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2010年9月

2010年9月30日 (木)

高速フォトモ

そういえば、フォトモの新手法を開発したのですが、紹介するの忘れてました。

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このワンカットの写真から・・・

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こういうフォトモが即できあがり・・・
試作というかデモンストレーションなんでちょっと雑ですが、プリントしたその場でサクッと数分でできてしまいます。
これまでのフォトモは制作に時間が掛かりすぎ、スーザン・ソンダクが指摘したような「写真」の持つスピード性がスポイルされてしまってたのですが、この「高速フォトモ」はそんなことはありません。

実はこの手法、「復元フォトモ」の応用なのですが、11月に開催される信濃美術館でのワークショップで実戦投入します。
これまで、フォトモのワークショップは時間が掛かりすぎて先生も生徒もヘトヘトになってましたが、その欠点はかなり改善されるでしょうw

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2010年9月27日 (月)

彦坂尚嘉さんへの返信と解説

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話題にするのが遅くなりましたが、彦坂尚嘉さんのブログにまたしても取り上げられてますね・・・

糸崎公朗さんの真摯な思考(加筆2校正1) [アート論]

あちらのブログに返信しようかと思ったんですが、このブログの読者への「解説」も兼ねてこっちで記事にしてみます。

糸崎公朗さんの顔写真です。
糸崎さんには、私のマキイマサルファインアーツでの搬入搬出で助けていただいて、深く感謝しています。

こういうふうに、近しい人の顔をブログに掲載して分析することは、褒めるにしろ貶すにしろ、あまりやる人はいません(ぼくもやりません)。
ぼくはこれまでも何度か彦坂さんのブログに晒されながら分析されていて、「糸崎さんはあんな失礼なことされて平気なんですか?」と心配してくれる友人もいるのですが、ぼくはもうそういうもんだとあきらめて(笑)おつきあいしています。
そもそもぼく自身も議論好きで、批判を厭わず、『唐沢俊一検証blog』なんかも面白がって見てますから、そういう自分が他人から批判されたり検証されたからといって、それを嫌がってたら辻褄が合わないわけです。
それで最近は彦坂さんに限らず、ネット上の匿名の意見であっても、自分に対する批判はありがたいものとして受け止めることにしてるのです。

この写真は、搬出時の集合写真の中から切り出したものです。集合写真を撮ったのは糸崎公朗さんで、セルフタイマーによる自動撮影です。
切り出してみると、流通している一般的なイメージとしての、やさしい糸崎公朗さんとは、ずいぶんと違う顔をしています。
何よりも眼が鋭く、口元も締まっていて意志的で、凶暴で、傲岸不屈、自尊心に満ちています。

まぁ、これは写真を撮ったらブログに掲載されるだろうと思って(笑)そういう顔をしたに過ぎません。

凶暴ではありますが、しかし軍人の顔ではないし、憲兵や警察官の顔ではありません。
神官や牧師の顔ではないし、哲学者や思想家、インテリゲンチャの顔でもありません。
糸崎公朗さんの顔は、芸術家の顔で、しかも画家の顔をしています。彫刻家ではないし、写真家でもないのです。アウグスト・ザンダーというドイツの写真家が「農民」「熟練工」「女性」「階級と職業」「芸術家」「町」「Last People(ホームレス、退役軍人、など)」と7つのセクションに分けて撮影していますが、その中の「芸術家」の顔写真に類似している要素があるのです。

デュシャンによると「画家のようにバカ」という言葉が昔からあって、そういう類なのかもしれません・・・
しかしぼく自身は「画家」を志して挫折した経緯があります。

こういう判断は《言語判定法》という、言葉をこの画像に投げかけて、その木霊(こだま)を取る形で判断しています。その判断には彦坂尚嘉の私的な記憶の集積が反映しているので、客観的な無名性による判断ではなくて、観測している主体である彦坂尚嘉のあくまでも私的な判断なのです。

ぼくはいちおう「構造主義」を理解してるつもりであって、だから「言語」がなんであるかも、その意味で理解してるつもりでいます。
しかし、彦坂さんがおっしゃるように「言葉を画像に投げかけて、その木霊(こだま)を取る形で判断する」という方法論は他に聞いたことがないし、その《言語判定法》に同意した第三者というのも知りません。
つまり彦坂さんの《言語判定法》は、何ら客観性のない、誰も理解できない主観的な手法で、常識的には(本人が自称してるように)キチガイの世迷い言として片付けることもできます。
しかし彦坂さんは実際にはキチガイではないわけで、とりあえず面白そうだし判断を「保留」してるのです。

その《言語判定法》を使って彦坂尚嘉の私的責任による人相分析をしてみると次のようになります。

《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第1次元》のデザイン的人格

《象徴界》の人格
プラズマ人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間であって、
シニフィアン(記号表現)的人間ではない。

『真実の人』

みなさんに解説すると、ここで示される《想像界》《象徴界》《現実界》は本来は精神分析医のジャック・ラカンによって示された概念ですが、彦坂さんの言う《想像界》《象徴界》《現実界》は、実はラカンの概念をベースにしながらも、そこから大きく外れた独特の概念になってるようです。
ぼくはラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》は、斉藤環さんによる入門書『生きのびるためのラカン』を通してしか理解してませんが、これによるとラカンの《現実界》は「人間には見ることも理解することも不可能なレベルの世界」を指しています。
ですのでラカンの考えに従うと「《現実界》の眼で」という言葉自体が成り立ちません。
またラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》はそれぞれ別の3つの世界があるのではなく、一つの世界の3つの様態(あるいは側面)を指しているので、「《象徴界》の人格」という言葉も成り立ちません。

