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2010年8月28日 (土)

呪術・宗教・技術

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「写真」の信者になりたい人」という記事を書いたら、コメント欄に

アメリカ人には「たいていのものは信じられなくてもダクトテープは信頼できる」というダクトテープ信者が多いようです。
僕は「たいていのものは信じられなくてもエポキシ接着剤は信じられる」エポキシ教徒です。

と書かれた方がいて、以後テープや接着剤の話になった。
それで同じ方が最後に、

使い慣れたツールに対する信頼感というのは、言葉に表しにくいし人にも伝えにくいといういみで、一種宗教的な要素がある気がしています

書かれたのに返信しようとしたのだが、あらためて記事にすることにした。

ぼくがここで気づいたのは、同じ信仰でも「宗教」と「呪術」では異なるということだ。
そして、技術への信仰は、宗教ではなく呪術と同質なものなのだ。
ぼくは以前このブログにも書いたのだが、科学技術というものを呪術の延長として捉えている。
科学技術とは「実効性の高い呪術」であり、現在一般に呪術といわれているものは「実効性の低い呪術」なのである。
例えばツイッターで

"アフリカ南東部では、「アルビノ」の体には特別な力が宿るという伝統的な考えから、臓器や体の一部など売却する目的で、アルビノの人々をターゲットにした殺人が後を絶たない。" http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2723801/5724736

という情報を教えてもらったが、こういうのは科学以前の「実効性の低い呪術」なのである。
逆に言えば、このような呪術の確実性を高める努力の果てに、現代の科学技術は成立している。
呪術は、呪文や儀式によって人間の能力以上のことを実現しようとする術だと定義できる。
そう考えると、科学理論や機械の設計図やコンピューター言語などは、呪術をより確実に実現するための、呪文や儀式に他ならないのだ。

しかし歴史を振り返ると、実効性の低い呪術から、実効性の高い呪術(科学)へと徐々に移行したわけではない。
呪術の歴史は人類誕生から続いていると考えられるが、それは身体能力を超えることの想像力=呪術の存在が人類の証でもあるからだ。
しかし人類が狩猟社会から農耕社会に移行すると、人びとの信仰は呪術から「宗教」へと移行した。
そして宗教とは、呪術を否定することに特徴があるのだ。

例えばユダヤ教の聖書(旧約聖書)には、有名な「モーセの十戒」に次の一節がある。

3:あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

人間が神の名を口にするときは、神様に願い事をするときであって、ユダヤ教ではそのような「呪術」を明確に否定しているのだ。
神様に願い事をして、「人間の能力を超えること」を実現してもらうのは、実は神様を人間の奴隷のように扱っているに等しい。
人間の願いを何でも叶えてくれる神様は一見ありがたいようでいて、実のところそんなふうに奴隷のように人間に仕える神様はまがいものに過ぎない。
聖書には奴隷も多く登場し、そういう時代だったからこそ神様と奴隷の違いがよりリアルに感じられたのかもしれない。
みだりに名前を呼んでこき使うのは奴隷であって、神様ではなく、その意味でユダヤ教では呪術が否定されているのだ。

ユダヤ教の聖書にも、人間の能力を超えた様々な不思議な現象が描かれているが、これは呪術ではなく、神様が起こした「奇蹟」なのである。
万能である神様は、あらゆる奇蹟を起こすことができるが、しかしそれは人間に頼まれたからではなく、あくまで神様自身のご意志によって起こされるのだ。
もちろん、モーセをはじめとするユダヤの預言者たちは、神様に様々な願い事をするのだが、それは呪術的な呪文はなく、神様との話し合いおよび説得であり、その結果、神様の「慈悲」によって奇蹟がもたらされるのである。
つまり、呪術とは超能力を持った神様をコントロールする術なのであるが、ユダヤ教では「そんなのは人間の思い上がりにすぎない」というように否定されているのだ。

ユダヤ教から派生したキリスト教も、呪術の否定という要素を引き継いでいる。
新約聖書を読むと、イエズスはパンを無数に増やしたり、水をワインに変えたり、目の見えない人や歩けない人を治療したり、さまざまな「奇蹟」を行っている。
それが呪術でない証拠に、イエズスは奇蹟をもたらしたあと人びとに「このことは他人には黙っているように」と言い含めるのである。
これに対し呪術師は自分の起こした成果を人びとに言いふらすので、インチキなのである。
またイエズスは、ユダヤ教の人が「おまえが救世主なら奇蹟を起こして証拠を見せろ!」というのに対し、「あなたがたはそんな証拠を見ないと判断できないのですか」というように応えている。
ユダヤ教の聖書には、神の奇跡がコントロール不可能なことが書かれているのに、ユダヤ教徒自信がそれを分かっていないことを指摘したのである。

