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2010年7月

2010年7月21日 (水)

芸術とそうでないものの区別が付かない精神病

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(川村記念美術館の庭園にあったヘンリー・ムーア)

前回の記事からの続き。

先日、美術に詳しい友人と川村記念美術館にジョセフ・コーネル展を見に行った。
川村記念美術館は初めて行ったのだが、というかぼくは美術館にはあまり行かないのだが、マーク・ロスコとかフランク・ステラとかアメリカ現代美術のデカイ作品がいろいろ展示してあって良かった。
こういう作品は写真で何となく知ってたけど、やはり実物を見るとその大きさもあって、だいぶ印象が異なる。

ロスコは「ロスコルーム」といわれる部屋に一堂に展示してあったのだが、これまでロスコがまったく分からなかったのに、あらためてその良さが分かった気がしたのだった。
もし抽象絵画というものが、キリスト教の「偶像崇拝の否定」から生じたのであれば、ロスコの描くボンヤリとした四角い光は、旧約聖書で預言者モーセが対面した神様がこんな感じだったのかも知れず、そう思うとなにやら感動した気分になる。
ぼくの解釈は浅はかでデタラメなのかも知れないが、「良い」と思えば「分かった」事になるのがアートではないだろうか。

ステラは平面絵画の他、壁面から飛び出した立体作品もあって、これは日比野克彦の段ボールアートのようにも見えるのだが、実際はアルミなどの金属でできている。
ある美術家が「糸崎さんのフォトモは、金属で巨大に作ればいいのに」と言っていて、ぼくはそれを聞き流していたのだけど、ステラの立体を見ると「なるほどそれも良いかも」と思えてしまう。
やはり実物を見ないことには、想像力も働かないのだ。

それで肝心のコーネルだが、これがどうもいまひとつ良くなかった。
暗い部屋に作品が置かれスポットライトが当てられているのだが、コーネルの作品は「箱」なので、よけいな影が出てしまい作品が非常に見づらいのだ。
他の作品と同じように普通のフラットな照明で見せて欲しかったが、今回は高橋陸郎の詩とコーネル作品を組み合わせた企画展で、会場内にお星様がキラキラちりばめられたり、いろいろ演出されていたのだった。

しかしそれでなくとも、コーネルは実物と印刷写真で見た印象がそれほど変わらないと、あらためて思ったりした。
コーネルは実は大学時代に洋書の作品集を買っていて、大好きでかなりの影響を受けたはずだが、(展示の悪さを差し引いても)初めて実物と対面した感動があまりないのだった。
その原因の一つは作品の大きさにあって、ステラなどの巨大作品に比べると、コーネルの作品規模は自分の作品(フォトモ)と変わらない、見慣れたサイズなのだ。
いやぼく自身、コーネルの作品サイズに影響されたのかも知れないが、よく言えば省エネルギーで効率が良く、悪く言えば貧乏性であり、日本人的でもある。

それと、コーネルに影響を受けたぼくは、路上でコーネルっぽい雰囲気の寂れたショーウィンドーを見つけては「コーネル物件」と呼んで喜んでたのだが、「非人称芸術」の観点からコーネルの作品が実物なのか、「コーネル物件」が実物なのか、判然としないことになる。
つまりぼくは「コーネル物件」スゴイ実物をさんざん見てきたので、今さらコーネル作品を見たところで、あまり驚かなかったのかも知れない。

****

さて、ここからが本題なのだが、帰りの道すがら同行した友人と話をするうち、実は自分はある種の精神病を患っていて、「非人称芸術」はその精神病のあらわれであることが判明したのだった。
その精神病とは「芸術とそうでないものの区別が付かない病気」なのだが、現代美術の実物を見た直後だとその症状は事に悪化する。

いや、普通の意味ではぼくは精神病ではないのだが、精神分析の世界では「現代人は誰でも精神病患者である」という事になっている。
だとしたら、自分というものを考える上で「どんな精神病を患っているか」を考えるのは有効な手段なはずである。

