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2010年8月

2010年8月30日 (月)

サル知恵アート論

(写真の花はブルーサルビア)

『サルでもわかるアート論』という本があるとすれば、頭のいい人が誰でもわかるように書いた入門書なのだろうが、サル並みの頭でしかないぼく自身が書いたこのブログは、さしずめ「サル知恵アート論」といったところだろう。
「サル並み」というのはもちろん比喩なのだが、ぼくは高校までの学業の成績は「中の下」であり、大学はそういう競争をする必要のない美大に進学したのであり、だから確実に「頭が悪い」といえるのだ。

これは自分のコンプレックスには違いないのだが、小浜逸郎さんは著書『頭はよくならない』で、「人は誰でも頭がよくなれるはずだ」というのは幻想でしかなく、それに囚われず「健全なあきらめ」を持つことが、結局自分の能力の拡大に繋がるのだ、と言うように書いている。
また、オルテガの『大衆の反逆』には、「大衆」といわれる人びとがいかに自分の無能を顧みずに思い上がっているか、その苦言が語られている。

だからぼくも自分の「無能」と向き合い、自分を「サル並み」だと思っているくらいが、ちょうど良いのだ。
と、あらためて思ったのである。
そう思うと、ぼくが考えることは、サルの頭で人間サマ並に考えるための「サル知恵」であることに気づくのだ。

そもそもわかりやすく書かれた入門書とは、頭のいい人が「サル知恵」を働かせて書いたのだ、ということができる。
これに対し、頭のいい人が、頭のいい人向けに書いた専門書というのは、「サル並」の自分にはさっぱりわからない。
頭の良い専門家には、頭のいい人向けの専門書しか書かない人もいるし、「サル知恵」を働かせて入門書を書く人もいる。

ぼくはそのような入門書に書かれた「サル知恵」を読み、さまざまにブリコラージュ(切り貼り)しながら、自分なりあれこれ考えるのだが、それこそが「サル知恵」なのだ。
レヴィ・ストロースはブリコラージュを「野生の思考」と表現したが、つまりレヴィ・ストロースはそのような「サル知恵」を有効な思考方法として評価したのである(というぼくの解釈自体が「サル知恵」で、以下無限後退なので略・・・)。
ともかく、ぼくのフォトモやツギラマは「サル知恵」の産物であり、カメラの改造工作もまた同じである。
また「非人称芸術」をはじめ、アートに関係して哲学、思想、宗教、科学などについて語ることの全てが、すなわち「サル知恵アート論」なのである。

これに対し、人間並みに頭の良い専門家の思考とは、レヴィ・ストロースが「エンジニアリング=栽培種化された思考」と表現したものであり、野生を脱した文明の時代の思考であり、オルテガのいう貴族エリートの思考であり、「サル並」の頭の自分にとって理解することのできない領域である。
まぁ、多少大げさに卑下しすぎているきらいはあるが、ぼくはすぐに思い上がるので(笑)、これくらいでちょうど良いのかもしれない。

というわけで、今後ともぼくの「サル知恵アート論」によろしくおつきあいいただければと思いマス。

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他人との「シンクロ写真」

Sa09

Sa10

写真家の相馬泰さんのブログ「東京的日常」の古い投稿から順に見てたのだが、ここに見覚えのある物件の写真が・・・
http://nitijyou.exblog.jp/2535779/

ぼくが撮ったのは2005年よりもずっと前の、フィルムカメラを使ってた時代で、ポジをスキャンしたものである(たしか、OLYMPUS OM4-TiにZUIKO 28mmだったと思う)。
だから決して盗作したわけではない(笑)。
まあ冗談はともかく、他人の写真を見て、自分が撮った被写体と同じことはたまにあるけど、有名な建築や風景はともかく、こういうヘンな物件が重なるというのはなかなか面白い。

それに当時のぼくが「2コマ写真」として撮っているのに対し、相馬さんはあくまで「写真」であり、その差異もなかなか興味深い。
そのぼくが、今では相馬さんらに倣って「写真」を撮っているわけで、この当時からは考えられないことである。
ともかく写真をたくさん撮れば、それだけ他人との「シンクロ写真」の発生率も高まり、それもまた一つ「写真」の楽しみなのかもしれない。

こういう偶然の「シンクロ写真」ばっかり集めた企画展を、いろんな写真家を集めてやっても面白いかもしれない。
そのための作品を探して集めるのは、けっこうタイヘンそうだけど・・・

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2010年8月28日 (土)

呪術・宗教・技術

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「写真」の信者になりたい人」という記事を書いたら、コメント欄に

アメリカ人には「たいていのものは信じられなくてもダクトテープは信頼できる」というダクトテープ信者が多いようです。
僕は「たいていのものは信じられなくてもエポキシ接着剤は信じられる」エポキシ教徒です。

