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2010年5月

2010年5月29日 (土)

本日の「blog4」

本日の「blog4」の写真はこんなのを再び撮ってみたりしたのだが、この作風は梅佳代さん(会ったことはないけど)のマネをしていたつもりが、あらためて考えると「路上ネイチャー」の撮り方の応用なのかも知れない。
つまり、ぼくが人物スナップを撮ってるうちに、どうも被写体が「子供」に傾いてしまうのは、子供が人間未満の「自然」に近い存在だからなのかも知れず、だから「都市の中の自然」と言うことでは「路上ネイチャー」と感覚が共通してるのかも知れず、それをして「糸崎さんらしい」と言われたのかも知れない。

あと、こんなのも撮ってみたのだが、CX3のモノクロモード、ISO3200、ノイズリダクションオフである。
同じ場所でも夜になると構図が変わるし、それがモノクロになるとさらに構図が変わる。
まぁ、「写真」を撮ってる人には当たり前のことなのだろうが、当たり前のことを今更ながら発見するのも、新鮮で良いかも知れない。
というか最近、とある写真家の大御所と、とある美術家の大御所に「blog4」の写真を褒められたので、ちょっと調子に乗ってますw

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『パノラマバイブル』がお買い得!

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以前、ブックオフで1万円で売られていたのだが、それでも高くて買えず・・・

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それがなんと、新品特価でこの値段!

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中身はこんな感じ。
旧約聖書の「出エジプト記」で、神様はモーセに自分が地上に降りるための「幕屋」を作ることを命じ、その細かな作り方の指示が何ページにもわたって面食らってしまうのだが、このようなイラストを見れば一目瞭然。
聖書を読んでいてつらいことのひとつに「挿絵がない」事があるので、こういう本は前から欲しかったのだ。

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この本のもう一つの特徴は、誤植の多さ・・・家系図などはシールを貼って訂正するようになっているw
日本聖書教会が気合いを入れて作ったであろう高価な本なのに、これはちょっと不可解。
しかし五千円台の本だったらまあいいかという感じで、イトーヨーカドー恋ヶ窪店にて、同じ本がまだ数冊あって、確か特価本フェアを来週月曜までやってると言ってたので、欲しい人は急げ!!

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2010年5月28日 (金)

最近の「ブログ4」

最近の「ブログ4」について。

以前このブログで「写真家からのアドバイス」と言うタイトルの記事を書いたのだが、まさにこのタイトルのおかげで多くの人に誤解を与えてしまった。
コメント欄にも書いたのだが、ぼくとしては写真家のYくんからアドバイスを求めたわけではなく、Yくんの写真について「どんなつもりで撮っているのか」という、彼の写真に対するコンセプトを聞いたのである。
そしてぼくはYくんに限らず、いろんな写真家に対し、同じような質問を事あるごとに投げかけているのだ。
それはぼく自身が基本的に「写真がわからない」のであって、言ってみればその情報収集のためである。
その中でYくんの話は理路整然としていて、感性に共通した部分もあるせいか、ぼくにはわかりやすかったのだ。

そこでぼくは、自分でも「写真」を始めるにあたって、Yくんの写真に対する考え方を大いに参考にすることにしたのだ。
つまり、ぼくはYくんの話したことに対し、それを勝手に「アドバイス」として再解釈したのだ。
もっと言えば、ぼくはYくんに弟子入りしたのである。
この「弟子入り」はあくまで方法論であって、とも書くぼくは「写真」を知る上で何らかの「基準」が欲しかったのだ。
実のところYくんと話してると、割と自分と感性が共通しているところがあって、「いっそのこと、写真をやめてぼくの弟子になればいいのに」と思ったこともあったのだが、それはかたくなに拒否されて、だったら逆転の発想と言うわけで、ぼくが彼の弟子になってみたのだった(笑)