仏教は、ぼくは初期仏教しか知らないのだが、ブッダはまじないや過剰な苦行は迷信だとし、呪術を否定している。
ブッダの教えは、いってみれば「人間の能力」を極限にまで高めるための方法論であり、それによって「神」の存在をも超えることができるとしている。
初期仏典には、ブッダに神様が教えを乞いにくるエピソードもあって、ユダヤ教徒の違いに驚いてしまう。
ともかく、人間が神様にお願いするのではなく、人間がその能力によって神を超えようとするのだから、仏教は呪術ではないのである。
いや実際に神を超えられるかどうかはともかく、初期仏典は「人間の能力」を高めるためのきわめて実用的な書物である。
初期仏教が扱う「人間の能力」とは「考える能力」であり、それを高めるための書物であるからまるで哲学書のような(しかも平易に書かれた)、現代にも通用する内容なのである。

つまり宗教の時代になると、人びとの理性の力も高まり、あらゆる呪術はインチキに過ぎないことが分かり、従って「超能力のコントロール」もあきらめられてしまったのだ。
ところが近代になって、呪術は科学として突如復活するのだが、それは恐らくマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と関係があるのかもしれない。
しかし、ぼくはウェーバーの理論を入門書で読んで納得したはずなのに、今は忘れてしまったので、また今度あらためて考えてみようと思う。

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思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

はい、この説は前にも伺って感心したのですが(笑)理論として筋が通っている、ということと、信じられる、というのは別だと思うんですよ。多くの日本人にとって宗教とは御利益ありきで、偶像ありき、だし、僕が「宗教的」といった場合の宗教もたぶん、物体に対する畏敬=アミニズム的なものです。よく知らないけどちょっと前に流行っていたらしい「トイレの神様」とかもそうかもしれません。それと、昨日テレビ見てたら「はやぶさ」作ったエンジニアの人が、最後に地球の姿見せてあげたくて、とかおっしゃってカプセル切り離した後、地球の写真撮った、ってはなしをしておられましたが、極端に物体への愛着が深まると物体に人格が生じる(という幻想かも知れませんが)。これ、僕的には宗教の始まりです(笑)。僕の考えている「宗教」を整理すると、物とか、死んだ人とか、実在しない(と思われる)概念(神とか)に、人格のような意志のある物を感じて畏怖する。ということじゃないかと思うのです。信仰に入る方というのは、御利益に縋って、か、 所属する家族とかコミュニティがそうなので選択肢がなかった、というのが多いと思うのですが、特にキリスト教だと、ある日あるとき、その存在を感じた(feel the presence of him)ので、という表現を良く聞きます。この入り方、と物に対する(人格的)信頼は似てるところがあるんじゃないかなという感覚が前回のコメント、だったかな?(笑)
それと、itozakiさんの文章では、技術と呪術は紙一重というか不連続に繋がっているように読めますが、僕にとっては科学・技術と呪術の間には暗く「かなり」深い川が流れています(笑)
最近Scienceポッドキャスト聞いていたら、god neuronだかgod geneだかわすれましたが、神を信(感)じるのに必要とされている脳の領域(または遺伝子)があるとか言う話をしていて、一般の人には呪術に他ならない、だろうけどサイエンス的にもグレーゾーンっぽいのでたしかに微妙です(笑)聞いたのが運転中でうろ覚えなのでもう一度探して聞いておきます。

投稿: 書かれた方 | 2010年8月29日 (日) 09時24分

読み返すと「トイレの神様」は余計ですね(笑)
補足すると、「人格のような意志のある物を感じて畏怖する。」という「感覚」は、実在する、というのが僕の宗教観です。蛇足かな、、

投稿: 同じ方 | 2010年8月29日 (日) 09時45分

呪術は見えない「力」を制御するためのノウハウですからそれを信じるのは、手続きの有効性を信じているだけのことです。

それに対して、その見えない「力」の源を仮想の世界構図で説明しようとしているものもあるわけで、こちらは仮想の世界構図が説得力をもっていることが必要で、生活感覚を共有しない異文化の範囲にまで拡大し得たのはこちらだけです。

なので、私もこれらを「宗教」という言葉で同じに扱うのは抵抗があります。

科学技術はノウハウですから私も呪術の延長上にあると思います、科学は事実との整合性を追及して「説明」をつけてしまったので過去には呪術だったものも乗っ取ってしまったはずで、いつの間にか実効性の根拠がないものが呪術と認識されるようになっただけだと思います。

科学も最初はキリスト教の世界構図の実証のつもりが、19世紀頃にキリスト教の枠を超えてしまったわけで、それでも見えない力の源の存在を信じていればホーキングやアインシュタインみたいに神を語ることになるわけで、極めて宗教に近いものを感じます。

