« 半分間違ってて、半分正しかった | トップページ | デジカメジンでの評判 »

2010年7月 4日 (日)

写真とシュルレアリスム


(これはマグリット)


(これはエルンスト)

前回の記事「半分間違ってて、半分合ってた」の続き。
さて、ソンダクの『写真論』には写真について以下のような記述がある。

シュルレアリスムは常に偶然を求め、招かざるものを歓迎し、無秩序な存在におもねた。自らを虚像で、しかも最小の努力でつくり出す物体ほど超現実的なものがあろうか。その美と奇想的な暴露と情緒的な重みが、降りかかるかもしれない偶然によってさらに増やされそうな物体__ミシンと蝙蝠傘をどう並置するかを一番よく示したのは写真術である。その偶然の出会いを偉大なシュルレアリストの詩人は美の縮図と呼んでいる。
(p59

ぼくは長年「写真が分からない」と公言してきたのだが、何のことはない。
必読書とされる『写真論』を読めば、ちゃんと明快な答えが書かれている。
つまり、「写真」には何が写っているのかと言えば、それは「シュルレアリスム」なのである。
ぼくはマグリットやエルンストのシュルレアリスム絵画が大好きなので、これは自分にとっても分かりやすい話である。
ただし、ソンダクはこの前のページに以下のように書いている。

意識してシュルレアリスムの影響を受けたような写真家たち(その多くはもと画家)は今日では、美術画の外観を模倣した19世紀の「絵画的」写真家の数ほどにわずかなものである。1920年代のもっとも美しい作品群__マン・レイのソラリゼーションによる写真とレイヨグラフ、ラースロー・モホリ=ナジのフォトグラム、ブラガリアの多重露出の研究、ジョン・ハートフィールドとアレクサンダー・ロトチェンコのフォトモンタージュ__でさえ、写真史では傍系の業績とみなされている。写真の表面的リアリズムとされたものに手を加えることに専念した写真家は、写真の超現実な特性をもっとも狭い形で伝えた人たちであった。
(P58

写真には「シュルレアリスム写真」という分野もあるのだが、むしろそのような意図のない「普通の写真」の中にこそシュルレアリスムの世界が写されている、というのである。

アメリカ、あの超現実的な国はファウンド(拾ってきた)オブジェクトでいっぱいだ。私たちのがらくたが芸術になった。私たちのがらくたが歴史になった。
(P76)

シュルレアリストの見方を実践するのに写真ほどよい装備を持った活動はなく、私たちも結局写真をすべて超現実的に見るようになる。
(P82)

殺風景な工場の建物や広告板が雑然と並ぶ大通りも、カメラの眼を通すと協会や田園風景のように美しく見えてくる。現代の趣味からすればもっと美しい。古道具屋を前衛趣味の神殿に仕立て上げ、のみの市通いを美的巡礼儀式にまで高めたのは、ブルトン一派のシュルレアリスト達であったことを思い出すがよい。シュルレアリストの屑拾いの鋭敏な眼は、他の人たちなら醜いとか、興味も関係もないと思うもの__古道具、がらくた、ポップな物体、都会の残骸__を美しいと思うように向けられていた。
(P86)

歴史という「意味あるもの」で埋め尽くされたヨーロッパに比べ、新興国であり歴史のないアメリカは「意味のないがらくた」で埋め尽くされている。
そのような無意味なオブジェの寄せ集めに「美」を見出すのがシュルレアリスムなのであれば、アメリカそのものを超現実的な国だと解釈できる。
だとすれば、アメリカという国をただ単に普通に撮った写真にこそ、シュルレアリスムが写されている。
これはもちろんアメリカ以外のどの国にも適応できて、つまり日本やヨーロッパのように歴史のある国であっても、歴史が埋もれるくらいの大量のがらくたを生産するのが近代以降の時代なのである。
だからどこの国でも、どこの街でも、普通に写真を撮れば、そこに必然的にシュルレアリスムが写ってしまうのだ。

写真は、過去を消費できる対象物に変える近道である。写真のどんなコレクションも、シュルレアリストのモンタージュの実践であり、歴史のシュルレアリスト的短縮である。クルト・シュビッタース、もっと最近ではブルース・コナーとエド・キーンホルツが廃物から見事なオブジェ、タブロー、エンバイロメントを作ったように、私たちは今、私たちの破片の山から歴史を作っている。
(P75-76)