だから彦坂さんの《想像界》《象徴界》《現実界》は、ラカンの概念の応用であり、そこから離れた独自のものです。
これについては彦坂さんのブログでたびたび解説されてるのですが、ぼくには何となく分かる気がするだけで完全な理解にはなかなか至りません。
ついでにいうと、ぼくは彦坂さんの《想像界》《象徴界》《現実界》は、ラカンのいう《想像界》をさらに3界に分けたものではないかと仮に想像してるのですが、本人には否定されるかもしれません(笑)

昆虫写真も撮っておられるので、昆虫が好きな養老孟司さんのように《第6次元 自然領域》の人格なのかと思っていたのですが、顔写真を《言語判定法》で分析してみると《第1次元 社会的理性領域》の人格でした。これは意外であると同時に納得のいく分析結果でありました。

字義通りにいえば、ぼくは「遅刻」が多いので、社会的理性は弱いでしょう。
それが理由で大学卒業後になったサラリーマンも、1年ちょっとでやめてしまいました。

糸崎公朗さんとは何度も徹夜をご一緒していますが、《第6次元 自然領域》の人物は徹夜はやらないのです。つまり徹夜をじさない性格は、《第6次元》ではなくて《第1次元》のものなのです。

徹夜するのはアーティストなので時間が不規則だから・・・と思ってましたが。
社会性のある人は明日の社会生活に備えて徹夜をせず、だらしなく自然にまかせた人が徹夜でおしゃべり・・・というふうに自分には思えてしまいます。

そして糸崎公朗さんは味覚のセンスが私なんかよりも良い方で、一緒に美味しいレストランに行くと、率直で適切な反応を口にしてくれる楽しい人なのですが、これも《第1次元 社会的理性領域》の人物であると分かると、納得がいきます。なぜなら料理というのは《第1次元 社会的理性領域》のものであるからです。《第6次元 自然領域》の人は野蛮で、味覚も自然主義で、料理という人工性を理解できないのです。《第1次元》、つまり《1流》の人でないと、料理を理解し、楽しみ、語る事はできないのです。糸崎公朗さんは、すぐれて《1流》の人物なのです。

やせの大食いで食いしん坊なんですね・・・特にグルメというわけではなく、普段も「サイゼリヤ」とかろくでもないところでしか食べてないですが、美味しいものは普通に美味しいと思います。
しかしいろんな味覚を詳細に比較検討したり、自炊も適当なので、ぼくより味覚レベルの高い人はたくさんいるでしょう。
しかし、料理が社会的理性の産物だということは、分かる気がします。
例えば、とれたての野菜をその場で丸かじりすると「自然の味」がして美味いようですが、実は野菜は人工的な品種改良の産物です。
また、新鮮なお刺身がいくら美味くても、生きてるマグロにそのまま齧り付いても美味くはないでしょう。
原始の人間にとって、全ての食材は「自然のまま」提供されてますが、「このようにもっと美味しくなる」という操作を加えたものが「料理」であり「文化」であると言えるかもしれません。
それは芸術にも共通していて、ぼくは先日、大宮の『盆栽美術館』に行ってきたのですが、盆栽というのは元の自然(植物)に対し「こうすればもっと美しくなるのに」という操作を加えるから「芸術」になるのだと理解しました。

もう一つ意外なのは、《象徴界》の人格を持っておられる事です。最近はずいぶんと読書をなさっておられますが、その辺も納得できる分析結果であります。

みなさんに解説すると「象徴」には「儀式・儀礼」といった意味と、「言葉」や「言葉の連鎖」といった意味があります。
ということで考えると、ぼくは一般的な「儀式・儀礼」が苦手で、どうも馬鹿馬鹿しいと思ってしまうのです。
その意味で社会性が無いとも言えるし、そういうところで哲学者の中島義道さんにシンパシーを感じるのです。

一方でぼくは「言葉」や「言葉の整合性」の奴隷であって、「言葉に対する裏切り」を激しく嫌う傾向があります。
そこも中島義道さんに同調するのですが、象徴的な「儀式・儀礼」は時として「言葉の内実」を伴わない「言葉の整合性」のない「言葉に対する裏切り」となり、それで嫌悪するところがあります。
もちろん、ぼくと中島義道さんでは「頭のレベル」が違うし、だから「師匠」として倣うことは早々に挫折してしまいました(笑)
読書も遅ればせながらするようになって、しかも読むのが遅いので、買いかぶられても困るものがあります・・・

もう一つの驚きは、プラズマ人間であるという事です。つまり新しい現代の人格であって、その辺が、なかなか私は見落としていたのですが、実際にデジタルカメラのウオッチャーでいらして、プロとして批評を連載なさってておられることのも、納得できる分析結果でありました。

「プラズマ」というのは文明の発展段階を示した彦坂さん独自の用語で、分かりやすくいえば現代のパソコンやケータイやネット社会に上手く適応できた人が「プラズマ人間」で、時代に取り残された頑固な堅物が「個体人間」です。
実はぼくはデジカメの導入は決して早いほうではなく、しばらくのあいだ「あんなのは馬鹿馬鹿しい」とパソコン共々否定してました。
というのも、ぼくは「フォトモ」をはじめとする「自分が考えた新しいもの」が好きな反面、「他人の考えた新しいもの」が好きになれなかったのです。
それに「デジタル時代の新技術」は、自分がこれまで開発してきた「アナログによる新技術」を否定するものであり、そこもしゃくに障りました。
しかしデジカメもパソコンも、試しに使ってみたらなかなか便利で、デジカメもカメラに違いはなくカメラオタク的愛情の対象物にもなり、自分なりにデジタルならではの新技術を開発できることもわかり、現代に至る感じです。