投稿: 別の方 | 2010年8月29日 (日) 17時46分

>生活感覚を共有しない異文化の範囲にまで拡大し得たのはこちらだけです。
>なので、私もこれらを「宗教」という言葉で同じに扱うのは抵抗があります。

仰りたいことも分かるような気がしますが、、
コンピュータに付属の国語辞典で、「宗教」をしらべると、
神•仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。となっていて原始宗教・民俗宗教・世界宗教も含めて宗教と呼ぶようです。
カタカナ語にすると変な意味になってしまうのでイヤなのですが個人的には spritual なものに対する概念ひっくるめて宗教と理解しています。
「世界宗教」が狭義の宗教とするのはよいとしても、それ以外はみんな呪術、というのは一般の認識とは遠い様に思われます。
神社で売ってるお守りとかは、僕もまぁ本質的に呪術的であると思いますが(笑)
神社の扱う宗教を「呪術」と呼ぶとお怒りになるかたも多いのではないでしょうか。
異文化の範囲に拡大したというものも殆どがローカライズの過程で、お二人の仰る「呪術化」しているように思われ、理念的に優れているがために世界宗教たり得たのだ、というのは個人的には後付けの理屈の部分もあるのではないかと思っています。アイデアルな「宗教」を語ることは知的ゲームとしては面白いけど、「宗教の実態」は反映していない様な気がしています。

>科学技術とは「実効性の高い呪術」であり、現在一般に呪術といわれているものは「実効性の低い呪術」なのである。
これもわりとめんどくさい議論なので放置していましたが(笑)、
科学技術と呪術の違いは「再現性」ではないでしょうか。科学的な理解に基づく技術は、同じ条件では誰がやっても再現できる現象でなければなりません。
キリストの奇跡はそういう意味では恐ろしく実効性の高い、しかし再現性のない「呪術」の範疇です。「言いふらすな」といったから呪術ではなく宗教というところは僕にはよく理解出来ませんが、弟子、または後世の聖職者が聖書に書いて周知の現象とされている時点で矛盾しているのではないでしょうか?
同様に、神とは人間にコントロールされる奴隷のような存在ではない、というステートメントまたは信仰も矛盾を含んでいるとおもいます。

>科学は事実との整合性を追及して「説明」をつけてしまったので過去には呪術だったものも乗っ取ってしまったはずで、
>いつの間にか実効性の根拠がないものが呪術と認識されるようになっただけだと思います。
呪術に科学的に有効なものが含まれていたとしても、科学が呪術の延長上にあるという認識にはならないと思います。再現性のない物を排除するプロセス自体が科学だと思っています。

あ、それからGod spotでした、1996年頃に最初に言いだした人がいたようでやはり賛否両論ある微妙な学説のようでした。

投稿: schlegel | 2010年8月29日 (日) 23時19分

いろいろ書いてたら長くなってしまいました・・・眠いw

>書かれた方 さん

>多くの日本人にとって宗教とは御利益ありきで、偶像ありき、だし、僕が「宗教的」といった場合の宗教もたぶん、物体に対する畏敬=アミニズム的なものです。

書き方が足りなかったですが、「アニミズム=呪術」は「宗教」の前段階ですね。
広い意味ではどちらも宗教ですが、小室直樹さんや橋爪大三郎さんの本を読んで、この区別を知りました。
時代区分でいうと、狩猟採集時代が「呪術」で、人びと農業を始めて都市ができる文明時代になると「宗教」になります。

「呪術」はいってみれば人間の自然状態での世界観です。
人間の特徴は「自分たちは何もないところから生まれ、やがて死んでしまう」ということを知っていることです。
つまり人間は、自分が認識できる現実世界の向こうに、見えない何かがあることが想像できてしまうのです。
別の言い方をすれば、人間の認識世界の内側にあるものの全ては、その外側からやってくるものであることが、理解できてしまうのです。
例えば「森」という環境と、そこで採れるさまざまな食物は、人間がつくったものではなく、人間が生まれる以前からそこにあったもので、つまり何者かによって人間に贈与されたものなわけです。
だから人間の自然な心情としては、ともかくその見えない贈与の主に感謝しなければ気が済まないし、そうしなければ贈与が受けられなくなったり、病気などのマイナスの贈与を受けるかもしれない、などと思ってしまうのです。
というわけで、「呪術」の世界観は御利益と世界観が一体であるといえるかもしれません。

文明時代になると、人間は呪術時代より「もっとすごい神様」を想像するようになります。
言い換えると、現実世界の向こう側の「想像的空間」が劇的に広がるのが、呪術から宗教への変化です。
狩猟採集時代と、文明時代とでは、まず共同体の数がまったく違います。
狩猟採集時代の人間は、血縁関係のある数十人単位の集団で、森を移動しながら暮らしていました。
そういう環境で暮らしていれば、人びとの「想像的空間」の広さも限定されてしまいます。

