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2010年9月 7日 (火)

科学と宗教

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(*ゴキゲン過ぎるお二人ですが、記事とは関係ありません)

以前の記事「呪術・宗教・技術」のコメント欄でschlegel | さんに返信しようとしたら、長くなりすぎた上に脱線しすぎたようなので、あらためて記事にしてみました。
というか、コメント欄の返信がベースなので、全部ですます調です(笑)。
今後もこういうことがあるかもしれないので、記事はである調ではなく、ですます調で書いた方が良いかもしれません。

ぼくは「科学とは呪術である」と定義しましたが、科学をベースとした現代思想では「○○とは××である」というような一義的な定義はナンセンスとされています。
あらゆる定義は「目的」よって異なり、あらゆる「目的」を離れた純粋に一義的な定義は意味がない、というのが「科学的」な考え方です(高田明典さんの受け売りですが)。
だからぼくが「科学は呪術である」と定義したのは、以前のやりとりでもそうでしたが、「科学とニセ科学を区別する」という目的のためでした。
この場合、「ニセ科学は科学と異なる呪術に過ぎない」と定義するより、「科学は呪術であり、ニセ科学は効果のないニセ呪術に過ぎない」と定義した方が、「ニセ科学に騙されない」効果が高いと考えたわけです。
ですから「科学は呪術である」という定義はどんな場合にも適用できるわけではなく、「目的」が異なれば無効になる場合もあるのです。

さて、ぼくは一方では「人は誰でも宗教から逃れられない」という定義もしましたが、その目的をあらためて考えると自分自身が「生きる目的を見失わないため」だったのではないかと思います。
まず、人間が生きて自分が存在するということは、デカルトが「我思うゆえに我あり」といったとおり、人間にとって「認識の内側」の問題です。
しかし「なんのために生きるか?」という目的や意味は、「認識の内側」だけに収まらない、「認識の外側」へと開いた問題意識だといえます。
そして、そのように「認識の外側」へ開いた問題を扱うのが「宗教」だとすれば、すでに多くの前例がありますから、それに照らして自分の「生きる目的」について考えることが出来ます。
また「生きる目的」は誰にとっても考えなければならない問題ですが、それを一律に「宗教」というふうに定義して、「人は誰でも宗教から逃れられない」と考えれば、あらゆる人びとと自分との比較を一律の基準で比較することが出来ます。
もちろんこの「基準」はとりあえず仮に設定されたもので、絶対のものではなく、これも科学的思考に基づいてるつもりです。

「人は誰でも宗教から逃れられない」のだとすれば、科学もまた宗教の一形態だと考えねばなりません。
まず一般に、科学は「認識の内側」のみを扱う学問として、「認識の外側」を扱う宗教から分離したとされています。
しかしいかに科学者といえど、自分は無から生まれ、死んで無になってしまうことを知っています。
自分が生まれる以前に自分が参加しない歴史の積み重ねがあり、自分の死語も自分の歴史が続くであろうことを知っています。
「認識の内側」のみを扱う科学者は、「認識の外側」の存在を知っているのです。
これを踏まえていい方を換えれば、科学とは「認識の外側」の問題を「認識の内側」の問題に変換して扱う学問である、ということになります。
そして、科学は「認識の内側」の問題を媒介として、結局は「認識の外側」を扱っているから、やはり宗教の一形態だと考えることが出来るのです。

例えば「進化論」ですが、人類が存在しなかった恐竜時代は、誰にとっても「自分が参加する以前の歴史」であり「認識の外側」の問題です。
しかし科学は、「認識の外側」である過去の時代を、痕跡(恐竜の場合は化石)という「認識の内側」の問題に変換して扱うわけです。
基本的に科学は「認識の内側」としての「化石」を観測しますが、しかしそれだけではとどまらず「認識の外側」としての「恐竜の想像図」を描き出します。
だからティラノサウルスとかステゴザウルスなどの恐竜の想像図は「宗教としての科学」の「宗教画」といえるのかもしれません(笑)

科学が宗教の一形態だとすると、科学にとっては二つの「神」がいるのだとぼくは思います。
一つは、世界が存在する原因としての「神」で、それは完全に「認識の外側」であり、基本的に科学では扱うことのできない問題です。
例えば、人間にとって人間自身は無前提に存在し、地球も宇宙も無前提に存在し、その「究極の原因」を人間は知ることは出来ません。
これを精神分析医のラカンは「現実界」と表現しましたが、人間の「認識の内側」の小さな世界は、認識不可能な「現実界」に裏打ちされ、それをぼくは「神」と表現したのです。
しかし完全に「認識の外側」としてのこの「神」を、科学で扱うことはありません。

もう一つ科学にとっての「神」は、「人類の知識の集積」としての神です。
いかに天才科学者といえど、ゼロから新しい理論を生み出すことは出来ず、先人たちによる知識の集積を元に、自分独自の成果を見出します。
最近は、トリケラトプスが実は別の恐竜の子供に過ぎなかった、という新説が話題になってますが、それも「人類の知識の集積」の上に明らかになったことです。
「人類の知識の集積」はただの積み重ねではなく、膨大な「言葉」の関係性による網の目のようなもので、「科学者個人」の知恵を大きく超えています。
ラカンはこれを「象徴界」と名付けましたが、象徴=言葉は個人が話すものでありながら、個人を大きく超える、人類史以来の言葉の集積でもあるのです。
言葉による「人類の知識の集積」は、「個人」としての人間を大きく超える一種の「非人称的人格」であり、これを「神」として信奉するのが宗教としての科学ではないかと、ぼくは思うのです。

