「信仰」から自由になる
前回の「「写真」の信者になりたい人」の続き。
「写真」はキリスト教や仏教などと同じく「信仰」なのだが、それは「貨幣」や「イメージ」や「言語」が信仰であるのと同じ意味だ。
つまり、人間は誰でも「信仰」から逃れることができないのだ。
例えば、目に見えるリンゴは「リンゴのイメージ」でしかないのに、人々はそれを「実在のリンゴである」と固く信じている。
このように「イメージ」と「世界」の結びつきは信仰の産物でしかない。
だから外見がそっくりの、プラスティック製の偽リンゴに騙されることもある。
「リンゴ」という言葉が「実在のリンゴ」を指し示のも単なる思いこみで、信仰の産物でしかない。
信仰が異なれば実在のリンゴを指し示す言葉は、たとえば apple になるし、さらに信仰が変化した現在でそれはコンピューターを指し示したりもする。
また貨幣への信仰のない人は、たとえば紙に印刷されただけの一万円札の価値を信じないので、何でも物々交換しようとするだろう。
だから人びとが貨幣を信仰することによって、貨幣経済は成立するのだ。
しかし多くの人は、自分がそのような信仰の世界に生きているという自覚がない。
日本人の多くは自分は無宗教だと思っているが、それは「無宗教」と言う宗教を信仰しているに過ぎない。
信仰の否定は「信仰の否定」という信仰に陥るだけであり、それでは信仰から自由になることはできない。
このような信仰から自由になるためには、自分自身がさまざまな信仰に囚われていて、信仰から決して逃れられないことを自覚することだ。
そうすれば、自分の信仰をコントロールすることができる。
それが「信仰から自由になる」ということだ。
例えばぼくの「写真が信じられない」という感覚も信仰に過ぎないのだと自覚できれば、その信仰を自由にコントロールし、意図的に「写真への信仰」へと向かうことができる。
ぼくの「反ー反写真」はそのための実験なのである。
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