と書かれた方がいて、以後テープや接着剤の話になった。
それで同じ方が最後に、

使い慣れたツールに対する信頼感というのは、言葉に表しにくいし人にも伝えにくいといういみで、一種宗教的な要素がある気がしています

書かれたのに返信しようとしたのだが、あらためて記事にすることにした。

ぼくがここで気づいたのは、同じ信仰でも「宗教」と「呪術」では異なるということだ。
そして、技術への信仰は、宗教ではなく呪術と同質なものなのだ。
ぼくは以前このブログにも書いたのだが、科学技術というものを呪術の延長として捉えている。
科学技術とは「実効性の高い呪術」であり、現在一般に呪術といわれているものは「実効性の低い呪術」なのである。
例えばツイッターで

"アフリカ南東部では、「アルビノ」の体には特別な力が宿るという伝統的な考えから、臓器や体の一部など売却する目的で、アルビノの人々をターゲットにした殺人が後を絶たない。" http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2723801/5724736

という情報を教えてもらったが、こういうのは科学以前の「実効性の低い呪術」なのである。
逆に言えば、このような呪術の確実性を高める努力の果てに、現代の科学技術は成立している。
呪術は、呪文や儀式によって人間の能力以上のことを実現しようとする術だと定義できる。
そう考えると、科学理論や機械の設計図やコンピューター言語などは、呪術をより確実に実現するための、呪文や儀式に他ならないのだ。

しかし歴史を振り返ると、実効性の低い呪術から、実効性の高い呪術(科学)へと徐々に移行したわけではない。
呪術の歴史は人類誕生から続いていると考えられるが、それは身体能力を超えることの想像力=呪術の存在が人類の証でもあるからだ。
しかし人類が狩猟社会から農耕社会に移行すると、人びとの信仰は呪術から「宗教」へと移行した。
そして宗教とは、呪術を否定することに特徴があるのだ。

例えばユダヤ教の聖書(旧約聖書)には、有名な「モーセの十戒」に次の一節がある。

3:あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

人間が神の名を口にするときは、神様に願い事をするときであって、ユダヤ教ではそのような「呪術」を明確に否定しているのだ。
神様に願い事をして、「人間の能力を超えること」を実現してもらうのは、実は神様を人間の奴隷のように扱っているに等しい。
人間の願いを何でも叶えてくれる神様は一見ありがたいようでいて、実のところそんなふうに奴隷のように人間に仕える神様はまがいものに過ぎない。
聖書には奴隷も多く登場し、そういう時代だったからこそ神様と奴隷の違いがよりリアルに感じられたのかもしれない。
みだりに名前を呼んでこき使うのは奴隷であって、神様ではなく、その意味でユダヤ教では呪術が否定されているのだ。

ユダヤ教の聖書にも、人間の能力を超えた様々な不思議な現象が描かれているが、これは呪術ではなく、神様が起こした「奇蹟」なのである。
万能である神様は、あらゆる奇蹟を起こすことができるが、しかしそれは人間に頼まれたからではなく、あくまで神様自身のご意志によって起こされるのだ。
もちろん、モーセをはじめとするユダヤの預言者たちは、神様に様々な願い事をするのだが、それは呪術的な呪文はなく、神様との話し合いおよび説得であり、その結果、神様の「慈悲」によって奇蹟がもたらされるのである。
つまり、呪術とは超能力を持った神様をコントロールする術なのであるが、ユダヤ教では「そんなのは人間の思い上がりにすぎない」というように否定されているのだ。

ユダヤ教から派生したキリスト教も、呪術の否定という要素を引き継いでいる。
新約聖書を読むと、イエズスはパンを無数に増やしたり、水をワインに変えたり、目の見えない人や歩けない人を治療したり、さまざまな「奇蹟」を行っている。
それが呪術でない証拠に、イエズスは奇蹟をもたらしたあと人びとに「このことは他人には黙っているように」と言い含めるのである。
これに対し呪術師は自分の起こした成果を人びとに言いふらすので、インチキなのである。
またイエズスは、ユダヤ教の人が「おまえが救世主なら奇蹟を起こして証拠を見せろ!」というのに対し、「あなたがたはそんな証拠を見ないと判断できないのですか」というように応えている。
ユダヤ教の聖書には、神の奇跡がコントロール不可能なことが書かれているのに、ユダヤ教徒自信がそれを分かっていないことを指摘したのである。

仏教は、ぼくは初期仏教しか知らないのだが、ブッダはまじないや過剰な苦行は迷信だとし、呪術を否定している。
ブッダの教えは、いってみれば「人間の能力」を極限にまで高めるための方法論であり、それによって「神」の存在をも超えることができるとしている。
初期仏典には、ブッダに神様が教えを乞いにくるエピソードもあって、ユダヤ教徒の違いに驚いてしまう。
ともかく、人間が神様にお願いするのではなく、人間がその能力によって神を超えようとするのだから、仏教は呪術ではないのである。
いや実際に神を超えられるかどうかはともかく、初期仏典は「人間の能力」を高めるためのきわめて実用的な書物である。
初期仏教が扱う「人間の能力」とは「考える能力」であり、それを高めるための書物であるからまるで哲学書のような(しかも平易に書かれた)、現代にも通用する内容なのである。

