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2010年6月

2010年6月23日 (水)

ブログ4の評判

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(これはブログ4のボツ写真。静岡市 GXR A12 50mm相当)

なかなかこちらのブログの更新ができないでいた。
書きたかったのはブログ4の反「反写真」のことなのだが、企画展「ながめる まなざす」のパーティーなどで写真関係者に感想を聞く機会がたびたびあったのだが、方々から「上手い写真」というお褒めの言葉をいただいて、うれしいというより、ちょっと信じられない気持でいる。
「もともとセンスがあるから飲み込みが早いんですよ」とか、「やればできる人なのに、あえてそれを避けてたんですね」などと言ってくれる人いるのだが、とんでもない!
ぼくは中学生のころカメラが好きで写真部に入ったものの、構図のセンスが無いのが分かって「写真」の道を断念している。
また、美大受験では「平面構成」が大の苦手で「デッサン」だけで入れる東京造形大学デザイン科に入学したのだった。
大学でもデザインの勉強はろくにせず、写真の授業を受けてはみたものの「構図のセンスのなさ」で再びあきらめてしまった。

そして、そのように「構図のセンスがない」ことが、構図を否定してそこから自由な「ツギラマ」や「フォトモ」を生み出すことになった。
写真の構図とは、立体である世界を平面に置き換えて構成することであり、それができないからこそ、立体を立体のまま再現した「フォトモ」という表現に至ったのだ、と何度も公言している。

ぼくはかつてコニカミノルタプラザで開催した「2コマ写真」の個展会場で、写真家の大西みつぐさんに「糸崎さんは写真が下手ですねぇ」と言われ、そこが面白いと褒められたことがある。
「2コマ写真」とは言ってみれば、「1枚の写真」という写真のお作法に対するアンチテーゼでもあるから、構図の悪い写真が2枚並んでいた方が説得力があるのだ。
それにこれは「写真作品」ではなく本質的に「記録写真」なので、構図の美しさは二の次というか、問題の範囲外なのである。

「記録写真」と言うことであれば、「路上ネイチャー」の昆虫写真も同様だ。
このシリーズは「こんな虫がこんな場所にいた」という記録写真だから、その状況が説明的に写されていれば十分だ。
「路上ネイチャー」の広角マクロ写真は、手前に大きな虫を入れて、背景に街並みや通行人を入れるという単純な「二極対立」で、そうすると何となく構図が取れたように見えるのだ。
だからこの写真についても、ぼくは「写真」として構図に気を使っているつもりはない。

「写真」として「良い構図」で撮ろうと思ったら、「記録写真」としての要素をある程度排除しなければならない。
例えば、ある建物の「記録写真」を撮る場合、建物の全体を画面無いに収める必要がある。
しかしそれでは「平面構成」としてのバランスが尊重されず、写真としての「良い構図」にはならない。
その建物を「良い構図」として写真に収めるには、記録性をあきらめ、例えば屋根の先端や壁の一部をカットする必要がある。

ぼくはそのようにカットするのがイヤで、目に写るものはできるだけ丸ごと表現しようと思い、「ツギラマ」や「フォトモ」の技法を採用してきた。
つまりぼくは「現物至上主義」なのである。
それに対し、「写真主義」の人々は「現物」をないがしろにして一部をカットしたりするから、ぼくは「反写真主義」でもあったのだ。
その意味で、ぼくの「フォトモ」をはじめとする写真作品は、「反写真」なのである。

ところが以前にもこのブログに書いたように、ぼくは「写真」がなんであるかをろくに知らずに「反写真」の立場にいたことに、あらためて気づいたのだった。
ぼくは、多くのいわゆる「写真作品」が嫌いだったのだが、「嫌い」と言うことは「その良さが分からない」と同じ意味で、分からないものに対して「分かる努力」をしてみることにしたのだ。
そしてその場合、ただ「写真」を見て分かろうとするより、自分でも「写真」を撮ってみた方が「写真」への理解の近道だろうと思ったのだ。

それであらためて反「反写真」と題したシリーズとして撮り始め、ブログ4にアップして、自分でも「意外にイケてるんじゃないか?」と思って他人に観想を求めたのだが、予想以上に褒められたので意外だったのである。
もちろん、褒められたと言っても「最高だ!」とか「天才だ!」というわけではなく、ともかく「写真」としては水準点をクリアしており、「並の写真の腕はある」と認められたのである。
ぼくとしては「並の写真家の腕」にはかつてはあこがれ、早いうちにすっかり断念してしまったので、かなりの驚きだ。

「センスがない」と思って断念したことが、なぜ今になって可能になったのか?
なんだかんだ言って、ぼくは10数年写真の世界に半分足をつっこみ続けて、「分からない」「興味がない」と良いながらも何となく、数多くの「写真」を見続けてきたのであり、だから知らぬ間に「写真のセオリー」みたいな最上に着いてしまったのかも知れない。
それにブログ4の写真は今のところ(みんなのマネをして)「路上」を撮っているが、ぼくは「路上」というフィールドを並の写真家以上に見続けてきたので、「構図」のコツさえつかめば「写真として絵になる場所」を見つけるのはたやすいと言えるかも知れない。

