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2010年4月27日 (火)

写真家からのアドバイス

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(これは「良くない写真」の見本w。
新宿区大久保 GRD3)

新しい「ブログ4」をはじめるに当たって、つまり自分の実績を方法論的にゼロにして、あらためて「写真」を撮る試みをはじめるに当たって、何人かの写真家に相談してみたのだが、そのうちYくん(仮)のアドバイスを記憶をたよりに列挙してみる。
まぁ、話を聞いたのはちょっと前だし、ぼくの記憶力はかなりすごいので(自分の書いた事すら忘れてしまう)この通りの内容だったかは保証の限りではない。
だから架空のYくん(仮)の話だと思ってもらった方が良いかも知れない。
忘れた項目を思い出したら、あとで書き加えるかも知れないし、コメント欄に何か書き加えてもらっても良いですw

*糸崎さんの写真は「何を撮るか」を重要視しているが、自分は「どう撮るか」を重要視している。

*何をねらいに撮ったのかが一見分からないようにして、一つの画面に複数の「見どころ」を含めるようにする。

*写真に撮ることで、現実が何とも言えないような「別のもの」に変貌し、そのような現実とのズレが、作品の核となる。

*自分は空間構成が上手いと他人に言われた。

*何を撮ったのかが一見して分かるような写真は、「写真」として上等とは言えない。

*糸崎さんの写真のうち「ツギラマ」は、現実との何とも言えないズレが表現されているようで評価できる。

*しかし「路上ネイチャー」の写真はストレートすぎて「写真」としてはあまり面白くない。

*糸崎さんの撮る「普通の写真」は子供などの「面白い被写体」などをねらって撮っているので、あまり高度な「写真」とは言えない。

*糸崎さんは糸崎さんのセンスで作品を作っているのであって、だから自分のような「写真」を撮るのは無理でしょう。

↓以下追加

*写真に「人物」を入れるとその印象が強すぎて、「人物を撮った写真」と思われるから、人物を排除して撮る。

*(思い出したら随時追加します)

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アート論」カテゴリの記事

コメント

Yさんのアドバイスって、アマチュアのコンテストからちょいと踏み出すきっかけみたいで、面白くないですw

投稿: TAKAO YAMADA | 2010年4月28日 (水) 00時30分

>Yさんのアドバイスって、アマチュアのコンテストからちょいと踏み出すきっかけみたいで、面白くないですw

そう思えるのは、たぶんぼくの聞き取りが不正確だからでしょう。
仏陀やキリストの弟子たちのように、口伝は正確にしないといけませんw
それと、これまでの自分の実績を方法論的にゼロにすると、立場としてはデビュー前のアマチュアと同じなので、こういう基本的アドバイスは役に立ちます。
というか、これまでそのような基本を完全スルーしてたので、あらためて聞くと新鮮だったりするのです。

投稿: 糸崎 | 2010年4月28日 (水) 11時29分

「芸術とは唯一たる性格、ユニーク性が大きな割合を占めると自分は思っているので、このようなアドバイスを貰ったとして、それに従う必要性はないと思います。糸崎さんのスナップ、子供などの写真を見ると、「あー、糸崎さんだな」となんとなく分かる写真で、僕は好きですし、それがユニーク性だと思います。写真の「高度さ」などは、どこを基準に決めるかというのは、人によっても、時代によっても(この話ちょっと前にもしましたね、写真じゃないですが)、ぶれる現象だと思います。それがぶれないで、基準のラインがどんどんあがって、上げて行くものを、「工芸」と呼ぶ、と自分は見てきました。

現実と、写真の平面世界との間にある歪みとは、いかようにも説明できないから、写真という「絵筆」が面白いのだと思います。写真は「基本的」に見たままが写る。でも、思うがままにも変えられる。そして、「現実」とは人によって見える光景が全く違うと思います。それらを「表現者」というフィルターを通して出てくるものが芸術作品だと思います。「現実」を一定のモノと捉えている「架空のYさん」の言葉はどうも受け入れ難いと、自分は感じます。

よって、アドバイスの中で「自分たちのような「写真」を撮るのは無理でしょう」と言われたら、それはまあ、そうだろうと思います。blog4を立ち上げる為に「写真」に戻るのであれば、三脚を立てて撮ってみる(もう既にしてらっしゃる?)のも良いかと思います。フィルムでも、と思いますが、今はお金かかりそうですからデジタルでも良いのかも。「架空のYさん」の言う「どう撮るか」です。手段を変えてみる事です。

