芸術とそうでないものの区別が付かない精神病
(川村記念美術館の庭園にあったヘンリー・ムーア)
前回の記事からの続き。
先日、美術に詳しい友人と川村記念美術館にジョセフ・コーネル展を見に行った。
川村記念美術館は初めて行ったのだが、というかぼくは美術館にはあまり行かないのだが、マーク・ロスコとかフランク・ステラとかアメリカ現代美術のデカイ作品がいろいろ展示してあって良かった。
こういう作品は写真で何となく知ってたけど、やはり実物を見るとその大きさもあって、だいぶ印象が異なる。
ロスコは「ロスコルーム」といわれる部屋に一堂に展示してあったのだが、これまでロスコがまったく分からなかったのに、あらためてその良さが分かった気がしたのだった。
もし抽象絵画というものが、キリスト教の「偶像崇拝の否定」から生じたのであれば、ロスコの描くボンヤリとした四角い光は、旧約聖書で預言者モーセが対面した神様がこんな感じだったのかも知れず、そう思うとなにやら感動した気分になる。
ぼくの解釈は浅はかでデタラメなのかも知れないが、「良い」と思えば「分かった」事になるのがアートではないだろうか。
ステラは平面絵画の他、壁面から飛び出した立体作品もあって、これは日比野克彦の段ボールアートのようにも見えるのだが、実際はアルミなどの金属でできている。
ある美術家が「糸崎さんのフォトモは、金属で巨大に作ればいいのに」と言っていて、ぼくはそれを聞き流していたのだけど、ステラの立体を見ると「なるほどそれも良いかも」と思えてしまう。
やはり実物を見ないことには、想像力も働かないのだ。
それで肝心のコーネルだが、これがどうもいまひとつ良くなかった。
暗い部屋に作品が置かれスポットライトが当てられているのだが、コーネルの作品は「箱」なので、よけいな影が出てしまい作品が非常に見づらいのだ。
他の作品と同じように普通のフラットな照明で見せて欲しかったが、今回は高橋陸郎の詩とコーネル作品を組み合わせた企画展で、会場内にお星様がキラキラちりばめられたり、いろいろ演出されていたのだった。
しかしそれでなくとも、コーネルは実物と印刷写真で見た印象がそれほど変わらないと、あらためて思ったりした。
コーネルは実は大学時代に洋書の作品集を買っていて、大好きでかなりの影響を受けたはずだが、(展示の悪さを差し引いても)初めて実物と対面した感動があまりないのだった。
その原因の一つは作品の大きさにあって、ステラなどの巨大作品に比べると、コーネルの作品規模は自分の作品(フォトモ)と変わらない、見慣れたサイズなのだ。
いやぼく自身、コーネルの作品サイズに影響されたのかも知れないが、よく言えば省エネルギーで効率が良く、悪く言えば貧乏性であり、日本人的でもある。
それと、コーネルに影響を受けたぼくは、路上でコーネルっぽい雰囲気の寂れたショーウィンドーを見つけては「コーネル物件」と呼んで喜んでたのだが、「非人称芸術」の観点からコーネルの作品が実物なのか、「コーネル物件」が実物なのか、判然としないことになる。
つまりぼくは「コーネル物件」スゴイ実物をさんざん見てきたので、今さらコーネル作品を見たところで、あまり驚かなかったのかも知れない。
****
さて、ここからが本題なのだが、帰りの道すがら同行した友人と話をするうち、実は自分はある種の精神病を患っていて、「非人称芸術」はその精神病のあらわれであることが判明したのだった。
その精神病とは「芸術とそうでないものの区別が付かない病気」なのだが、現代美術の実物を見た直後だとその症状は事に悪化する。
いや、普通の意味ではぼくは精神病ではないのだが、精神分析の世界では「現代人は誰でも精神病患者である」という事になっている。
だとしたら、自分というものを考える上で「どんな精神病を患っているか」を考えるのは有効な手段なはずである。
「現代人は誰でも精神病患者である」と言うことを、ぼくは「遺伝的プログラム論」と合わせて理解している。
まず、人間の「身体形成プログラム」は他の生物と同じように、ほぼ一律に決まっており、人間として受精した個体はプログラム通りに「人間固有の身体」を形成し成長する。
これに対し、人間の「行動プログラム」は他の生物とは異なり一律に決まっていない。
例えばモンシロチョウやオオカミは、それぞれ遺伝的に決められた「行動プログラム」に従って行動する。
もちろん人間にも遺伝的に決められた「行動プログラム」は具わっているが、しかし人間は「言語」というツールを使って自前で「行動プログラム」を形成するようにし向けられているのだ。
つまり人間の「行動プログラム=精神のあり方」には生物学的な「正常」が存在せず、全てが異常であるとも言えるのだ。
いや、正常とは数の論理であって、大多数の人間が同じ精神病(行動プログラム)を煩っていれば、それが「正常」とみなされる。
しかし現代は価値観が多様化し、精神のあり方(行動プログラム)も多様化し、だから「誰でも精神病患者である」が成り立つのである。
