「写真」みたいな葛飾北斎
長野滞在中は路上三昧で、実家の近所をひたすら歩き回っていたのだが、「非人称芸術」だけじゃなくて「芸術」もちゃんと見なくちゃと最近思っていることもあって、小布施町の「北斎館」に行ってきた。
北斎館は十数年前のフォトモを始めたばかりの頃に見に行ったことがあるのだが、実のところぼくのフォトモは北斎の影響を多大に受けている。
いや北斎だけでなく、江戸文化全体の影響を受けているのだが、近代的な「個人」とか「自己」のようなベットリと、ヌットリとしたヒューマニズムではなく、なんというかちょっと突き放したようなドライな人間観がぼくの感覚にフィットしたのである。
つまり、ぼくが好きな浮世絵でいうと北斎とか国芳の表現というのは、人間に愛情を注ぎながらも、それはドライな観察者といった感じで、だからその影響を受けたぼくは、人間をミニチュアとして表現する「フォトモ」という技法に至ったといえるのだ。
まぁ、それはともかくとして、現在のぼくは「フォトモ」のような「反写真」とは別モードの「反ー反写真」、すなわちまっとうな「写真」の視点で路上スナップを撮っている。
それは「非人称芸術」のいわば前提となる「芸術」をあらためて掘り下げる試みでもあるのだが、その一環としてあらためて「芸術」としての北斎を鑑賞してみたのだ。
それで気づいたのは、北斎の浮世絵が、きわめて「写真」的であることなのだ。
北斎の浮世絵は、絵であり版画でありマンガ表現で気でありながら、まるで「写真」のようなのである。
ぼくが北斎観に言ったときは『諸国瀧廻り』のシリーズが展示されていて、ネットで検索したら画像がアップされていたので、元のサイトから以下転載させていただくことにする。
これらを見てあらためて気づくのは、建物や人物などのオブジェクトが四角い画面で切れていて、そこが極めた「写真」的なのである。
実はぼくはこのような「オブジェクトの一部を画面で切る」ということができなくて、それで「オブジェクトを丸ごと切らなくて済む」フォトモやツギラマに到達したのであり、その意味では北斎先生にまったく従っていないのだった。
しかし、「もう一つの人格」として「写真」に回心した自分としては、「写真家」としての葛飾北斎のワザが、とてもよく理解できる(気がする)。
「オブジェクトの一部を画面で切る」のは、同時に「オブジェクトを画面構成の要素として利用する」のと同じことであり、ことふたつのワザはぼくの最近の「反ー反写真」でもっとも意識してることなのだ。
この『諸国瀧廻り』を見てると、標準レンズ50mmより望遠の100〜200mmくらいのレンズが付いたカメラを北斎が構え、目の前の風景を「切り取った」ふうに見えてならない。
これがもし、近代以前の視点であったならば、必要なオブジェクトは画面の外でカットされず、全てが画面の内側に集められて描かれていたはずである。
そこを冷徹にカットし、画面構成の素材の寄与する視点は、明らかに「写真」的だというように思えてしまうのだ。
また、北斎の描く人物はまさしく「写真」のように、一瞬の姿がさりげなく捉えられている。
これが西洋の写実絵画だと、人物がいかにも長時間そのままのポーズでいたかのような堅い姿勢で描かれたりするのだが、北斎の版画に描かれた人物はさりげなく生き生きと動いているかのようなポーズで描かれている。西洋の写実絵画は、モデルにポーズを撮らせて長時間露光した写真のようだが、それに対して北斎の目は、まさに高速シャッターで被写体を捉える現代のカメラと同等の機能を備えているのだ。
北斎の存命中(1760年〜1849)はヨーロッパに写真は存在したが(フランス人のニエプスが写真術を発明するのが1816年)、しかし当時の感光剤は露光に数分を要するため、当時の写真に写る人物はいずれもぎこちなくわざとらしいポーズを撮っており、その意味では「絵画的」であった。
だからこそ、北斎に限らず日本の絵描きたちの眼は、「写真」に先駆けて「写真」的だったのだと言えるのだ。
というようなことは、これまで専門家によってさんざん言い尽くされてるのかもしれないが、まぁとリア絵図は自分が気づいたという新鮮な気持ちで書いてみた次第である。
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コメント
ぼくも北斎は大好きですが花鳥画と漫画ばかり見ていたので枠の中での切り取り方には気がつきませんでした。
北斎の絵が写真ではまねできないのは物理的な写実ではなく、生身の人間の脳が捉える感覚的な写実だというところではないかと思います、つまり、デフォルメですね。
観る人が誇張していることに気がつかないけど大胆にデフォルメしているところが天才だと思います。
時代によってまるで違うので一律には比較できませんが、絵画の空間の切り取りは西洋絵画と日本の絵画とではずいぶん違いますよね、これって作者の視覚的世界の違い(当然文化的違いを反映している)そのままなのですごく興味があるのですが、端的な違いは日本の絵画は鑑賞者の空想で補う空間を意識しているところだと思います。
それで何が違うかと言うと、西洋絵画には「動」が感じられません。印象派の画家はひたすら筆の勢いで「動」を表現しようとしてモネは達人技で成功してますが、ルノワールは絵具の混色で汚い色の絵を描いてしまった、と思いませんか?