「現代人は誰でも精神病患者である」と言うことを、ぼくは「遺伝的プログラム論」と合わせて理解している。
まず、人間の「身体形成プログラム」は他の生物と同じように、ほぼ一律に決まっており、人間として受精した個体はプログラム通りに「人間固有の身体」を形成し成長する。
これに対し、人間の「行動プログラム」は他の生物とは異なり一律に決まっていない。
例えばモンシロチョウやオオカミは、それぞれ遺伝的に決められた「行動プログラム」に従って行動する。
もちろん人間にも遺伝的に決められた「行動プログラム」は具わっているが、しかし人間は「言語」というツールを使って自前で「行動プログラム」を形成するようにし向けられているのだ。
つまり人間の「行動プログラム=精神のあり方」には生物学的な「正常」が存在せず、全てが異常であるとも言えるのだ。
いや、正常とは数の論理であって、大多数の人間が同じ精神病(行動プログラム)を煩っていれば、それが「正常」とみなされる。
しかし現代は価値観が多様化し、精神のあり方(行動プログラム)も多様化し、だから「誰でも精神病患者である」が成り立つのである。

そう考えると、ぼくは「芸術とそうでないものの区別が付かない病気」を患っていることに気づくのだった。
いや、実のところそんなことは周知のことだったのだが、今回はあらためて他の人が「芸術とそうでないものの区別をハッキリ付けている」事に気づいて驚いてしまったのだ。

ぼくとしては、コーネルの作品を見た後は、街中の寂れたショーウィンドーも芸術に見えてしまうし、ステラの金属作品を見た後は、街中にあふれる金属のオブジェ(例えば地下鉄の車内とか)が全部芸術に見えて圧倒されてしまう。
つまり以前にブログに書いた「イメージの連鎖」なのだが、これによって美術館を超えて街全体が「豊かな世界」として再創造され、その視点こそが「非人称芸術」なのである。

ところが同行した友人に話を聞いてみると、美術館から一歩外に出れば「芸術」はもう終わりなのである。
帰りの路上はまさに通り道でしかなく、ときおり「雰囲気の良さそうな飲み屋」を見つけては喜んでいたが、それ以外には価値のない、少なくとも「芸術」の価値はまったく貧相な殺伐とした世界に生きている(ように思える)。
しかしそれはぼくの思いこみでしかなく、本人はぼくの知らない豊かな世界に生きているわけで、ぼくの方が特殊な精神病を患っているのだ。

そもそも、「芸術でないものが芸術に見える」という感覚は、スーザン・ソンダクの『写真論』によると、「写真」によってもたらされているのである。
写真に撮影されると、日常にありふれたどんなものでも「均質なオブジェ」となり、マグリットが描くようなシュルレアリスム的な世界へと変貌する。
今ぼくは『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』を読んでいるが、そこでしょうかいされた現代のデッドパン(無表情)写真は、写真の持つシュルレアリスム的特質と受け継いでいると言えるだろう。

しかし、「写真」の立場からは写された「写真」に価値があるのであって、写される以前の「世界そのもの」に芸術的価値が認められているわけではない。
芸術以外の「世界そのもの」に芸術の価値を認めてしまえば、もはや「写真」は不要だし、だから「写真」の立場からそれは絶対に認めることはできない。
このことは、先日のアップフィールドギャラリーでのトークショーでも話題に出たのだが、ある写真家は「風景とは写真に撮られて存在するのであり、撮られる以前に風景は存在しない」と語っていた。
つまり、撮られる以前の「世界そのもの」には「鑑賞に値する風景」なるものは存在せず、ここでも「芸術とそうでないもの」は画然とされている。

このような感覚は、常識的には当たり前なのだろうが、ぼくにはどうもよく分からない。
「写真」によって「世界そのもの」が芸術であることが示されたのなら、「写真」の役目はもう終わりで、後は「世界そのもの」を鑑賞すればいい、とごく自然に思ってしまうのだ。
同じようにコーネルにしろステラにしろ、ぼくにとってあらゆる芸術は「世界そのもの」が芸術的であることを示しており、だから「芸術」よりも「世界そのもの」を鑑賞してしまいたくなってしまうのだ。ぼくが美術展や写真展にあまり行かないのもそれが理由で、行ったらそれなりに楽しいしためになるけれど、その展示場にたどり着くまでの「世界そのもの」の芸術性に圧倒してしまい、目的地に行くのが面倒になってしまうのだ。

