ブログ4の評判
(これはブログ4のボツ写真。静岡市 GXR A12 50mm相当)
なかなかこちらのブログの更新ができないでいた。
書きたかったのはブログ4の反「反写真」のことなのだが、企画展「ながめる まなざす」のパーティーなどで写真関係者に感想を聞く機会がたびたびあったのだが、方々から「上手い写真」というお褒めの言葉をいただいて、うれしいというより、ちょっと信じられない気持でいる。
「もともとセンスがあるから飲み込みが早いんですよ」とか、「やればできる人なのに、あえてそれを避けてたんですね」などと言ってくれる人いるのだが、とんでもない!
ぼくは中学生のころカメラが好きで写真部に入ったものの、構図のセンスが無いのが分かって「写真」の道を断念している。
また、美大受験では「平面構成」が大の苦手で「デッサン」だけで入れる東京造形大学デザイン科に入学したのだった。
大学でもデザインの勉強はろくにせず、写真の授業を受けてはみたものの「構図のセンスのなさ」で再びあきらめてしまった。
そして、そのように「構図のセンスがない」ことが、構図を否定してそこから自由な「ツギラマ」や「フォトモ」を生み出すことになった。
写真の構図とは、立体である世界を平面に置き換えて構成することであり、それができないからこそ、立体を立体のまま再現した「フォトモ」という表現に至ったのだ、と何度も公言している。
ぼくはかつてコニカミノルタプラザで開催した「2コマ写真」の個展会場で、写真家の大西みつぐさんに「糸崎さんは写真が下手ですねぇ」と言われ、そこが面白いと褒められたことがある。
「2コマ写真」とは言ってみれば、「1枚の写真」という写真のお作法に対するアンチテーゼでもあるから、構図の悪い写真が2枚並んでいた方が説得力があるのだ。
それにこれは「写真作品」ではなく本質的に「記録写真」なので、構図の美しさは二の次というか、問題の範囲外なのである。
「記録写真」と言うことであれば、「路上ネイチャー」の昆虫写真も同様だ。
このシリーズは「こんな虫がこんな場所にいた」という記録写真だから、その状況が説明的に写されていれば十分だ。
「路上ネイチャー」の広角マクロ写真は、手前に大きな虫を入れて、背景に街並みや通行人を入れるという単純な「二極対立」で、そうすると何となく構図が取れたように見えるのだ。
だからこの写真についても、ぼくは「写真」として構図に気を使っているつもりはない。
「写真」として「良い構図」で撮ろうと思ったら、「記録写真」としての要素をある程度排除しなければならない。
例えば、ある建物の「記録写真」を撮る場合、建物の全体を画面無いに収める必要がある。
しかしそれでは「平面構成」としてのバランスが尊重されず、写真としての「良い構図」にはならない。
その建物を「良い構図」として写真に収めるには、記録性をあきらめ、例えば屋根の先端や壁の一部をカットする必要がある。
ぼくはそのようにカットするのがイヤで、目に写るものはできるだけ丸ごと表現しようと思い、「ツギラマ」や「フォトモ」の技法を採用してきた。
つまりぼくは「現物至上主義」なのである。
それに対し、「写真主義」の人々は「現物」をないがしろにして一部をカットしたりするから、ぼくは「反写真主義」でもあったのだ。
その意味で、ぼくの「フォトモ」をはじめとする写真作品は、「反写真」なのである。
ところが以前にもこのブログに書いたように、ぼくは「写真」がなんであるかをろくに知らずに「反写真」の立場にいたことに、あらためて気づいたのだった。
ぼくは、多くのいわゆる「写真作品」が嫌いだったのだが、「嫌い」と言うことは「その良さが分からない」と同じ意味で、分からないものに対して「分かる努力」をしてみることにしたのだ。
そしてその場合、ただ「写真」を見て分かろうとするより、自分でも「写真」を撮ってみた方が「写真」への理解の近道だろうと思ったのだ。
それであらためて反「反写真」と題したシリーズとして撮り始め、ブログ4にアップして、自分でも「意外にイケてるんじゃないか?」と思って他人に観想を求めたのだが、予想以上に褒められたので意外だったのである。
もちろん、褒められたと言っても「最高だ!」とか「天才だ!」というわけではなく、ともかく「写真」としては水準点をクリアしており、「並の写真の腕はある」と認められたのである。
ぼくとしては「並の写真家の腕」にはかつてはあこがれ、早いうちにすっかり断念してしまったので、かなりの驚きだ。
「センスがない」と思って断念したことが、なぜ今になって可能になったのか?
なんだかんだ言って、ぼくは10数年写真の世界に半分足をつっこみ続けて、「分からない」「興味がない」と良いながらも何となく、数多くの「写真」を見続けてきたのであり、だから知らぬ間に「写真のセオリー」みたいな最上に着いてしまったのかも知れない。
それにブログ4の写真は今のところ(みんなのマネをして)「路上」を撮っているが、ぼくは「路上」というフィールドを並の写真家以上に見続けてきたので、「構図」のコツさえつかめば「写真として絵になる場所」を見つけるのはたやすいと言えるかも知れない。
ともかくぼくは、突如として身に付いた「能力」に驚いているのだが、路上を歩いていても「立体的風景」が「平面」に圧縮されて見えるし、視界に「架空の四角いフレーム」が浮いて見えたりもするようになった。
恐らくこれは普通の写真家やカメラマンにとっては当たり前のことなのだろうが、ぼくはそういう普通や当たり前の訓練を避け続けてきた、「天の邪鬼という名の愚か者」だったに過ぎないのかも知れない。
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