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2010年9月 1日 (水)

形骸の神様

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以下、思いついたばかりのリクツで、読み返すと穴だらけのようでもあるが、こだわってるとキリがないのでとりあえずアップする。

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日本人の多くは「あなたの宗教は?」と聞かれると「いえ、私は無宗教です」などと答えることだろう。
日本人の多くはキリスト教徒ではなく、仏教徒でもなく、イスラム教徒でもなく、何か新興宗教の教徒でもなく、自分が「無宗教」であることを自認しているはずだ。

しかし「人間は誰でも宗教から逃れることはできない」という理論を採用しているぼくは、「無宗教」を辞任している人とて宗教からのがれることはできず、それは恐らく「無宗教」という宗教の信者なのだろう、と思っている。
日本には、日本固有の「日本無宗教」とでもいうべき宗教があって、国民の大半はその信者なのだ。

しかし、ではその「日本人無宗教」とはどういう宗教なのか?というと、それがぼくには今ひとつ分からない。
ユダヤ教やキリスト教には聖書があり、イスラム教にはコーランがあり、仏教にも仏典があるから、それらの原点や解説書を読めば、それがどんな宗教なのかは理解できる。
もちろん、現代の新興宗教もさまざまなテキストを出版しているから、それを読んで理解することができる。
また、未開といわれる人びとの宗教についても、語り継がれている神話が人類学者などによって記録または研究され、それらを読むことができる。

ところが「日本無宗教」には聖書や仏典のように書かれた教義はないし、語り継がれている神話もない。
いや、日本には「古事記」や「日本書紀」があるではないか、と思われるかもしれないが、それらは「日本神道」のテキストであって、「日本無宗教」とはあまり関係があるようには思われない。

日本人が「無宗教」なのは、現代が科学の時代だから、という理由も大きいだろう。
しかし、日本人の誰もが科学的に厳密に思考しているかというと、とてもそうは思えない。
「無宗教」を自認している多くの人が、占いを信じたり、神様にお願いしたり、死んだ人の成仏を願ったり、さまざまな非科学的な「宗教観」を持っている。
しかし、そのような日本人独自の宗教観には教義と言えるものがなく、みんな何となく似たようなことを信じている。

そのような日本人の宗教観の源流は、仏教や儒教にあるのだともいわれている。
昔から日本人の生活に根付いている倫理観、価値観、世界観、またはことわざや日常で使う単語など、仏教や儒教に源流を持つものが多く含まれている。
もちろん、神道をはじめ日本古来の宗教が起源のものも多く含まれるだろうが、そのようにさまざまな宗教がごちゃ混ぜになっているのが、日本人独特の宗教観だともいわれている。
日本は「八百万の神の国」であり、輸入品の神や仏はすべてそのうちに組み込まれるとも言われている。

中国から輸入された仏教は、江戸幕府によって換骨奪胎され、現代に至る「葬式仏教」となってしまった。
また、同じく中国から輸入された儒教は、同じく換骨奪胎され、武士がたしなむべき「教養」としてのみ生かされるようになった。
キリスト教は日本では江戸幕府の「キリシタン弾圧」を耐えて生き残ったのに、現在では「結婚式を挙げる教会」と「クリスマス」だけが妙に定着している。

つまり日本では、輸入された宗教のすべてが換骨奪胎され、つまりは「形骸化」されているのである。
「葬式仏教」は「仏教の形骸」であり、「教養としての儒教」は「儒教の形骸」であり、「教会でのステキな結婚式」や「ロマンチックなイブの夜」は「キリスト教の形骸」なのである。
そう思うと、日本では宗教に限らず、ありとあらゆるものが「形骸化」される傾向にあることに、気づくのだ。

例えば、コンビニやファミレスのマニュアル化した接客は「接客の形骸」であり、もっといえば「感謝の気持ちの形骸」なのである。
また、駅やスーパーなどで「エスカレーターの右側に立ち、ベルトにおつかまりください」というような自動放送を流すのは、「管理業務の形骸化」である。

