「趣味的判断」を超越する
デュシャンは「レディ・メイド」の選択から自分の趣味的判断を排除している。
それだけでなく、芸術の良し悪しについての「趣味的判断」をたびたび非難している。
ところが、自分は「非人称芸術」をもっぱら自分の「趣味判断」で鑑賞してきた。
もしデュシャンに従うなら、「非人称芸術」の鑑賞においても自分の「趣味的判断」を排除しなければならないし、そうなれば「非人称芸術」の可能性はもっと広がるかも知れない。
しかし、ぼくの中では鑑賞と趣味は不可分に結びついていて、それを分離することの意味や方法論が今ひとつ分からない。
それでいろいろ試してみたのだが、ひとつは「復元フォトモ」で、これは素材が「他人の写真」なので、その意味では自分の趣味判断を排除できている。
また、フォトモワークショップの生徒作品も、これは「他人の作品」だから、そのうちにぼくの趣味判断は含まれない。
もう一つの試みは、昨年のユカコンテンポラリーで展示したツギラマの新作だが、これはモチーフの選択をギャラリーオーナーに依頼する形で、自分の趣味判断を排除してみたのだ。

それぞれの方法は、それなりにうまくはいったと言えるのだが、しかし今ひとつ釈然としないというか、少なくとも「趣味的判断を排除する」と言うことの意味をどうもつかみかねている感じがするのだ。
ところが『彦坂尚嘉のエクリチュール』を読んでいてあっ、と思ったのだが、そこには芸術の鑑賞には芸術の趣味を広げる必要がある、と言うように書いてある。
彦坂さんは、芸術鑑賞を「味覚」と結びつけて考えておられるのだが、その点はぼくも同じだったので、説明としては非常に分かりやすいし納得できる。
つまり、いわゆるグルメの人というのは好き嫌いが無くて、味覚に関しての趣味の範囲が広いのだ。
これに対して食にこだわりのない人は、いつも同じものばかり食べていたりして、味覚に関しての趣味の範囲が狭い。
その意味で言えば、ぼくは食に関しては趣味は結構広いと言えるかも知れず、特に好き嫌いもなく、まだ大好物というものも特になく「美味しいものだったら何でも好き」だったりする。
また例えまずい料理でも、「まずいなりの味」というものがあって、場合によってはそういう味を楽しんだりもする。
それを考えると、ぼくの「芸術の趣味」は味覚の趣味ほど広くはないことに思い当たるのだ。
ぼくは芸術に関しては好き嫌いが激しく「好きな芸術」より「嫌いな芸術」や「分からない芸術」の方がむしろ多いと言えるかも知れない。
そして嫌いな芸術を嫌いなりに楽しんだり、分からない芸術を分からないなりに楽しんだりと言うこともしない。
芸術に関しては「嫌い」「分からない」でシャットダウンしてしまうのだ。
これに対し味覚については、「嫌い」な味覚があれば「なぜこれが嫌いなのか?」を考え、「他の人が好きだったら自分も好きになれるかも?」とその可能性を探ったりするはずだと思う。
「分からない味」については、ほんらい人間の食べ物ではない木の実などの味を確認する「味覚ネイチャー」などの前衛的試みまで行っている。
これを「非人称芸術」に当てはめると、恐らくぼくは「自分が嫌いな非人称芸術」や「理解できない非人称芸術」を排除してしまって、その存在にすら気づかないままでいるのかも知れない。
ぼくが自分の狭い趣味判断の領域に囚われているのだとすれば、その状態はまさに行き詰まりと言えるだろう。
これを打開するには、味覚のように芸術の趣味の領域を広げるしかない。
趣味を広げていけば、やがて「趣味」というものは無くなってしまう。
味覚の趣味が広がれば、特定の趣味を超えて「美味しいものだったら何でも好き」になるし、「まずいものもそれなりに味わえる」ようになる。
デュシャンは「悪い感情もまた感情であるように、悪い芸術もまた芸術なのです」というように書いていたが、「まずい料理もまた料理」であるわけで、つまりそれは趣味の拡大による無効化と解釈できるのだ。
実は、ぼくはこのような「趣味の拡大」の試みをあまり自覚せずにすでに実行していて、ブログ4の「写真」がまさにそれなのだ。
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コメント
デュシャンが「趣味」とか「好み」とか「網膜的」と言っているものは当人も説明していないので人それぞれに解釈されているのではないでしょうか。
哲学者の中村雄二郎さんの「共通感覚論(岩波現代文庫)」という著作があります。
「共通感覚」というのはコモン・センスの本来の意味を込めた中村さん独自の訳語で、その言葉の起源はアリストテレスのセンスス・コムーニスなのだそうであります。
コモンセンスは明治時代に「常識」と訳されたのですが、そもそも日本人は英語圏の人たちのコモンセンスの意味を知りませんから今では「共通認識」に近い意味になっているために、中村雄二郎さんは原義を明確にするためにあえて「共通感覚」と表現しているわけです。
たとえば、東京ではエスカレーターの右側を歩く人のために空けますが、大阪では逆のようです、どちらかを空けるのはそれなりに必然性がありますが、それが右であるべきか左であるべきかには必然性はありません、ただ、バラバラでないことに社会的な混乱を避ける意味があるわけですね。