文明時代になると、血縁関係に限らない、数千人〜数万人規模の集団になります。
人びとは農業による余剰生産物を蓄えるようになり、それと共に労働者と、労働をしない支配階級に分かれます。
狩猟採集時代は、誰もがみな働いていましたが、文明時代には「働かないヒマな人」が出現します。
このヒマな人たちが知恵を出し合って、「もっとすごい神様」を想像するようになったのです。

で、その「もっとすごい神様」の究極が「いちばんすごい神様で」、それがつまりユダヤ教の「唯一神」なわけです。
「唯一神」はそれゆえに「その他の神々」を偽物として否定し、すごすぎて姿が見えないゆえに偶像を否定し、人間に仕えるはずがないので効果としての「呪術」も否定してしまいました。
「いちばんすごい神様」はキリスト教に引き継がれ、以降ヨーロッパではそればっかり考えて突き詰めたら、どういうわけか否定したはずの「呪術」の「正しい呪文」が次々と解明され始め、とうとう「いちばんすごい神様」が要らなくなってしまった・・・
いや、ぼくが村上陽一郎さん経由で理解してる理由は、まず完全なる神が想像した宇宙は完全に合理的であり、その合理性を解明することが神の存在証明であり、それを突き詰めたら「科学」に到達し、科学的には神様など荒唐無稽なものは存在し得ない・・・となるわけです。
つまり現代は、その意味で「宗教」の時代から逆行してしまい、「呪術としての科学」と共に、非科学的で素朴で自然な「呪術」も適度に信仰されている、という状況ではないかと思います。

>それと、昨日テレビ見てたら「はやぶさ」作ったエンジニアの人が、最後に地球の姿見せてあげたくて、とかおっしゃってカプセル切り離した後、地球の写真撮った、ってはなしをしておられましたが、極端に物体への愛着が深まると物体に人格が生じる(という幻想かも知れませんが)。
>これ、僕的には宗教の始まりです(笑)。

まさに素朴で自然な「呪術」としての宗教観といえるかもしれません。
しかしこれは、ラカンのいう「鏡像」の概念でも説明できるかもしれません。
ラカンによると、人間の赤ん坊は、自分の鏡に映る姿を見て「自分が一個の人間である」ことを突然悟り、これを「鏡像段階」と名付けました。
つまり、人間は決して自分自身の姿(顔)を見ることができず、鏡に映った(左右反転した)偽物の姿を「自分」だと勘違いし続けるのです。
そのように人間は、はじめから自分を勘違いしているので、鏡像以外でも「自分ではないもの」を「自分」だと勘違いし、時にそれは精神病の原因になったりします。

最近、ガンプラのマニアが親にガンプラを捨てられたことに腹を立て、家に火を付けた事件が話題になりました。
これはガンプラという「自分ではないもの」を「自分」だと勘違いしていで、だから自分(の一部)を捨てられて(殺されて)パニックになったんだろうと思います。
この例があまり大げさとはいえないように、特に男子はおのれの弱さをカバーするために「強い道具」を自分の体の一部とし、そうすると精神の一部も道具に移ってしまうということがあります。
それはガンプラでも、カメラでも、人工衛星でも同じはずだと思います。

また、「子供に裏切られた」とか「友だちに裏切られた」とかいう人は、そのような「自分ではない人」を「自分」だと勘違いしているわけで、その度合いが過ぎるとやはり精神病になります。
しかしそもそも、人は誰でも「鏡像」を自分だと勘違いしてますから、その意味で人間はみな精神病患者なのだとラカンはいってます。
つまり、何か社会的に事件を起こした特別な人だけを「精神病」とするのではなく、「人間は全員精神病だ」と前提した方が、実際の精神病の治療の効果が高まるわけです。
そしてそれこそが「科学的」な考えであり、「より実効性の高い呪術」であるのです。
それと同じ意味で、ぼくは誰も「宗教」から逃れられないし、「呪術」から逃れられない、と考えているのです。

>それと、itozakiさんの文章では、技術と呪術は紙一重というか不連続に繋がっているように読めますが、僕にとっては科学・技術と呪術の間には暗く「かなり」深い川が流れています(笑)

もちろん、これは解釈によります。
新約聖書を読んでると(まだ途中ですが)、キリスト者が呪術的信仰者に向かって「あなたがたは目先の利益にばかり囚われて、大事なことを何もわかっていない」というように説いてますが、それはそのまま現代人にも当てはまるし、そういう説教に対し「聞く耳持たない」ことも聖書の時代の愚かな人びとと同じですw
一方、たとえば、自国に攻めてきたスペイン人を呪い殺そうとしたアステカ人は、鉄砲で簡単に殺されてしまったわけで、その意味で「呪術」と「科学」の差は歴然とあります。
また、科学力の不足を呪術(精神論)で補おうとした旧日本軍は、けっきょく科学力の差で戦争に負けてしまいました。

