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2010年6月 1日 (火)

二つの意味で「反写真」

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数日前鹿児島で撮影したツギラマをつないでみたのだが、(とは言えフォトショップでの加工だが)、これも写真と言えば写真なのだが、いわゆる「写真」の作法に反しているから「反写真」と言えるかも知れない。
しかし、ぼくが言う「反写真」はこのような技術面の他にもう一つ意味があって、それが「撮らない」と言うことだ。

そもそも「非人称芸術」とは鑑賞すべき対象であって、撮る対象ではない。
これは、芸術作品が鑑賞の対象であって、(特殊な場合を除いて)撮影対象にならないのと同じ事である。
しかし、路上に存在する「非人称芸術」には原理的に著作権などないし、撮影禁止にもなってない場合がほとんどである。
だから写真に撮ることもあるのだが、しかしそれはあくまで「記録写真」であって、本質的には「写真作品」とは異なっている。
例えばこのツギラマにしても、肝心なのは写真の向こう側の「非人称芸術」そのものであり、写真はその不完全な記録にしか過ぎない。

「非人称芸術」を目の前にして、記録写真ばかり撮って鑑賞がおろそかになってしまっては、本末転倒である。
実際、「非人称芸術」の鑑賞そのものに没入すると、写真など撮る気が失せてしまう。
無理に撮影しようとカメラを構えると、それだけで「鑑賞の空気」が乱れてしまい、イヤな気分になる。
だから「非人称芸術」に対し真剣モードの時は、写真は一切撮らず、客観的にはただ歩いているだけで何もしていないのと同じ事になる。
しかし、現代社会を生きる上では(見かけ上)何もしないと言うわけにもいかず、だから時々ツギラマやフォトモを撮って「芸術家のフリ」をしてるのだ。
つまりツギラマやフォトモは技法の面でも「反写真」なのだが、それに加えて撮影時に「撮らない」ことを常に意識しており、その意味でも「反写真」なのである。

しかし最近の自分は「反-反写真」のコンセプトを掲げて、いわゆる「写真」を撮る実験をしている。
この場合、「非人称芸術」の視点との衝突を避けるため、撮影場所はもっぱら近所をはじめとする、よく知っている場所に限っている。
よく知っている場所であれば、「非人称芸術」としての発見も(いちおうは)ないわけで、心おきなく別の実験ができるのだ。

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