ですからそのような「科学の神様」を冒涜したり穢したりすると、科学者は怒るわけです(笑)。
例えば、アメリカで進化論を教えずに理科の教科書に「聖書の神による世界創造」のみを載せることに科学者が反対するのも、それが「科学の神様」への冒涜行為だからです。
「聖書の神による世界創造」は、「科学の神様=人類の知識の集積」の中ではとっくに淘汰された説であり、そのような「淘汰の歴史」を否定することを「神の否定」として科学者は怒るのです。

現代において科学的な進化論を認めないのは、キリスト教の中でも「聖書無謬説」を採用する一部の人びとです。
「聖書無謬説」は文字通り聖書の一字一句を「正しい」とする一派で、だから神様が全ての動物を作り、それらを支配させるために人間を作った、という記述を疑いもせず信じるわけです。
ところが、『新約聖書』を読んでみると、キリストは旧約聖書の律法をかたくなに守りながら、肝心の信仰がおろそかになってしまった「パリサイ人」を盛んに非難しているのです。
つまりそう考えると「聖書無謬説」はキリストが非難した「パリサイ人」ではないか?と思えてしまうのです。

『新約聖書』が面白いのは、それ以前の『旧約聖書』を肯定しながらも批判している点で、それが現在の科学の源流になったことは納得が出来ます。
キリスト教にしろ科学にしろ、「認識の外側」と対面する知的行為である点では共通てるようにぼくは思います。
しかしこれは大変に難しい思考であり、高度な知識と柔軟性が求められます。
ところが大多数の人びとは、そこまで頭がよくないので「認識の内側」のみで考えようとします。
「認識の内側」のみの世界をラカンは「想像界」と名付けましたが、これは誰にとっても日常的な、考えるのが楽な世界です。

人間にとっての新しい認識や知恵や知識は、認識の外側の「現実界」から言葉による「象徴界」を通じて認識の内側の「想像界」へもたらされます。
しかし「想像界」の中だけで閉じてしまった人びとにとって、もはや「認識の外側」からなんの流入もなくなり、従って考えることが楽になります。
そして、「パリサイ人」にしろ「聖書無謬説」にしろ、テキストの内容を絶対のものとして固定化することは、テキストを「象徴界」へと開かれたものではなく、「想像界」の中で閉じたものとして取り扱うことではないかと思うのです。
簡単に言えば、決まりを文字通り守っていさえすれば、「決まりについて考える」という必要がなくなり、その分だけ楽が出来ます。

人間は「想像界」の中で、「モノ」は「モノ」としてだけ扱います。
例えば「石」を「単なる石コロ」としてしか考えないのが「想像界」で、それに対し「石とは何か?」を考えるようになるとそれは「象徴界」へと開かれます。
なぜなら「石とは何か?」を考えることは、「想像界」の中で「石の定義」とされた「ひとかたまりの言葉」を、「人類の知識の集積」に照らして分解し再構成する行為だからです。
認識の内側の「想像界」では全てのモノが「形骸化」しているのだともいえるでしょう。
しかし「形骸」として現れたモノの「中身」とか「意味」とか「本質」を考えたりすると、それは「象徴界」に開かれたことになります。

「宗教とは何か」や「科学とは何か」を考える上で忘れてはならないのは、そもそも全ての人が科学や宗教がなんであるかを理解できるわけではない、ということです。
ぼくだってもちろん、科学がなんであるかを理解できているわけではありません。
ですから、デジカメやパソコンやエアコンなどのざまざまな「科学の成果」を、「想像界」の中で固定されたモノ=製品として認識します。
ところが専門の科学技術者は、製品というモノを「人類の知識の集積=象徴界」に照らして分解し再構成し、さらなる新製品を「想像界」にもたらします。

同じようにユダヤ教も、キリスト教も、仏教も、少数の「専門家」にとっての宗教は「象徴界」に開かれているのです。
ところが大多数の信者にとって宗教は、「想像界」の中で閉じたモノとしてしか理解されません。
だからどの宗教の教典も、信者が今ひとつ信仰を理解してくれないことを、一様に嘆いているのです。
宗教に対して「宗教は麻薬だ」とか「宗教は一種の思考停止だ」という非難がありますが、それは実はどの時代にも共通する「民衆」への非難であって、宗教そのものの非難には当たりません。

それではじめの「生きる目的」に話題を戻すと、宗教も、科学も、芸術も、その本来の目的は「認識の外側」へ開かれている、ということではないかと思うのです。
しかしそれは理想論であって、ぼくのように対して頭のよくない凡庸な人間は「サル知恵」でどうにかしなければならないわけです(笑)。

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思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

う〜ん、結構誤解が在るような気もするし、ぼくが糸崎さんの趣旨を読み切れていないような気もしますが、、

>宗教に対して「宗教は麻薬だ」とか「宗教は一種の思考停止だ」という非難がありますが、それは実はどの時代にも共通する「民衆」への非難であって、宗教そのものの非難には当たりません。