>別の方さん

>呪術は見えない「力」を制御するためのノウハウですからそれを信じるのは、手続きの有効性を信じているだけのことです。

まさにその通りで、呪術を信じている集団内では呪術は確かに効果があり、それゆえにそれを信じないヨーロッパ人に次々に滅ぼされてしまったわけです。
自分の例でいうと、ぼくは携帯電話の有効性をまったく信じておりませんから、傍若無人に携帯電話を掛ける人にむかって、イエズスのように「その人の中の悪魔よ立ち去れ!」と叫びたくなりますw

>schlegel |さん

>「世界宗教」が狭義の宗教とするのはよいとしても、それ以外はみんな呪術、というのは一般の認識とは遠い様に思われます。

宗教社会学的には、「民俗宗教」や「国家宗教」が狭義の宗教で、それ以前が「呪術」ということだそうです。
もちろん中間段階はあるし、「宗教」も気を抜くとすぐ「呪術」に陥ってしまいます。
中世のキリスト教はまさにその通りで、教会は聖書もろくに読まずに「呪術」を行っており、それで宗教改革が起きたわけです。

>神社で売ってるお守りとかは、僕もまぁ本質的に呪術的であると思いますが(笑)
>神社の扱う宗教を「呪術」と呼ぶとお怒りになるかたも多いのではないでしょうか。

日本神道については知識が不足してるので何も言えません・・・
神道を「呪術」と呼んだとして、どう反論されるのか興味がありますw

日本人は、仏教や儒教を中国から輸入して、それらを全て骨抜きにしてしまった、という知識ならあります。
それは宗教の呪術化というよりも、宗教の形骸化といった方が良いのかもしれません。
いや、考えてみれば日本人は何でも形骸化してしまって、形骸化したものが大好きですね・・・
日本には例外的にキリスト教は定着しないといわれてますが、キリスト教の形骸としてのクリスマスはすっかり定着しています。
日本人が祝うクリスマスは、呪術というより形骸化した儀式であり、そういうものが日本人は大好きなのかもしれません。
また、例えばコンビニやファミレスの店員の、画一的にマニュアル化した接客は、「まごころ」の形骸であり、日本人はそのように「形骸化したまごろこ」が大好きです。
これに限らず、日本には「形骸化した概念」あるいは「形骸化した言葉」が横行しています。

どんなものでも本質を骨抜きにした「形骸」にしてしまえば、日本文化になじませて安全に取り扱うことができます。
また、どんなトラブルが起きたとしても、トラブルそのものを「形骸化」すれば、トラブルが解消したことになります。
もしかすると日本人にとって「形骸」こそが神であり、なんでも「形骸化」することが日本人の宗教行為なのかもしれません。
日本人は「無宗教」などといわれますが、その正体は「形骸教」なのかもしれません。

>科学技術と呪術の違いは「再現性」ではないでしょうか。科学的な理解に基づく技術は、同じ条件では誰がやっても再現できる現象でなければなりません。

前にもそんな話になったような気がしますが、その通りだと思います。
ぼくが言いたいのは、「再現性=実効性」ということです。
再現性のない呪術は実効性がないのと同じで、つまりはインチキです。

>キリストの奇跡はそういう意味では恐ろしく実効性の高い、しかし再現性のない「呪術」の範疇です。

キリストの奇蹟も再現性がないという意味で、科学ではありません。

>「言いふらすな」といったから呪術ではなく宗教というところは僕にはよく理解出来ませんが、弟子、または後世の聖職者が聖書に書いて周知の現象とされている時点で矛盾しているのではないでしょうか?


「言いふらすな」といわれるといいたくなって、ついに書かれてしまった、ということはあるかもしれませんw
しかし肝心なのは、呪術は「目先の利益」を実現することを目的としている点で、その意味で科学と同じなのです。
それに対し、キリストの奇蹟は「目先の利益」など眼中になく、その証拠として「言いふらしてはならない」という言葉があるのです。
呪術も科学も「機能主義」という点では同じで、科学の方が断然「機能的」なのですが、宗教は「些末な機能主義」は一切否定して、「唯一の究極の機能」を目指すわけです。
それがキリスト教では「永遠に生きる」ことであり、仏教では「もはや生まれ変わることがなくなる」ことで、そのために「目先の利益の囚われてはならない」のです。
機能主義的に見ると、唯一の究極の機能にむかうのが宗教で、さまざまな機能に対応しているのが呪術を科学で、呪術は科学よりは断然機能的、ということです。
そして科学は、宗教がむかう唯一の究極の機能には、対応してないのです。