ところで、そこで「自分たち」と実際言われたのですか?そうでしたら何か寒気がしますね。」

投稿: 糸井潤 | 2010年4月28日 (水) 11時31分

>ところで、そこで「自分たち」と実際言われたのですか?そうでしたら何か寒気がしますね。」

恐らく実際は「自分たち」とは言われてないでしょうw(これはむしろぼく自身の「あなた方」と捉える気持ちの反映かも知れません)。
ここはあとで訂正します。
実際の彼は、あくまで「自分の責任」で語る人で、こんな調子で実名を出していたらえらい迷惑だったはずで、「架空のYさん」の話にして本当に良かったです・・・

>このようなアドバイスを貰ったとして、それに従う必要性はないと 思います。

本当はアドバイスをもらったというより、「架空のYさん」から「どういうつもりで写真を撮ってるのか?」をいろいろ聞いてみたのです。
むしろそれを「アドバイス」として受け取ったこと自体が、このたびの自分の「方法論」だと言えるかも知れません。

>糸崎さんのスナップ、子供などの写真を見ると、「あー、糸崎さんだな」となんとなく分かる写真で、僕は好きですし、それがユニーク性だと思いま す。

実はそう思われることが少なからずショックで・・・w
自分でも途中から気づいたのですが、ぼくとしては「これまでの自分の写真とは全く違う、全然糸崎さんらしくない写真」を撮っていたつもりだったのですが、結局は「自分」から脱しきれずに「いつもの写真」の範疇に収まっていたわけです。
まぁ、普通だったらそれで良いのでしょうが、ぼくは最近いわゆる「自分らしさ」を客観視したくなったのです。
「自分らしさ」を客観視するには、自分の中に「別の自分」をインストールする必要があり、それを試みてるのです。

>「現実」を一定のモノと捉えている「架空のYさん」の言葉はどうも受け入れ難いと、自分は感じます。

実際のYさんがそう考えているかは定かではないですが、その言葉を借りれば、ぼく自身は「写真を一定のモノとして捉えている」のかもしれません。
つまり、

>現実と、写真の平面世界との間にある歪みとは、いかようにも説明できないから、写真という「絵筆」が面白いのだと思います。写真は「基本的」に見た ままが写る。でも、思うがままにも変えられる。そして、「現実」とは人によって見える光景が全く違うと思います。それらを「表現者」というフィルターを通 して出てくるものが芸術作品だと思います

このような意見に対し、ぼくは「写真はカメラという機械が描き出す絵であって、だから写真は誰が撮っても同じでしょ」などと思っていて、だから「フォトモ」とか「ツギラマ」に移行したのです。
これは「アーティストとして独自の立場を主張」するにはいいのかもしれませんが、一方では「写真の奥深い世界」をザックリと見落としていることになります。
つまりぼくはさまざまな写真家の作品の「区別」が全く理解できずに、つまり糸井くんが言うところの「表現者のフィルター」が判別できず、芸術作品としての「写真」が全く理解できずにいるのです。
そういう立場に自分を置くのは半ば「方法論」でもあったのですが、一方で理解を放棄する態度は「愚者の典型」でもあるので、それは改めようと試みることにしたのです。

>blog4を立ち 上げる為に「写真」に戻るのであれば、三脚を立てて撮ってみる(もう既にしてらっしゃる?)のも良いかと思います。

具体的なアドバイスありがとうございます。
三脚は全く使ってませんでした。
実のところぼくは三脚は大の苦手で、普段の自分の目玉はフリーに動くので、だからカメラを三脚に固定するとあまりの違和感にイライラしてしまいますw
つまり、ぼくは三脚を使うことの意味も理解していないわけで、それを知るためにも三脚を使うのはいいかもしれません。

ちなみに、同じような相談を実在の添野くんwにしたら「だったら、モノクロプリントを自分で焼かないと意味ねぇよ」と言われましたが、これももっともです。
モノクロの焼き具合の良し悪しも自分には全く分からない分野ですが、自分でやるのが理解する上で最も早いだろうと思います。
だた、ぼくは三脚以上に暗室作業が大の苦手で、そのおかげで「写真」から距離を置いていた、ということもあります。

少なくともblog4でのぼくの立場は「写真学校のダメ学生」と同じで、何の方向性も定まっていない雲を掴むような状態ですね。
ぼくはそういう状態はとっくに脱したので現在の「アーティストとしての立場」があるはずなのですが、それを方法論的にリセットして、あらためてゼロから別の世界を知ろうと、試みているわけです。