つまり宗教の時代になると、人びとの理性の力も高まり、あらゆる呪術はインチキに過ぎないことが分かり、従って「超能力のコントロール」もあきらめられてしまったのだ。
ところが近代になって、呪術は科学として突如復活するのだが、それは恐らくマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と関係があるのかもしれない。
しかし、ぼくはウェーバーの理論を入門書で読んで納得したはずなのに、今は忘れてしまったので、また今度あらためて考えてみようと思う。

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2010年8月22日 (日)

「信仰」から自由になる

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前回の「「写真」の信者になりたい人」の続き。

「写真」はキリスト教や仏教などと同じく「信仰」なのだが、それは「貨幣」や「イメージ」や「言語」が信仰であるのと同じ意味だ。
つまり、人間は誰でも「信仰」から逃れることができないのだ。

例えば、目に見えるリンゴは「リンゴのイメージ」でしかないのに、人々はそれを「実在のリンゴである」と固く信じている。
このように「イメージ」と「世界」の結びつきは信仰の産物でしかない。
だから外見がそっくりの、プラスティック製の偽リンゴに騙されることもある。

「リンゴ」という言葉が「実在のリンゴ」を指し示のも単なる思いこみで、信仰の産物でしかない。
信仰が異なれば実在のリンゴを指し示す言葉は、たとえば apple になるし、さらに信仰が変化した現在でそれはコンピューターを指し示したりもする。
また貨幣への信仰のない人は、たとえば紙に印刷されただけの一万円札の価値を信じないので、何でも物々交換しようとするだろう。
だから人びとが貨幣を信仰することによって、貨幣経済は成立するのだ。

しかし多くの人は、自分がそのような信仰の世界に生きているという自覚がない。
日本人の多くは自分は無宗教だと思っているが、それは「無宗教」と言う宗教を信仰しているに過ぎない。
信仰の否定は「信仰の否定」という信仰に陥るだけであり、それでは信仰から自由になることはできない。

このような信仰から自由になるためには、自分自身がさまざまな信仰に囚われていて、信仰から決して逃れられないことを自覚することだ。
そうすれば、自分の信仰をコントロールすることができる。
それが「信仰から自由になる」ということだ。

例えばぼくの「写真が信じられない」という感覚も信仰に過ぎないのだと自覚できれば、その信仰を自由にコントロールし、意図的に「写真への信仰」へと向かうことができる。
ぼくの「反ー反写真」はそのための実験なのである。

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「写真」の信者になりたい人

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ぼくは聖書いまを読んでいるが、キリスト教の信者になろうと思っているわけではない。
しかし、写真論や写真史を学んで「写真」の信者になろうとすることについては、努力している。
聖書を読むのも「写真」の信者になるための教養のためである(写真以前の美術史は、キリスト教と大いに関わっているため)。
つまり現在のぼくは、「キリスト教の信者ではない」というのと同じ意味で「写真の信者ではない」のだ。

キリスト教の信者ではないぼくにとって、聖書に書かれたキリストの奇跡(不思議な力で病人を治した、死んで3日後に蘇ったなど)はとても信じることができない。
これと同じように、「写真」の信者ではないぼくにとって、「写真が芸術として評価できる」ことはどうも信じることができない。
特別な才能を持つ者によって描かれる絵画に対し、写真はカメラという機械があれば、誰でも簡単に撮ることができる。
だから写真が「芸術」という特別なものになりうることがどうしても信じられないのだ。

「写真」が信じられないのは、ぼくだけではなく、多くの人がそう思っているはずだ。
その意味で「写真」は芸術として難解で高度な部類に入るだろう。
写真評論家の役割とは、ぼくのような「写真」を信じない人々を説き伏せる「伝道者」なのかも知れない。
いや写真が一般的に難解だからこそ、写真家自身も写真評論家となり、伝道者となっているのかもしれない。
キリストは瓶の水を上等なワインに変える奇跡を起こしたが、「写真」においてそれを起こすのは誰なのか…?