これは「非難」の意味で言ったわけではないのですけれどね、変な小理屈考えてるよりは思考停止のほうがずっと安らかなこともあるし(ちょうど今の僕がそうすべきであるように(笑))麻薬は麻酔としての効能も在るわけです。われわれずいぶんつまらないことに日々悩んだりもするわけで、禅の本とか読んでいると、そういうところから視点をずらすというのも一つの宗教の大きな役割ではないかと思います。
まぁ、ほんとのこというと、アメリカのロボット兵器対タリバンの自爆兵器みたいなNHKの番組みたあとだったので、どちらが良いと言う立場でもないですが、自爆するメンタリティには「麻薬」的要素も必要とされてるのかなぁと思いながら書いてたかもしれません。
僕によく分からないのは、「宗教そのものの非難」と言われてるときの「宗教そのもの」ってなんだ、ということでして、僕の考えではどんなに堕落しているといわれても民衆が信じているのが宗教の実態ないしは実在であって、それは本来の宗教とは別の物なのだといわれても、なんだかピンときません。

>ですからそのような「科学の神様」を冒涜したり穢したりすると、科学者は怒るわけです(笑)。
>例えば、アメリカで進化論を教えずに理科の教科書に「聖書の神による世界創造」のみを載せることに科学者が反対するのも、それが「科学の神様」への冒涜行為だからです。
>「聖書の神による世界創造」は、「科学の神様=人類の知識の集積」の中ではとっくに淘汰された説であり、そのような「淘汰の歴史」を否定することを「神の否定」として科学者は怒るのです。

ここは事実と違う認識をされているようなので、立場上反論しておきます。
問題になっていたのは、アメリカの生物の授業で、生物が進化によって多様性を獲得したというのも一つの考え方だが、知性を持った何者かが全てを想像した可能性もあると教えよとされたことで、
「科学」の教育現場で科学的根拠のない思想を一つの考え方ないしは議論の題材として提示せよ、という圧力に多くの科学者が「当惑」したのです。
ところで、ぼくは経験的には「怒る」は最悪の思考停止状態だと思っていて、怒りをもうすこし「まし」な思考へ方向転換してくれる方法も宗教の提示する物ではないかと考えたりもします。いや、実態は全然出来なくていつもイライラしてますが(笑)

>現代において科学的な進化論を認めないのは、キリスト教の中でも「聖書無謬説」を採用する一部の人びとです。

みんなそう信じていたのが、その時の大統領もそういう説を採用していたのでショックが大きかったのです。

それとずっと思っているのは、呪術ということばには「まやかし」「インチキ」という意味があるので、世界宗教以外の宗教、や、科学、を呪術である、といえば当然反発を受けることですね。「科学は呪術である」と言うステートメントは現代科学が複雑化しすぎて、専門外の人には呪術と科学の区別が実効性が検証出来る場合以外には判別できなくなっている、ことを分かってもらうためのアナロジーとしては面白いと思いましたが、少なくとも僕の周囲の人間にはそこまで理解されませんでした(笑)

投稿: schlegel | 2010年9月 7日 (火) 23時24分

と、書いてから、itozakiさんの文章を読み返してみると(最初から読めと(笑))象徴会とか想像界とか苦手でよく分からないですが、どうやら、コアな科学がコアな科学者にしか分からないようにコアな宗教もコアな宗教家にしか分からない、と言われいるようだとゆうところまで分かってきました。僕はやっぱりアタマが固くて、科学は定義により小理屈だけど、宗教はいくら理論武装しても信じてもらえなければしょうがないと思ってるので、そこが正しいのかどうかはあまり納得できてるわけでもないですけどレトリックとしては面白いですね。ただ前提があって成立するといういみではむしろ芸術でそういうことがありそうだとも思いました。

投稿: schlegel | 2010年9月 8日 (水) 05時45分

>う〜ん、結構誤解が在るような気もするし、ぼくが糸崎さんの趣旨を読み切れていないような気もしますが、、

ぼくは実のところ返信にかこつけて、自分のいいたいことや思いつきを書いてるだけなので、議論もしくは対話としての精度が低くなっているのは申し訳なく思ってますw

>これは「非難」の意味で言ったわけではないのですけれどね、変な小理屈考えてるよりは思考停止のほうがずっと安らかなこともあるし(ちょうど今の僕がそうすべきであるように(笑))麻薬は麻酔としての効能も在るわけです。

「非難」はぼくの方の意図ですね。
宗教を麻薬的効果として利用することに対しての非難です。
「思考停止」が安らかなことは認めますし、必要なことでもありますが、しかしそれだけではダメだろうと思います。
少なくともschlegel|さんは「思考停止」を対象化して語ることが出来ますが、その概念を知らずに思考停止してる人も多いだろうと思います。