投稿: 糸崎 | 2010年4月28日 (水) 13時41分

謎の画家X氏の発言。

*糸崎さんの絵は「何を描くか」を重要視しているが、自分は「どう描くか」を重要視している。

*何をねらいに描いたのかが一見分からないようにして、一つの画面に複数の「見どころ」を含めるようにする。

*絵に描くことで、現実が何とも言えないような「別のもの」に変貌し、そのような現実とのズレが、作品の核となる。

*自分は空間構成が上手いと他人に言われた。

*何を描いたのかが一見して分かるような絵は、「絵画」として上等とは言えない。

*糸崎さんの絵のうち「ツギラマ」は、現実との何とも言えないズレが表現されているようで評価できる。

*しかし「路上ネイチャー」の絵はストレートすぎて「絵画」としてはあまり面白くない。

*糸崎さんの描く「普通の絵」は子供などの「面白いモチーフ」などをねらって撮っているので、あまり高度な「絵画」とは言えない。

*糸崎さんは糸崎さんのセンスで作品を作っているのであって、だから自分のような「絵画」を描くのは無理でしょう。


と読むと違和感がなくなります(笑)

投稿: 遊星人 | 2010年4月29日 (木) 17時51分

そもそも現実というのがよくわからないのですw
blog4にカメラとレンズ名があるのが納得でます。

投稿: TAKAO YAMADA | 2010年4月30日 (金) 00時34分

>謎の画家X氏の発言。

この言葉の入れ替えは上手いし面白いですね。
さっそく新しい記事に応用してみました。

>そもそも現実というのがよくわからないのですw

いやそれはぼくもわからないのですが、しかし実のところ「現実というのがよくわからない」などと言う人は、現実のことをよくわかった上で、そのようにトボケたことを言ってるような気がしますw

>blog4にカメラとレンズ名があるのが納得でます。

どういう納得なのか不明ですが・・・純粋な「写真」を目指すブログとしては、地名も含めてこういう表記は邪道ではないかと思います。
いや、考え方はいろいろあるかと思いますが・・・とりあえず現在のはてなの設定では、記事にタイトルを付けないとコメント欄が表示されず、これを「地名」にあててます。
カメラとレンズ名は、いちおうはカメライターでもあるので、そういう表記もあった方が良いかなと・・・そうやって「写真」に徹することのできない中途半端さがダメなのかも知れませんがw

投稿: 糸崎 | 2010年5月 4日 (火) 04時58分

サイエンス的にも懐疑的な態度というのは重要と思っていて、自分の考え、もその対象とすべきだとは思います。ただ僕は精神的に弱っちいので自分を疑ってるときに批判されるとつぶされる、と思い、そういう作業はこそこそとします(笑)オープンにそれが出来る糸崎さんの態度はすごい、とおもいました 。

投稿: schlegel | 2010年5月 5日 (水) 10時55分

>オープンにそれが出来る糸崎さんの態度はすごい、とおもいました 。

いや、先にオープンな場で批判されたから、そういう態度に転向したんですw
http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/2010-03-17-1

>ただ僕は精神的に弱っちいので自分を疑ってるときに批判されるとつぶされる、と思い、

その意味での「精神的弱さ」は自分も持ってましたが、その「弱さ」の原因をブッダとラカンが教えてくれて、この二人は時代を超えて同じ事を言ってるのです。
ポイントは、人間は「自分でないもの」を「自分の一部」と勘違いしてしまう癖を持っている、ということです。
「自分」というのは境界線が曖昧な概念ですが、その副次的作用として「自分でないもの」も「自分の一部」として取り込んでしまうことがしばしばあり、それが人間の「弱さ」の一因になってるわけです。

例えば「非人称芸術」の概念を否定されて、ぼく自身が精神的に傷ついてしまうのは、「非人称芸術」の概念が自分の所有物、ひいては「自分の一部」であると勘違いしてるからです。
もし「非人称芸術」の概念に妥当性があるのなら、それはこの世に客観的に存在する概念であり、万人の所有物であるはずです。
反対に、「非人称芸術」の概念が自分(糸崎)の一部であるならば、その概念は客観性のない、自分だけの妄想ということになります。
「非人称芸術」にしても「写真」にしても「フォトモ」にしても、それは「自分の一部」ではないですから、それを攻撃されても痛くもかゆくもないし、むしろ大いに非難して議論して欲しいわけです。