Yくんがぼくの「写真」の師匠にふさわしいと思った理由は、彼がぼくの「写真」に対し否定的だったこともある。
ぼくは以前、このブログに「普通の写真」と称した写真を貼り付けていて、これは梅佳代さんの真似をしたつもりだったのだが、Yくんにはああいうのは「子供の写真」であって「写真」ではないと言われ、「なりほどそういう考えもあるのか」と納得してしまったのである。
一方、ぼくの「普通の写真」に対し、「糸崎さんらしくて良い」という意見もいただいて、それは正直嬉しいことなのだが、しかしぼくとしては「糸崎さんらしくて良い」ということの「外側」を知りたいと思っているわけで、だからあえて批判的な意見に従うことにしたのだ。

とはいえもちろん、Yくんの考えを丸ごとコピーすることはできないので、他の人の考えも参考に自分なりにアレンジしている。
今のところ自分に課しているルールは、50mm相当のレンズを主力に使い、風景の一部をフレームとして切り取り、その中で「構成」や「バランス」を念頭に撮影することである。
また、何か面白いものを狙うのではなく、つまり「被写体重視」の考えを意識的に排除するように心がけている。
撮影は近所をはじめとする「自分が良く知ってる場所」に限っているが、これは「非人称芸術」のコンセプトとかち合わないよう、「写真」に集中するためである。

この場合の「構成」とか「バランス」は、いまのところ感覚的なものであって明確な理論がない。
しかし、自転車に乗る練習をしてるように、なんとなく「写真」としてのバランスが取れるようになったような気がするのだが、どうだろうか?
いや、練習の成果についてはそれこそ師匠のYくんに聞けばいいのだが、この場合の「師匠」とか「弟子入り」はあくまでも半ば冗談に過ぎず・・・と、こんなこと書くとまたYくんから「あんまりヘンなこと書かんといてくださいよぉ~」などと言われてしまいそうだが(笑)

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難解な絵の解り方

山本藍子『ただ ここにいる 2009〜2010年 1818×2590㎜(200号P)』

上記画像は彦坂尚嘉 さんのブログからの引用なのだが、先日マキイマサルファインアーツに個展を見に行った山本藍子さんの作品である。
で、ぼくにとってこの絵は非常に「難解」に思えたのだが、つまりはこの絵の良さが解らないと言うか、ハッキリ言えばちっとも良いと思えない。

と、そのように自分の自然な感性に従えば、この作品にぼくが興味を持つこともないはずだが、しかしデュシャンは芸術における「趣味的判断」を否定しているのである。
いや、デュシャンが言う「趣味的判断の否定」の真意をぼくはまだ良く理解していないのだが、少なくともぼくの「趣味」に合わないこの作品を、作家本人は自信作として提示し、彦坂尚嘉 さんも非常に優れた作品として評論しているわけで、そのこと自体は非常に気になる。

ありていに言えば、この絵の良さが解らない人は「芸術がわからない人」「センスがない人」として、彦坂さんから批判されている。
そして、その非難を「無視する」のも「受け入れる」のも、どちらも「方法」なのである。
で、最近のぼくはデュシャンの「趣味的判断の否定」を受けて、自分の感性を方法論的に信頼しないことにしているので、彦坂さんの批判を受け入れる(真に受ける)ことにしたのだ。

もちろん、批判を受け入れたところで解らないものは解らないし、彦坂さんのブログの解説文を読んでも理屈はわかるが「良い」と思えなければやっぱりわかったことにならない。
ただ、「解らない」と思っていた作品(作家)が突然理解できるようになることはよくあって、それが自分にとって劇的だったのはセザンヌだったのだが(大嫌いだったのが、突然大好きになった)ともかくわかる努力をすれば、いずれ解るかもしれないのが「芸術」なのである。

ということで、自分なりに「解ろう」として工夫してみたのが以下の画像加工である。
結果を先に言うと、結局はこの絵のよさは解らなかったのだがw、参考までに「実験」を見ていただこうと思う。

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まず、絵を上下逆にしてみたのだが、これは彦坂さんが

《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』

と評していたのが良くわからなくて、つまりこの絵はぼくにはごちゃごちゃしていて「空間」や「立体」がよくわからないのだ。
しかし絵を180度回転すると、明らかに上下逆に見えて、つまりはこの絵にはもともと明確な「上下」の区別のもとに描かれていたことがわかる。
さらに上下逆にしたことで、つまり画面上部の「重さ」が強調されるとともに、画面の「立体感」や「奥行き」が強調され、なるほど《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』のような気がしてくる。

