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2010年5月 4日 (火)

創造としての自己否定

ぼくが提唱する「非人称芸術」とは、「反芸術」であり「反写真」でもあり、だからこれまでは「芸術」や「写真」に対する悪口をさんざん言ってきた。
いや、最近は表立ってそういうことはないかも知れないが、「非人称芸術」を主張すると言うことは、自動的に「芸術」や「写真」の存在を否定し、その悪口を言うことになってしまうのだ。
そもそも現代芸術の根底には「既成概念の否定」があって、「非人称芸術」もそれを受け継いでいるつもりなのだ。
だからぼくは「芸術」や「芸術家」や「美術館」や「美術市場」の存在を否定し、「写真」や「写真家」の存在を否定し、その上で「非人称芸術」のコンセプトを構築しようとしてきた。

しかし、最近になってあらためて気づいたのだが、自分はさまざまな既成概念を否定してきたのにもかかわらず、「非人称芸術」そのものに疑念を持ち、それを否定しようとしたことはなかった。
「既成概念の否定」が新たな創造を意味するのであれば、「自分の考え」こそが「既成概念」の筆頭とも言えるわけで、そうでなければ文字通り「自分を棚に上げる」ことになってしまうだろう。
もっと簡単に言えば、賢者は常に自己反省をしながら、自分の考えを進めるのである。
そして、自分はこれまでそのような「自己反省」を欠いており、その意味で「愚者の典型」に陥っていたのだ。

「非人称芸術」という言葉は自分が思いつく以前には世の中に存在しなかったようで、だからこそその概念の妥当性は、いっそう疑い深いもののはずである。
もし「非人称芸術」の概念に妥当性があるなら、ぼく以前にもっとえらい人がその概念を見出していたはずだ、と考えることもできる。
そして実際、いわゆる専門家の中で「非人称芸術」の概念を認めてくれる人は、誰一人おられないのである。
あらためて考えると、「非人称芸術」という言葉そのものは新しかったとしても、それが指し示す概念まで新しいとは限らない。
もしかするとそれは、陳腐な概念を単に別の言葉に置き換えただけなのかも知れない。
もしそうであれば「非人称芸術」にこだわることは「創造的態度」とは言えず、早急に捨て去った方が良いだろう。

自分は今のところ「非人称芸術」の妥当性を信じているが、それは他ならぬ「自分自身に騙されている」のかもしれない。
自分自身に騙されて、自分自身に裏切られないためには、現在の自分の中に「もう一人の自分」をインストールして、自分を騙そうとする「現在の自分」を徹底的に疑い、常に否定の目を向ける必要がある。
もちろん、「自分を疑う自分」も疑わしいものであって、だからこれは単なる自己否定ではなく、「自己肯定」と「自己否定」の二本立てであり、恐らくこれくらいのことは多くの人が日頃から実践してるのであって、単に自分にそれがなかったというだけのような気がするのだ。

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