはずだ。
だから「非人称芸術」の考察を深める上でも、「都市の歴史」を知ることは重要なのだ。
例えば、古代の都市国家に「非人称芸術」はあり得たのか?、あるいはもっと最近の日本の江戸時代に「非人称芸術」はあり得たのか?、というような考察からも「非人称芸術」の輪郭が明らかになるだろうと思うのだ。

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企画展『ながめる まなざす』

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水道橋のアップフィールドギャラリーで開催される写真の企画展『ながめる まなざす』のチラシが届きましたが、ぼくの名前がありますね・・・
とは言え出品作家ではなく、7月11日に開催されるフリートークのパネラーとして、出品作家の相馬泰さんとお話しすることになっている。

いや、本来の自分は「写真」というものからちょっと(かなり?)ずれた位置にいる作家なので、このような「写真展」のパネラーを務める立場にないのだが、しかし最近はそのように自分の立場を「固定」してしまうのもどうかと思うようになり、思い切ってその依頼を受けることにしたのだ。

何より今回のぼくの参加は、展覧会企画者の湊雅弘さんからの依頼であって、実にありがたいことである。
湊さんや相馬さんのつもりとしては、ぼく自身の「ちょっとずれた立場」からの意見をあるいは求めているのかも知れない。
しかしだからといって、「写真が分からない」という今の状態でぼくが対談に臨んでも、中途半端に浅い話に終わるかもしれないし、そもそもそういう態度自体が依頼者に対して礼を欠いていると言える。

だからぼくはこれまでの「写真を否定する自分」の他に「写真を理解しようとする自分」を新たにインストールして、その二つの異なる立場を並列しつつ、対談に臨もうと、今のところは目論んでいる。

まぁ、難しいことは抜きにして、ちょっと前に相馬さんと打ち合わせを兼ねていろいろお話しした印象では、どうにか面白い話にはなりそうな感じだった。
相馬さんは「写真」以外にもいろいろと好奇心旺盛な方で、新興宗教に妙に詳しかったり(駅前にいる「手かざし」の人たちが統一協会であることが「常識」であることも教わったw)、最近は「美味しい紅茶とは何か?」の研究をされてたり、そういう話を聞くと相馬さんの「写真」もちょっと違って見えたりして、もちろん作家の人格=作品ではないけれど、そのものを理解するにはいろんなアプローチがあり得るのだ。

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ちなみに企画展のチラシの裏は、増田玲さんのテキストで、これを読むだけでも勉強になる。
ぼくはこれまでこういうテキストは習慣的に読み飛ばしていて、そういう態度も「愚者の典型」なのであらためないといけないw

というわけで、みなさんよろしくお願いします。

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2010年4月27日 (火)

写真家からのアドバイス

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(これは「良くない写真」の見本w。
新宿区大久保 GRD3)

新しい「ブログ4」をはじめるに当たって、つまり自分の実績を方法論的にゼロにして、あらためて「写真」を撮る試みをはじめるに当たって、何人かの写真家に相談してみたのだが、そのうちYくん(仮)のアドバイスを記憶をたよりに列挙してみる。
まぁ、話を聞いたのはちょっと前だし、ぼくの記憶力はかなりすごいので(自分の書いた事すら忘れてしまう)この通りの内容だったかは保証の限りではない。
だから架空のYくん(仮)の話だと思ってもらった方が良いかも知れない。
忘れた項目を思い出したら、あとで書き加えるかも知れないし、コメント欄に何か書き加えてもらっても良いですw