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次はもっと大胆に画像を加工して、画面を左右二分割し、片面を鏡像にして合成してみた。
なぜこのような加工を施したかと言えば、彦坂さんのブログに

何人かの私の友人は、山本藍子の作品は、分かりにくい作品だと言います。つまり良さが分からないと言うのですが、それは豚とレースの組み合わせに意味を見いだせない人には、分からないのは仕方がない事です。

と書かれているからだ。
つまり、このような加工を施すことで「レース」はそのままに「豚」の存在を消すことができる。
これによって絵の見え方がどう変化するのか、検証してみたのだ。

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もうワンパターンあるのだが、実は結果としてオリジナル画像より自分にとって「解りやすい」作品になった。
理由は単純で、左右対称になることで「恐ろしい生物」を描いた絵に変貌したわけで、ぼくはそういう絵が好みなのだ。
ただ、それを突き詰めて言うと、ぼくは「生物が描かれた絵」よりも「本物の生物」のほうが好きなのだ。
それは結局のところ、ぼくの「反芸術」としての好みの現われでしかない。
ぼくとしてはそのような自分の「趣味的判断」を超越して「芸術」を理解してみたいのだが、なかなかに難しいのである。

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2010年5月24日 (月)

写真も絵画も難しいです

Sr8542001b 5月22日はまず、アップフィールドギャラリーで開催中の企画展『ながめる・まなざす DIVISION-2』のトークイベントに行ってきました。
しかしは美術家のクボタタケオさんでしたが、写真家のみなさんへのツッコミがなかなか鋭くて面白かったです。


その後駆け足でマキイマサルファインアーツで開催の、山本藍子さんの個展のオープニングへ。
まぁ正直、山本藍子さんの絵はぼくには難しくてちょっと分かりませんでした。
それは『ながめる まなざす』の写真家諸氏の作品も同じで、どれもぼくには難解です。
難しいとか分からないというのは、つまりそれらはぼくが「非人称芸術」のコンセプトによって否定したものだからなのですが、つまりそれが「反芸術」としての態度です。
しかしオルテガが指摘したように「反○○」と言う態度は結局、○○の存在を前提に、○○に寄生する形でしか成立し得ないわけです。
だからぼくも「非人称芸術」のコンセプトをより確実なものにするためにも、いちどは自分が否定した「分からないもの」に向き合う必要がある。

と言うことで、「写真」というものをあらためて知るために「blog4」にあるような「写真」を自分も撮ってみてるのですが、その分「写真」についてはちょっと分かったような気がします。
しかし「絵」については、あまりに分からない世界があるのが分かって絶句してしまったのですが、やはり「絵」を知るために自分も「絵」を描く必要があるのかも知れませんw

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2010年5月12日 (水)

『空想 皇居美術館』の出版記念展

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もう一昨日の5月10日ですが、『空想 皇居美術館』の出版記念展のオープニングとシンポジウムに行ってきました。
展示品の中心は、彦坂尚嘉さんによる『皇居美術館』の模型ですが、この作品とぼくのフォトモは2008年に琴平のアートイベントで同室に展示されたことがあり、彦坂さんとはそれ以来のおつきあいです。

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シンポジウムの様子ですが、著者3名の方々。
電話で五十嵐太郎さんを撮影中なのが彦坂尚嘉さんで、左端が新堀学さん。

このシンポジウムの内容はぼくが下手にまとめるよりも、ブログにコメントいただいた川上直哉さんの記事を読んだ方がわかりやすいかも知れませんw
http://plaza.rakuten.co.jp/kawakaminaoya/diary/201005110000/
本当はこの記事にコメントを書きたいのですが、返信機能がないので、あとでこのブログの記事にするかも知れません。

いや、本来なら自分で一から記事を書いた方が良いのかも知れませんが、他人に返信する方が楽ですね・・・このブログのコメント欄もそうなのですが。
いや、本来的に「語る」とは「他人の言葉」で語ることなのだろうと思いますが、自分の中に「他人の言葉」が十分取り込めていないうちは、外部的な「他人の言葉」に乗っかる方が語りやすいと、そういうことなのかも知れません。