デュシャンはそれに苦心してマルチストロボ画像みたいな作品を描いたようにも思えます。
そういうところにこそ、キリスト教的な時間を最初にゼンマイを巻いたときに決ってしまったという決定論的な感覚と、日本のアニミズム的というか温帯モンスーン地帯の気まぐれな天候でありながら生態系は豊穣な地域で育まれた文化の感覚的な差があるように思うのですが、どうでしょうか?。
投稿: 遊星人 | 2010年9月24日 (金) 22時21分
北斎の版画を日本独特の文化として捉えて語ることはいくらでもできるでしょうし、ぼくもこれまでそうしてきました。
しかし今回あらためて北斎を見て、それが「写真」的であること、すなわち西洋に先駆けて西洋的であったことに気づいたのです。
例えばブレッソンのスナップ写真には明らかに「動」の表現が取り入れられ、それが「写真」のスタンダードな方法論にまでなっていますが、その源流がなぜか北斎の版画にありありと見出すことができて、今さらながら驚いてしまったのです。
デフォルメということでいうと、いくら実物に忠実に写実的に描いても、立体が平面に置き換わった時点で「デフォルメ」されており、「全ての絵画はデフォルメされている」と考えることができます。
その意味で言うと、「写真」であってもデフォルメはされていて、そしてぼくは「反ー反写真」では「写真」に特有のデフォルメの方法を取り入れ、オブジェクトを切り取り画面構成してるのです。
そして、そのような「写真」特有のデフォルメの方法論を、どういうわけか北斎が「写真」に先駆け実践してのです。
それは遊星人さんがおっしゃるように、日本人特有の感覚の産物なのかもしれませんが、これについてはまだ勉強不足ではっきりしたことは分かりません。
しかし自分の知識の範囲で考えると、北斎の視点は対象物をドライに捉える客観的な視点で、それはキリスト教絵画を頂点とするヨーロッパにはなかったものなのかもしれません。
ところがカメラというのは対象物をドライに捉える機械でもありますから、後の写真家が意図的であれ無意識的であれ、北斎の方法論に倣ったのは当然だと言えるかもしれません。
また、江戸自体の木版画は庶民が楽しむための量産品で、それが現代の「写真」のニッチ(生態的地位)と似てるかもしれません。
いずれにしろ「写真とは何か」を考える上で、北斎をはじめとする浮世絵は重要な研究素材ではないかと思います。
投稿: 糸崎 | 2010年9月26日 (日) 10時53分
北斎は司馬江漢(北斎より100年ぐらい前の人)の西洋絵画技法を勉強して透視遠近法もよく知っていたみたいですね、でも、あまり活用していないようです。
改めて手元の動物画を集めた画集を見てみると、動いている動物は大胆な斜めの構図で描かれていますし、例の富士山シリーズも近景の波やら職人が切っている(?)木材やら道とかが画面上に斜めの軸を作るように描かれているものが多くあります。
ブレッソンの場合も動く人物が斜めになっている状態や、複数の人物が斜めに配置された撮り方をしているのが多いように思えますし、中にはカメラが水平に構えられていないのもある(笑)
ひょっとしたら、この構図は透視遠近法とは相容れないからかもしれない・・・と思ったのですが、どうやら、西洋絵画でそれが動的表現の壁になっていたことは近代絵画史ではよく知られていることみたいですね。
投稿: 遊星人 | 2010年9月26日 (日) 13時55分
>ひょっとしたら、この構図は透視遠近法とは相容れないからかもしれない・・・と思ったのですが、どうやら、西洋絵画でそれが動的表現の壁になっていたことは近代絵画史ではよく知られていることみたいですね。
これについてはぼくに知識はないので分かりません・・・
しかし北斎の時代の遠近法は感覚的なもので、深く考えないから構成的でスピード感があるのかもしれません。
ブレッソンの時代の写真術も、遠近法はカメラが考えてくれるし、だから構成やスピードに神経が行き届くのかもしれません。
ともかくソンダクの『写真論』では、写真の持つスピード性が強調されてましたが、西洋の油彩画より日本の浮世絵はスピード感がはるかに優り、それで感覚が共通してるのかも・・・などと思ったりします。
投稿: 糸崎 | 2010年9月27日 (月) 02時13分