*糸崎さんの写真は「何を撮るか」を重要視しているが、自分は「どう撮るか」を重要視している。

*何をねらいに撮ったのかが一見分からないようにして、一つの画面に複数の「見どころ」を含めるようにする。

*写真に撮ることで、現実が何とも言えないような「別のもの」に変貌し、そのような現実とのズレが、作品の核となる。

*自分は空間構成が上手いと他人に言われた。

*何を撮ったのかが一見して分かるような写真は、「写真」として上等とは言えない。

*糸崎さんの写真のうち「ツギラマ」は、現実との何とも言えないズレが表現されているようで評価できる。

*しかし「路上ネイチャー」の写真はストレートすぎて「写真」としてはあまり面白くない。

*糸崎さんの撮る「普通の写真」は子供などの「面白い被写体」などをねらって撮っているので、あまり高度な「写真」とは言えない。

*糸崎さんは糸崎さんのセンスで作品を作っているのであって、だから自分のような「写真」を撮るのは無理でしょう。

↓以下追加

*写真に「人物」を入れるとその印象が強すぎて、「人物を撮った写真」と思われるから、人物を排除して撮る。

*(思い出したら随時追加します)

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2010年4月26日 (月)

新しい「ブログ4(名称未定)」

試験運用中だった新しい「ブログ4(名称未定)」を公開することにする。
http://d.hatena.ne.jp/itozaki/

コンセプトとしては、これまでの自分の実績、フォトモとかツギラマとか路上ネイチャーとか非人称芸術などを方法論的に「なかったこと」にして、全くのゼロから写真家を目指すブログである。
これは、このブログでたびたびアップしていた「普通の写真」の発展型で、ともかくこれまで自分が排除し、否定してきた「写真」というものについて、さらにきちんと知ってみたいと思うようになったのだ。

ぼくは「写真」というものを否定することで「フォトモ」や「ツギラマ」など独自の表現を見出すことができたのだが、あらためて考えると「写真」というものをよく知らないままに否定していたのであって、これは根拠として弱いのではないか?ということがだんだんと自覚されてきたのだ。

ぼくがこれまで採用した方法は、「写真」についての意図的な情報のシャットダウンであり、江戸時代の鎖国のようなつもりもあった。
これはオリジナルのアイデアを見出すための「一つの方法論」かもしれないが、そのやりかたを「普遍的」と考えるのは間違いだろう。
つまり「鎖国」は一定期間することに意味があるのであり、永遠に鎖国することはナンセンスだ。

言い方をかえると、人によっては人生の途上で「引きこもり」になることが必要だったとしても、引きこもりの経験を役立てるには引きこもりを脱する必要があり、永遠に引きこもることに意味はない。
実はぼくは「写真」を学ばず、以外の知識(現代思想や生物学など)を仕入れることで、「写真の外側」に立っていたつもりだったのだが、ふと気がつくとその状態は「自分の内側」に閉じこもっているだけなのだった。
ということで自分は「鎖国」を解いて、闇雲な写真の否定を脱しなければならないのだ。

「鎖国を解く」とはどういう事かというと、単純に「何でも受け入れる」言うわけにはいかない。
江戸時代の日本も鎖国を解いて何でも受け入れたわけではなく、言ってみれば「近代」という新たな思想に鞍替えしたのである。
つまり「鎖国を解く」とは、新たな思想(宗教)に鞍替えし、その中にこれまでの自分たちの文化を位置づけることだと言える。
だからぼくも「鎖国」を解くからには「写真」という思想(あるいは宗教)に鞍替えし、その中にあらためて「フォトモ」や「ツギラマ」を位置づけることになるかも知れない。

いや、そこまで考えるのはまだ先の話だが、ともかくぼくはこれまで否定した「写真」というものを、一転して「まるごと」受け入れることを試みているのだ。
つまり「写真」というものに対し何の疑問を持たず、無前提にそれは「ある」ものとして受け入れ、その内部の方法論や考え方に素直に従おうとしている。
これまでの自分は「写真」をきちんと学ぶ前に「写真」というものに疑問を呈し、それに反発し否定してしまっていたが、その態度を反省し、今度は全く「逆」のことをしようとしている。
それが「写真を学ぶ」ということで、学の基本は「真似る」ということで、真似て学ぶためには「写真」の何もかもをまずは受け入れなくてはならない。