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2010年5月 5日 (水)

巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』

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大乗仏教の解説書『龍樹』は半分くらいまで読んだのだが、内容が思った以上に哲学的で形而上学的で難解で、ちょっとお休みすることに(がんばって読み終えるつもりだが、という本が何冊もたまりそうだがw)。

それで、本屋でふと手にしたこの本を買ってみたのだが、素晴らしい内容だった。
講演をまとめた本なので読みやすいし、文字量も少ない。
いや、少ない文字量にしては値段がなぜか1200円もするのだが、しかし内容が濃縮されてるので、自分にはそれだけの価値は十分にあった。

シュルレアリスムについては、ブルトンの『超現実主義とは何か』(思潮社)を読んだのだが、それ自体がシュルレアリスムの文章のようにチンプンカンプンで途方に暮れていたのだが、こっちの本は『シュルレアリズムとは何か』について言葉の定義からきちんと説明してくれたりして(日本で俗に言う「シュール」は、ちょっと使い方が間違ってるとか)大変にありがたい。

あと、「メルヘン」と「ユートピア」についてそれぞれ章を立てて解説しており、この言葉も日本人には相当に誤解されてるそうなのだが、一般には無関係と思われるこれらの概念と、シュルレアリスムを結びつけるあたりも大変に面白い。

個人的には、「非人称芸術」は間違いなくシュルレアリズムの系譜にあり、「メルヘン」や「ユートピア」とも強く関連しているらしいのが分かったのが収穫だったが、そのあたりはおいおいと。
とりあえずはこの本に紹介されていた、エルンストの『百頭女』と『ペロー完訳童話集』を読みたくなってしまった。

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2010年5月 4日 (火)

オルテガによる反何々


(Wikipediaに載っていた写真はにこやかだが、実際にはだいぶ厳しそうな人だろうと思う)

前回の記事に書いたとおり、最近のぼくは自分の説を否定的に捉えることに興味がある。
これはもちろん創造的方法論の一つであり、単なる自虐とは異なる。
いや実際に目指すところは徹底的な自虐なのだが、そのような危険に自分を追い込んでこそ「考える」行為が成立するのだ。

と言うことでオルテガの『大衆の反逆』なのだが、ここにはこれまでの自分の態度や、ひいては「非人称芸術」に対しての手厳しい批判ともとれることがいろいろと書いてあり、非常に興味深い。
重要な記述は本当にたくさんあるのだが、今回は以下の引用を示すことにする。

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一見したところでは、反何々という態度は、この何々より新しいように見える。
というのは、そうした態度はその何々に対する反抗を意味するものであり、その何々の存在を前提としているからである。
ところが、この反(アンティ)が意味する革新性は、空虚な否定的態度のうちにかき消されてしまい、その後に積極的な内容として残されるものは「古物」に過ぎないのである。
誰かが反ペドロを宣言したとする。
彼の態度の行程形式で言いかえれば、ペドロのいない世界に賛成したということに他ならない。
ところが、ペドロのいない世界とは、ペドロが生まれていない以前の世界のことである。
従って、反ペドロ主義者は、ペドロ以後に自分を位置づけるかわりに、ペドロ以前に自分を位置づけて、映画の全巻をもう一度過去のシチュエーションに焼き直すということをするわけだが、そのフィナーレには容赦なくペドロが登場するのである。
つまり、こうした反何々主義者のすべてには、伝説が孔子の身の上に起こったと伝えていることと同じ事が起こるのである。
孔子は、当然のことながら彼の父より後の世に生まれ出た。ところがなんということであろう、父は三十歳であったのに、かれはすでに八十歳として生まれた。
要するに一切のアンティは、単純で空虚なノーに他ならないのである。
(P.133-134

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ここでは「反何々」という態度一般について批判しているのだが、実に単純明快な内容で、それだけになぜ自分はこれに気づかなかったのかと、目からウロコの思いである。
もちろん、ぼくは「非人称芸術」のコンセプトによっていわゆる「人称芸術」を否定し、「フォトモ」や「ツギラマ」によって「写真」を否定するから、オルテガの指摘はダイレクトに自分に当てはまる。
この一文に「非人称芸術」と「人称芸術」を当てはめ、適当にアレンジすると以下のようになる。