しかし、携帯電話については、これをいまだに持つことを拒否してるのは、それが「言葉に対する裏切り」になるからですね。
携帯電話の登場によって、人々の「言葉」の使い方のマナーが非常に悪くなった。
マナーというのは儀礼的な意味ではなく、「言葉の整合性」がないがしろにされるようになった、ということです。
ですから自分が携帯電話を持つことは我慢ができないし、それは明確な自己否定に繋がります。
ただ、最近はそうも言っていられないようなので、「あきらめて」携帯電話を買おうとは思っています。
「あきらめる」というのも最近試してることで、彦坂さんともいろいろなことを「あきらめる」ことでおつきあいが可能になってるわけです(笑)

最近、糸崎公朗さんのブログで、「科学と宗教」という長文のシリアスな文章を書かれています。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/
その最後が、次のようなものでした。

宗教も、科学も、芸術も、その本来の目的は「認識の外側」へ開かれている、ということではないかと思うのです。しかしそれは理想論であって、ぼくのように対して頭のよくない凡庸な人間は>>「サル知恵」でどうにかしなければならないわけです(笑)。

彦坂尚嘉の《言語判定法》を使った人格分析でいえば、まず、糸崎公朗さんは凡庸ではないし、「サル知恵」ではないのですね。

「サル知恵」というのは自戒の意味もあって、そうでもなければぼくはすぐ調子に乗ってしまうのです(笑)

問題があるとすると、《1流》であることです。《1流》というのは《社会的理性領域》であって、あまりにも社会的理性領域が強くて、非合理なものや、価値の多様性を理解できないのです。
彦坂尚嘉的に言えば、世界はⅠ00次元のディメンションの重層によって成立しているので、一つのことがらについても、Ⅰ00通りの理解や解釈があるのです。糸崎公朗さんが議論している哲学や宗>教そのものが、実は100次元の意味の重層によって成立しているのですが、糸崎公朗さんはそれを《第1次元 社会的理性領域》だけで切って理解しようとする還元主義の論を進めておられる。
それは無理なのです。

彦坂さんのいう《1流》も《100流》まであるので(笑)、一般的な「一流」とはニュアンスが違います。
思い切り意訳してみると、ぼくの性格が一面的で「硬い」「堅物」ということでしょうか?
確かに、当該記事のコメント欄のやりとりも、読み返すと我ながら「硬い」ような気がします(笑)
それと「還元主義」といわれれば、明確にそうですね・・・
これは高田明典さんの影響が大ですが、高田さんは「科学」や「現代思想」を「道具」として捉える見方を教えてくれました(本を読んだだけですが)。
まぁ、ぼくはあまり頭がよくないし、そうすると「考える道具」はシンプルな方がいいので、だからなおさら還元主義になるのだろうと思います。

ただ、ぼくは芸術という「非合理なもの」を扱ってるつもりだし、実のところ特定の宗教に属してはいないものの「無宗教」ではないのです。
ですからいってみれば、あくまで「非合理なもの」に接近するために、シンプルな道具(還元主義)を使っているつもりです。

ぼくの「還元主義」は「思考の整理法」でもあって、つまりパソコンのデスクトップにフォルダを作るのと同じです。
ぼくが「誰も宗教から逃れることはできない」といったとき、「宗教」というフォルダをとりあえず作って、その中に全部のものを入れます。
さらに「宗教」フォルダの下の階層に、「科学」とか「無宗教」とか「キリスト教」とか「芸術」とか新たなフォルダを作り整理します。
そうやってキッチリ整理すると、そのうちどのフォルダにも収まらない要素が必ず出てきて、それが「非合理なもの」だったりするかもしれません。
また、全てのフォルダは暫定的に設置されたもので、整理法も一つとは限らないでしょう。

しかし彦坂さんの《言語判定法》や《100次元アート》などの複雑怪奇な分類法は、単純な「還元主義」とは異なるようで、また別の理解の仕方があることは検討しなければいけません。
ちなみに、彦坂さんの実際のパソコンのデスクトップを見たことがあるのですが、フォルダがまったく整理されず、散らかり放題だったのが印象的でした(笑)
「これで仕事ができるのか?」と思いましたが、独特の仕事の仕方があるのかもしれません。

糸崎公朗さんは、自らの《1流》性を理解しないで生きて来ておられるように思います。《第1次元 社会的理性領域》である人格なのに、《第6次元》的な直接性に依拠する傾向があるのです。美術家としても、もっと多様で、《ハイアート》としての作品をつくりえる人物であると思います。

岡本太郎の『今日の芸術』に依拠すると、社会的理性を打ち壊したものが芸術だということになり、自分なりに行き着いたところが『非人称芸術』と『自然科学写真』になりました。
しかし最近は別の方法論として『反ー反写真』を試みていて、これはいってみれば「社会的理性」としての「写真」のあり方を意図的に学んで取り入れてるつもりです。