>ここは事実と違う認識をされているようなので、立場上反論しておきます。
>問題になっていたのは、アメリカの生物の授業で、生物が進化によって多様性を獲得したというのも一つの考え方だが、知性を持った何者かが全てを想像した可能性もあると教えよ>とされたことで、「科学」の教育現場で科学的根拠のない思想を一つの考え方ないしは議論の題材として提示せよ、という圧力に多くの科学者が「当惑」したのです。

schlegel|さんに言われて検索してこのページを見ました。
http://www.bookjapan.jp/search/review/200809/higashi_michio_01/review.html
これによると、「聖書無謬説」の信奉者ははじめは聖書をたてに進化論を否定しようとしたのですが、科学者に論破されてしまった。
そこで次に論法を変えて、「知性を持った何者かが全てを想像した可能性もある」ことをたてに、進化論を否定ではなく「相対化」してしまった。
これが面白いのは、schlegel|さんが以前書かれた「科学は絶対的な正しさを認めない」という科学的立場にかえって合致してる点です。
科学的に考えれば、トリケラトプスの図は単なる想像図であり、トリケラトプスも想像の産物で、目の前に実在するのはあくまでも「化石」でしかないわけです。
つまり、現在科学で採用されている進化論は、後に間違いだとして否定される可能性が十分あり、それはまさに「人類の知識の集積」が指し示しています。
ですから「科学無謬説」というのは科学的に間違いであって、それを学校で教えること自体は良いことではないかと思います。

>それとずっと思っているのは、呪術ということばには「まやかし」「インチキ」という意味があるので、世界宗教以外の宗教、や、科学、を呪術である、といえば当然反発を受けることですね。

「科学無謬説」を否定する科学的立場だったら、「科学なんてまやかしでインチキ」くらいでちょうど良いと思いますw

>どうやら、コアな科学がコアな科学者にしか分からないようにコアな宗教もコアな宗教家にしか分からない、と言われいるようだとゆうところまで分かってきました。僕はやっぱりアタマが固くて、科学は定義により小理屈だけど、宗教はいくら理論武装しても信じてもらえなければしょうがないと思ってるので、そこが正しいのかどうかはあまり納得できてるわけでもないですけどレトリックとしては面白いですね。

「科学無謬説」を批判する立場で考えると、科学もまたそれを信じない人びとには通用しないのだといえます。
そもそも「科学無謬説」が非科学的であることが、多くの人に信じてもらえてないようですし・・・

投稿: 糸崎 | 2010年9月 8日 (水) 10時11分

>議論もしくは対話としての精度が低くなっているのは申し訳なく思ってます
こちらこそ、糸崎さんのサイトで勝手なことを書いているわけでスミマセン。
誤解を恐れずに言えば、無謬というのが、論理的に整合性がある、と言う意味だとしたら僕も科学無謬説ですね。
科学が完全たり得ない、と言う場合にはいくつかの意味があると思うのですが、一つはたとえばユークリッド幾何学が平面を仮定することで成り立つことで、任意の面について言及していない(できない)と言う意味で不完全ですが、平面と言う限定の中では無謬といえるでしょう。二つ目はたとえば三体問題のように解けない事が証明されている問題があり、解けない問題があると言う意味では不完全とも言えますが解けないと言い切れる時点で古典力学は矛盾のない論理体型であるといえるでしょう。第三の点は問題の複雑性などの理由で未だ解決していない問題あるいはおそらく永遠に解決しないであろうと考えうる問題などがあります。
すでに起きた事は曖昧さの無い事実と考えられるのではっきりとした事が言えないのは不思議な気もしますが、犯罪の証明のようにほんの数日前に起きた事ですら立証することが難しいように、数千万年前に起きた事を正確に言い当てるのは未来の予測と同程度に難しいことです。トリケラトプスについては独立の種であるとされていたこれまでの見解が訂正されたというだけのことと認識しています。想像図とはまったく違う色だったり毛がふさふさしていたりしたかもしれません。ただ、ハッキリした事がいえないと言う事は何も言えない状態とは明らかに違うわけです。少なくとも化石に残されているような骨格形状を持ち、爬虫類や鳥類に近縁の祖先をもつ生物種が存在したであろうと言う事を僕は疑っていません。そして聖書無謬の人たちは「ハッキリした事が言えない」と言う言葉じりを捉えて恐竜のいた時代そのものが無かった「可能性」があるというのです。彼らは世界は数千年前に誰かに創られたと信じているらしいのです。そういう「可能性」を科学の時間に教えろ、といわれたら僕も相当悲しい眼をするとおもいます(笑)

投稿: schlegel | 2010年9月 8日 (水) 21時43分

まぁ程度の問題かなと思うのですが、いろいろ前提を疑ってみるのも大事、といっても常に全てを疑っていては何も構築出来ないしそもそも面倒くさいですからね、トリケラトプスの存在まで疑っていては、まぁ可哀想な人みたいになってしまいますし(笑)もっと疑いうるところでも言ってみるのはすごく勇気が必要だったりしますしね。