これは常識で考えると、まったく価値体系が倒錯した「精神病」の世界である。
もちろんぼくは、通常は「芸術とそうでないものの区別」はちゃんと付けて生活してるので「正常」なのだが、しかし芸術として考えるとその区別は無意味だと本気で信じているから、やっぱり「精神病」なのである。
いや、精神分析からの見解では、現代は誰が精神病患者なのか判然としないのだが、それを踏まえた上で自分と他者の「距離」を量ることは有効なのだと、あらためて思った次第である。

ある意味、現代美術とは、自己と他者の距離そのものであって、折に触れて計測すべきものなのだと言える。
その「距離」とは、精神的な正常と異常との「距離」であり、つまり現代美術とは常に「新たな精神病」を創造し続けてきた、と言えるのだ。

例えば、ルネッサンスに始まる写真そっくりの絵画を「正常」だとすれば、印象派などは精神病患者の絵画である(実際、当時それに類する批判を浴びた)。
さらに印象派に輪を掛けたロスコなどの抽象絵画や、ステラなどの立体が「芸術」に思えるなんて、さらに精神に異常をきたしているようにしか思えない。
このように現代美術の歴史とは「こんなものまで芸術に見えてしまう」という新たな精神病の創造の歴史でもあるのだ。
そう考えるとぼくが提唱する「非人称芸術」は正攻法とも言えるのだが、それだけに他者との「距離」の確認は必要なのだ。

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2010年7月18日 (日)

もう一人の自分

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昨日は「深川フォトセッション」の一環としてTAPギャラリーに行ったのだが、展示を見て事務所でお茶したあとで芳名帳にサインをしたら、すでにもう一人の自分のサインがあって驚いてしまった。
彼はぼくが事務所にいる間に来て、サインをして帰ってしまったようだ。
いや、そう言うことを書くと冗談でもマジで怖くなるのでこのへんでやめるが、しかし事務所でお茶する前と後では「微妙に異なる自分」であることも確かで、とりあえず区別するために(A)(B)と加筆してみた。
これからは展示を見る前にサインをして、見た後にもう一回サインをする、というスタイルで通すのも良いかも知れないw

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2010年7月15日 (木)

現人神

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「ファンです・・・」と言ったら「ありがとう」とにっこり笑って握手してくれました。
恐れ多くてそれ以上話を続けられませんでしたがw

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2010年7月13日 (火)

椅子からイカへ(理解のための改竄)

自分で「写真」を撮ってみることが「写真」の理解の助けになるように、自分で書いてみることが「絵画」の理解の助けになるだろう。
しかし描くことは撮ることより面倒に思われるので、とりあえず「良い」とされる絵画を理解するために、「自分だったらこう描くかも?」という感じでパソコンを使って改竄してみた。
これでオリジナルを超えられなければ、その絵がいかに優れているか理解できるかも知れない。
しかし、見ず知らずの人の絵を改竄すると著作権云々の「感情論」になるので、友人の絵を(勝手ながら)使わせてもらうことにした。
引用はこちらのページから。
http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/2010-07-12
まずはオリジナル作品を見ていただこう。

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栃原比比奈作品 「椅子.1」

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栃原比比奈作品「椅子.2」

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次は上記の改竄作品(サインはそのままだが)。

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糸崎公朗改竄作品「イカ.1」

Isuika2

糸崎公朗改竄作品「イカ.2」

と言うことで、思いがけず「椅子からイカへ」というシニフィアン連鎖(簡単に言うと、言葉の記号的側面の連鎖)が生じたところは気に入ってるのだがw、果たして・・・?

