大阪では「写真」が撮れない
7月5日は急遽大阪に行って、福島区のイベント会社の事務所で「京阪ミュージアムトレイン」のための「復元フォトモ」を徹夜で制作し、翌6日朝に寝屋川市の京阪車庫に納品に行き、そのまま寝屋川市内を散策することにした。
とりあえずお腹がすいたので、寝屋川市駅まで歩くことにしたのだが、けっこう距離がある上に適当に歩いたら迷ってずいぶん行き過ぎてしまった。
それで、駅前でお好み焼きを食べて、どうしようかと考えたのだけど、もう一度車庫の近くまで戻って、隣の萱島駅まで歩くことにした。
別になりがあるわけでもないのだが、寝屋川市に来たんだからというわけで、マジックで塗りつぶすようにまんべんなく歩きたくなったのだ。
で、その道すがら当然のごとく「写真」を撮ろうと思ったのだが、すぐに「これは無理だ」とやめてしまった。
と言うのも、やはり大阪圏は何もかも良すぎて、「写真」を撮ってる場合じゃないのだ。
「写真」を撮る場合、それなりに神経を集中してファインダーを覗き、構図を微調整するのだが、そんなことをしたらせっかくの大阪の「路上」が堪能できなくなってしまう。
やはりカメラじゃなくて自分の目で見て、歩くたびに変わりゆく「立体造形」をナマで堪能するという、「非人称芸術」の本気モードに切り替えるしかない。
それでもいちおう無駄と分かっていながら、ときおり適当にシャッターを押すのだが・・・
GXRのEVFを覗くのはつらいので、GRD3で適当に撮ったのだが、東京圏じゃ見かけないようなカッコイイ家・・・
しかし、この家だけが特にカッコイイとか優れているわけではなく、目に入るもののすべてがスゴイのだけど、いちおう写真に撮れるのはこれでした、と言うことで困ってしまう。
これも東京じゃあまり見かけない、蛍光灯のゴミ箱・・・
・・・まさに天然のシュルレアリスムで、こんなのを見るとマジメに「写真」なんか撮れなくなってしまう。
と言うことで、あきらめて「2コマ写真」をぼちぼち撮ったりするしかないのだ。
おもちゃの隣はどこでしょう?
おもちゃの隣にありました・・・
耳なし芳一ダンボ。
耳穴の奥まで書かれてる・・・
よくわからないけど、閉鎖的な極楽みたいなところ。
ツギラマにしようと思って撮り始めたけど、疲れてるし、雨が降ってきたし、途中でやめ。
このあとお好み焼きを食べてたら再び雨が上がり・・・
漠然と「ものすごく良い場所」を撮っても何も写らず・・・
最後にこれを見つけて息をのんでしまったのだが・・・
さらに驚愕することに・・・
間違いなくここは日本ではなく、現実でもなく、超現実の国である。
もちろん、これらの「実物」は写真よりももっとスゴイし、このように写真に撮れる以外の街のあらゆるもの全てがスゴ過ぎて、何というか光り輝いて見えて感動してしまう。
今回は期せずして急遽大阪を訪れることになったのだが、やはりこの街は他の地方都市とは違う気がする。
先月は鹿児島に続いて実家の長野、その後静岡を訪れたが、いずれの都市も街並みは東京圏とあまり変わらない気がする。
しかしやはり大阪は、どうも他の都市とは違って独特で、いろいろなもののバランスが異なってるというか、同じ日本でもちょっと違う雰囲気がするのだ。
と言うことで、いつになくだらだらと写真を並べてしまったのだけど、そこにはほとんど何も写っていないに等しく、やはり「写真」は無力であって「非人称芸術」は実在することが確認されたわけだが、そう言う視点こそが「写真」によってもたらされたのだ、と言うのが最近ソンダクに学んだぼくの見解なのである。
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