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2010年9月27日 (月)

彦坂尚嘉さんへの返信と解説

S_9030208
話題にするのが遅くなりましたが、彦坂尚嘉さんのブログにまたしても取り上げられてますね・・・

糸崎公朗さんの真摯な思考(加筆2校正1) [アート論]

あちらのブログに返信しようかと思ったんですが、このブログの読者への「解説」も兼ねてこっちで記事にしてみます。

糸崎公朗さんの顔写真です。
糸崎さんには、私のマキイマサルファインアーツでの搬入搬出で助けていただいて、深く感謝しています。

こういうふうに、近しい人の顔をブログに掲載して分析することは、褒めるにしろ貶すにしろ、あまりやる人はいません(ぼくもやりません)。
ぼくはこれまでも何度か彦坂さんのブログに晒されながら分析されていて、「糸崎さんはあんな失礼なことされて平気なんですか?」と心配してくれる友人もいるのですが、ぼくはもうそういうもんだとあきらめて(笑)おつきあいしています。
そもそもぼく自身も議論好きで、批判を厭わず、『唐沢俊一検証blog』なんかも面白がって見てますから、そういう自分が他人から批判されたり検証されたからといって、それを嫌がってたら辻褄が合わないわけです。
それで最近は彦坂さんに限らず、ネット上の匿名の意見であっても、自分に対する批判はありがたいものとして受け止めることにしてるのです。

この写真は、搬出時の集合写真の中から切り出したものです。集合写真を撮ったのは糸崎公朗さんで、セルフタイマーによる自動撮影です。
切り出してみると、流通している一般的なイメージとしての、やさしい糸崎公朗さんとは、ずいぶんと違う顔をしています。
何よりも眼が鋭く、口元も締まっていて意志的で、凶暴で、傲岸不屈、自尊心に満ちています。

まぁ、これは写真を撮ったらブログに掲載されるだろうと思って(笑)そういう顔をしたに過ぎません。

凶暴ではありますが、しかし軍人の顔ではないし、憲兵や警察官の顔ではありません。
神官や牧師の顔ではないし、哲学者や思想家、インテリゲンチャの顔でもありません。
糸崎公朗さんの顔は、芸術家の顔で、しかも画家の顔をしています。彫刻家ではないし、写真家でもないのです。アウグスト・ザンダーというドイツの写真家が「農民」「熟練工」「女性」「階級と職業」「芸術家」「町」「Last People(ホームレス、退役軍人、など)」と7つのセクションに分けて撮影していますが、その中の「芸術家」の顔写真に類似している要素があるのです。

デュシャンによると「画家のようにバカ」という言葉が昔からあって、そういう類なのかもしれません・・・
しかしぼく自身は「画家」を志して挫折した経緯があります。

こういう判断は《言語判定法》という、言葉をこの画像に投げかけて、その木霊(こだま)を取る形で判断しています。その判断には彦坂尚嘉の私的な記憶の集積が反映しているので、客観的な無名性による判断ではなくて、観測している主体である彦坂尚嘉のあくまでも私的な判断なのです。

ぼくはいちおう「構造主義」を理解してるつもりであって、だから「言語」がなんであるかも、その意味で理解してるつもりでいます。
しかし、彦坂さんがおっしゃるように「言葉を画像に投げかけて、その木霊(こだま)を取る形で判断する」という方法論は他に聞いたことがないし、その《言語判定法》に同意した第三者というのも知りません。
つまり彦坂さんの《言語判定法》は、何ら客観性のない、誰も理解できない主観的な手法で、常識的には(本人が自称してるように)キチガイの世迷い言として片付けることもできます。
しかし彦坂さんは実際にはキチガイではないわけで、とりあえず面白そうだし判断を「保留」してるのです。

その《言語判定法》を使って彦坂尚嘉の私的責任による人相分析をしてみると次のようになります。

《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第1次元》のデザイン的人格

《象徴界》の人格
プラズマ人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間であって、
シニフィアン(記号表現)的人間ではない。