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2010年7月10日 (土)

現実を超現実に転化する

前回の記事から、ソンダクの『写真論』と「非人称芸術」との関係の続き。

ぼくは自分が提唱する「非人称芸術」を、シュルレアリスムの延長上にあると捉えている。
まず、前回も挙げたマグリットの絵を見ていただこう。



『個人的価値観』と題されたこの絵は、部屋の中の小物(櫛、マッチ棒、コップ、シェービングブラシ、石けん)が、不自然に大きく描かれている。
それが壁紙に描かれた青空に白い雲と相まって、何とも不思議な雰囲気を醸し出している。

ここに描かれた小物たちは、形をそのままに拡大されることでその用途を失っている。
ベッドより大きな櫛は櫛として用をなさなず、同じスケールのマッチ棒やコップもまたしかりである。
つまりこの絵には、「イメージ」とそれを指し示す「言葉(意味)」のズレが描かれおり、それこそが「超現実」の世界なのである。
このことは、「室内」を意味する壁紙に「屋外」のイメージが描かれている点にもあらわれている。

シュルレアリスムはフロイトが提唱する「無意識」の作用を利用した芸術の方法論だが、平たく言えば、無意識の世界ではイメージとそれが指し示す言葉は分離している。
だから夢の中では辻褄の合わない不思議な出来事が連続するのだが、それを意識の世界に定着すると、マグリットのようなシュルレアリスム芸術になる。
マグリットによって描かれた巨大な櫛やコップたちは、見慣れたイメージであるにもかかわらず、意味不明の芸術的オブジェとして再発見されるのだ。

無意識に対する「意識」の世界では、イメージとそれを指し示す言葉(意味)は一定の法則(辻褄や文脈)によって結びついており、それが夢に対する「現実」の世界である。
そのように意識が覚醒した現実世界の中に、無意識の作用による「超現実」を描き出すことは容易ではなく、だからシュルレアリスムには芸術としての希少性があると言えるのだ。
そして、ぼくは学生時代はマグリットやエルンストなどシュルレアリスムが大好きだったのだが、自分自身にシュルレアリストとしての特殊な才能がないのが分かってしまい、芸術への道を断念してしまったのだ。

ところが、大学卒業後いろいろあって、しばらくしてふと気がついたのだが、例えばマグリットの描いた巨大な櫛が芸術的オブジェなら、そのままの大きさの「実物の櫛」も芸術的オブジェとして再発見できるのだ。
意識の世界ではイメージと言葉(意味)は一定の法則によって結びついているが、そのカラクリさえ分かってしまえば、それを意図的に分離することができる。
つまり、イメージに結びつく言葉(意味)を、意図的に忘却=捨象してしまえばいいのだ。
例えば手に取った櫛の「櫛である」と意味を捨象すれば、自分の手には「無意味なオブジェ」だけが残り、それは自動的にシュルレアリスムという言葉(意味)と結びつく。

この感覚を周囲の世界に広げていけば、現実のあらゆる「意味あるもの」の「意味」を捨象することによって、現実世界そのものを「意味不明なオブジェ」で埋め尽くされた超現実へと転化できる。
いや、現実の全てとなるとキリがないので、さしあたって対象を都市空間である「路上」に絞ることにした。
と言うことで、ぼくは「路上」を歩きながら、あらゆるものの意味を指し示す言葉を捨象し、それらをシュルレアリスムの視点で「鑑賞」するようになったのだ。

と言うことで、またしても続きます。

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大阪では「写真」が撮れない

7月5日は急遽大阪に行って、福島区のイベント会社の事務所で「京阪ミュージアムトレイン」のための「復元フォトモ」を徹夜で制作し、翌6日朝に寝屋川市の京阪車庫に納品に行き、そのまま寝屋川市内を散策することにした。
とりあえずお腹がすいたので、寝屋川市駅まで歩くことにしたのだが、けっこう距離がある上に適当に歩いたら迷ってずいぶん行き過ぎてしまった。
それで、駅前でお好み焼きを食べて、どうしようかと考えたのだけど、もう一度車庫の近くまで戻って、隣の萱島駅まで歩くことにした。
別になりがあるわけでもないのだが、寝屋川市に来たんだからというわけで、マジックで塗りつぶすようにまんべんなく歩きたくなったのだ。