初期仏教でブッダが言うことを自分なりにまとめると、「何でも自分のものだ」と思うことは勘違いであるし、そのように「自分の一部」を拡大することは「他人からの攻撃ポイント=弱点」を拡大することに他ならない、というふうになります。
そしてラカンは精神分析の立場から、ある種の精神を病んでいる人は「自分でないもの」を「自分の一部」と勘違いしており、その起源は母子の癒着にあるとしています。
しかし人間の成長過程ではそのような癒着が「父親」の介入で断ち切られ、つまり「自分」と「自分でないもの」の区別があるのが「正常な大人」ということになります。
しかし、「正常」も「大人」もやはり曖昧な概念であり、だから文明人は何かしら精神を病んでいる、というのがラカンの理論です。
いや、両方ともかなり自分流の言い回しにアレンジした解釈ではありますが・・・

以上のようなことをわざわざ書くと言うことは、ぼくもつい最近まで「非人称芸術」の概念を「自分の一部」だと何となく勘違いしてたからですね。
それで、彦坂尚嘉さんのぼくに対する批判というのは、ラカンが名付けた「父の否」として機能し、つまりそれは「概念的な母親との癒着を断ち切る、概念的な父親の暴力的介入で」あって、そこで自分自身の精神分析的な「治療」がなされたわけですw

まぁ、難しく考えなくともサイエンスなんて「自分でないもの」の筆頭ですから、それにデカルトが「方法的懐疑」と言うくらいに懐疑はサイエンスの基本だし、本来は何も悩むことも傷つくこともないはずなのですが、その意味で「文明人は精神を病んでいる」というのは、ブッダの時代から変わらないと言えるのかも知れませんw

投稿: 糸崎 | 2010年5月 5日 (水) 13時40分

>難しく考えなくともサイエンスなんて「自分でないもの」の筆頭ですから、

普遍的な自然というものの存在を仮定すると(笑)サイエンスは「すでにある「はず」」のものを説明するだけですが
既知とか自明とされていることと、だれも知らないことの境界というのは曖昧にせよあるわけで、
そこを「自分」が見つけたい、ということは、まぁサイエンティストのめざしているところでしょう。
アーティストとしての糸崎さんも未開拓の分野・境地を目指しているものと理解しております。
まぁ、我が身を振り返って「病気」というのは遠からずなご指摘だとは思います(笑)

投稿: schlegel | 2010年5月 5日 (水) 14時14分

>普遍的な自然というものの存在を仮定すると(笑)サイエンスは「すでにある「はず」」のものを説明するだけですが

仏教には「法前仏後」という言葉があって、つまりブッダはすでにあるこの世の法(ダルマ)を見出しただけで、まさにサイエンスと同じ考えです。

>そこを「自分」が見つけたい、ということは、まぁサイエンティストのめざしているところでしょう。

この世の「法」なんだから、誰が見つけても同じはずですが、「自分が見つけたい」という動機がないと、誰も見つける気になれませんよねw
特にサイエンスは高度な理論の他に、途方もなく地道な手作業が必要なときもあるようで、だから「動機」は欠かせないと言えます。
ぼくが最近読んだサイエンスの本は、村上和雄さんの『科学者が実感した神様の働き』なのですがw、特定の遺伝子の発見をアメリカの大学と競うことで、当時の筑波大の学生たちは相当に燃えていたそうです。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-6f29.html
だだ、そういう「発見のための動機」はすぐにでも「よけいな自己拡大」につながりかねず、だから村上さんは宗教(天理教)の教えによってそれを制しているのかも知れません。
もちろん、村上さんは「科学者」として、学生たちにダイレクトに宗教を説いたりはしないでしょうが、ご自身の「科学者」としての姿勢は学生にも伝わるのではないかと思います。

だから変に病んでるくらいなら、天理教にでも入信した方が良いのかも知れませんが、天理教では例えば「人類は神様が泥の海から魚を素材につくった」とされてますからw、サイエンスとの両立は容易ではないと推測されます。
実際、サイエンスと宗教が両立できずに偽サイエンスになる例は、オウムをはじめとしていくらでもあるわけです。
いや、欧米の科学者はみんなクリスチャンだったりするし・・・という話は以前もしましたっけ?w

まぁ、オルテガが『大衆の反逆』で、いわゆる「専門バカ」を批判してましたが、専門以外の広い教養に通じることは「バランスを取る」ことであり、バランスが取れてるから精神も病むことがないわけです。
ぼくが最近宗教の本を読んでるのも「バランス」の問題で、だからこのバランスが崩れると、特定の宗教にはまり込んでしまう・・・そうなったら、それでいいのかもしれませんが・・・くらいに思ってるのが良いんじゃないかと思いますw

投稿: 糸崎 | 2010年5月 5日 (水) 15時12分

病気の自分も可愛かったりするわけで(笑)
自分がカワイイというのが自己肥大かもしれないけど、
まぁ宗教にはしってる自分、というのも見えてきません(笑)