『真実の人』

みなさんに解説すると、ここで示される《想像界》《象徴界》《現実界》は本来は精神分析医のジャック・ラカンによって示された概念ですが、彦坂さんの言う《想像界》《象徴界》《現実界》は、実はラカンの概念をベースにしながらも、そこから大きく外れた独特の概念になってるようです。
ぼくはラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》は、斉藤環さんによる入門書『生きのびるためのラカン』を通してしか理解してませんが、これによるとラカンの《現実界》は「人間には見ることも理解することも不可能なレベルの世界」を指しています。
ですのでラカンの考えに従うと「《現実界》の眼で」という言葉自体が成り立ちません。
またラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》はそれぞれ別の3つの世界があるのではなく、一つの世界の3つの様態(あるいは側面)を指しているので、「《象徴界》の人格」という言葉も成り立ちません。

だから彦坂さんの《想像界》《象徴界》《現実界》は、ラカンの概念の応用であり、そこから離れた独自のものです。
これについては彦坂さんのブログでたびたび解説されてるのですが、ぼくには何となく分かる気がするだけで完全な理解にはなかなか至りません。
ついでにいうと、ぼくは彦坂さんの《想像界》《象徴界》《現実界》は、ラカンのいう《想像界》をさらに3界に分けたものではないかと仮に想像してるのですが、本人には否定されるかもしれません(笑)

昆虫写真も撮っておられるので、昆虫が好きな養老孟司さんのように《第6次元 自然領域》の人格なのかと思っていたのですが、顔写真を《言語判定法》で分析してみると《第1次元 社会的理性領域》の人格でした。これは意外であると同時に納得のいく分析結果でありました。

字義通りにいえば、ぼくは「遅刻」が多いので、社会的理性は弱いでしょう。
それが理由で大学卒業後になったサラリーマンも、1年ちょっとでやめてしまいました。

糸崎公朗さんとは何度も徹夜をご一緒していますが、《第6次元 自然領域》の人物は徹夜はやらないのです。つまり徹夜をじさない性格は、《第6次元》ではなくて《第1次元》のものなのです。

徹夜するのはアーティストなので時間が不規則だから・・・と思ってましたが。
社会性のある人は明日の社会生活に備えて徹夜をせず、だらしなく自然にまかせた人が徹夜でおしゃべり・・・というふうに自分には思えてしまいます。

そして糸崎公朗さんは味覚のセンスが私なんかよりも良い方で、一緒に美味しいレストランに行くと、率直で適切な反応を口にしてくれる楽しい人なのですが、これも《第1次元 社会的理性領域》の人物であると分かると、納得がいきます。なぜなら料理というのは《第1次元 社会的理性領域》のものであるからです。《第6次元 自然領域》の人は野蛮で、味覚も自然主義で、料理という人工性を理解できないのです。《第1次元》、つまり《1流》の人でないと、料理を理解し、楽しみ、語る事はできないのです。糸崎公朗さんは、すぐれて《1流》の人物なのです。

やせの大食いで食いしん坊なんですね・・・特にグルメというわけではなく、普段も「サイゼリヤ」とかろくでもないところでしか食べてないですが、美味しいものは普通に美味しいと思います。
しかしいろんな味覚を詳細に比較検討したり、自炊も適当なので、ぼくより味覚レベルの高い人はたくさんいるでしょう。
しかし、料理が社会的理性の産物だということは、分かる気がします。
例えば、とれたての野菜をその場で丸かじりすると「自然の味」がして美味いようですが、実は野菜は人工的な品種改良の産物です。
また、新鮮なお刺身がいくら美味くても、生きてるマグロにそのまま齧り付いても美味くはないでしょう。
原始の人間にとって、全ての食材は「自然のまま」提供されてますが、「このようにもっと美味しくなる」という操作を加えたものが「料理」であり「文化」であると言えるかもしれません。
それは芸術にも共通していて、ぼくは先日、大宮の『盆栽美術館』に行ってきたのですが、盆栽というのは元の自然(植物)に対し「こうすればもっと美しくなるのに」という操作を加えるから「芸術」になるのだと理解しました。

もう一つ意外なのは、《象徴界》の人格を持っておられる事です。最近はずいぶんと読書をなさっておられますが、その辺も納得できる分析結果であります。

みなさんに解説すると「象徴」には「儀式・儀礼」といった意味と、「言葉」や「言葉の連鎖」といった意味があります。
ということで考えると、ぼくは一般的な「儀式・儀礼」が苦手で、どうも馬鹿馬鹿しいと思ってしまうのです。
その意味で社会性が無いとも言えるし、そういうところで哲学者の中島義道さんにシンパシーを感じるのです。