ともかく、かつてのぼくは「写真」が信じられないから、それを切り貼りして「芸術」を成立させようとした。
でもそれは、聖書に出てくる魔術師と同じでしかなく、悪魔が退散すれば正しく「写真」へと回心できるかもしれない。
いや、とりあえずは悪魔憑きの自分を保存しつつ、回心しようと試みているのだが…

次の記事「「信仰」から自由になる」につづく。

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2010年8月17日 (火)

報告とお詫び

報告が非常に遅れましたが、さる7月11日に水道橋のアップフィールドギャラリーで開催された、企画展「ながめる・まなざす」のトークイベントについてです。
ぼくはこのイベントで、写真家の相馬泰さんと共にパネラーを務めさせていただきました。
ぼくと相馬さんのしゃべりを観客が一方的に聞くのではなく、お客さんみんなで写真展や、写真についての意見交換をしてもらおうという趣旨のイベントでした(お題はいちおう「風景に関わる写真について」ということで設定されてました)。

ぼくとしてはもちろん、ギャラリーにとっても初めて開催したことのない形式のイベントで、はじめはみんなどう話して良いのか戸惑っていましたが、徐々に意見が出はじめ、最終的にはけっこう盛り上がって「まだ話し足りない」と思えるところで終了しました。
その意味でこのイベントは成功だったし、ぼくもパネラーとして力不足ながら少しはお役に立てたのではないかと安心しました。

が、このイベントについて、ぼくは一つ謝罪しなくてはなりません。
皆さんにと言うよりも、写真家の丸田祥三さんと、評論家の切通理作さんに対しての謝罪です。
実は、ぼくはtwitterで丸田祥三さんと切通理作さんに、このトークイベントで「写真盗作問題」について取り上げることを約束したのですが、結局この問題はトークで扱うことを中止してしまいました。
はじめにお断りしておくと、これはどこからか「圧力」があったためではなく、パネラーとしてのぼく自身の判断によるものです。

****

ことの経緯を説明しますと、まず「盗作問題」についてご存じない方は以下のサイトをご覧下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/marumaru1964kikei/

こちらの動画も参考になります。
http://www.ustream.tv/recorded/8837635
http://www.ustream.tv/recorded/8838698

それでこの問題に関してtwitterに「ある写真家」が以下の内容の投稿をしました。

丸田氏ですが、まぁぶっちゃけ認められたいんだろうなぁと、ほめて欲しいんだろうなぁと、それも「写真の人たちに」なんだろうなぁと、そんなことを考えました。

それに対し、切通理作さんは以下のように反論されました。

盗作による不利益を被っている側に対して、こういうことを言うのは明確な精神攻撃だと思う。

自分の表現のオリジナリティを認められたいと思うのは当然であっ て、それを意地汚い欲望のように、丸田氏本人も目にする可能性のあるところで言う・・・・これが仮にも写真家を名乗る者のやることでしょうか。このこと一つ見ても写真界ってどうよ?って思います。

で、ぼくとしてはこの写真家の言葉は相当にひどいし、臆面もなくそれが書けるのは、悪い人じゃないけどちょっと困った人だろうな…と想像しました。
しかし、ぼくがここで問題にしたのはむしろ切通さんの

このこと一つ見ても写真界ってどうよ?って思います。

という捉え方でした。
これは「その写真家がヘンなだけ」という特殊ケースであって、写真界の人間が一般にこんなにヘンであるわけもなく、これは明らかに言い過ぎたと思ったのです。
そのことを切通さんに伝えると、以下の返信をいただきました。

@itozaki あなたは写真界の一人として小林伸一郎の盗作行為によって同じ写真家の丸田祥三氏が損失を被っているということについて、自浄努力を試みたというのですか? 僕はこのこと一つで写真界というものを信用しきれません。このこと一つを解決できない写真界に誇りを持てますか?

それに対するぼくの返信は以下の通り。

@risakuなるほど、言われてみれば自浄努力はしてないですね・・・ということで、ぼくの責任においてトークイベントの話題の一つとして、でこの問題を取り上げます。

****

で、このことをパネラーの相方の相馬さんに報告したのですが、「トークのテーマに話をつなげられればいいんじゃない?」と言っていただきました。
ぼくとしては、写真にかかわらず創作行為の基本は「コピー」にあると思うし、自分でも他の写真家の作風を意図的にコピーした「反ー反写真」シリーズも撮っているので、そのあたりから話が広げられるだろうと思っていたのです。

ところが、このことをトークに参加予定の別の某写真家氏に報告したところ、「トークでは盗作問題は取り上げないで欲しい」と強くお願いされてしまいました。
念のためですが、彼は某組織の回し者ではなくw、個人の判断による理由を述べていただきました。
それをぼくの記憶にも基づいてまとめると、以下のようになります。

「盗作問題」は確かに自分も酷いと思う。
しかし自分はあくまで、企画展に関連した写真の話がしたい。
以前、別のトークで話題がそれて、肝心の写真についての話がぜんぜん聞けなかったことがあってイライラしたことがあったけど、今回はそんな状態になって欲しくない。
「盗作問題」は企画展に直接関係ない上に、盛り上がって長引きそうな話題なので、今回は取り上げて欲しくない。