そう考えると、ぼくは「芸術とそうでないものの区別が付かない病気」を患っていることに気づくのだった。
いや、実のところそんなことは周知のことだったのだが、今回はあらためて他の人が「芸術とそうでないものの区別をハッキリ付けている」事に気づいて驚いてしまったのだ。
ぼくとしては、コーネルの作品を見た後は、街中の寂れたショーウィンドーも芸術に見えてしまうし、ステラの金属作品を見た後は、街中にあふれる金属のオブジェ(例えば地下鉄の車内とか)が全部芸術に見えて圧倒されてしまう。
つまり以前にブログに書いた「イメージの連鎖」なのだが、これによって美術館を超えて街全体が「豊かな世界」として再創造され、その視点こそが「非人称芸術」なのである。
ところが同行した友人に話を聞いてみると、美術館から一歩外に出れば「芸術」はもう終わりなのである。
帰りの路上はまさに通り道でしかなく、ときおり「雰囲気の良さそうな飲み屋」を見つけては喜んでいたが、それ以外には価値のない、少なくとも「芸術」の価値はまったく貧相な殺伐とした世界に生きている(ように思える)。
しかしそれはぼくの思いこみでしかなく、本人はぼくの知らない豊かな世界に生きているわけで、ぼくの方が特殊な精神病を患っているのだ。
そもそも、「芸術でないものが芸術に見える」という感覚は、スーザン・ソンダクの『写真論』によると、「写真」によってもたらされているのである。
写真に撮影されると、日常にありふれたどんなものでも「均質なオブジェ」となり、マグリットが描くようなシュルレアリスム的な世界へと変貌する。
今ぼくは『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』を読んでいるが、そこでしょうかいされた現代のデッドパン(無表情)写真は、写真の持つシュルレアリスム的特質と受け継いでいると言えるだろう。
しかし、「写真」の立場からは写された「写真」に価値があるのであって、写される以前の「世界そのもの」に芸術的価値が認められているわけではない。
芸術以外の「世界そのもの」に芸術の価値を認めてしまえば、もはや「写真」は不要だし、だから「写真」の立場からそれは絶対に認めることはできない。
このことは、先日のアップフィールドギャラリーでのトークショーでも話題に出たのだが、ある写真家は「風景とは写真に撮られて存在するのであり、撮られる以前に風景は存在しない」と語っていた。
つまり、撮られる以前の「世界そのもの」には「鑑賞に値する風景」なるものは存在せず、ここでも「芸術とそうでないもの」は画然とされている。
このような感覚は、常識的には当たり前なのだろうが、ぼくにはどうもよく分からない。
「写真」によって「世界そのもの」が芸術であることが示されたのなら、「写真」の役目はもう終わりで、後は「世界そのもの」を鑑賞すればいい、とごく自然に思ってしまうのだ。
同じようにコーネルにしろステラにしろ、ぼくにとってあらゆる芸術は「世界そのもの」が芸術的であることを示しており、だから「芸術」よりも「世界そのもの」を鑑賞してしまいたくなってしまうのだ。ぼくが美術展や写真展にあまり行かないのもそれが理由で、行ったらそれなりに楽しいしためになるけれど、その展示場にたどり着くまでの「世界そのもの」の芸術性に圧倒してしまい、目的地に行くのが面倒になってしまうのだ。
これは常識で考えると、まったく価値体系が倒錯した「精神病」の世界である。
もちろんぼくは、通常は「芸術とそうでないものの区別」はちゃんと付けて生活してるので「正常」なのだが、しかし芸術として考えるとその区別は無意味だと本気で信じているから、やっぱり「精神病」なのである。
いや、精神分析からの見解では、現代は誰が精神病患者なのか判然としないのだが、それを踏まえた上で自分と他者の「距離」を量ることは有効なのだと、あらためて思った次第である。
ある意味、現代美術とは、自己と他者の距離そのものであって、折に触れて計測すべきものなのだと言える。
その「距離」とは、精神的な正常と異常との「距離」であり、つまり現代美術とは常に「新たな精神病」を創造し続けてきた、と言えるのだ。
例えば、ルネッサンスに始まる写真そっくりの絵画を「正常」だとすれば、印象派などは精神病患者の絵画である(実際、当時それに類する批判を浴びた)。
さらに印象派に輪を掛けたロスコなどの抽象絵画や、ステラなどの立体が「芸術」に思えるなんて、さらに精神に異常をきたしているようにしか思えない。
このように現代美術の歴史とは「こんなものまで芸術に見えてしまう」という新たな精神病の創造の歴史でもあるのだ。
そう考えるとぼくが提唱する「非人称芸術」は正攻法とも言えるのだが、それだけに他者との「距離」の確認は必要なのだ。
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