ともかくぼくは、突如として身に付いた「能力」に驚いているのだが、路上を歩いていても「立体的風景」が「平面」に圧縮されて見えるし、視界に「架空の四角いフレーム」が浮いて見えたりもするようになった。
恐らくこれは普通の写真家やカメラマンにとっては当たり前のことなのだろうが、ぼくはそういう普通や当たり前の訓練を避け続けてきた、「天の邪鬼という名の愚か者」だったに過ぎないのかも知れない。

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2010年6月17日 (木)

「鈴木康広ワークショップ」見学

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6月13日ですが、静岡市美術館で開催された、鈴木康広さんのワークショップを見学しました。
手描きのイラストを上映しながらのお話ですが、これが味わいがあってなかなか面白い。

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おっと失敗・・・

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この部分に乗せるのが名人級。
いや、拳玉のワークショップではなく、これは余興です(笑)。

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こんなふうに、簡単に紙で作れる飛ばせるおもちゃを、みんなで作りました。

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これは学生時代の作品を見せているところですが・・・

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コクヨのメモ帳に描かれたパラパラ漫画です。
この作品が鈴木さんの原点だそうですが、かれは現在アニメ作家ではなく、実に多彩なアーティストでいろいろと刺激になりました。
鈴木康広さんのホームページはこちら。
http://www.mabataki.com/

ちなみに、ぼくも新潟市美術館で秋頃からワークショップをやりますので、お楽しみに・・・

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2010年6月13日 (日)

「趣味的判断」を超越する

デュシャンは「レディ・メイド」の選択から自分の趣味的判断を排除している。
それだけでなく、芸術の良し悪しについての「趣味的判断」をたびたび非難している。
ところが、自分は「非人称芸術」をもっぱら自分の「趣味判断」で鑑賞してきた。
もしデュシャンに従うなら、「非人称芸術」の鑑賞においても自分の「趣味的判断」を排除しなければならないし、そうなれば「非人称芸術」の可能性はもっと広がるかも知れない。
しかし、ぼくの中では鑑賞と趣味は不可分に結びついていて、それを分離することの意味や方法論が今ひとつ分からない。
それでいろいろ試してみたのだが、ひとつは「復元フォトモ」で、これは素材が「他人の写真」なので、その意味では自分の趣味判断を排除できている。
また、フォトモワークショップの生徒作品も、これは「他人の作品」だから、そのうちにぼくの趣味判断は含まれない。
もう一つの試みは、昨年のユカコンテンポラリーで展示したツギラマの新作だが、これはモチーフの選択をギャラリーオーナーに依頼する形で、自分の趣味判断を排除してみたのだ。

それぞれの方法は、それなりにうまくはいったと言えるのだが、しかし今ひとつ釈然としないというか、少なくとも「趣味的判断を排除する」と言うことの意味をどうもつかみかねている感じがするのだ。

ところが『彦坂尚嘉のエクリチュール』を読んでいてあっ、と思ったのだが、そこには芸術の鑑賞には芸術の趣味を広げる必要がある、と言うように書いてある。
彦坂さんは、芸術鑑賞を「味覚」と結びつけて考えておられるのだが、その点はぼくも同じだったので、説明としては非常に分かりやすいし納得できる。
つまり、いわゆるグルメの人というのは好き嫌いが無くて、味覚に関しての趣味の範囲が広いのだ。
これに対して食にこだわりのない人は、いつも同じものばかり食べていたりして、味覚に関しての趣味の範囲が狭い。
その意味で言えば、ぼくは食に関しては趣味は結構広いと言えるかも知れず、特に好き嫌いもなく、まだ大好物というものも特になく「美味しいものだったら何でも好き」だったりする。
また例えまずい料理でも、「まずいなりの味」というものがあって、場合によってはそういう味を楽しんだりもする。

それを考えると、ぼくの「芸術の趣味」は味覚の趣味ほど広くはないことに思い当たるのだ。
ぼくは芸術に関しては好き嫌いが激しく「好きな芸術」より「嫌いな芸術」や「分からない芸術」の方がむしろ多いと言えるかも知れない。
そして嫌いな芸術を嫌いなりに楽しんだり、分からない芸術を分からないなりに楽しんだりと言うこともしない。
芸術に関しては「嫌い」「分からない」でシャットダウンしてしまうのだ。
これに対し味覚については、「嫌い」な味覚があれば「なぜこれが嫌いなのか?」を考え、「他の人が好きだったら自分も好きになれるかも?」とその可能性を探ったりするはずだと思う。
「分からない味」については、ほんらい人間の食べ物ではない木の実などの味を確認する「味覚ネイチャー」などの前衛的試みまで行っている。