ただ、ぼくの「フォトモ」や「ツギラマ」のコンセプトには「写真の否定」が含まれているから、「写真」を学ぶ上ではこれが邪魔になる。
しかし、そのようなこれまでの自分の実績を全否定してしまうのもナンセンスなので、だから「方法論的になかったことにする」という考えを採用したのだ。
これは自分の中に「異なるOS」をインストールするようなもので、一つのパソコンでMacとWindowsの異なるOSを適宜切り替えながら使うようなものである。
自分の中に「写真の否定」を保持したまま、その考えを切り替え、つまり方法論的になかったことにして、心を新たにして「写真」について学ぼうというのである。

ともかく新たな「ブログ4(名称未定)」では、いろいろな写真家の意見を参考にしつつ、ともかく「人真似」をして学んでいこうと試みるつもりだ。
その結果、結局は「写真」として良い作品が全く撮れなかったとしても、その比較によって他人の「良い写真」は分かるようになるかも知れない。
ともかく今の自分は「写真の良し悪し」さえ分からない状態で、そこから脱する手段として「実践」は有効であり、そのつもりでちょくちょく撮っていこうと思っている。

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2010年4月25日 (日)

般若と般若面

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大乗仏教には「般若心経」をはじめとして「般若」ということばがよく出てくるが、これが怖い顔でおなじみの「般若のお面」と、イメージが結びつかなくて困っていた。
仏教用語の「般若」とは「智慧」という意味で、その智慧について説かれたありがたいお経が般若心経なのである。
その「智慧」が、鬼のような形相の女性である「般若」とどのように結びつくのか?

で、あらためてウィキペディアで調べると、早い話が「関係ない」ということで、非常に安心してしまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5_%28%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF%29
現代の日本語には古来からの仏教用語が数多く含まれるが、その中でもとの意味から離れたことばも多く、それが本来の仏教思想を理解する上で妨げになることもある。
その一つが「般若」なのだが、このように重要な用語が誤解されたまま浸透してる現代日本は、仏教から「近くて遠い国」なのだとあらためて思ってしまった。

ちなみにこの写真は、酔っぱらって帰りの電車に飛び乗ったら、ガイジンが満員電車の様子をおもしろがって撮影してたので、こちらもGRD3で返り討ちにしてやったところですw

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2010年4月24日 (土)

佛教とガンダム

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今週はオルテガの『大衆の反乱』を読み終え、その後『旧約聖書』はやっと「列王記Ⅱ」まで読んでメゲてしまったので、再び仏教書を読んでみることに。
まず『ブッダの真理のことば 感興のことば』の「ダンマパタ」を読んだのだが、同じく初期の仏教書である「スッタニパータ」と内容がそれほど違わないような気がしてしまった。
もちろん、ありがたいためになることが書いてあったのだが、これを理解するにはやはりガイドブックを読む必要があるかもしれない。
それに、これ以外にも仏教書はいろいろ読んでみたいのだが、何を読んだら効果的なのかが分からないので、その意味でもガイドブックは必要だ。

というわけで、このブログのコメント欄で教えてもらった『バウッダ[佛教]』を買ってみた。
まだ半分ちょい過ぎまでしか読んでないのだが、この本は大乗仏教と小乗仏教の違いを明らかにしてくれてるところが、自分にとってはありがたい。
その違いは小乗仏教が『ガンダム』だとすれば、大乗仏教は『Zガンダム』以降のガンダムシリーズに例えられるかも知れない。
そして日本には中国経由で『Zガンダム』以降のガンダムシリーズだけが輸入されて、「これこそがガンダムである」と千数百年ものあいだ誤解され続けていた・・・
ちょっと乱雑な例えではあるけど、オタクな人はこういう理解でとりあえずは良いんじゃないかと思うw