投稿: schlegel | 2010年9月 9日 (木) 07時20分

>ただ、ハッキリした事がいえないと言う事は何も言えない状態とは明らかに違うわけです。

核心はまさにここにあると思います。
太古の昔にトリケラトプスをはじめとする恐竜が生息したのか?ということは、直接的に確認しようがない以上、究極的にハッキリしたことはいえません。
実は昨日から今日にかけて映画「マトリックス」3部作を続けて見たのですが、この映画は現代のアメリカが舞台ですが、実はそれは人類を支配する人工知能(コンピューター)が作り出した仮想現実(マトリックス)で、生身の人間はカプセルに入れられたまま眠らされ、コンピューターの電源として利用されている、という設定です。
この映画が面白いのは、「マトリックスの設定はウソだ」ということが、誰もハッキリ断言できない点です。
分かりやすくいえば、夢のリアリティが極限まで高まればもはや現実と区別がつかなくなり、だから「現実が夢ではない」ということは誰にも証明できないのです。
哲学で「独我論」といわれる問題はこれに似ていて、もし世界に自分一人だけが存在し、他人を含めた客観世界が全て「主観的な幻」であったとしても、それを確認することはできないとされます。
また「世界五分前仮説」によると、「世界の全ては五分前に生成された」という説を誰も覆すことは出来ない、としています。
「聖書無謬説」の人たちが「世界は数千年前に誰かに創られた」と主張しても、同じく理屈によって覆すことは不可能です。
人間は五感を通して世界認識しますが、逆に言えば五感以外の情報を得ることが出来ないわけで、だからこのような仮説はいくらでも立てられます。
ですから科学的に厳密に考えれば考えるほど、何事もハッキリと断言できないのです。

しかし「何事もハッキリと断言できない」と断言することに、どんな意味があるのか?ということが肝心です。
「何事もハッキリと断言できない」ということが自明なことあっても、この問題にとどまることに意味がありません。
意味がない、というのは建設的ではなく、何も生み出すことはないだろうということです。
科学は何かを生み出すためのもので、そのための「目的」と結びついています。
そのために科学は「独我論」や「世界五分前仮説」を棚上げして、「目の前の問題解決」を優先して日々前進してるのだといえます。
ハッキリしたことはいえないが、何か言わないと「目的」が果たせないとするのが科学の立場です。

「聖書無謬説」の人たちが「世界は数千年前に誰かに創られた」と主張したら、科学の立場としては「その説を主張することの目的はなんでしょう?」と問わなければならないと思います。
もちろん科学者も「進化論」を主張するならその目的を明らかにしなければならないでしょう。
映画「マトリックスリローデット」ではメロビンジアンという名の人工知能(プログラム)が「理由こそ力の源、欠けば無力だ」といってましたが(笑)、理由=目的だとすれば「聖書無謬説」と科学の争点はそこにあるのではないかと思います。

投稿: 糸崎 | 2010年9月 9日 (木) 13時11分

科学はいろいろな観察事実から帰納法で前提を導いた上で演繹法で結論づけるのが常套手段だと思います。

演繹法の弱点は前提が正しいことが証明できないことなので、科学は新たな観察事実でひっくり返ります。

「聖書無謬説」は前提が無根拠に正しいのですから不屈です(笑)

投稿: 遊星人 | 2010年9月 9日 (木) 21時50分

僕もマトリクスは最初のしか見てないですが好きでしたし、トゥルーマンショー、グラウンドホッグデイや最近だとインセプションのようにアメリカ人は「意識」と「世界」の関係ににたいする関心が強いようですね。こういう発送には日本人の大人は比較的関心を示さないようなので残念だとも思います。僕自身も日本人の大人化が進んでいるらしくインセプションはもうすこし若い頃に見たら夢中になっただろうなと思いながら、渡辺謙も英語がだいぶ上手くなったねぇと変なところに感心していました。

さて(笑)娯楽や思考実験としては楽しいのですが、じゃぁ「世界五分前説」を精密に科学的に検討したいか、というとまぁあまり本気にはなれないのです。杞憂、という天が落ちてくるというあり得ない(非常に確率が低い)ことを心配するひとを揶揄する言葉がありますが、「世界五分前説」も「天地創造説」もその可能性を肯定する要素が少なすぎると考えられます。生態系を一変させうる小惑星の地球への衝突は数千万年に一度は起きると考えられていますから、杞憂、のほうがまだ心配する優先順位が高いでしょう。
理屈をこねてみましょう。「世界五分前説」を考えるなら、「世界10分前説」も考えなければならないし、神による「天地創造説」を考えるなら「フライングスパゲティーモンスターによる創造説」も考えなければならず、つまりこのように尤もらしさがが低くて、考えうる仮説というのは無限にあるわけです。それら全ての仮説の検証に一生を費やしたいとは思わないわけです。なので糸崎さんの仰るように、特定の説たとえば「聖書無謬説」を検討するにはそれが検討に値すると考える根拠、あるいは「信念」が必要で、それを学校で考えることを強制するのはよくない、と思うわけです。もちろん「予断を持たずに考える」ことはなにごとにも重要かも知れないのですが、それは教科としては生物ではなくて、哲学とか倫理あるいは宗教学が妥当であるかと思います。「科学哲学」っていう科目があってもいいですね。
さて進化論ですが、「地球上の生物が単一の共通祖先から進化した」ということは「科学的に」疑いようのないレベルで言い切れます。糸崎さんが13時11分に存在していたとしたらほぼ確実です(笑)。進化のディテールについは今は言えることが少ないですが、今後明らかになっていく部分も多いと思います。僕としては物理的な法則から進化をふくめた生命現象が説明できればとても面白いと思っています。わからんなぁと思いながらずっと考えてたことに整合性がみえてくる、のが気持ちよいのです、滅多にないですが(笑)宗教を信じる人はそこに精神の平安なり来世・現世利益なりを求めているのだと思われます(これは堕落組でしたっけ?)。科学を研究するひとにとってはそれが面白いから、だと思いたいです。いや、この世界でも進んでいる形骸化がアタマに浮かんでしまいまして言いよどみました(笑)