ちなみに、未開部族といわれる人びとの、薬草を使った病気治療などの「呪術」が実のところけっこう実効性=再現性のあることが、文化人類学者の調査で明らかになってます。
そのような部族の人びとは、薬草の「苦み」と薬効の相関関係を経験的に知っており、つまりけっこう科学的に妥当な判断をしており、そういうところで呪術と科学は繋がってるのだといえるのです。

投稿: itozaki | 2010年8月30日 (月) 04時57分

夜遅く(朝早く?)まで丁寧にお答え下さり有り難うございます。itozakiさんも遊星人さんも自分の言葉で考えながら書いて下さるので、基本的な考え方に違いがあってもなるほどと思わされることもとても多いです、が、僕もここが違うと思うところだけを書くので、はたから見ると無駄な言い争いに見えるかも知れませんね(笑)どこやらでは人様に、もっと論点を絞らないと、とかいいながら自分も発散してしまい、また、すでに眠いのでwまとまった思考が難しくなっていますし、既視感のある(笑)ことも書いてしまうと思われますが、まだなにか言いたいことがあるような気もするのでまぁ書いてみます。

アニミズム的な宗教観は必ずしも「目先の利益」の実現を目的としていないと思います。物でも概念でもよいですが、何かに対して畏敬の念を抱くと言うことは必ずしも利益の誘導を目的としているとは限らない、と思いますがそれでも呪術でしょうか?

僕は個人的には特定の宗教も呪術も信じていないですし、たぶんかなり科学・技術に偏った見方をしているかも知れませんが、科学的な論理の重要な帰結の一つは、全てを説明する完璧な論理というものは存在しない、ようなのです。ドーキンスは「科学と宗教は両立しない」と主張していますが、彼の言うことに完全に同意できるかどうかは別として、言おうとしている論拠は理解出来ます。世界宗教とされる一神教は神の存在を「仮定」しており、その神の描写が完璧であればあるほど、科学的には存在しえないものとなります。もちろん科学を取るか神を取るかは個人の自由なわけですが、僕には科学は棄てられません(笑)。いっぽう僕はドーキンスのように宗教そのものを否定したい願望はなくて、人によって信仰のある状態、という感覚は明らかにあるようだと思っており、それはどのような感覚か、と言うのを自分に理解出来る範囲で捉えてみたい、というのが道具の喩えでした。絶対的な神は考えにくいのでどうしても僕にとっての宗教は原始宗教的となります(笑)

投稿: schlegel | 2010年8月30日 (月) 23時47分

>schlegel さん

ぼくは返信にかこつけて書きたいことを書いてるだけなのですが、そちらも気にしてないようなので安心しましたw
論点ということでいうと、ぼくは最近勉強した宗教のことについて、自分なりに理解した文脈に沿って無理矢理まとめてるので、そこから漏れる要素は多々あるはずです。
あと、何もないところから記事を書くより、他人への返信の方が書きやすいというのもあります。
ということで、また長くなりました。

>アニミズム的な宗教観は必ずしも「目先の利益」の実現を目的としていないと思います。物でも概念でもよいですが、何かに対して畏敬の念を抱くと言うことは必ずしも利益の誘導を目的としているとは限らない、と思いますがそれでも呪術でしょうか?

呪術的世界観が、人間の認識世界の「外部」への想像力だとしたら、それは「畏れ」の対象になることは当然です。
狩猟採集民にとって「目先の利益」とは例えば日々の糧ですが、糧となる自然物は人間が生まれる以前から存在しているもの、人間の認識世界の「外部」からもたらされるものであり、「畏れ」の対象になります。
今日得られる食べ物が明日も得られる保証は人間にはできませんから、畏れながら神さまにお願いするしかありません。
それは農業に始まる文明社会でも同じで、豊作とか、国家の繁栄とか、預言的な知恵とか、さまざまな利益がもたらされることを、畏れをもって神さまにお願いしていたのです。

ところが、ユダヤの人びとは「畏れをもって人間の願いを聞いてくれる神さまは、畏れるに足るのだろうか?」ということに気づいてしまったのです。
その結果に見出されたのが「主人が奴隷に対してふるまうように、人間に対してふるまう」という真に畏るべき神様です。
この神様は、「怒りっぽくて嫉妬深く、なおかつ慈悲深い」という性格で、唯一の神様であり、人間のように固有の名前を持たず、その姿は想像することもできません。
つまりユダヤの宗教は、その他の呪術的宗教を「畏れるに足りない」として否定したわけで、呪術そのものが「畏れ」に根ざしていることには変わりありません。