そもそも「盗作問題」は写真関係者のあいだに十分知れ渡っているので、ここで取り上げる必然はないし、その意味での「自浄作用」は働いている。
だいたいにおいて、自分は「写真界」に所属しているなどと意識してないし、少なくとも丸太祥三氏や小林伸一郎氏と「同じ業界」の人間だとは思っていない。
それを「写真界」などと言って、十把一絡げにして欲しくない。
もちろん、自分は「盗作問題」を完全に他人事だとは思っておらず、それなりに関心を払って情報収集をし、時には意見交換もする。
だが少なくとも今回のトークで取り上げるべき問題ではないし、そうして欲しくない。

以上、例によってぼくの記憶の精度は当てにならないですが、だいたいそんなことを言われ、結局ぼくも「それもそうだ」と思って説得されてしまったわけです。
ぼくが彼の話で納得してしまったポイントは、「写真界」というカテゴライズについてです。
確かに、ぼくにしても「写真界」のような顔をしているだけで、実際は「外れ者」でしかないし、そう言う扱いを受けてます。
ぼくはむしろ「出版界」というカテゴリーで、丸田さんや切通さんとは同業者と言えますが、そうなると出版に関係のない写真家は、この問題に無関係と言うことになります。
そもそもこの「盗作問題」は出版に絡んで発生したもので、出版に関係のない写真家にとっては「別の業界」の出来事でしかない、と解釈することができます。
もちろん、そうは言っても多くの写真家が「盗作問題」について人並み以上に関心を寄せていることは確かです。
そう考えると、あらためて切通さんの

このこと一つ見ても写真界ってどうよ?って思います。

にはじまる意見はいろいろな意味で「言い過ぎ」であることが思い起こされてしまうのです。
それでもぼくは、トークの話の流れによっては「盗作問題」を取り上げるつもりではいたのですが、しかし自分から積極的その話題を振ることもなく、トークはそのまま終了となりました。

と言うことで、丸田祥三さんと切通理作さんに対しては、約束を果たすことができたくて大変申し訳ありませんでした。
また、それについての報告が非常に遅れたことも、謝罪いたします。

それで、切通さんの「言い過ぎ」についてですが、これは丸田さんと共にお二人とも大変な思いをされているはずなので、多少の言い過ぎは感情的に仕方のないものとして、差し引いて考えおります。
また、切通さんがぼくの指摘に対して「言い過ぎではない」とおっしゃるのであれば、それは反省しながら自分で考えてみることにします。

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2010年8月14日 (土)

ホンモノの「写真」みたいな「反-反写真」

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遅ればせながら、8月9日に搬入した「フリーアート第一回展」の、ぼくの展示作品の様子。
我ながら、ホンモノの「写真」の展示みたいで笑ってしまったのだが、その意味でうまくいったようで安心した。

いや、展示の直前まではけっこう不安で、「ブログ4」の写真を見るとけっこうイケてると思うのだが、いざ展示作品としてセレクトし始めると「こんなのわざわざプリントして展示する価値があるのか?」と疑問に思えてしまったのだ。
実は自宅のプリンターが故障して、写真屋さんにA4サイズの銀塩プリントをお願いすることにしたのだが、その分お金がかかり敷居が上がったせいもあるだろう。
何より、ごくありふれた住宅街をふつうにスナップしただけの写真で、そこにどういう「芸術」の価値があるのか?冷静に考えると分からなくなってくる。

しかし、8月7日に小山登美夫ギャラリーで開催された、福居伸宏さんの個展「アステリズム」を見に行ったら、ごくありふれた街並みの夜景写真がずらりと並んでいて、「ぼくも普通の街並み写真で良かったんだ」と安心してしまった。
さらに同じビルのタカイシイギャラリーで開催してた畠山直哉さんの「線をなぞる/山手通り」を見たらこちらも普通の街並み写真で、まったくもって安心してしまった。

そもそも、多くの日本人写真家は「普通の街並み写真」を撮っており、だからそれに「右へ倣え」で同じような写真を撮る、と言うのが「反ー反写真」のコンセプトなのである。
しかし、そういうことを自分はやり慣れておらず、油断するとついコンセプトを見失って不安になってしまうのだ。
だから気を取り直して、ともかく「右に倣え」の精神を信じて準備を続行し、何とかそれらしい展示に仕上げることができたのだ。

今回は、彦坂尚嘉さんのアトリエ内の「気体分子ギャラリー」での展示で、駅から遠いし見に行くには予約も必要なので、仲間内で楽しむのが目的みたいなグループ展だが、いつかはこの「反ー反写真」でちゃんとしたところで個展をし、人並みに正当な評価を受けてみたい。
それだけ「本気」と言うことなのだが、例え冗談で始めたとしてもそのうち本気になるのが「行動プログラム」のインストールなのである。