芸術を「非人称芸術」として見る見方は、間違っているのではなくて、正しいのです。つまり芸術には2種類があって、《人称芸術》と《非人称芸術》の2つがあるのです。この二つは、どちらも重要なのであって、糸崎公朗さんは、非人称芸術を選択したのです。
《非人称芸術》というのは、民衆芸術とか、フォークロア、大衆芸術に見られる構造なのです。原始美術にも見られる性格であって、人間の基本である動物としての存在に密着した芸術の基礎であり、基盤を有するものなのです。
つまり彦坂尚嘉の用語を使うと、《自然芸術》と、《文明芸術》の2種類があって、この2つはしかし相互に影響し合って複雑に入り組んでいるのですが、その混乱を、糸崎公朗さんは、「非人称芸術」として論じて来たのです。

間違ってはいないけど、見方が一面的だということですね。
これは最近、自分でも意識するようになって《文明芸術》も理解しようと試みてます。

ただ普通には、「非人称芸術」という民衆芸術や大衆芸術というのは《第6次元 自然領域》であるので、糸崎公朗さんの《第1次元 社会的理性領域》の人格とは、実は齟齬や矛盾があるのです。この齟齬や矛盾が、糸崎公朗さんの作品の複雑さを生み、魅力あるものにしているのです。同時に糸崎公朗さんを苦しめ、悩ませていると言えます。

おっしゃるとおり、齟齬や矛盾はあって、それは有利な点でもありますが、最近は特に大いに苦しみ悩んでいます(笑)
ぼくは意識的に「自然崇拝主義」なのですが、ぼくはこれまで自然の「よい面」しか見てこなかったのかもしれません。
しかし自然のよい面だけを見て自然を理解したと思うのは、現代人特有の浅はかさですね・・・
いや実際「自然からの逆襲」を受けてるし、恐ろしいことです(笑)

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2010年9月24日 (金)

「写真」みたいな葛飾北斎

長野滞在中は路上三昧で、実家の近所をひたすら歩き回っていたのだが、「非人称芸術」だけじゃなくて「芸術」もちゃんと見なくちゃと最近思っていることもあって、小布施町の「北斎館」に行ってきた。
北斎館は十数年前のフォトモを始めたばかりの頃に見に行ったことがあるのだが、実のところぼくのフォトモは北斎の影響を多大に受けている。
いや北斎だけでなく、江戸文化全体の影響を受けているのだが、近代的な「個人」とか「自己」のようなベットリと、ヌットリとしたヒューマニズムではなく、なんというかちょっと突き放したようなドライな人間観がぼくの感覚にフィットしたのである。

つまり、ぼくが好きな浮世絵でいうと北斎とか国芳の表現というのは、人間に愛情を注ぎながらも、それはドライな観察者といった感じで、だからその影響を受けたぼくは、人間をミニチュアとして表現する「フォトモ」という技法に至ったといえるのだ。

まぁ、それはともかくとして、現在のぼくは「フォトモ」のような「反写真」とは別モードの「反ー反写真」、すなわちまっとうな「写真」の視点で路上スナップを撮っている。
それは「非人称芸術」のいわば前提となる「芸術」をあらためて掘り下げる試みでもあるのだが、その一環としてあらためて「芸術」としての北斎を鑑賞してみたのだ。

それで気づいたのは、北斎の浮世絵が、きわめて「写真」的であることなのだ。
北斎の浮世絵は、絵であり版画でありマンガ表現で気でありながら、まるで「写真」のようなのである。
ぼくが北斎観に言ったときは『諸国瀧廻り』のシリーズが展示されていて、ネットで検索したら画像がアップされていたので、元のサイトから以下転載させていただくことにする。





これらを見てあらためて気づくのは、建物や人物などのオブジェクトが四角い画面で切れていて、そこが極めた「写真」的なのである。
実はぼくはこのような「オブジェクトの一部を画面で切る」ということができなくて、それで「オブジェクトを丸ごと切らなくて済む」フォトモやツギラマに到達したのであり、その意味では北斎先生にまったく従っていないのだった。

しかし、「もう一つの人格」として「写真」に回心した自分としては、「写真家」としての葛飾北斎のワザが、とてもよく理解できる(気がする)。
「オブジェクトの一部を画面で切る」のは、同時に「オブジェクトを画面構成の要素として利用する」のと同じことであり、ことふたつのワザはぼくの最近の「反ー反写真」でもっとも意識してることなのだ。
この『諸国瀧廻り』を見てると、標準レンズ50mmより望遠の100〜200mmくらいのレンズが付いたカメラを北斎が構え、目の前の風景を「切り取った」ふうに見えてならない。

これがもし、近代以前の視点であったならば、必要なオブジェクトは画面の外でカットされず、全てが画面の内側に集められて描かれていたはずである。
そこを冷徹にカットし、画面構成の素材の寄与する視点は、明らかに「写真」的だというように思えてしまうのだ。

また、北斎の描く人物はまさしく「写真」のように、一瞬の姿がさりげなく捉えられている。
これが西洋の写実絵画だと、人物がいかにも長時間そのままのポーズでいたかのような堅い姿勢で描かれたりするのだが、北斎の版画に描かれた人物はさりげなく生き生きと動いているかのようなポーズで描かれている。西洋の写実絵画は、モデルにポーズを撮らせて長時間露光した写真のようだが、それに対して北斎の目は、まさに高速シャッターで被写体を捉える現代のカメラと同等の機能を備えているのだ。