ユダヤ教の真に畏るべき唯一神はキリスト教に引き継がれましたが、それを科学が「畏れるに足りない」として否定してしまったわけです。
いい方を換えれば「神は問題とするに足りない」とするのが科学としての態度です。
近代になって人びとが気づいたのは、神様の存在を問題から除外して、人間の認識世界の「内部」だけを問題として扱うと、「呪術」の持つ実利的な側面が実行できてしまう、ということでした。
科学とは「神を問題とせず」それゆえ「何も畏れない」のです。

何かを畏れては科学は遂行できないし、何かを畏れているのであればそれはもう科学ではありません。
例えば、四次元から波動を取り出す永久機関みたいなものは、「四次元」とか「波動」を畏れているから科学じゃないわけですw
もちろん、人間の認識世界はその境界が曖昧です。
特に最先端の科学になるほど、どこからが「外部」として排除すべきで、どこからが「内部」として扱える問題なのか、その判断が難しくなるのだと思います。
その場合に真に科学的な態度は「保留」ということで、わからないことに対しては判断を保留するしかないというのが、認識の「内部」をあつかう者としての態度なわけです。

だから「科学」の名の下に「神」の存在を否定する態度もちょっと怪しくて、そもそも科学は「神」を扱わないんだから、否定も肯定もしないはずなのです。
一方では、特定の宗教を信仰していながら、「信仰を科学に持ち込まない」という科学者もいて、それは科学的に正しい態度のように思われます。
例えば、分子生物学者の村上和雄さんは、天理教の信者でもありますが、著書『科学者が実感した神様の働き』で科学者が宗教を信仰することの意味について書かれています。
村上さんは、昼間は大学で学生と共に研究し、そこには一切宗教は持ち込まない(持ち込む余地がない)と書いています。
しかし夜は、学生を雑談しながら、科学にまつわる、科学では説明できない「不思議な話」などをして、これを「ナイトサイエンス」と称しています。
つまり昼間の「デイサイエンス」は認識の「内部」のみを扱うまっとうな科学で、ナイトサイエンスは科学が「保留」にしている「認識の境界」についての考察で、そこに「宗教」というツールが登場するのです。
しかしナイトサイエンスの考察は、あくまで認識の「内部」の事柄ではないので、デイサイエンスには絶対に持ち込まない。
科学者自身が宗教者であるからこそ、両者の「切り分け」が明確にできるのだろうと思います。

>ドーキンスは「科学と宗教は両立しない」と主張していますが、彼の言うことに完全に同意できるかどうかは別として、言おうとしている論拠は理解出来ます。
>世界宗教とされる一神教は神の存在を「仮定」しており、その神の描写が完璧であればあるほど、科学的には存在しえないものとなります。

ドーキンスのその主張をぼくは読んでないですが、その考えはちょっと硬いかなと思います(ぼくが言うのも何ですがw)
まず、その考えは宗教と科学を「同列」に扱っています。
例えば「科学と恋愛は両立しない」という主張がナンセンスなように、科学者は仕事で科学に専念しさえすれば、プライベートでは恋愛でも宗教でも、何でも自由にできるはずで、それこそが「科学的」だと思うのです。

また、いかにキリスト教徒といえども、聖書の中身を全て真実として真に受けているわけではありません。
キリスト教にとってもっとも大切なのは「信仰」であって、聖書の荒唐無稽な物語はそれを示すための「方便」である可能性があるのです。
もちろん聖書の中では、それが方便であることは書かれていません。
しかし新約聖書では、旧約聖書で決められた厳しい戒律(食物規制や、割礼などの儀式)は方便に過ぎないので、必ずしも守る必要はなく、むしろ戒律に囚われすぎて「信仰」がおろそかになっては本末転倒である、というように書かれています。
つまり新約聖書それ自体に「解釈の可能性」が記されており、だからこそ時代によって、地域によって、さまざまに姿を変えて生き残っているのではないかと思うのです。
まぁ、ドーキンスは科学の第一人者であり、かつキリスト教文化で生まれ育った人ですから、それに対しぼくのような科学の素人が、読みかけの聖書の知識で思いつきを語っても仕方ないのかもしれませんw

>いっぽう僕はドーキンスのように宗教そのものを否定したい願望はなくて、人によって信仰のある状態、という感覚は明らかにあるようだと思っており、それはどのような感覚か、と言うのを自分に理解出来る範囲で捉えてみたい、というのが道具の喩えでした。

それは科学的好奇心としては、至極まっとうだと思いますw
ぼくも「写真を信仰する人の感覚」を知りたくて、他人の真似をしてモノクロ写真を撮ったり、昨日は「フォトグラファーズサミット」というミサに出席してきましたw
キリスト教にしても、信仰を恐れては科学にはなりませんから、科学者としては試しに入信するのもアリでしょうw