で、その道すがら当然のごとく「写真」を撮ろうと思ったのだが、すぐに「これは無理だ」とやめてしまった。
と言うのも、やはり大阪圏は何もかも良すぎて、「写真」を撮ってる場合じゃないのだ。
「写真」を撮る場合、それなりに神経を集中してファインダーを覗き、構図を微調整するのだが、そんなことをしたらせっかくの大阪の「路上」が堪能できなくなってしまう。
やはりカメラじゃなくて自分の目で見て、歩くたびに変わりゆく「立体造形」をナマで堪能するという、「非人称芸術」の本気モードに切り替えるしかない。
それでもいちおう無駄と分かっていながら、ときおり適当にシャッターを押すのだが・・・

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GXRのEVFを覗くのはつらいので、GRD3で適当に撮ったのだが、東京圏じゃ見かけないようなカッコイイ家・・・
しかし、この家だけが特にカッコイイとか優れているわけではなく、目に入るもののすべてがスゴイのだけど、いちおう写真に撮れるのはこれでした、と言うことで困ってしまう。

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これも東京じゃあまり見かけない、蛍光灯のゴミ箱・・・

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・・・まさに天然のシュルレアリスムで、こんなのを見るとマジメに「写真」なんか撮れなくなってしまう。
と言うことで、あきらめて「2コマ写真」をぼちぼち撮ったりするしかないのだ。

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おもちゃの隣はどこでしょう?

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おもちゃの隣にありました・・・

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耳なし芳一ダンボ。

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耳穴の奥まで書かれてる・・・

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よくわからないけど、閉鎖的な極楽みたいなところ。
ツギラマにしようと思って撮り始めたけど、疲れてるし、雨が降ってきたし、途中でやめ。
このあとお好み焼きを食べてたら再び雨が上がり・・・

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漠然と「ものすごく良い場所」を撮っても何も写らず・・・

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最後にこれを見つけて息をのんでしまったのだが・・・

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さらに驚愕することに・・・

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間違いなくここは日本ではなく、現実でもなく、超現実の国である。
もちろん、これらの「実物」は写真よりももっとスゴイし、このように写真に撮れる以外の街のあらゆるもの全てがスゴ過ぎて、何というか光り輝いて見えて感動してしまう。

今回は期せずして急遽大阪を訪れることになったのだが、やはりこの街は他の地方都市とは違う気がする。
先月は鹿児島に続いて実家の長野、その後静岡を訪れたが、いずれの都市も街並みは東京圏とあまり変わらない気がする。
しかしやはり大阪は、どうも他の都市とは違って独特で、いろいろなもののバランスが異なってるというか、同じ日本でもちょっと違う雰囲気がするのだ。

と言うことで、いつになくだらだらと写真を並べてしまったのだけど、そこにはほとんど何も写っていないに等しく、やはり「写真」は無力であって「非人称芸術」は実在することが確認されたわけだが、そう言う視点こそが「写真」によってもたらされたのだ、と言うのが最近ソンダクに学んだぼくの見解なのである。

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2010年7月 6日 (火)

「ミュージアムトレイン」の復元フォトモ

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いろいろ事情があって、夕べは大阪の事務所にて徹夜で作業してました。

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できた・・・天満橋駅の「復元フォトモ」です。

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こんなところにハメ込まれてますが、京阪電鉄開業100周年記念事業の「ミュージアムトレイン」です。
このイベントのために、「復元フォトモ」を2点制作しました。

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2010年7月 5日 (月)

デジカメジンでの評判

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デジカメWatchの連載記事での「デジカメジン」のコメント欄だが、いつになく過激というか、みなさん手厳しい・・・
匿名掲示板にはその特長を生かしたゲームというのがあって、みなさんそれぞれテクニックを使っておられるようですが、まぁいろいろとベンキョーになりますです。

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2010年7月 4日 (日)