『スッタニパータ』など初期佛教を見るとブッダはただ一人なのに対し、大乗仏教にはいろいろな種類の仏が登場し、それも『Zガンダム』以降『○○ガンダム』の種類が数え切れないくらいに増えたのと似てるかも知れない。
いやガンダムに限らず、ウルトラマンも仮面ライダーも、日本のそういった番組は大乗仏教的に発展する。
いや、大乗仏教のことはまだよく分かってないのだが、調べるとそういう方面でいろいろ共通項が見つかるかも知れない。

対して旧約聖書の「神様」は、絶対の唯一神であるからキリスト教になっても、イスラム教になっても「神様」の数が増えることは絶対にない。
それが向こうの番組にどう影響してるのかは知らないが・・・

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2010年4月17日 (土)

オルテガ『大衆の反逆』

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彦坂尚嘉さんのブログに大衆がどうたら書いてあったので、大衆について書かれたオルテガの『大衆の反逆』を読んでみた。
とは言え、まだ途中の半分過ぎくらいまでなのだが、この本もまたしてもデカルトの『方法序説』と同じ事が、そして最古の仏典『スッタニパータ』と同じようなことが書いてある。
つまりどの本にも「愚者の典型」が示してあり、それは「自分が上等な人間だと思っている人」を指していて、まさに自分事であり身につまされる。

オルテガは「大衆」の対概念として「貴族」を置いているが、それは社会階級を指しているのではない。
いわゆる「世襲貴族」は身分を引き継いだだけであり、精神的には「大衆」であるとオルテガは指摘する。
また、現代の「大衆」は自由主義的デモクラシーと科学技術の発達によって、かつての王侯貴族以上に贅沢な暮らしをしており、その意味でも「世襲貴族」と同じなのだ。
ではオルテガの言う本来的な意味での「貴族」とは何かといえば、それは「自分の地位を自ら勝ち取った人」を指すのである。
つまり、自分が「上等ではない人間」だと自覚し、絶えず努力して成長しようとする人を「貴族」だとし、そのような貴族によって文化は発展するのだとしているのだ。

これは『スッタニパータ』でブッダが言っている「バラモン」とよく似ていて、「生まれではなく、行いによってバラモンになるのだ」というように説かれている。
ともかく、利口な人間は自分を利口だと思ってはおらず、自分が利口だと思っている奴はバカだ、ということがどんな本にも書いてあるという、当たり前のことに最近やっと気づいたのだったw

まぁ、ぼくの個人的事情はさておき、アートというのは文化の発展に関わることだから、アートに携わる人にとってオルテガの「大衆」とか「貴族」という概念は、「考える道具」として非常に役に立つのではないかと思う。
ぼくにとってはちょっと読みにくくて時間が掛かるが、ものすごく良いことがいろいろ書いてあり考えも進むので、引き続き最後まで行ってみようと思う。

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2010年4月16日 (金)

とっても役立つ!旧約聖書

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旧約聖書はようやく『サムエル記』まで読み終えたのだが、相変わらず理不尽な理由で人を殺しまくるイヤな内容で気分が滅入ってくる。
そこで、このブログのコメントで薦められた『考える人』の「はじめて読む聖書」を買ってみた。
で、内田樹さんによるとユダヤ教の聖典であるところの旧約聖書とは「完全記号」なのだそうで、そこにはテキストの表面にあらわれない二重三重の意味が隠されているそうだ。
で、その意味というのは解釈学によって明らかにされるのだが、聖書の解釈学というのは一つの巨大な学問体系になっているらしい。
つまり旧約聖書というのは「謎の記号」なのだから、読んでいて意味が分からないのは当たり前なのだ。
しかもその意味の分からない書物が「書物の中の書物」としてみんなに読まれているところに意味があるのであって、だからぼくも意味が分からないままともかく最後まで、新約聖書まで含めて読むことにしたのだ。

