サル知恵アート論
(写真の花はブルーサルビア)
『サルでもわかるアート論』という本があるとすれば、頭のいい人が誰でもわかるように書いた入門書なのだろうが、サル並みの頭でしかないぼく自身が書いたこのブログは、さしずめ「サル知恵アート論」といったところだろう。
「サル並み」というのはもちろん比喩なのだが、ぼくは高校までの学業の成績は「中の下」であり、大学はそういう競争をする必要のない美大に進学したのであり、だから確実に「頭が悪い」といえるのだ。
これは自分のコンプレックスには違いないのだが、小浜逸郎さんは著書『頭はよくならない』で、「人は誰でも頭がよくなれるはずだ」というのは幻想でしかなく、それに囚われず「健全なあきらめ」を持つことが、結局自分の能力の拡大に繋がるのだ、と言うように書いている。
また、オルテガの『大衆の反逆』には、「大衆」といわれる人びとがいかに自分の無能を顧みずに思い上がっているか、その苦言が語られている。
だからぼくも自分の「無能」と向き合い、自分を「サル並み」だと思っているくらいが、ちょうど良いのだ。
と、あらためて思ったのである。
そう思うと、ぼくが考えることは、サルの頭で人間サマ並に考えるための「サル知恵」であることに気づくのだ。
そもそもわかりやすく書かれた入門書とは、頭のいい人が「サル知恵」を働かせて書いたのだ、ということができる。
これに対し、頭のいい人が、頭のいい人向けに書いた専門書というのは、「サル並」の自分にはさっぱりわからない。
頭の良い専門家には、頭のいい人向けの専門書しか書かない人もいるし、「サル知恵」を働かせて入門書を書く人もいる。
ぼくはそのような入門書に書かれた「サル知恵」を読み、さまざまにブリコラージュ(切り貼り)しながら、自分なりあれこれ考えるのだが、それこそが「サル知恵」なのだ。
レヴィ・ストロースはブリコラージュを「野生の思考」と表現したが、つまりレヴィ・ストロースはそのような「サル知恵」を有効な思考方法として評価したのである(というぼくの解釈自体が「サル知恵」で、以下無限後退なので略・・・)。
ともかく、ぼくのフォトモやツギラマは「サル知恵」の産物であり、カメラの改造工作もまた同じである。
また「非人称芸術」をはじめ、アートに関係して哲学、思想、宗教、科学などについて語ることの全てが、すなわち「サル知恵アート論」なのである。
これに対し、人間並みに頭の良い専門家の思考とは、レヴィ・ストロースが「エンジニアリング=栽培種化された思考」と表現したものであり、野生を脱した文明の時代の思考であり、オルテガのいう貴族エリートの思考であり、「サル並」の頭の自分にとって理解することのできない領域である。
まぁ、多少大げさに卑下しすぎているきらいはあるが、ぼくはすぐに思い上がるので(笑)、これくらいでちょうど良いのかもしれない。
というわけで、今後ともぼくの「サル知恵アート論」によろしくおつきあいいただければと思いマス。
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