あと、彦坂さんのブログにぼくのインタビュー動画が晒されてますw
http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/2010-08-13-1
ぼくの紹介が「ホトモ」になってるが、これはもちろん「フォトモ」の間違い。
彦坂さんはこの記事以外でも何度か「ホトモ」と誤記されてるが、面白いのでそのままにしているw
そもそも、写真を使ってるから「フォトモ」なのであって、それを理解していれば「ホトモ」とは間違えないと思うのだが、実際には間違えているのが興味深い。
彦坂さんは、何事も正確な情報と微妙な差異にこだわって評価する割に、一方では実におおざっぱな認識(誤認)をされるので、周囲が振り回されたりするのだw

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2010年8月 7日 (土)

「フリーアート」第1回展 に出展します


美術家の彦坂尚嘉さんが主催される「フリーアート」第一回展に出展します。
展示の詳細は上記のリンク先をご覧下さい。
概要は以下の通りです。

会期:2010年8月9日(月)〜22日(日)
時間:11:00~19:00会場:気体分子ギャラリー
住所:藤沢市亀井野3-23-11
   要アポイントメント(いない事もありますので予約してください。)
彦坂携帯:090-1040-1445

*特に明記されてませんが、初日9日が搬入日でもあるので、ぼくも含めたみなさんは会場にいるはずだと思います。
ぼくはフラフラと撮影に出るかも知れませんが・・・でも暑いので会場には戻ってくるでしょうw

フリーアートとは、価格がフリーなのであって、つまり「無料」です。
これは恐ろしいことで、ぼくもコンセプトや状況がよく分かってないのですが、とりあえずは最近の新シリーズ「反ー反写真」のプリントを出展します。
プリントの大きさや点数はまだ決めてないのですが・・・いや、もうそろそろ決めて注文を出さないといけません。

迷っているのは「無料」の解釈が難しい点で、ひとつは無料なんだから極限まで手間や材料費を抑えた、言ってみればゴミのような作品を提供することです。
しかし、「芸術至上主義」と言う価値観に照らして考えると、芸術の価値とは本質的にお金の価値に換算できない、自律したものなのです。
この意味での「芸術」とは芸術家による「贈与」であり、作品の価格はそれに対する「返礼」です。
一般的な商品は貨幣との「等価交換」で成り立っていますから、その点で「芸術」は異なるわけです。

ですから「フリーアート」とは「返礼なき贈与」のことであって、それは「贈与」なんだから当たり前だとも言えます。
ぼくの知っている範囲だと、デュシャンは作品を売らずに人にプレゼントしたことが、たびたびあったそうです。
いや、そんなビッグネームを出さずとも、現代の日本人アーティストの多くが自費で作品制作し、売れる当てもないのに無料で個展を開催しているわけで、そのように芸術家の「贈与」は当たり前のように行われているのです。

そう考えるといくら「無料」とはいえ、ゴミのように手を抜いた作品を提供するのもおかしなことです(それも一つの解釈でしょうが)。
しかしだからといって、どこまで手間とお金を掛けるか(あるいは省略するか)を考えるのが難しく、悩んでいるのです。

そもそも「無料の芸術」と言うことであれば、「非人称芸術」によってそれはもう実現されているのです。
ぼくは芸術家ではなく、言ってみれば「世界そのもの」からの「贈与」を受け、日々それを全身で堪能して感動しているわけです。
そのような観点で見ると、今さら「フリーアート」などと言われても、正直なところ「馬鹿馬鹿しい」としか思えない。
いくら芸術を無料化したところで、はじめから無料であるところの「非人称芸術」の偉大さにかなうわけがないのです。

しかし、そのような立場に凝り固まっているのが「糸崎公朗(A)」であって、そう言う自分を棚に上げた状態で、新たに「糸崎公朗(B)」をインストールしたい、と思ってるのが最近の自分です。
ということで、糸崎公朗(B)の実験作であるところの「反ー反写真」をフリーアート展に出品することにしたのです。
とは言え、ぼくの中ではそれほど人格は分裂しておらず、けっきょくのところ「反ー反写真」はフォトモやツギラマと同じく「相互的非人称芸術」になってしまいました。
いや、当初はもっと違うものになるはずだったんですが、どうしてもそうなってしまいますね・・・実験は始めたばかりで、将来的にどうなるかは分かりませんが。

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『コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』作家リスト

現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』という本に紹介された写真家のリストに、それぞれリンクを張って掲載します。
リンク先は作家のHP、もしくはgoogleイメージ検索の結果です。
自分の勉強のために作成したものですが、みなさんにもご利用いただければと思います。
もっとも、電子書籍が一般化すれば、こんな苦労は入らなくなるのかも知れませんが・・・
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1章 これがアートであるならば