ところで病気ってなんでしょうね、(笑)
健康でない状態、なんでしょうが、じゃ健康って何だと(笑)
とりあえず「苦痛」が一つの病気の「症状」でしょうが、
精神を病んでる場合には苦痛でないのもあるかも知れませんしね、、
社会生活上、精神的な苦痛が全くない状態というのもありえない
とおもわれます。社会が病んでるっていうことにしてもいいけど、
まぁ自分がフィットしてないのね、という諦めはここのところよく感じます(笑)

こないだ本屋で、ひろさちや、というひとの「もっと自由に生きるための禅入門」というのをみてたら、
前書きのあたりで、宗教とは、人間が弱くて愚かで不完全な生き物である、と教えてくれることだとおもう
と言うようなことが書いてあり、そう考えると旧約の不条理も腑に落ちる、と思いました。
でもその後読んでると、日本人はみんな病気、みたいな結論に行き着いちゃいそうでしたが、、

投稿: schlegel | 2010年5月 8日 (土) 20時20分

>ところで病気ってなんでしょうね、(笑)
>健康でない状態、なんでしょうが、じゃ健康って何だと(笑)

「精神病」という概念自体は、近代になってからの発明だとフーコーは指摘してます。

整然とした近代社会を成立させるために、それにふさわしくない人間は、病気という名目で社会から隔離しようと、そういうことです。

近代以前は、日本でも西洋でも、ちょっと頭のおかしい人は「神憑り」として神聖視され、社会の一員とされていたそうです。
つまり「精神病」は実在するモノではなく、人間が生み出した「概念」であり「考え方」の一つなわけです。

そうすると「現代人はみな精神病患者である」というふうに考えることもできて、そのような切り口で「現代の問題」を考えることができる。

ラカンは入門書しか読んでないのでその真意は不明ですが、ぼくの理解では「自分でないもの」を「自分の一部」と勘違いすることが病気だとすると、現代人は 多かれ少なかれこの病気に憑かれてます。

このことは、実は初期仏教でブッダによって説かれていて、ブッダは「すべての執着は絶つべきだ」というように説いてますが、「執着」を言い換えると 「自分でないもの」を「自分の一部」と勘違いする症状だと解釈できますw

ブッダは親の子に対する愛情まで否定し、それは一見奇妙な主張ですが、「子供への愛情」とは実は子供という「自分でないもの」を、親が「自分の一部」と捉 える感情に他なりません。

「子供への愛情」は美徳のようでいて、本質的には「親による子供の支配」であって、「自分」から「自分でないもの」への領土拡大の一環です。

実際、現代の家族を巡るトラブルの多くはここに原因があるのであり、精神分析でそのような「症状」を明らかにし、本人に自覚させることが「治療」へと繋がるわけです。


>とりあえず「苦痛」が一つの病気の「症状」でしょうが、

一切の苦痛は「執着」から生まれ、執着したものを失うことで「苦痛」が生じます。

それは、子供であっても、家族であっても、金品であっても、地位や名誉であっても、同じです。

あらゆる「自分でないもの」に拡大した「自分の一部」が「自分の弱点」となり「苦痛」の原因になります。

だからあらゆる「自分でないもの」から「自分の一部」を撤退させれば、「苦痛」の種はなくなり「最強の自分」になることができる。

それこそがブッダの説く「智慧の完成」であり、それはつまり精神的な「病気の完治」を意味するわけですw

しかし、「自分」と「自分でないもの」の区分というのは実に曖昧で、例え自分の手足であっても、果たしてそれが「自分のもの」と言い切れるかどうか不明です。

果たして「病気」は「完治」できるのか?・・・そこがブッダの教えの奥深いところで、現代にも繋がる問題なのではないかと思います。

>宗教とは、人間が弱くて愚かで不完全な生き物である、と教えてくれることだとおもう

哲学だってそういうことは教えてくれますが、仏教研究者の中村元さんによると、そもそも「哲学」と「宗教」の区別は曖昧だそうです。

よく言われることですが、ブッダは哲学的な教えを説いただけで、「仏教」をつくろうとしたわけではありません。

また、今ぼくが読んでる大乗仏教の「中観」理論は、まさに本格哲学であり、ぼくには難しすぎですw

これに対し、「旧約聖書」は表面を捉える限り「宗教」であって、「哲学」の要素はないように思います(だから読んでてつらいのかも知れません)。

しかし恐らく聖書の「解釈学」というのが哲学であって、それがユダヤ人の伝統的な「知性」なのかも知れません。

投稿: 糸崎 | 2010年5月 9日 (日) 11時02分

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