「大多数がそうしていることは自分もそうした方が混乱がない」というのは社会では必要なことですが、それは、多数派の他人のやり方に従っているだけのことです。
中村さんは、たいていの人はそのことを自覚していなくて、自分の感覚でそうしていると思い込んでいるために「その狭い枠を越えられないでいる」ことを指摘しています。
中村さんはデュシャンがヨーロッパの「伝統的な美術に対する常識」にウンザリしていたと分析しているわけで、そういう捉われのないものとして期待していた第一回のアンデパンダン展が無審査で参加自由をスローガンにしていながら「美術展とはこういうものだ」あるいは「美術作品とはこういうものだ」という古典的な常識を越えていなかったことに対する「言葉なし」の訴えが「泉」の出展だったと見ているわけです。
デュシャンはこれについて「(泉は)好みについての練習問題という着想から出発したものです、好かれることなどおよそなさそうなものを選んだのです。小便器のすばらしさを見出す人はほとんどいません。危険なのは(いわゆる)芸術的な快さなのです。」と友人の物理学者のオットー・ハーンへの手紙に書いていたそうです。
ここでの「好み」は、他の書籍で「趣味」と書かれているものと同じで翻訳の違いで同義なのではないかと思います、だとすれば、HobbyではなくてTaste(感覚的嗜好)に近い意味なのではないのかなあ?・・・と。
これと「芸術的な快さ」という表現の意味とを併せて考えると、デュシャンが考えていた芸術は「世間的な常識に従って安住している心地よさ」でも「思考とは無関係な生理的快感の世界」でもない何かだと思うのですよね。
デュシャンは「そんなことは自分の感覚と相談して自分のアタマで考えろ!」と言っているような気がするのですが、どうでしょうかね(笑)
投稿: 遊星人 | 2010年6月13日 (日) 17時20分
>哲学者の中村雄二郎さんの「共通感覚論(岩波現代文庫)」という著作があります。
これは読んでいませんし、
>デュシャンはこれについて「(泉は)好みについての練習問題という着想から出発したものです、好かれることなどおよそなさそうなものを選んだのです。小便器のすばらしさを見出す人はほとんどいません。危険なのは(いわゆる)芸術的な快さなのです。」と友人の物理学者のオットー・ハーンへの手紙に書いていたそうです。
デュシャンについてはいろいろ読んだつもりが、これは知りませんでしたので、参考になります。
>ここでの「好み」は、他の書籍で「趣味」と書かれているものと同じで翻訳の違いで同義なのではないかと思います、だとすれば、HobbyではなくてTaste(感覚的嗜好)に近い意味なのではないのかなあ?・・・と。
日本語でも「趣味の良し悪し」と表現される場合は、ホビーではなくテイストであるわけで、そしてテイストは味覚を意味しますから、結局はその問題になります。
実のところぼくとしては、味覚は視覚ほど自由ではない、などと思ってしまうのですが、しかし視覚的趣味の原点に味覚的趣味があることは、同意できます。
たとえ話を重ねるなら「うどんは好きだけど、そばは嫌い」という人は、本当の意味で食の愛好者ではありません。
ぼくは実はとろろがアレルギーで食べられないのですが、それは「トロロが悪い」のではなく「自分が悪い」と言うことを自覚しています。
同じように、自分がゴキブリが苦手なのは、昆虫愛好者としてはかなりの「欠点」であることも自覚しているのです。
○○の愛好者とは、本質的に○○についての博愛主義者であって、博愛に徹しきれない自分を責めるわけです。
そう考えるとぼくは美術に関しては全く博愛主義ではなく、サベツばかりしていますw
そして、その源流のひとつに岡本太郎の『今日の芸術』があって、つまり「芸術はうまくあってはならない」「芸術は美しくあってはならない」などというのは、芸術のサベツ主義者の言葉なのです。
じゃあ、彦坂尚嘉の「アートの格付け」はサベツじゃないのかと言えば、そこは「悪い感情が感情であるように、悪い芸術も芸術なのです」という感覚に通じるものがあると、解釈できる。
というか、実際の彦坂さんはどうだか知りませんが、少なくともぼくはサイゼリヤのふやけたパスタも、生ゴミを加熱したような100円ショップのおにぎりの具材も、「不味い」と批判しながらも味は味として味わうことができます。
しかし不思議と「美術」に関してはそういう懐の深さがぜんぜん無い・・・と言うことに、あらためて気づいたわけです。
投稿: 糸崎 | 2010年6月14日 (月) 01時27分
デジカメWatchのリコーCX3の生地ですが
「300mm相当のワーキングディスタンスは約23.5mm・・・」などで
cmと書くべきところを mmと誤記されています(多数)。
訂正しておいた方が良いでしょう。
投稿: 隠居@川崎市 | 2010年6月17日 (木) 06時56分
ありがとうございます、編集に伝えと来ます。
投稿: 糸崎 | 2010年6月17日 (木) 08時06分