北斎の存命中(1760年〜1849)はヨーロッパに写真は存在したが(フランス人のニエプスが写真術を発明するのが1816年)、しかし当時の感光剤は露光に数分を要するため、当時の写真に写る人物はいずれもぎこちなくわざとらしいポーズを撮っており、その意味では「絵画的」であった。
だからこそ、北斎に限らず日本の絵描きたちの眼は、「写真」に先駆けて「写真」的だったのだと言えるのだ。

というようなことは、これまで専門家によってさんざん言い尽くされてるのかもしれないが、まぁとリア絵図は自分が気づいたという新鮮な気持ちで書いてみた次第である。

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2010年9月 7日 (火)

科学と宗教

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(*ゴキゲン過ぎるお二人ですが、記事とは関係ありません)

以前の記事「呪術・宗教・技術」のコメント欄でschlegel | さんに返信しようとしたら、長くなりすぎた上に脱線しすぎたようなので、あらためて記事にしてみました。
というか、コメント欄の返信がベースなので、全部ですます調です(笑)。
今後もこういうことがあるかもしれないので、記事はである調ではなく、ですます調で書いた方が良いかもしれません。

ぼくは「科学とは呪術である」と定義しましたが、科学をベースとした現代思想では「○○とは××である」というような一義的な定義はナンセンスとされています。
あらゆる定義は「目的」よって異なり、あらゆる「目的」を離れた純粋に一義的な定義は意味がない、というのが「科学的」な考え方です(高田明典さんの受け売りですが)。
だからぼくが「科学は呪術である」と定義したのは、以前のやりとりでもそうでしたが、「科学とニセ科学を区別する」という目的のためでした。
この場合、「ニセ科学は科学と異なる呪術に過ぎない」と定義するより、「科学は呪術であり、ニセ科学は効果のないニセ呪術に過ぎない」と定義した方が、「ニセ科学に騙されない」効果が高いと考えたわけです。
ですから「科学は呪術である」という定義はどんな場合にも適用できるわけではなく、「目的」が異なれば無効になる場合もあるのです。

さて、ぼくは一方では「人は誰でも宗教から逃れられない」という定義もしましたが、その目的をあらためて考えると自分自身が「生きる目的を見失わないため」だったのではないかと思います。
まず、人間が生きて自分が存在するということは、デカルトが「我思うゆえに我あり」といったとおり、人間にとって「認識の内側」の問題です。
しかし「なんのために生きるか?」という目的や意味は、「認識の内側」だけに収まらない、「認識の外側」へと開いた問題意識だといえます。
そして、そのように「認識の外側」へ開いた問題を扱うのが「宗教」だとすれば、すでに多くの前例がありますから、それに照らして自分の「生きる目的」について考えることが出来ます。
また「生きる目的」は誰にとっても考えなければならない問題ですが、それを一律に「宗教」というふうに定義して、「人は誰でも宗教から逃れられない」と考えれば、あらゆる人びとと自分との比較を一律の基準で比較することが出来ます。
もちろんこの「基準」はとりあえず仮に設定されたもので、絶対のものではなく、これも科学的思考に基づいてるつもりです。

「人は誰でも宗教から逃れられない」のだとすれば、科学もまた宗教の一形態だと考えねばなりません。
まず一般に、科学は「認識の内側」のみを扱う学問として、「認識の外側」を扱う宗教から分離したとされています。
しかしいかに科学者といえど、自分は無から生まれ、死んで無になってしまうことを知っています。
自分が生まれる以前に自分が参加しない歴史の積み重ねがあり、自分の死語も自分の歴史が続くであろうことを知っています。
「認識の内側」のみを扱う科学者は、「認識の外側」の存在を知っているのです。
これを踏まえていい方を換えれば、科学とは「認識の外側」の問題を「認識の内側」の問題に変換して扱う学問である、ということになります。
そして、科学は「認識の内側」の問題を媒介として、結局は「認識の外側」を扱っているから、やはり宗教の一形態だと考えることが出来るのです。

例えば「進化論」ですが、人類が存在しなかった恐竜時代は、誰にとっても「自分が参加する以前の歴史」であり「認識の外側」の問題です。
しかし科学は、「認識の外側」である過去の時代を、痕跡(恐竜の場合は化石)という「認識の内側」の問題に変換して扱うわけです。
基本的に科学は「認識の内側」としての「化石」を観測しますが、しかしそれだけではとどまらず「認識の外側」としての「恐竜の想像図」を描き出します。
だからティラノサウルスとかステゴザウルスなどの恐竜の想像図は「宗教としての科学」の「宗教画」といえるのかもしれません(笑)

科学が宗教の一形態だとすると、科学にとっては二つの「神」がいるのだとぼくは思います。
一つは、世界が存在する原因としての「神」で、それは完全に「認識の外側」であり、基本的に科学では扱うことのできない問題です。
例えば、人間にとって人間自身は無前提に存在し、地球も宇宙も無前提に存在し、その「究極の原因」を人間は知ることは出来ません。
これを精神分析医のラカンは「現実界」と表現しましたが、人間の「認識の内側」の小さな世界は、認識不可能な「現実界」に裏打ちされ、それをぼくは「神」と表現したのです。
しかし完全に「認識の外側」としてのこの「神」を、科学で扱うことはありません。