一方でぼくは「言葉」や「言葉の整合性」の奴隷であって、「言葉に対する裏切り」を激しく嫌う傾向があります。
そこも中島義道さんに同調するのですが、象徴的な「儀式・儀礼」は時として「言葉の内実」を伴わない「言葉の整合性」のない「言葉に対する裏切り」となり、それで嫌悪するところがあります。
もちろん、ぼくと中島義道さんでは「頭のレベル」が違うし、だから「師匠」として倣うことは早々に挫折してしまいました(笑)
読書も遅ればせながらするようになって、しかも読むのが遅いので、買いかぶられても困るものがあります・・・

もう一つの驚きは、プラズマ人間であるという事です。つまり新しい現代の人格であって、その辺が、なかなか私は見落としていたのですが、実際にデジタルカメラのウオッチャーでいらして、プロとして批評を連載なさってておられることのも、納得できる分析結果でありました。

「プラズマ」というのは文明の発展段階を示した彦坂さん独自の用語で、分かりやすくいえば現代のパソコンやケータイやネット社会に上手く適応できた人が「プラズマ人間」で、時代に取り残された頑固な堅物が「個体人間」です。
実はぼくはデジカメの導入は決して早いほうではなく、しばらくのあいだ「あんなのは馬鹿馬鹿しい」とパソコン共々否定してました。
というのも、ぼくは「フォトモ」をはじめとする「自分が考えた新しいもの」が好きな反面、「他人の考えた新しいもの」が好きになれなかったのです。
それに「デジタル時代の新技術」は、自分がこれまで開発してきた「アナログによる新技術」を否定するものであり、そこもしゃくに障りました。
しかしデジカメもパソコンも、試しに使ってみたらなかなか便利で、デジカメもカメラに違いはなくカメラオタク的愛情の対象物にもなり、自分なりにデジタルならではの新技術を開発できることもわかり、現代に至る感じです。

しかし、携帯電話については、これをいまだに持つことを拒否してるのは、それが「言葉に対する裏切り」になるからですね。
携帯電話の登場によって、人々の「言葉」の使い方のマナーが非常に悪くなった。
マナーというのは儀礼的な意味ではなく、「言葉の整合性」がないがしろにされるようになった、ということです。
ですから自分が携帯電話を持つことは我慢ができないし、それは明確な自己否定に繋がります。
ただ、最近はそうも言っていられないようなので、「あきらめて」携帯電話を買おうとは思っています。
「あきらめる」というのも最近試してることで、彦坂さんともいろいろなことを「あきらめる」ことでおつきあいが可能になってるわけです(笑)

最近、糸崎公朗さんのブログで、「科学と宗教」という長文のシリアスな文章を書かれています。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/
その最後が、次のようなものでした。

宗教も、科学も、芸術も、その本来の目的は「認識の外側」へ開かれている、ということではないかと思うのです。しかしそれは理想論であって、ぼくのように対して頭のよくない凡庸な人間は>>「サル知恵」でどうにかしなければならないわけです(笑)。

彦坂尚嘉の《言語判定法》を使った人格分析でいえば、まず、糸崎公朗さんは凡庸ではないし、「サル知恵」ではないのですね。

「サル知恵」というのは自戒の意味もあって、そうでもなければぼくはすぐ調子に乗ってしまうのです(笑)

問題があるとすると、《1流》であることです。《1流》というのは《社会的理性領域》であって、あまりにも社会的理性領域が強くて、非合理なものや、価値の多様性を理解できないのです。
彦坂尚嘉的に言えば、世界はⅠ00次元のディメンションの重層によって成立しているので、一つのことがらについても、Ⅰ00通りの理解や解釈があるのです。糸崎公朗さんが議論している哲学や宗>教そのものが、実は100次元の意味の重層によって成立しているのですが、糸崎公朗さんはそれを《第1次元 社会的理性領域》だけで切って理解しようとする還元主義の論を進めておられる。
それは無理なのです。

彦坂さんのいう《1流》も《100流》まであるので(笑)、一般的な「一流」とはニュアンスが違います。
思い切り意訳してみると、ぼくの性格が一面的で「硬い」「堅物」ということでしょうか?
確かに、当該記事のコメント欄のやりとりも、読み返すと我ながら「硬い」ような気がします(笑)
それと「還元主義」といわれれば、明確にそうですね・・・
これは高田明典さんの影響が大ですが、高田さんは「科学」や「現代思想」を「道具」として捉える見方を教えてくれました(本を読んだだけですが)。
まぁ、ぼくはあまり頭がよくないし、そうすると「考える道具」はシンプルな方がいいので、だからなおさら還元主義になるのだろうと思います。