写真とシュルレアリスム


(これはマグリット)


(これはエルンスト)

前回の記事「半分間違ってて、半分合ってた」の続き。
さて、ソンダクの『写真論』には写真について以下のような記述がある。

シュルレアリスムは常に偶然を求め、招かざるものを歓迎し、無秩序な存在におもねた。自らを虚像で、しかも最小の努力でつくり出す物体ほど超現実的なものがあろうか。その美と奇想的な暴露と情緒的な重みが、降りかかるかもしれない偶然によってさらに増やされそうな物体__ミシンと蝙蝠傘をどう並置するかを一番よく示したのは写真術である。その偶然の出会いを偉大なシュルレアリストの詩人は美の縮図と呼んでいる。
(p59

ぼくは長年「写真が分からない」と公言してきたのだが、何のことはない。
必読書とされる『写真論』を読めば、ちゃんと明快な答えが書かれている。
つまり、「写真」には何が写っているのかと言えば、それは「シュルレアリスム」なのである。
ぼくはマグリットやエルンストのシュルレアリスム絵画が大好きなので、これは自分にとっても分かりやすい話である。
ただし、ソンダクはこの前のページに以下のように書いている。

意識してシュルレアリスムの影響を受けたような写真家たち(その多くはもと画家)は今日では、美術画の外観を模倣した19世紀の「絵画的」写真家の数ほどにわずかなものである。1920年代のもっとも美しい作品群__マン・レイのソラリゼーションによる写真とレイヨグラフ、ラースロー・モホリ=ナジのフォトグラム、ブラガリアの多重露出の研究、ジョン・ハートフィールドとアレクサンダー・ロトチェンコのフォトモンタージュ__でさえ、写真史では傍系の業績とみなされている。写真の表面的リアリズムとされたものに手を加えることに専念した写真家は、写真の超現実な特性をもっとも狭い形で伝えた人たちであった。
(P58

写真には「シュルレアリスム写真」という分野もあるのだが、むしろそのような意図のない「普通の写真」の中にこそシュルレアリスムの世界が写されている、というのである。

アメリカ、あの超現実的な国はファウンド(拾ってきた)オブジェクトでいっぱいだ。私たちのがらくたが芸術になった。私たちのがらくたが歴史になった。
(P76)

シュルレアリストの見方を実践するのに写真ほどよい装備を持った活動はなく、私たちも結局写真をすべて超現実的に見るようになる。
(P82)

殺風景な工場の建物や広告板が雑然と並ぶ大通りも、カメラの眼を通すと協会や田園風景のように美しく見えてくる。現代の趣味からすればもっと美しい。古道具屋を前衛趣味の神殿に仕立て上げ、のみの市通いを美的巡礼儀式にまで高めたのは、ブルトン一派のシュルレアリスト達であったことを思い出すがよい。シュルレアリストの屑拾いの鋭敏な眼は、他の人たちなら醜いとか、興味も関係もないと思うもの__古道具、がらくた、ポップな物体、都会の残骸__を美しいと思うように向けられていた。
(P86)

歴史という「意味あるもの」で埋め尽くされたヨーロッパに比べ、新興国であり歴史のないアメリカは「意味のないがらくた」で埋め尽くされている。
そのような無意味なオブジェの寄せ集めに「美」を見出すのがシュルレアリスムなのであれば、アメリカそのものを超現実的な国だと解釈できる。
だとすれば、アメリカという国をただ単に普通に撮った写真にこそ、シュルレアリスムが写されている。
これはもちろんアメリカ以外のどの国にも適応できて、つまり日本やヨーロッパのように歴史のある国であっても、歴史が埋もれるくらいの大量のがらくたを生産するのが近代以降の時代なのである。
だからどこの国でも、どこの街でも、普通に写真を撮れば、そこに必然的にシュルレアリスムが写ってしまうのだ。