投稿: schlegel | 2010年9月 9日 (木) 23時33分

>「聖書無謬説」は前提が無根拠に正しいのですから不屈です(笑)
無根拠、というのがズルイ(笑)もう信じるしかないわけです。
>科学は新たな観察事実でひっくり返ります。
ひっくり返るのはとゆーのはかっこわるいので、
ブレークスルー、とかパラダイムシフトとよんで下さい(笑)

投稿: schlegel | 2010年9月 9日 (木) 23時41分

>遊星人さん
>「聖書無謬説」は前提が無根拠に正しいのですから不屈です(笑)

それに対し科学は「前提が正しいかどうかを問題にしない」からさらに不屈なのだと言えます。
「目的」さえ達成できれば、前提が間違っていたとしても構わないと考えるのが、科学です。
なぜ前提が間違っているのに「目的」が達成できるのかといえば、科学は「関係性」で成り立っているからです。

>schlegelさん
>さて進化論ですが、「地球上の生物が単一の共通祖先から進化した」ということは「科学的に」疑いようのないレベルで言い切れます。

これはいってみれば「疑いようのないことは実在する」という「実在論」です。
それに対してぼくは「構造主義者」で、構造主義は「関係論」であり、実在と思えるものは幻で、全ては関係の上で成り立つとする立場にいます。
マトリックスは最初のを見るだけでも十分ですが、構造主義が示す関係論を見事に視覚化してました。
仮想現実を構築するには、現実世界が関係性で出来ていることが理解できないと不可能で、だからあの映画は人間にとっての現実は実在ではなく関係性であることが示されているのです。
科学は前提の正しさ(実在)を問題としませんから、現実がマトリックス=仮想現実であっても構わないのです。

例えば世の中に新種の伝染病が蔓延したときに、「この世は仮想現実かもしれない」などと考察しても意味がありません。
例え現実がシミュレーションの世界だとしても、経験的に物理法則が働く世界であるならば、科学の実績に基づいて治療薬の開発をするのが科学者としての務めです。
物理法則は実在ではなく因果関係で、その先に科学者が果たすべき目的があります。
目的とは、「目の前の解決すべき問題」であって、病気の治療とか、新製品の開発とか、世の中便利になるとか、平和になるとか、誰もが幸福になるとか、そういうことです。
トリケラトプスの実在を科学が仮定するのも、単なる空想的娯楽ではなく、生物とは何か?を知ることが人間とは何か?を知ることに繋がり、それが病気治療をはじめとする何らかの「目的」に繋がる可能性があるからです。
その逆に何らかの「目的」に繋がる可能性を持たない理論は「考えても仕方ない問題」として科学からは除外されます。

「関係論」が強いのは、前提が覆っても、一から関係性を再構築することは厭わないし、以前の関係性を移植することも可能だからです。
例え神様がこの世を創造したことが判明しても、イエズスが奇蹟を起こしたことが「事実」だと判明しても、その前提から新たな関係論を導き出し、科学を再構築すればいいだけの話です。


しかし、人間の素朴な感覚で考えると、世界は「実在」しているように感じるため、構造主義が示す関係論を理解してもらうのはなかなか難しいです。
まぁ、自分の生きる世界の現実感が乏しく、夢や幻とどうも区別がつかない・・・という感覚は一種の「症状」でもあるのですがw

投稿: 糸崎 | 2010年9月10日 (金) 04時11分

>「目的」に繋がる可能性を持たない理論は「考えても仕方ない問題」として科学からは除外されます。
これは言い過ぎかと、技術あるいは科学を呪術の前段階と見る場合にはそうかも知れませんが、基礎科学は目的のなさげなのも在ります。円周率を何兆桁とか、、トリケラトプスやこぶつき恐竜とか、
> 構造主義は「関係論」であり、実在と思えるものは幻で、全ては関係の上で成り立つとする立場にいます。
構造主義というのも糸崎さんに教わって、僕自身は文化人類学や心理学のように手がかり、具体的な手がかり足がかりのない分野でも対象の関係を適切に記述することで論理的な学問体系を構築できるというロジック・方法論かと思っていましたが、なるほどそういうとらえ方も在るのですね。うん、、まぁ、同じことでしょうか、、
それと、厳密な科学、では現実と認識の間にある、観測、という手続きを観測による実在への影響まで考慮して非常に繊細に扱いますね。このコンテキストではあまり関係ないかも知れませんが、、
ただ、思想としての「全部を包括した構造主義」というのはやっぱりすこしズルくて(笑)「閉じたロジックのなかで議論している限り外側から見れば、科学的な実在も、聖書無謬的思想も、世界5分前説も同列にみえます」、と言うのではなにも言ってないのと同じではないでしょうか?
とはいえ、過度に科学を信奉することの危険性も認識しておかなければいけませんね、生物学や特に医学は批判でも何でもなく「呪術」の域を抜けていないですから。
だいぶ前に(今でもあるのかな)輸血を拒否する宗教があって、意志のハッキリしない子供にも受けさせないのはどうか、野蛮な信仰じゃないかみたいにずいぶん言われていたのを記憶していますが、その後いろいろな感染症がでてきて、「後で考えてみると」科学的にも正当な主張だったのかなぁと思いました。