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一見したところでは、「非人称芸術」という態度は、「人称芸術」より新しいように見える。
というのは、そうした態度は「人称芸術」に対する反抗を意味するものであり、「人称芸術」の存在を前提としているからである。
ところが、この「非人称芸術」が意味する革新性は、空虚な否定的態度のうちにかき消されてしまい、その後に積極的な内容として残されるものは「古物」に過ぎないのである。
誰かが「非人称芸術」を宣言したとする。
彼の態度の行程形式で言いかえれば、「人称芸術」のない世界に賛成したということに他ならない。
ところが、「人称芸術」のない世界とは、「人称芸術」が生まれていない以前の世界のことである。
従って、「非人称芸術」主義者は、「人称芸術」以後に自分を位置づけるかわりに、「人称芸術」以前に自分を位置づけて、映画の全巻をもう一度過去のシチュエーションに焼き直すということをするわけだが、そのフィナーレには容赦なく「人称芸術」が登場するのである。
要するに「非人称芸術」は、単純で空虚なノーに他ならないのである。

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ぼくが言うところの「人称芸術」とは「芸術家による芸術作品」のことなのだが、つまりは「芸術」のことである。
その「芸術」の歴史は非常に長いし、「芸術はいつから始まったのか」にはさまざまな解釈があるので、「芸術が生まれていない以前の世界」を想像することはなかなかに難しいし、本気で取り組むと相当に高度な知的作業になるのは間違いない。
そのように難解高度な「芸術の否定=芸術誕生以前の世界の想像」を、「非人称芸術」という簡単な概念で片付けることはナンセンスであり、その点だけでも自分の底の浅さが明かされてしまったわけである。
この問題は、さらに継続して考えを掘り下げる必要があるだあろう。
次に、同じ一文に「反写真」と「写真」を当てはめてみる。
__

一見したところでは、「反写真」という態度は、「写真」より新しいように見える。
というのは、そうした態度は「反写真」に対する反抗を意味するものであり、「写真」の存在を前提としているからである。
ところが、この「反写真」が意味する革新性は、空虚な否定的態度のうちにかき消されてしまい、その後に積極的な内容として残されるものは「古物」に過ぎないのである。
誰かが「反写真」を宣言したとする。
彼の態度の行程形式で言いかえれば、「写真」のない世界に賛成したということに他ならない。
ところが、「写真」のない世界とは、「写真」が生まれていない以前の世界のことである。
従って、「反写真」主義者は、「写真」以後に自分を位置づけるかわりに、「写真」以前に自分を位置づけて、映画の全巻をもう一度過去のシチュエーションに焼き直すということをするわけだが、そのフィナーレには容赦なく「写真」が登場するのである。
要するに「反写真」は、単純で空虚なノーに他ならないのである。

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「芸術」に対して「写真」の登場時期ははるかに明確なので、「写真が生まれてない以前の世界」も容易に想像することができる。
写真が登場したのは19世紀ヨーロッパなのであるが、当時のヨーロッパは「映像の世紀」であって、写真術のみならず、アニメーション(映画)や、立体映像の原理が発見されたのもこの時代であった。
この当時の映像装置はすべてが実験の段階であり、その時点ではどのような形式が「主流」になるのかは確定していなかったと言える。
写真にしても、現在主流の「四角いフレーム」以外にも円形やかまぼこ形のフレームも一般的であったし、複数の写真をつなげた「ツギラマ」も黎明期から存在したし、「立体写真」も黎明期に大流行している。

つまり歴史がまかり間違えればその時代に「フォトモ」が発明されていた可能性は十分にあり、「ツギラマ」とともにそれらの表現が現在の主流になっていた可能性もゼロではない。
しかし例えまかり間違ってそのような時代になったとしても、いずれはその後代に「一枚の写真」だけを作品とするアーティストが、必然的に登場するだろう。
みんなが複数の写真を組み合わせて複雑な作品をつくる時代に、シンプルな「一枚の写真」だけで勝負する作家が登場すれば、それはさぞかしモダンでカッコイイだろう。
これに比較すると「複数の写真による複雑な作品」はダサイし古くさく感じられ、瞬く間に廃れてしまうかも知れない。