と思った直後、コンビにて『PEN』の「キリスト教徒は何か」をパラパラ見て驚いてしまった。
そこにはキリスト教絵画がいろいろと掲載されているのだが、なんと、自分が旧約聖書を読んだところまでの絵について、その意味が「分かる」のだ!!!
これまで「意味の分からない絵」として見ていたキリスト教絵画の意味が突然分るようになってしまい、まさにこれは「超能力」を身に付けたに等しい。
まぁ超能力は大げさとしても、かなり大きな能力を手に入れた(入れつつある)事は間違いない。
なぜなら西洋絵画の歴史は長い間「聖書の挿絵」ばかりを描いてきたわけで、だから聖書を読みさえすれば、大半の絵の意味がたちどころに理解できるようになるのだ。
聖書は長くてつまらなくて読むのがつらいと思っていたけれど、これさえ読めば西洋絵画に対するモノスゴイ読解力が手にはいるわけで、その意味でこれほど効率の良い勉強法もないだろう。

聖書というのは効き目の遅い薬のようなもので、飲んだ直後は苦いだけで何もないけれど、忘れた頃に突然効果が現れたりして、それが「完全記号」たるゆえんなのかも知れない。

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2010年4月13日 (火)

デカルト『方法序説』

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『旧約聖書』は「サムエル記Ⅰ」まで読み終えた。
しかし、どうも読んでて面白くないし、役に立つような内容でもないので、途中で他の本も読んだりしてる。

そのうちの一冊がこれなのだが、とある美術家のセンパイが「自分が若い頃はデカルトの『方法序説』はみんな読んでないのに、今は誰も読んでない」と言ってたので、さっそく読んでみたのだ。
「我思う、ゆえに我あり」で有名な本だが、薄い本で文字量が少ないし、特別に難解と言うこともない。
恐らく「古典」とか「原点」と言われている本の中でも意外に読みやすいものはあって、読書が苦手な人はそういう本を選べばいいのかも知れない。

で、読んでさっそく「おっ」と思ったのは、内容が先日読んだ古典仏教『スッタニパータ』に似てることだ。
『方法序説』でデカルトは、現在自分が信じていること、確信していること、常識だと思ってることは、すべて前提が怪しいものとして疑うべきだ、というように説いている。
愚者は自分が学んだこと、経験したこと、直感したことを無前提に信じる傾向があり、そして過ちを犯す。
だから愚者が少しでも賢者に近づきたければ、自分が現在信じていること、採用している考えをすべて否定し、すべてを捨て去る覚悟で望まなければならない。
・・・と、いうようなことをぼくは『スッタニパータ』から学んだつもりだったのだが、同じようなことが『方法序説』にも書いてあったのだ。

まぁ、それはブッダとデカルトが似てると言うより、ぼく自身が「愚者の典型」であっただけのことかも知れない(笑)。
いずれにしろ、ぼくは「非人称芸術」というものを無前提に信じ過ぎていたので、この点は反省しなければならないだろう。

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2010年4月 6日 (火)

聖書の途中ですが天理教です

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旧約聖書(リビングバイブル)は「モーセ五書」を過ぎて、ヨシュア記まで読み終えた。
が、ここで突然、上記二冊の天理教の本を読むことにしたのだ。


というのも実は、天理教が発行する『すきっと』という雑誌からフォトモについての原稿依頼が来ていたのだった。

見本誌を送られて くると、特に宗教くさいという感じもしない普通のグラフ誌で、依頼も「中高年が気軽に読めるような、あまり専門的にならないような内容でお願いします」と いうようなものだった。

しかし、これは今の自分にとってはなかなか困難な依頼であって、フォトモについての解説文はさんざん書いてきただけに、以前と同じような内容を繰り返す気にどうもなれない。

だがそうかといって、フォトモについての新しい切り口で書こうとすると、それはまた非常に難 しい作業になってしまうし、マニアックな内容にもなってしまうかも知れない。

それで、何度も書き直して行き詰まっていたのだが、「そもそも天理教 からの依頼なんだから、天理教のことを少しでも知っていないのはおかしい」と言うことに思い至ったのだ。