投稿: schlegel | 2010年9月11日 (土) 00時04分

>基礎科学は目的のなさげなのも在ります。円周率を何兆桁とか、、トリケラトプスやこぶつき恐竜とか、

当面の目的と結びつきがないように思える基礎科学は、いずれ何らかの目的の役に立つだろうことを見越して研究されるわけです。
しかし「神の実在証明」とか「世界五分前仮説」とか、その先目的に結びつく可能性のない研究は淘汰され、科学から除外されます。

>ただ、思想としての「全部を包括した構造主義」というのはやっぱりすこしズルくて(笑)「閉じたロジックのなかで議論している限り外側から見れば、科学的な実在も、聖書無謬的思想も、世界5分前説も同列にみえます」、と言うのではなにも言ってないのと同じではないでしょうか?

「不完全性定理」が示すとおり、構造主義といえど全部を包括しているわけではありません。
一つ例を挙げると、構造主義は目的を遂行するための「手段」としては有効ですが、実のところ「目的」そのものを決定する手段とはならないのです。
自分の例でいうと、ぼくは構造主義を芸術制作のために利用してるのですが、しかし「芸術を目的にする」という意志決定に構造主義は関与していません。

これは科学も同じで、科学は目的を遂行するための手段ですが、何を目的とするか?を科学は決定できません。
例えば、科学が人間が幸福になるための手段だとすれば、「人間にとって何が幸福か?」ということ自体科学では決定できません。
科学は堕胎の技術や、脳死患者の延命技術、輸血の技術、臓器移植の技術などを実現しましたが、それらの技術を使うべきか否かを「科学」は決定することが出来ません。
構造主義も科学も、目的と不可分に結びつきながら、目的そのものに言及できないという「限界」を持ちます。

では「目的」そのものは、どの領域で扱うことが出来るのか?
ある人が芸術家になったのは「芸術の素晴らしさ目覚めたから」であり、別のある人が科学者になったのは「科学の面白さに目覚めたから」であり、さらにまた別のある人が医者になったのは「医者としての使命に目覚めたから」なのだとすれば・・・まぁ、なんでしょうか?w

>それと、厳密な科学、では現実と認識の間にある、観測、という手続きを観測による実在への影響まで考慮して非常に繊細に扱いますね。

厳密な科学ではなくとも、例えばカエルの内臓を観測しようとして解剖したら、観測対象そのものへの影響は不可避ですねw
しかしどうも、ぼくはschlegelさんに「関係論」が上手く説明し切れてないですね・・・
関係論的世界観がしっくり来るかどうかは、まさに個人のセンスの問題かもしれず、そうなるとその問題に関係論は言及することは出来ませんw
関係論か実在論か?はいわば「認識の果て」の問題なので、どちらを採用しても「科学」は遂行可能だと思います。

まぁ、そもそもぼくの構造主義の理解が妥当かどうかも怪しいわけで、興味があったらぼくが影響を受けた高田明典さんあたりの著書をお読みいただくのがいいかもしれません。
いちばんのお薦めは『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』ですが、品切れのようで・・・
http://www.amazon.co.jp/dp/493139129X/ref=sr_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1284146861&sr=1-4

『世界をよくする現代思想入門』は新書なので入手しやすいでしょう。
現代思想とありますが、科学もその一つとして扱われ、大変読みやすいというか、ぼくでも読めるレベルですw
http://www.amazon.co.jp/dp/448006284X/ref=sr_1_7?ie=UTF8&s=books&qid=1284145106&sr=8-7

投稿: 糸崎 | 2010年9月11日 (土) 04時43分

そうですね、もう少し勉強してみます。大筋では判っているつもりでも、ハッキリさせたい為に判らない振りをしてる部分もあるかもしれませんが、やっぱりセンスが無いのかもしれませんね(笑)僕のような頭のわるい人がやってると目的が曖昧なまま、手段・手続きが目的になっちゃっていることが多いような気がします(反省)

投稿: | 2010年9月11日 (土) 10時11分

上のコメントなまえ、へんになってしまいました、スミマセン

投稿: schlegel | 2010年9月11日 (土) 10時31分

高田さんの本もファーブルさんのカリバチの本も奈良の近くの本屋にはやっぱりなくて(笑)アマゾンにするか大阪まで出かけるか考えます、、
欲しい本は見つからなかったけど他にも気になる本は目について「進化論はなぜ哲学の問題になるのか」とかタイトルに惹かれますが内容はバラバラっぽいので買うのはためらい、入門書として薦められている『進化論の射程』が気になるのでこれも探したくなりました(笑)とはいえ科学哲学と科学倫理とが独立の分野として研究しているヒトが結構いることは何となくわかり、勉強することが増えました(笑)

投稿: schlegel | 2010年9月12日 (日) 12時34分

昨日図書館を探していて、なにげなく白石一文というヒトの「この世の全部を敵に回して」というのを手に取ったのですが、科学や呪術(霊能者)や宗教に対する不信感をかなり説得力のある文章で的確に言い当てられていていたく感心したのです。
途中で閉館になり、結局帰りに本屋で買ったのですが、表紙と帯と序文と後半はなんだか分からないことになっており、残念な感じでした。