写真の特徴の一つは「近道」であって、つまりそれまでの油絵よりも圧倒的なスピードで自動的に精密な写実画を得ることができる。
前近代的な油彩画の技法は膨大な手間が掛かるがゆえに、「意味のないがらくた」をわざわざ描くことは躊躇されてしまう。
しかし写真であれば、近代的世界で続々と生産され、みるみる過去の遺物となる膨大な「意味のないがらくた」を躊躇なく描画することができる。
写真は圧倒的なスピードを備えるがゆえに、シュルレアリスムの表現にもっとも適している。
さらに時代が進歩するに従い、写真のスピードもアップするから、この関係性は現代にまで受け継がれている。

ぼくが「写真が分からない」と言っていたのは「写真の良し悪しが分からない」と言うことなのだが、今はもう答えを理解している。
つまり「写真」がシュルレアリスムなのであれば、写真の良し悪しとは「シュルレアリスムとしての良し悪し」なのである。
そして、実はその価値判断はぼくの「フォトモ」や「ツギラマ」にもそのまま当てはまる。
その意味でぼくの「反写真」的な作品は、結局は「写真」と同じものに過ぎなかったのだ。

ただし、ぼくはソンダクの言うシュルレアリスムを「非人称芸術」という別の言葉で理解していた。
これについてはさらに次回に書いてみたいと思う。

|

« 半分間違ってて、半分正しかった | トップページ | デジカメジンでの評判 »

アート論」カテゴリの記事

非人称芸術」カテゴリの記事

コメント

じつは私も先月読んだばかりです(笑)

これは糸崎さんのやっていることに関係してそうな内容だとは思いましたが、予備知識が浅いので理解困難でした。

訳者も読みにくい文章だと書いてますが、訳文が読みにくいのは原著のせいだけなのだろうか・・・とも思います(笑)


スーザン・ソンタグは別の著書で「技法」や「対象」よりも作者のパフォーマンスが表現されていることが芸術には大切なのだ・・・みたいなことを書いていたようで、そのことが書かれているかと思ったらどこにもないですね。。。

投稿: 遊星人 | 2010年7月 4日 (日) 17時36分

ぼくも予備知識がないので・・・この本にあげられていた写真家のほとんどを知りませんから。
逆にそれら写真家をちゃんと調べれば「写真」の勉強になりますね。

投稿: 糸崎 | 2010年7月 7日 (水) 16時48分

次はロラン・バルトの「明るい部屋」を読むべきかなと思ったのですが、予備知識の不足している身としては、最近出たばかりの膨大な代表的写真を豊富に掲載して分類しているらしいこちらhttp://booklog.kinokuniya.co.jp/ohtake/archives/2010/06/post_63.html
が先かな?・・・と思ったりしてます、思想的内容ではないようですが分類のほうが分かりやすそうな気がしますので・・・

どちらも私にはちょいとためらう価格なので、立ち読みしてどちらが買う価値があるかどうかを思案してからにします(笑)

投稿: 遊星人 | 2010年7月 7日 (水) 21時12分

「明るい部屋」じゃない方の本はぼくも買おうかどうか迷ってるのですが、大竹昭子さんが紹介する以下の分類に、ぼくの写真がどこに該当するのかちょっと分からなかったりします。

>1.あるコンセプトに従っておこなわれた行為の記録としての写真、2.物語を喚起させる絵画的要素の強い写真、3.中判や大判カメラで風景や建物をとらえた高画質の写真、4.日常で見過ごしがちな事物や空間を写し出した写真、5.親密な対象との深い感情的つながりを追求した写真、6.フォトジャーナリスティックなシーンを報道とは異る視点でとらえた写真、7.名作写真・広告写真・映画のスチールからのリメイク写真、8.写真メディアの変化に着目した「写真論」的写真。

フォトモとかツギラマは、変則的な「2」かな?と思ったりしますが。

投稿: 糸崎 | 2010年7月 8日 (木) 00時50分

分類に納まらない方がオモシロイと思いますが(笑)

投稿: 遊星人 | 2010年7月 8日 (木) 21時48分

いつも参考にしております。
また遊びにきます。
ありがとうございます。

投稿: スピード写真 | 2010年7月26日 (月) 15時57分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/204678/35628906

この記事へのトラックバック一覧です: 写真とシュルレアリスム:

« 半分間違ってて、半分正しかった | トップページ | デジカメジンでの評判 »