もう一つ科学にとっての「神」は、「人類の知識の集積」としての神です。
いかに天才科学者といえど、ゼロから新しい理論を生み出すことは出来ず、先人たちによる知識の集積を元に、自分独自の成果を見出します。
最近は、トリケラトプスが実は別の恐竜の子供に過ぎなかった、という新説が話題になってますが、それも「人類の知識の集積」の上に明らかになったことです。
「人類の知識の集積」はただの積み重ねではなく、膨大な「言葉」の関係性による網の目のようなもので、「科学者個人」の知恵を大きく超えています。
ラカンはこれを「象徴界」と名付けましたが、象徴=言葉は個人が話すものでありながら、個人を大きく超える、人類史以来の言葉の集積でもあるのです。
言葉による「人類の知識の集積」は、「個人」としての人間を大きく超える一種の「非人称的人格」であり、これを「神」として信奉するのが宗教としての科学ではないかと、ぼくは思うのです。

ですからそのような「科学の神様」を冒涜したり穢したりすると、科学者は怒るわけです(笑)。
例えば、アメリカで進化論を教えずに理科の教科書に「聖書の神による世界創造」のみを載せることに科学者が反対するのも、それが「科学の神様」への冒涜行為だからです。
「聖書の神による世界創造」は、「科学の神様=人類の知識の集積」の中ではとっくに淘汰された説であり、そのような「淘汰の歴史」を否定することを「神の否定」として科学者は怒るのです。

現代において科学的な進化論を認めないのは、キリスト教の中でも「聖書無謬説」を採用する一部の人びとです。
「聖書無謬説」は文字通り聖書の一字一句を「正しい」とする一派で、だから神様が全ての動物を作り、それらを支配させるために人間を作った、という記述を疑いもせず信じるわけです。
ところが、『新約聖書』を読んでみると、キリストは旧約聖書の律法をかたくなに守りながら、肝心の信仰がおろそかになってしまった「パリサイ人」を盛んに非難しているのです。
つまりそう考えると「聖書無謬説」はキリストが非難した「パリサイ人」ではないか?と思えてしまうのです。

『新約聖書』が面白いのは、それ以前の『旧約聖書』を肯定しながらも批判している点で、それが現在の科学の源流になったことは納得が出来ます。
キリスト教にしろ科学にしろ、「認識の外側」と対面する知的行為である点では共通てるようにぼくは思います。
しかしこれは大変に難しい思考であり、高度な知識と柔軟性が求められます。
ところが大多数の人びとは、そこまで頭がよくないので「認識の内側」のみで考えようとします。
「認識の内側」のみの世界をラカンは「想像界」と名付けましたが、これは誰にとっても日常的な、考えるのが楽な世界です。

人間にとっての新しい認識や知恵や知識は、認識の外側の「現実界」から言葉による「象徴界」を通じて認識の内側の「想像界」へもたらされます。
しかし「想像界」の中だけで閉じてしまった人びとにとって、もはや「認識の外側」からなんの流入もなくなり、従って考えることが楽になります。
そして、「パリサイ人」にしろ「聖書無謬説」にしろ、テキストの内容を絶対のものとして固定化することは、テキストを「象徴界」へと開かれたものではなく、「想像界」の中で閉じたものとして取り扱うことではないかと思うのです。
簡単に言えば、決まりを文字通り守っていさえすれば、「決まりについて考える」という必要がなくなり、その分だけ楽が出来ます。

人間は「想像界」の中で、「モノ」は「モノ」としてだけ扱います。
例えば「石」を「単なる石コロ」としてしか考えないのが「想像界」で、それに対し「石とは何か?」を考えるようになるとそれは「象徴界」へと開かれます。
なぜなら「石とは何か?」を考えることは、「想像界」の中で「石の定義」とされた「ひとかたまりの言葉」を、「人類の知識の集積」に照らして分解し再構成する行為だからです。
認識の内側の「想像界」では全てのモノが「形骸化」しているのだともいえるでしょう。
しかし「形骸」として現れたモノの「中身」とか「意味」とか「本質」を考えたりすると、それは「象徴界」に開かれたことになります。

「宗教とは何か」や「科学とは何か」を考える上で忘れてはならないのは、そもそも全ての人が科学や宗教がなんであるかを理解できるわけではない、ということです。
ぼくだってもちろん、科学がなんであるかを理解できているわけではありません。
ですから、デジカメやパソコンやエアコンなどのざまざまな「科学の成果」を、「想像界」の中で固定されたモノ=製品として認識します。
ところが専門の科学技術者は、製品というモノを「人類の知識の集積=象徴界」に照らして分解し再構成し、さらなる新製品を「想像界」にもたらします。

同じようにユダヤ教も、キリスト教も、仏教も、少数の「専門家」にとっての宗教は「象徴界」に開かれているのです。
ところが大多数の信者にとって宗教は、「想像界」の中で閉じたモノとしてしか理解されません。
だからどの宗教の教典も、信者が今ひとつ信仰を理解してくれないことを、一様に嘆いているのです。
宗教に対して「宗教は麻薬だ」とか「宗教は一種の思考停止だ」という非難がありますが、それは実はどの時代にも共通する「民衆」への非難であって、宗教そのものの非難には当たりません。

それではじめの「生きる目的」に話題を戻すと、宗教も、科学も、芸術も、その本来の目的は「認識の外側」へ開かれている、ということではないかと思うのです。
しかしそれは理想論であって、ぼくのように対して頭のよくない凡庸な人間は「サル知恵」でどうにかしなければならないわけです(笑)。

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2010年9月 3日 (金)