1.sarah jones

2.alec soth

3.william eggleston

4.5.stephen shore

6.bernd and hilla becher

7.seydou keita

8.david goldblatt

9.ralph eugene meatyard

10.philip-lorca di corcia

11.alfred stigliz

12.sophie calle

13.zhang huan

14.roug rong 熒熒

15.joseph beuys

16.oleg kulik

17.melanie manchot

18.jeanne dunning

19.tatsumi orimoto

20.21.erwin wurm

22.gillian wearing

23.bettina von zwehl

24.shizuka yokomizo

25.hellen van meene

26.ni haifeng

27.kenneth lum

28.roy villevoye

29.nina katchadourian

30.wim delvoye

31.dvid shriglay

32.sarah lucas

33.annika von hausswolff

34.mona hatoum

35.georges rousse

36.david spero

37.tim davis

38.olga charnysheva

39.rachel harrison

40.philip-lorca di corcia

41.roni horn

2章 昔々

42.43.jeff wall

44.philip-lorca di corcia

45.teresa hubbard

46.sam taylor-wood

47.tom hunter

48.yinka shonibare

49.sarah dobai

50.liza may post

51.sharon lockhart

52.frances kearney

53.hannah starkey

54.justine kurland

55.sarah jones

56.sergey bratkov

57.wendy mcmued

58.deborah mesa pelly

59.anna gaskell

60.lenz van lamsweede and vinoodh metadin

61.mariko mori

62.gregory crewdson

63.Charlie White

64.izima kaoru

65.christpher stewart

66.katharina bosse

67.Miriam Bäckström

68.miles coolidge

69.thomas demand

70.anne hardy

71.james casebere

72.rut blees luxemburg

73.desiree dolron

74.hannah collins

3章 デッドパン

75.celine van balen

76.77.andreas gursky

78.walter niedermayr

79.bridget smith

80.ed burtynsky

81.takashi honma

82.lewis baltz

83.matthias hoch

84.jacqueline hassink

85.candida hofer

86.naoya hatakeyama

87.axel hutte

88.dan holdsworth

89.richard misrach

90.thomas struth

91.john riddy

92.gabriele basilico

93.simone nieweg

94.yoshiko seino

95.gerhard stromberg

96.97.jem southam

98.kwon,boo moon

99.clare richardson

100.Lukas Jasansky & Martin Polák

101.thomas struth

102.thomas ruff

103.hiroshi sugimoto

104.joel sternfeld

105.jitka hanzlova

106.mette tronvoll

107.albrecht tubke

108.109.110.rineke dijkstra

4章 重要なものとつまらないもの

111.peter fischli and david weiss

112.gabriel orozco

113.felix gonzalez torres

114.richard wentworth

115.jason evans

116.nigel shafran

117.jennifer bolande

118.jean marc bustamante

119.win wenders

120.anthony hernandez

121.tracey baran

122.peter fraser

123.manfred willmann

124.roe ethridge

125/wolfgang tillmans

126.james welling

127.jeff wall

128.laura letinsky

129.uta barth

130.sabine hornig

5章 ライフ

131.132.nan goldin

133.nobuyoshi araki

134.lally clark

135.juergen teller

136.corinne day

137.138.wolfgang tillmans

139.jack pierson

140.richard billingham

141.nick waplington

142.anna fox

143.ryan mcginley

144.hiromix

145.yang yong

146.alessandra sanguinettii

147.Annelies Štrba

148.ruth erdt

149.elinor carucci

150.tina barney

151.larry sultan

152.mitch epstein

153.colin gray

154.elina brothers

155.breda beban

6章 歴史の瞬間

156.sophie ristelhueber

157.willie doherty

158.zarina bhimji

159.anthony haughey

160.ori gersht

161.paul seawright

162.simon norfolk

163.fazal sheikh

164.chan chao

165.zwelethu mthethwa

166.abam broomberg and oliver chanarin

167.deidre o'callaghan

168.trine sondergaard

169.dinu li

170.margareta klingberg

171.Allan Sekula

172.173.paul graham

174.175.176.177.martin parr

178.luc delahaye

179.ziyah gafic

180.andrea robbnis and max beche r

181.shirana shahbazi

182.esko mannikko

183.roger ballen

184.boris mikhailov

7章 再生と再編

185.vik muniz

186.187.cindy sherman

188.yasumasa morimura

189.nikki s lee

190.trish morrissey

191.gillian wearing

192.193.jemima stehli

194.195.196.zoe leonard and cheryl dunye

197.collier schorr

198.the atlas group walid raad

199.joan fontcuberta

200.aleksandra mir

201.tracey moffatt

202.cornelia parker

203.vera lutter

204.susan derges

205.adam fuss

206.john divola

207.richard prince

208.hans-peter feldmann

209.nadir nadirov

210.tacita dean

211.joachim schmid

212.thomas ruff

213.susan lipper

214.marketa othova

215.torbjorn rodland

216.katy grannan

217.vibeke tandberg

8章 フィジカル、マテリアル

218.florian maier-aichen

219.james welling

220.sherrie levine

221.christpher williams

222.sara vanderbeek

223.lyle ashton harris

224.isa genzken

225.michel queenland

226.arthur ou

227.walead beshty

228.zoe leonard

229.an-my le

230.anne collier

231.liz deschenes

232.eileen quinlan

233.carter mull

234.ed ruscha

235.sharon yaari

236.rinko kawauchi

237.tim barber

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2010年8月 3日 (火)