>絶対的な神は考えにくいのでどうしても僕にとっての宗教は原始宗教的となります(笑)

人によって、芸術的センス、哲学的センス、科学的センスが異なるように、schlegel さんは意外に「宗教的センス」があるかもしれませんw
人間の自然な感覚として、「外部」はまず素朴な多神論として現れますから、そういう世界を知るには文化人類学の本を読むのがいいかもしれません。
人類学でさまざまな神話の世界を知ると、そのうち感化されて、自分でも「あそこにも神様が」「ここにも神様が」という具合に感じられてきますw
しかし、人類学の本はあくまでも科学的かつ客観的に書かれてますから、自分の中の「あそこにも神様が」という感覚そのものを、客観的に観測できるのです。

ぼくは呪術を含めた宗教そのものを、「認識の外部世界が「ある」ということ自体の認識」だと捉えています。
「認識の外部世界がある」というのは、科学的に考えても当たり前のことですが、それを「知識」として理解するのではなく、その存在をリアルに実感するということです。
これは恐らく誰にでも簡単に実感できることではなく、その意味で「宗教的センス」が必要なのだろうと思います。
例えば宮台真司さんは、「海で乗ってた船が波にのまれそうになり、死を覚悟したら突然「認識世界の外部」がありありと感じられた。」というように語ってました。

ぼくの場合は説明が難しいですが、一羽のアヒルがそれを教えてくれましたw
いちおう説明を試みてみると、あるうちの庭で飼われているアヒルを見て、ふと「このアヒルを自分が神様だと思えば神様だし、神様だと思わなければ単なるアヒルだ」というふうに思ってしまったのです。
つまり、「神が存在するかしないかは、人間にわかりようがない」と思っていたのに、「神は自分が存在すると思えば存在し、存在しないと思えば存在しない」ということに気づいたのです。
さらに、「目の前に存在することは、わかり切っている」と思っていたアヒルだって、「自分が存在すると思えば存在し、存在しないと思えば存在しない」という点では同じだということに、気づきました。
目の前のアヒルは、科学的には「網膜像」にしか過ぎませんから、触ってみなければ本当に存在するかは確認できません。
また、触ったところでそれは「触覚」という知覚現象でしかありませんから、厳密に考えればそれは何に対しての存在証明にはなり得ません。
結局のところ自分は世界の存在を信じているに過ぎず、また自分が信じなければ世界も存在しない。
そう思ったところ突然、認識の外部世界が「ある」ということを、ありありと感じることができたのです。

と、あらためて書いてみると、どうもありきたりな「独我論」を、ただ説明したに過ぎませんねw
まぁぼくの「実感」も単なる勘違いかもしれませんし、何かのネタやヒントにでもしていただければと思います。

投稿: itozaki | 2010年8月31日 (火) 14時11分

>そもそも科学は「神」を扱わないんだから、否定も肯定もしないはずなのです。
ここはまったくその通りなんですが、ドーキンスが一生懸命になってるのは、彼にとっての宗教が科学的なステートメントを否定することがあるからなのでしょうね。ブッシュの頃よりは落ち着いたのかも知れませんが、アメリカでも科学教育に宗教観に基づく干渉があるのは事実のようですし。ヨーロッパでも同じような動きがあると推測できます。
形骸化の話はなるほどなぁと思います。外国でもあるとおもいますが、向こうのはわりとハッキリそれとわかることが多いような気がしますね。形骸が力をもつのも、信じるヒトが多いからなのでしょうね。問題が起きると「まずはマニュアル作り」とか真顔で言いますからね。や、別に作ってもいいんですが、たぶん、作ったので解決した、と信じてるところが一番問題なんでしょうね。
で、宗教についてですが、結局はヒトからの物の見方、感じ方に関する技術なのでは無いかと思ったりもしています。

投稿: schlegel | 2010年9月 5日 (日) 09時57分

>そもそも科学は「神」を扱わないんだから、否定も肯定もしないはずなのです。
もう少し言うと、否定はしないけど肯定はもっとしなくて、存在しないとは断定できなくても、まぁいないんじゃないか思う、から、存在するわけがない、の間のどこかなのですね。とても低い確率の事象を普通のひとは「零じゃない」とか思って宝くじ買っちゃうわけですが、科学者は「零と区別つかん」とか思いながらやはり買ってしまうのです(笑)
「宗教は麻薬」みたいなことを時々聞きますけど、一種の思考停止状態、と考えれば形骸化の話ともマッチしますね。これは御利益を求めての呪術的行為とはすこし違うような気もしますが、、

投稿: schlegel | 2010年9月 6日 (月) 23時09分

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