アートのお手伝い

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昨日と一昨日は、浅草橋のマキイマサルファインアーツで開催される、彦坂尚嘉さんの個展の設営作業のお手伝いをしていた。
これはアルバイトではなくタダ働きで、しかも頼まれたわけでもないのに勝手に押しかけている。
これをして「糸崎はついに彦坂信者になったのか?」などと思う人もいるかもしれないが、ぼくにはぼくの「信仰」があるので安心して欲しい(笑)

というか彦坂さんは、「信仰」や「神」の話がまともにできる、数少ない知り合いの一人である。
信仰についてまともに話ができる、というのは信仰に溺れていないということで、だから信仰(宗教)に対しそれが何であるかの話が冷静にできるのだ。
ぼくが信仰についてあれこれ考えようとするのは、それがアートと深く関係しているからである。
芸術が「超越」に向かって突き当たるところの「認識の境界面」なのだとすれば、結局それは「信仰」の問題であり、だから芸術の本質は「宗教芸術」なのだと考えることができる。
「人は誰でも信仰から逃れることができない」という立場で考えると、どんな芸術にも作者の「信仰」が反映されてるし、芸術鑑賞のありかたには鑑賞者の「信仰」が反映されているはずである。

だから「自分は信仰なんてものとは無関係だ」と思っているアーティストやアートの愛好者の皆さんも、実はそれぞれちゃんとした「信仰」をお持ちなのである。
その中で彦坂さんは、自他共に認めるキチガイじみた独特の信仰をお持ちで、だからたいていの人の信仰とは折り合いが悪く敬遠されてしまうのだろう。
しかしぼくは最近、自分の信仰を自覚的に拡張したり、変更したり、コントロールしたりを試みている。
だから彦坂さんのキチガイじみた信仰のあり方に興味を持ってしまうのだ。

まぁ、そういうこととは別に、他人の展示の手伝いをするといろいろと勉強になる。
だから例えただ働きであっても、金銭的な「等価交換」に回収されない「贈与交換」が成立するのだ。
というか、ぼくは学生ボランティアに「勉強になるから」といって自分の個展準備をタダで手伝わせたことが何回かあるのに、ぼく自身は他人の手伝いをしたことがなかったのだ(笑)
しかしあらためて展示のお手伝いをしてみると、作家ではないにもかかわらず作家に近い視点で展示が見られたりして、なかなか面白い。
これは明らかに「単なる客」の視点とは異なるので、クセになりそうだ。
こんな調子でいろんな友人アーティストのお手伝いをすれば、そのうち自分の展示も「他人事」のようにスムーズに出来るようになるかもしれない(笑)

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2010年9月 1日 (水)

形骸の神様

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以下、思いついたばかりのリクツで、読み返すと穴だらけのようでもあるが、こだわってるとキリがないのでとりあえずアップする。

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日本人の多くは「あなたの宗教は?」と聞かれると「いえ、私は無宗教です」などと答えることだろう。
日本人の多くはキリスト教徒ではなく、仏教徒でもなく、イスラム教徒でもなく、何か新興宗教の教徒でもなく、自分が「無宗教」であることを自認しているはずだ。

しかし「人間は誰でも宗教から逃れることはできない」という理論を採用しているぼくは、「無宗教」を辞任している人とて宗教からのがれることはできず、それは恐らく「無宗教」という宗教の信者なのだろう、と思っている。
日本には、日本固有の「日本無宗教」とでもいうべき宗教があって、国民の大半はその信者なのだ。

しかし、ではその「日本人無宗教」とはどういう宗教なのか?というと、それがぼくには今ひとつ分からない。
ユダヤ教やキリスト教には聖書があり、イスラム教にはコーランがあり、仏教にも仏典があるから、それらの原点や解説書を読めば、それがどんな宗教なのかは理解できる。
もちろん、現代の新興宗教もさまざまなテキストを出版しているから、それを読んで理解することができる。
また、未開といわれる人びとの宗教についても、語り継がれている神話が人類学者などによって記録または研究され、それらを読むことができる。

ところが「日本無宗教」には聖書や仏典のように書かれた教義はないし、語り継がれている神話もない。
いや、日本には「古事記」や「日本書紀」があるではないか、と思われるかもしれないが、それらは「日本神道」のテキストであって、「日本無宗教」とはあまり関係があるようには思われない。

日本人が「無宗教」なのは、現代が科学の時代だから、という理由も大きいだろう。
しかし、日本人の誰もが科学的に厳密に思考しているかというと、とてもそうは思えない。
「無宗教」を自認している多くの人が、占いを信じたり、神様にお願いしたり、死んだ人の成仏を願ったり、さまざまな非科学的な「宗教観」を持っている。
しかし、そのような日本人独自の宗教観には教義と言えるものがなく、みんな何となく似たようなことを信じている。

そのような日本人の宗教観の源流は、仏教や儒教にあるのだともいわれている。
昔から日本人の生活に根付いている倫理観、価値観、世界観、またはことわざや日常で使う単語など、仏教や儒教に源流を持つものが多く含まれている。
もちろん、神道をはじめ日本古来の宗教が起源のものも多く含まれるだろうが、そのようにさまざまな宗教がごちゃ混ぜになっているのが、日本人独特の宗教観だともいわれている。
日本は「八百万の神の国」であり、輸入品の神や仏はすべてそのうちに組み込まれるとも言われている。