精神病の治し方

芸術とそうでないものの区別が付かない精神病」の続き。

人類の歴史を振り返ると、そのほとんどの数百万年が狩猟採集生活をしており、それに比べると農業による文明の誕生が数千年前でしかなく、近代文明の歴史はさらに短く百数十年ほどしか経っていない。
だから人類という生物種にとって狩猟採集生活こそが「正常」であり、そこからかけ離れた文明社会はまったくの「異常」であり、「現代では誰もが精神病である」と捉えることができる。
「自分が王様だと思い込んでいる乞食と、本物の王様は、同程度の精神を患っている」というのはどの本で読んだのか忘れてしまったが、どちらも狩猟採集社会には存在し得ない「役割」である。
そのような意味で、自分は「芸術とそうでないものの区別が付かない精神病」を患っている。

このことを、ぼくは美術好きの友人との会話で気づいたのだが、実はその友人からは同時に「精神病の治し方」のアドバイスをもらっていたのだ。
つまり「糸崎さんは美術館やギャラリーには滅多に行かないから、そんな勘違いをするだけで、実際にアートをたくさん見れば病気は治ります」と言うことなのだ。
その友人自身は、だいたい週に3日は何かしら美術館やギャラリーを見に行っているそうで、「そうじゃないと、人生サボってる気がしてしまう」と言うのだから説得力がある。
だからぼくもそれに倣って心を入れ替え、足繁く美術館やギャラリーに通えば、ヘンなビョーキは治ってまっとうな「美術愛好者」になれるかも知れない。

だがしかし、精神病患者は誰でも「現在の自分」が好きで、周囲がどれだけ心配しようとも治療を断固拒否するものなのだ。
精神病を治療する、と言うことは「現在の自分」を否定し殺してしまうことに他ならない。
だから患者は「病気の自分」に固執して、他人の話に耳を貸さず、一切変わろうとはしないのだ。

ぼくだって「芸術とそうでないものの区別が付かない精神病」に固執しており、それを治療したら自分のアイデンティティは崩壊してしまうだろう、と信じている。
言い方をかえると、ぼくが美術館やギャラリーにほとんど足を運ばないのは、「非人称芸術」というコンセプトでその存在を否定しているからで、それが美術家としてのアイデンティティになっているのだ。
その意味ではぼくは断固として自分の立場を守り続ければいいのであって、それをことさらかえる必要はないと言えるかも知れない。

ところがたびたび書いているように、「非人称芸術」のコンセプトでその他の「芸術」を否定するのは良いとしても、では自分はどれだけ「芸術」のことを知ってそれを否定しているのか?と言う疑問に最近ふと気づいてしまったのだ。
ぼくは、「非人称芸術」はその他の「芸術」より優れていると確信しているのだが、それがきちんと比較して検証した上での確信なのかと言えば、実はそうでもないのだ。
「芸術」が目の楽しみであるならば、ぼくは並の芸術愛好者以上に日常的に「目」を使っているかも知れないが、それはもっぱら「非人称芸術」のみに向けられており、比較としての「芸術」をほとんど欠いているのだった。
だからあらためて「芸術」と比較した結果、「やはり非人称芸術に意味や価値はなかった」という結論に至る可能性はゼロではない。
そうなると、ぼくの美術家としてのアイデンティティは崩壊し、そのような「自分の死」のために、これまであまり興味の持てなかった「芸術」をわざわざ見直すことはできない。
これは自分としては当たり前なのだが、まさに精神病患者の典型的な態度でもあるだろう。

しかし、実際の精神病の治療は道なのかは知らないが、ぼくは「病気の自分を棚に上げる」という方法を思いついて、最近それを実行しているのだ。
すなわち「非人称芸術によって芸術を否定する自分」を保持してそれを棚に上げながら、「非人称芸術を否定するかも知れない芸術を学ぶ」ということをやるのである。
これは、自分の中に「もう一人の新しい自分」を作り出そうとすることでもある。
いわば意図的な多重人格のようなもので、同じパソコンにMacOSとWindowsをインストールし切り替えて使うようなものである。

とりあえず最近のぼくは、以前は読まなかった芸術書や写真の本を読んだり、「反-反写真」と名付けた普通の「写真」を撮ったりしている。
そのうちもしかすると、この「反-反写真」が本当の「写真」として自分のアイデンティティに成り代わり、「非人称芸術」への固執はだんだんといつの間にか消滅してしまうかも知れない。
そうなったら「治療」も完了し、そこで初めて「まっとうな美術家」の仲間入りが出来るかもしれないのだ(笑)。

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