ただ、ぼくは芸術という「非合理なもの」を扱ってるつもりだし、実のところ特定の宗教に属してはいないものの「無宗教」ではないのです。
ですからいってみれば、あくまで「非合理なもの」に接近するために、シンプルな道具(還元主義)を使っているつもりです。

ぼくの「還元主義」は「思考の整理法」でもあって、つまりパソコンのデスクトップにフォルダを作るのと同じです。
ぼくが「誰も宗教から逃れることはできない」といったとき、「宗教」というフォルダをとりあえず作って、その中に全部のものを入れます。
さらに「宗教」フォルダの下の階層に、「科学」とか「無宗教」とか「キリスト教」とか「芸術」とか新たなフォルダを作り整理します。
そうやってキッチリ整理すると、そのうちどのフォルダにも収まらない要素が必ず出てきて、それが「非合理なもの」だったりするかもしれません。
また、全てのフォルダは暫定的に設置されたもので、整理法も一つとは限らないでしょう。

しかし彦坂さんの《言語判定法》や《100次元アート》などの複雑怪奇な分類法は、単純な「還元主義」とは異なるようで、また別の理解の仕方があることは検討しなければいけません。
ちなみに、彦坂さんの実際のパソコンのデスクトップを見たことがあるのですが、フォルダがまったく整理されず、散らかり放題だったのが印象的でした(笑)
「これで仕事ができるのか?」と思いましたが、独特の仕事の仕方があるのかもしれません。

糸崎公朗さんは、自らの《1流》性を理解しないで生きて来ておられるように思います。《第1次元 社会的理性領域》である人格なのに、《第6次元》的な直接性に依拠する傾向があるのです。美術家としても、もっと多様で、《ハイアート》としての作品をつくりえる人物であると思います。

岡本太郎の『今日の芸術』に依拠すると、社会的理性を打ち壊したものが芸術だということになり、自分なりに行き着いたところが『非人称芸術』と『自然科学写真』になりました。
しかし最近は別の方法論として『反ー反写真』を試みていて、これはいってみれば「社会的理性」としての「写真」のあり方を意図的に学んで取り入れてるつもりです。

芸術を「非人称芸術」として見る見方は、間違っているのではなくて、正しいのです。つまり芸術には2種類があって、《人称芸術》と《非人称芸術》の2つがあるのです。この二つは、どちらも重要なのであって、糸崎公朗さんは、非人称芸術を選択したのです。
《非人称芸術》というのは、民衆芸術とか、フォークロア、大衆芸術に見られる構造なのです。原始美術にも見られる性格であって、人間の基本である動物としての存在に密着した芸術の基礎であり、基盤を有するものなのです。
つまり彦坂尚嘉の用語を使うと、《自然芸術》と、《文明芸術》の2種類があって、この2つはしかし相互に影響し合って複雑に入り組んでいるのですが、その混乱を、糸崎公朗さんは、「非人称芸術」として論じて来たのです。

間違ってはいないけど、見方が一面的だということですね。
これは最近、自分でも意識するようになって《文明芸術》も理解しようと試みてます。

ただ普通には、「非人称芸術」という民衆芸術や大衆芸術というのは《第6次元 自然領域》であるので、糸崎公朗さんの《第1次元 社会的理性領域》の人格とは、実は齟齬や矛盾があるのです。この齟齬や矛盾が、糸崎公朗さんの作品の複雑さを生み、魅力あるものにしているのです。同時に糸崎公朗さんを苦しめ、悩ませていると言えます。

おっしゃるとおり、齟齬や矛盾はあって、それは有利な点でもありますが、最近は特に大いに苦しみ悩んでいます(笑)
ぼくは意識的に「自然崇拝主義」なのですが、ぼくはこれまで自然の「よい面」しか見てこなかったのかもしれません。
しかし自然のよい面だけを見て自然を理解したと思うのは、現代人特有の浅はかさですね・・・
いや実際「自然からの逆襲」を受けてるし、恐ろしいことです(笑)

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