実際の歴史は「フォトモ」は「写真」の後に登場したので、ぼくは「フォトモは新しいからカッコイイ」と思っていた。
しかしそれは自分の勘違いであって、「フォトモ」は時代の順序とは関係なく、概念的に「古物」だったのである。
イヤリア未来派のマリネッティが「咆哮する自動車はサモトラケのニケより美しい」と言ったとおり、19世紀以降の文明は「スピードの時代」なのであり、「写真」はそのスピードに合わせて現在も進化し続けていると言える。
だから例え歴史がまかり間違って「フォトモ」が主流となったとしても、いずれはスピードに優る「写真」が主流になるのは間違いないのである。
その意味で「フォトモ」も「ツギラマ」も、まさしくオルテガが指摘するように「古物」に過ぎなかったのである。
もちろん、「スピード」だけがすべてではないだろうが、しかしスピードを欠くことが「フォトモ」の重大な欠点であることは、認めなくてはならないだろう。

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創造としての自己否定

ぼくが提唱する「非人称芸術」とは、「反芸術」であり「反写真」でもあり、だからこれまでは「芸術」や「写真」に対する悪口をさんざん言ってきた。
いや、最近は表立ってそういうことはないかも知れないが、「非人称芸術」を主張すると言うことは、自動的に「芸術」や「写真」の存在を否定し、その悪口を言うことになってしまうのだ。
そもそも現代芸術の根底には「既成概念の否定」があって、「非人称芸術」もそれを受け継いでいるつもりなのだ。
だからぼくは「芸術」や「芸術家」や「美術館」や「美術市場」の存在を否定し、「写真」や「写真家」の存在を否定し、その上で「非人称芸術」のコンセプトを構築しようとしてきた。

しかし、最近になってあらためて気づいたのだが、自分はさまざまな既成概念を否定してきたのにもかかわらず、「非人称芸術」そのものに疑念を持ち、それを否定しようとしたことはなかった。
「既成概念の否定」が新たな創造を意味するのであれば、「自分の考え」こそが「既成概念」の筆頭とも言えるわけで、そうでなければ文字通り「自分を棚に上げる」ことになってしまうだろう。
もっと簡単に言えば、賢者は常に自己反省をしながら、自分の考えを進めるのである。
そして、自分はこれまでそのような「自己反省」を欠いており、その意味で「愚者の典型」に陥っていたのだ。

「非人称芸術」という言葉は自分が思いつく以前には世の中に存在しなかったようで、だからこそその概念の妥当性は、いっそう疑い深いもののはずである。
もし「非人称芸術」の概念に妥当性があるなら、ぼく以前にもっとえらい人がその概念を見出していたはずだ、と考えることもできる。
そして実際、いわゆる専門家の中で「非人称芸術」の概念を認めてくれる人は、誰一人おられないのである。
あらためて考えると、「非人称芸術」という言葉そのものは新しかったとしても、それが指し示す概念まで新しいとは限らない。
もしかするとそれは、陳腐な概念を単に別の言葉に置き換えただけなのかも知れない。
もしそうであれば「非人称芸術」にこだわることは「創造的態度」とは言えず、早急に捨て去った方が良いだろう。

自分は今のところ「非人称芸術」の妥当性を信じているが、それは他ならぬ「自分自身に騙されている」のかもしれない。
自分自身に騙されて、自分自身に裏切られないためには、現在の自分の中に「もう一人の自分」をインストールして、自分を騙そうとする「現在の自分」を徹底的に疑い、常に否定の目を向ける必要がある。
もちろん、「自分を疑う自分」も疑わしいものであって、だからこれは単なる自己否定ではなく、「自己肯定」と「自己否定」の二本立てであり、恐らくこれくらいのことは多くの人が日頃から実践してるのであって、単に自分にそれがなかったというだけのような気がするのだ。

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