写真は、過去を消費できる対象物に変える近道である。写真のどんなコレクションも、シュルレアリストのモンタージュの実践であり、歴史のシュルレアリスト的短縮である。クルト・シュビッタース、もっと最近ではブルース・コナーとエド・キーンホルツが廃物から見事なオブジェ、タブロー、エンバイロメントを作ったように、私たちは今、私たちの破片の山から歴史を作っている。
(P75-76)

写真の特徴の一つは「近道」であって、つまりそれまでの油絵よりも圧倒的なスピードで自動的に精密な写実画を得ることができる。
前近代的な油彩画の技法は膨大な手間が掛かるがゆえに、「意味のないがらくた」をわざわざ描くことは躊躇されてしまう。
しかし写真であれば、近代的世界で続々と生産され、みるみる過去の遺物となる膨大な「意味のないがらくた」を躊躇なく描画することができる。
写真は圧倒的なスピードを備えるがゆえに、シュルレアリスムの表現にもっとも適している。
さらに時代が進歩するに従い、写真のスピードもアップするから、この関係性は現代にまで受け継がれている。

ぼくが「写真が分からない」と言っていたのは「写真の良し悪しが分からない」と言うことなのだが、今はもう答えを理解している。
つまり「写真」がシュルレアリスムなのであれば、写真の良し悪しとは「シュルレアリスムとしての良し悪し」なのである。
そして、実はその価値判断はぼくの「フォトモ」や「ツギラマ」にもそのまま当てはまる。
その意味でぼくの「反写真」的な作品は、結局は「写真」と同じものに過ぎなかったのだ。

ただし、ぼくはソンダクの言うシュルレアリスムを「非人称芸術」という別の言葉で理解していた。
これについてはさらに次回に書いてみたいと思う。

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2010年7月 2日 (金)

半分間違ってて、半分正しかった

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(本日のブログ4ボツ写真)

去年だったか、アップフィールドギャラリーでのパーティで、写真家の福居伸宏さんに「糸崎さんの言う「非人称芸術」みたいな概念は写真の世界では当たり前のことだから、わざわざ主張しない方が良いですよ」というふうに言われたことがある。
で、そのときは「写真」というものにあまり興味がなかったし、「福居さんが言うんだから、そういうこともあるかも知れない」と思いつつ、話半分に聞き流していた。

ところが最近、心を入れ替えて「写真」の勉強をしようと思い、スーザン・ソンダクの『写真論』を読んでみたら、福居さんが言ったとおりのことが書いてあったのだ。
この本には「非人称芸術」という言葉は使われていないのだが、確かにぼくが「非人称芸術」として主張するほぼ同じことが、「写真」の特徴として語られている。
つまりぼくの「反写真」としての主張は、結局のところ「写真」としてのまっとうなあり方と、ほぼ同一だったのである。
ということで、ぼくの主張は半分は間違いで、半分は正しかったことになる。
間違いだったのは、自分の主張が「反写真」的なオリジナリティのある内容だと思っていた点であり、しかし内容そのものは「正しい」ことが保証されたのだ(笑)

ぼくはこれまで他人の「写真」はほとんど見ずに、写真史や写真論の本はほとんど読まず、見るのは現実の「路上」ばかりで、本は現代思想や哲学や生物学の入門書などを主に読んできた。
それはあえて「写真」の外側の立場に位置することで、自分独自の「反写真」的な概念を構築しようと思ったからである。
ところがそのように独自の概念を構築したつもりが、「写真論の王道」として昔から読まれていた内容とほぼ同じでしかなかったのだ。
まぁ、写真論にしても芸術論にしても、現代思想や哲学や認識論などと連動して語られるのである。
だから、例えぼくが写真論の本はまったく読んでなかったとしても、現代思想や認識論の本を読んでいれば、それは写真論を読んでいたのと大して変わりなく、その結果「当たり前の結論」に達するのは当然なのだと言えるのかも知れない。

と言うわけで、これについて具体的なことを書こうと思ったのだけど、時間がないのでまた次回に・・・
とりあえず、自分をバカにする人間は軽蔑するけど、自分をバカだと指摘してくれる人間は信用することにしてるので、その意味では福居さんに感謝してます(笑)。

つづく。

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