投稿: schlegel | 2010年9月13日 (月) 07時15分

『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』来ました、アマゾンマーケットプレースで一番安いのを選んだので蛍光マーカーと手垢にまみれた姿で、テンションだだ下がりでした。。そのせいか読んでみても僕の[構造主義]観はほとんど変わらず、やはりセンスないみたいです(笑)単に視座の転換としか見えないんですよね、、宗教は対象外らしいし(笑)、、最近斜め読みした村上陽一郎さんの[現代人にとって科学とはなにか]には、科学は人間の知的好奇心を満たすものとして発達して来た、とありました。科学は役に立たなくちゃいかんというのは、構造主義者の共通項みたいですが僕にはその必然性がよく理解出来ないのです。。

投稿: schlegel | 2010年9月16日 (木) 21時55分

>『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』来ました、アマゾンマーケットプレースで一番安いのを選んだので蛍光マーカーと手垢にまみれた姿で、

ぼくのその本もかなりボロですが、そういう一生懸命自分で勉強した本を古本として売るというのはぼくにはよく分からないですが、これも構造主義的なドライなセンスなんでしょうかw

>そのせいか読んでみても僕の[構造主義]観はほとんど変わらず、やはりセンスないみたいです(笑)単に視座の転換としか見えないんですよね、、

このコメント欄のやりとりで興味深かったのは、頭の良し悪しとセンスの違いは、どうやら別であることが分かったことです。
「センスが違うんだからしょうがない」と考えるのが構造主義でしょうが、「センスの違い」そのものに言及できないのもまた構造主義です。

>最近斜め読みした村上陽一郎さんの[現代人にとって科学とはなにか]には、科学は人間の知的好奇心を満たすものとして発達して来た、とありました。科学は役に立たなくちゃいかんというのは、構造主義者の共通項みたいですが僕にはその必然性がよく理解出来ないのです。。

村上陽一郎さんも、以前に何か読んで影響を受けました。
「役に立つ」ということでいうと、ぼくは中学の時にカメラのメカとしての魅力に目覚め、写真部に入りました。
しかしカメラは好きでも写真が好きでないということが判明し、カメラの興味も消えてしまいました。
ところが大学を卒業して「フォトモ」などの形で写真を撮り始めたら、カメラへの興味もふたたび出てきたのです。
つまりぼくにとってカメラは魅力的な存在だけど、使い道がなければ興味の対象から外れるし、使うからこそ(役に立たない要素も含め)面白いと感じられるのです。

これを延長すると、科学は確かに人間の知的好奇心を満たすものだけど、しかしなんの役にも立たないと分かってしまうと興味がなくなってしまう・・・つまりは科学は役に立たなくちゃいかんというのは、ぼくには容易に理解できます。
しかしこれはまさにセンスの問題ですね。

例えばぼくの友人の写真家には、哲学書や宗教書を読んでいるインテリな人が何人かいるのですが、「そういう知識は自分の写真にどう影響してるの?」と聞くと、「まったく関係してない」というように答える人がいたりして、非常に意外でした。
ぼくは構造主義にしろ、科学にしろ、宗教にしろ、いろいろ学ぶのは「作品」に反映させるためで、その意味ではまったくの機能主義です。
もちろん、機能主義に徹してムダを排除するとかえって機能的になりませんから、ムダな勉強やムダな知識は大いに楽しみます。
しかし自分がアーティストでありながら、それとは切り離して純粋に「知的楽しみ」として読書するというのは、ぼくのセンスでは考えられません。
まぁ、ぼくは頭が悪くて読書が苦手なんで、せっかく仕入れた知識は何とかして役立てようという、一種の貧乏性ですw

ともかく「センスの違い」というのが新たなテーマとして浮上しました。
人は「センスの違い」を乗り越えられないから、戦争とかが起きるんでしょうね・・・
聖書の中でもセンスの違う人々を「異教徒」とか「偶像崇拝者」などといって非難してるし、新約聖書では例え異邦人であっても「センスが同じ」だったら共にキリスト者として歩むことが出来る・・・というふうにされてます。
「センスの違い」は理屈じゃないので構造主義では乗り越えられず、そこをどうにかしようとするのが「ポスト構造主義」なのであろうと・・・しかしポスト構造主義は構造主義の否定というより、構造主義をベースとして発展させた思想なので、ぼくらのような素人にとってはどっちも「構造主義」でいいんじゃないかと思えてきました(このへんは余談ですが)。

投稿: 糸崎 | 2010年9月17日 (金) 16時16分

>そういう一生懸命自分で勉強した本を古本として売るというのはぼくにはよく分からないですが、
僕にもよく分かりません(笑)そうとう読み込んであるので、売った人は読んでた人とは別人、と言う感じがしています。どうしてそうなったか想像力がかきたてられたりもします、、
>「センスの違い」
目的の違いにもよるのかもしれませんね、同じことかも知れませんが、、、どこからともなく湧き上がる、なにが知りたいのか、どうなりたいのか、という欲求によって、役に立つ考え方、とりあえず役に立ちそうにない考え方というのが異なるのは自然なことかも知れませんね。
>しかし自分がアーティストでありながら、それとは切り離して純粋に「知的楽しみ」として読書する
まぁ、意識の上では別のことと思っていても、、ということもありますから(笑)

投稿: schlegel | 2010年9月25日 (土) 13時25分

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