これを「非人称芸術」に当てはめると、恐らくぼくは「自分が嫌いな非人称芸術」や「理解できない非人称芸術」を排除してしまって、その存在にすら気づかないままでいるのかも知れない。
ぼくが自分の狭い趣味判断の領域に囚われているのだとすれば、その状態はまさに行き詰まりと言えるだろう。
これを打開するには、味覚のように芸術の趣味の領域を広げるしかない。
趣味を広げていけば、やがて「趣味」というものは無くなってしまう。
味覚の趣味が広がれば、特定の趣味を超えて「美味しいものだったら何でも好き」になるし、「まずいものもそれなりに味わえる」ようになる。
デュシャンは「悪い感情もまた感情であるように、悪い芸術もまた芸術なのです」というように書いていたが、「まずい料理もまた料理」であるわけで、つまりそれは趣味の拡大による無効化と解釈できるのだ。

実は、ぼくはこのような「趣味の拡大」の試みをあまり自覚せずにすでに実行していて、ブログ4の「写真」がまさにそれなのだ。

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2010年6月 8日 (火)

6月4日の日記

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6月4日は長野の実家で、鹿児島で撮ったフォトモを作ってたりとか。

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パーツ接着面の「段差」がポイント。

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できた・・・

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その後東京に戻り、「ながめる まなざす」DIVISION2のオープニングパーティーへ。
右は出品者の山方くんで、これまで彼の「写真」は自分には全然分からなかったのだが、今回は非常に良く「分かる」。
これはblog4で「写真」を撮る練習をしたからで、「分からないものに対して、自分もやってみることで理解が深まる」という実験はいちおう成功したようだ(もちろんまだ浅いかも知れないけど)。

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この日はもう一つの「実験」があって、それはオープニングパーティーから二次会まで酒を一滴も飲まず、ウーロン茶だけで通したことだ。
最近、飲み会で飲み過ぎて失敗ばかりしてたので、禁酒できるかどうか実験したのである。
結果としては飲まないですんだし、飲んでなくても楽しくおしゃべりできることが判明した。
シラフであってもしゃべりまくれば脳内麻薬物質が分泌されるから、飲まなくても済むのである。
飲酒は仏教でも禁止されてるが、この調子だと仏教の修行もできそうな気がするw

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2010年6月 4日 (金)

「写真」とツギラマ

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今日から水道橋のアップフィールドギャラリーでの企画展「ながめる まなざす」DIVISION-2で、ぼくの「写真」の師匠(と勝手に思ってる)山方伸さんの展示が始まる。http://d.hatena.ne.jp/blepharisma/20100604
ぼくはこれまで「写真」の良し悪しについて全く分からなかったのだけど、自分で「写真」を撮るようになって見方がガラリと変わってるかも知れず、その意味では非常に楽しみだ。
ちなみに「ツギラマ」については師事するような先人がいないので、いつも五里霧中なのだが、「写真」についてはそういう「独りよがり」はやめてみようと思うのだ。

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2010年6月 1日 (火)

二つの意味で「反写真」

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数日前鹿児島で撮影したツギラマをつないでみたのだが、(とは言えフォトショップでの加工だが)、これも写真と言えば写真なのだが、いわゆる「写真」の作法に反しているから「反写真」と言えるかも知れない。
しかし、ぼくが言う「反写真」はこのような技術面の他にもう一つ意味があって、それが「撮らない」と言うことだ。

そもそも「非人称芸術」とは鑑賞すべき対象であって、撮る対象ではない。
これは、芸術作品が鑑賞の対象であって、(特殊な場合を除いて)撮影対象にならないのと同じ事である。
しかし、路上に存在する「非人称芸術」には原理的に著作権などないし、撮影禁止にもなってない場合がほとんどである。
だから写真に撮ることもあるのだが、しかしそれはあくまで「記録写真」であって、本質的には「写真作品」とは異なっている。
例えばこのツギラマにしても、肝心なのは写真の向こう側の「非人称芸術」そのものであり、写真はその不完全な記録にしか過ぎない。

「非人称芸術」を目の前にして、記録写真ばかり撮って鑑賞がおろそかになってしまっては、本末転倒である。
実際、「非人称芸術」の鑑賞そのものに没入すると、写真など撮る気が失せてしまう。
無理に撮影しようとカメラを構えると、それだけで「鑑賞の空気」が乱れてしまい、イヤな気分になる。
だから「非人称芸術」に対し真剣モードの時は、写真は一切撮らず、客観的にはただ歩いているだけで何もしていないのと同じ事になる。
しかし、現代社会を生きる上では(見かけ上)何もしないと言うわけにもいかず、だから時々ツギラマやフォトモを撮って「芸術家のフリ」をしてるのだ。
つまりツギラマやフォトモは技法の面でも「反写真」なのだが、それに加えて撮影時に「撮らない」ことを常に意識しており、その意味でも「反写真」なのである。

しかし最近の自分は「反-反写真」のコンセプトを掲げて、いわゆる「写真」を撮る実験をしている。
この場合、「非人称芸術」の視点との衝突を避けるため、撮影場所はもっぱら近所をはじめとする、よく知っている場所に限っている。
よく知っている場所であれば、「非人称芸術」としての発見も(いちおうは)ないわけで、心おきなく別の実験ができるのだ。

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