日本人が争いを好まず、どんな問題もなあなあで済ませようとするのは、「問題の形骸化」である。
いやまさに日本人は、どのような問題も「形骸化」すれば解決できると信じている。
だから外国人との間にトラブルが起きた場合、日本人的な「問題の形骸化」が通じないので、あわてたりするのだ。
また、日本人が「議論しよう」といいながら、実際は議論を「形骸化」しようとするのに対し、相手の外国人はあくまで「本当の議論」をしようとするので、齟齬が生じてしまう。
まぁ外国人のことはともかく、ぼく自身「問題の形骸化」や「議論の形骸化」を好まないので、たいていの日本人とはこの点で衝突してしまう(笑)

「問題の解決」ということでいえば、どんな宗教も究極的には「問題の解決」のために存在しているのだといえる。
例えば、狩猟採集民の多神教(アニミズム)は、「日々の食物を得る」という問題解決のために存在している。
狩猟採集民にとって、なぜ森に食物となる木の実があり獣がいるのか?という理由がわからず、だからそれぞれの食物を与えてくれる神を信仰し、「日々の食物を得る」という問題を解決しようとするのである。

しかし人間が農業を始めて都市生活を始めると、たくさんの人々が一緒の空間に暮らすようになる。
すると、それぞれの小集団がそれぞれ異なった神様を崇めると、お互いにいがみ合うようになり都市の平和が乱れてしまう。
そこで「唯一の神」を見出して、全員でそれを信仰すれば、宗教についての争いはなくなり平和になる。
それがユダヤ教であり、キリスト教であり、イスラム教なのだ。
この3つの宗教は、同じ「唯一の神」を信仰しているにもかかわらず、その解釈をめぐって争いを続けているが、「問題の解決」のための基本的な方法は共通しているのである。

仏教は、まず「生きることは苦痛だ」という第一の問題があり、さらに「死んだら何度でも生き返ってしまう」という第二の問題があり(バラモン教から引き継いだ輪廻転生の世界観)、これらの「問題の解決」のために存在している。
このため仏教では、輪廻転生から解脱して、もはや二度と生き返って苦痛を受ける必要の無い方法を、模索する宗教なのだ。

その他の日本の新興宗教も、とにかく入信すれば何らかのいいことがありますよと、信者になりましょうと勧誘している。
つまりどのような宗教も、なんらかの「問題の解決」のために存在している、という点では共通しているのだ。

では、国民の大半が「無宗教」を自認し、宗教に頼らずに「問題の解決」をしている日本では、もっぱらどのような方法がとられているのか?
というと、先に述べた「形骸化」によってなのである。
つまりこれを逆に考えて、「形骸化」こそが日本人にとっての「宗教的行為」だと捉えることができるのだ!

つまり「日本的無宗教」の正体は「形骸」を神様として信仰する「形骸教」なのである。
そもそも「無宗教」という言い方が「宗教の形骸」であり、まさに日本人にとって「形骸の他に神は無し」なのである。
いや、日本人は世間を気にする「世間教」だという人もいるだろう。
しかし「世間」とは「人付き合いの形骸化」であり「自己決定の形骸化」なのである。
ということで、日本人の大半は「形骸教」の信者である。
そう思うと、ありとあらゆるもののつじつまが合うような気がする。
ともかく日本人はすべてを形骸化しようとし、あらゆるものが形骸化された状態が、日本人にとっての理想郷であるかのようだ。

そのようにぼくが思うのは、ぼく自身が「形骸」というものを極端に嫌っているからなのだ。
しかし「形骸」が日本人固有の「宗教」の問題だとしたら、いちいち嫌ったり腹を立てる必要は無いのかもしれない。
宗教には「相手の宗教は尊重しなくてはならない」という原則もある。
原則として、キリスト教もイスラム教も仏教も、異教徒には「寛容」な態度を示している。
だからぼくも、相手が「形骸化」を仕掛けてきたら、これは「形骸教」の宗教行為なんだと理解して、彼らのやり方を尊重すればいい。
いやもしかしたら、「あなたは問題を形骸化しようとしてるでしょう?」と言い当てることで、相手の仕掛ける形骸化を「形骸化」できるかもしれない。
ということで、ぼくにはぼくの「宗教」があるのだが、それがひとつ「問題の解決」に役立ったのである(笑)

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