中国から輸入された仏教は、江戸幕府によって換骨奪胎され、現代に至る「葬式仏教」となってしまった。
また、同じく中国から輸入された儒教は、同じく換骨奪胎され、武士がたしなむべき「教養」としてのみ生かされるようになった。
キリスト教は日本では江戸幕府の「キリシタン弾圧」を耐えて生き残ったのに、現在では「結婚式を挙げる教会」と「クリスマス」だけが妙に定着している。

つまり日本では、輸入された宗教のすべてが換骨奪胎され、つまりは「形骸化」されているのである。
「葬式仏教」は「仏教の形骸」であり、「教養としての儒教」は「儒教の形骸」であり、「教会でのステキな結婚式」や「ロマンチックなイブの夜」は「キリスト教の形骸」なのである。
そう思うと、日本では宗教に限らず、ありとあらゆるものが「形骸化」される傾向にあることに、気づくのだ。

例えば、コンビニやファミレスのマニュアル化した接客は「接客の形骸」であり、もっといえば「感謝の気持ちの形骸」なのである。
また、駅やスーパーなどで「エスカレーターの右側に立ち、ベルトにおつかまりください」というような自動放送を流すのは、「管理業務の形骸化」である。

日本人が争いを好まず、どんな問題もなあなあで済ませようとするのは、「問題の形骸化」である。
いやまさに日本人は、どのような問題も「形骸化」すれば解決できると信じている。
だから外国人との間にトラブルが起きた場合、日本人的な「問題の形骸化」が通じないので、あわてたりするのだ。
また、日本人が「議論しよう」といいながら、実際は議論を「形骸化」しようとするのに対し、相手の外国人はあくまで「本当の議論」をしようとするので、齟齬が生じてしまう。
まぁ外国人のことはともかく、ぼく自身「問題の形骸化」や「議論の形骸化」を好まないので、たいていの日本人とはこの点で衝突してしまう(笑)

「問題の解決」ということでいえば、どんな宗教も究極的には「問題の解決」のために存在しているのだといえる。
例えば、狩猟採集民の多神教(アニミズム)は、「日々の食物を得る」という問題解決のために存在している。
狩猟採集民にとって、なぜ森に食物となる木の実があり獣がいるのか?という理由がわからず、だからそれぞれの食物を与えてくれる神を信仰し、「日々の食物を得る」という問題を解決しようとするのである。

しかし人間が農業を始めて都市生活を始めると、たくさんの人々が一緒の空間に暮らすようになる。
すると、それぞれの小集団がそれぞれ異なった神様を崇めると、お互いにいがみ合うようになり都市の平和が乱れてしまう。
そこで「唯一の神」を見出して、全員でそれを信仰すれば、宗教についての争いはなくなり平和になる。
それがユダヤ教であり、キリスト教であり、イスラム教なのだ。
この3つの宗教は、同じ「唯一の神」を信仰しているにもかかわらず、その解釈をめぐって争いを続けているが、「問題の解決」のための基本的な方法は共通しているのである。

仏教は、まず「生きることは苦痛だ」という第一の問題があり、さらに「死んだら何度でも生き返ってしまう」という第二の問題があり(バラモン教から引き継いだ輪廻転生の世界観)、これらの「問題の解決」のために存在している。
このため仏教では、輪廻転生から解脱して、もはや二度と生き返って苦痛を受ける必要の無い方法を、模索する宗教なのだ。

その他の日本の新興宗教も、とにかく入信すれば何らかのいいことがありますよと、信者になりましょうと勧誘している。
つまりどのような宗教も、なんらかの「問題の解決」のために存在している、という点では共通しているのだ。

では、国民の大半が「無宗教」を自認し、宗教に頼らずに「問題の解決」をしている日本では、もっぱらどのような方法がとられているのか?
というと、先に述べた「形骸化」によってなのである。
つまりこれを逆に考えて、「形骸化」こそが日本人にとっての「宗教的行為」だと捉えることができるのだ!

つまり「日本的無宗教」の正体は「形骸」を神様として信仰する「形骸教」なのである。
そもそも「無宗教」という言い方が「宗教の形骸」であり、まさに日本人にとって「形骸の他に神は無し」なのである。
いや、日本人は世間を気にする「世間教」だという人もいるだろう。
しかし「世間」とは「人付き合いの形骸化」であり「自己決定の形骸化」なのである。
ということで、日本人の大半は「形骸教」の信者である。
そう思うと、ありとあらゆるもののつじつまが合うような気がする。
ともかく日本人はすべてを形骸化しようとし、あらゆるものが形骸化された状態が、日本人にとっての理想郷であるかのようだ。

そのようにぼくが思うのは、ぼく自身が「形骸」というものを極端に嫌っているからなのだ。
しかし「形骸」が日本人固有の「宗教」の問題だとしたら、いちいち嫌ったり腹を立てる必要は無いのかもしれない。
宗教には「相手の宗教は尊重しなくてはならない」という原則もある。
原則として、キリスト教もイスラム教も仏教も、異教徒には「寛容」な態度を示している。
だからぼくも、相手が「形骸化」を仕掛けてきたら、これは「形骸教」の宗教行為なんだと理解して、彼らのやり方を尊重すればいい。
いやもしかしたら、「あなたは問題を形骸化しようとしてるでしょう?」と言い当てることで、相手の仕掛ける形骸化を「形骸化」できるかもしれない。
ということで、ぼくにはぼくの「宗教」があるのだが、それがひとつ「問題の解決」に役立ったのである(笑)

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