いや、依頼主の編集部はもちろんそんなこ とは要求しておらず、あくまで「気軽に読める原稿」を求めていることは分かっている。

しかし最近、宗教とは何かを知るために『スッタニパータ』に 続いて『旧約聖書』を読み始めた自分としては、この機会に天理教の何たるかをある程度知った上で、原稿を書いてみたくなったのだ。

それでまずネットで検索すると、天理教ホームページウィキペディア以 外にこのページを見つけたのだが、「天理教は一神教という点ではユダヤ教に似ており、シンプルでわかりやすい教えでよくできている」というようになかなか評価が高い。

このページが掲載されているサイトは『新興宗教を考察するページ』で、その名の通りいろんな新興宗教が第三者的立場で冷静に紹介されており、なかなか興味深い。

ぼくとしては、宗教とは「行動の規定」とも表現できるもので、いろいろな宗教を見てると「動物行動学」と共通のおもしろさがあるようで、つい天理教以外のページにも見入ってしまう。

しかし、ともかくネットでは情報が限られているので、やはり何か本を読んだ方が良いだろうと思い、取り急ぎ新宿ジュンク堂へ行き、宗教書 の棚から画像の二冊の本をセレクトしたのだ。
もちろん、この2冊を読んだだけで天理教のすべてが分かるわけではないだろうが、教義自体がシンプルでわかりやすいと言われているだけに、どちらも 読みやすく、しかもなかなかためになる内容だった。

天理教Q&A 他宗教とどう違うか』は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教と、天理教がどう違うかについてポイントを押さえてわか りやすく解説されている。

この本は同時に、天理教以外の諸宗教についての入門的説明書にもなっていて、最近ぼくが読んだ小室直樹さんの『日本人の ための宗教原論』などにも似てるが、違うのはもちろんすべてが天理教との比較素材になっている点である。

とは言え、他宗教をことさら否定したり批 判したりせず、「イエス様」「仏様」というようにあくまで敬意が払われている。

興味深いのは、著者の小滝透さんの経歴で、サウジアラビア王立リヤ ド大学文学部卒なのである。

つまり「宗教の中の宗教」と言われるイスラム教のコーランを原語で読み、さらに他宗教と比較した上で、自分の信仰として天理教を選ばれているのだ。

その意外性は『科学者が実感した神様の働き』の著者の村上和雄さんにも言えるのだが、この方は筑波大の名誉教授で遺伝子学の権威なのである。

本の前半は、アメリカの留学から帰った村上さんが、新設された筑波大学で高血圧の原因とされる「ヒト・レニン遺伝子」の特定と暗号解読を、世界に先駆け て成功させるまでのサクセスストーリーで、科学的読み物としても非常に面白い(内容としては福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』に通じるもの があるかも知れない)。
村上和雄さんは、科学を理論で成り立つ表の顔「デイ・サイエンス」と、感性や直感や霊感で成り立つ裏の顔「ナイト・サイエンス」の二面性があると指摘する。
この「ナイト・サイエンス」に相当するようなことは、福岡伸一さんをはじめ多くの科学者も指摘するが、村上和雄さんはそれを天理教の世界観と結びつけておられる。
そもそも、科学とはキリスト教が発祥であり、欧米の科学者にはいまだにクリスチャンも多いだろうから、そう考えると天理教を信奉する科学者がいてもおかしくないのだ(日本人には珍しいとは言えるけど)。
そして宗教を「デイ・サイエンス」に持ち込みさえしなければ、何を信じていようとも科学者は科学者でいられる、と言うことなのかも知れない。

で、ぼくの原稿なのだが、苦労した割にはこれまでとさほど変わらない内容になってしまった。
同じ事柄について、相手に合わせて全く違う切り口で書けるような柔軟性を開発しようとしたのだが、今回も今ひとつ力が及ばなかったようだ。

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