『2001年宇宙の旅』と貴族の芸術
映画というのは見始めるとキリがないので、『スターウォーズ』シリーズ以外はほとんど見ないでいたのだが、しかし最近は芸術を理解するには「何でも好き嫌い無く食べなくてはいけない」という理論の元、レンタルDVDを見るようになった。
近所のゲオだと7泊8日100円なので、驚くべきことである。
それで、ブログのコンテンツとしてははなはだありきたりではあるけれど、ごく最近見た映画の感想を書いてみることにする。
まずは『2001年中の旅』。
この映画はオルテガの『大衆の反逆』や『芸術の非人間化』を読むと分かるのだが、明らかに「大衆の芸術」ではない「貴族の芸術」で、こういう映画があるんだとあらためて認識してしまった。
いや、この映画は確か大学進学前にテレビの日本語吹き替えで見て、そのときは訳が分からずアーサー・C・クラークの原作短編を読んで、何となく分かった気になっていたのだが・・・
しかしあらためて見ると、子供には分からない「貴族の映画」であることがよく分かる。
まず、はじめに画面が真っ暗なままリゲティの音楽が「ビャー」っと流れて、これが結構長くて子供はまずここで面食らってしまうw
次に、宇宙のシーンのカッコイイオープニングで「おおっ」とシビれるのだけど、それに続くお猿のシーンがまた結構長くて、子供はすっかり退屈してしまうだろう。
その次に、やっとSFらしい宇宙船のシーンに移るのだが、ここで注目すべきは宇宙旅客機「オリオン号」の機内に乗客が「一人だけ」ということである。
ただでさえ贅沢な宇宙旅行なのに、旅客機を貸しきりで一人だけで乗るというのは、大衆とか庶民とは無縁の「貴族」「エリート」の世界で、そのことをこの画面はあらわしている。
しかもその乗客であるフロイド博士はグーグー寝ており、「宇宙旅行なんて当たり前」という余裕を見せている。
「オリオン号」が到着した「ステーション5」の内部はあまりにもかっこよくて思わす涙が出てしまうw
建築は詳しくないのだが、非常にモダンで、それでいて高級感のあるオシャレなデザインで、現在の眼で見てもまったく古さを感じない。
円環状の床や天井が完璧に再現されているところも感動的だ。
ステーションの中にいる人たちも、観光客みたいな人は一人もいなくて、みんな貴族やエリートみたいな人たちばかりだ。
まさに地上を遠く離れた「天上世界」の住人といった感じである。
*テレカを入れて・・・
*液晶モニターでお話・・・ちなみにステーション内への携帯電話の持ち込みは厳禁ですw
テレビ電話ボックスのシーンも素晴らしいのだが、ともかくデザインがなにからなにまで格好良すぎる。
それと、あまりに現代の感覚とマッチしすぎて忘れがちだが、テレビ電話のモニターが「液晶」なのは凄いことだ。
もちろん、この当時は「液晶」なんて概念すらないかもしれず、おそらくはスクリーンの裏側からフィルムを投影してるのだろうが、今見るとなんの違和感もなく液晶に見えてしまうのがスゴイ。
あとテレカを入れて番号をボタン入力するところも、当時の日本の家庭では黒電話と白黒テレビを見てたことを考えると、その想像力に驚いてしまう。
続いて宇宙船「エアリーズ号」のシーンになるが、ここでも乗客はフロイド博士一人で、そのかわり乗員がスチュワーデス2名、操縦士2名、機長1名が登場し、その対比でさらに「特別感」「贅沢感」が増すようになっている。
ここで他の乗客がワイワイ乗ってるような状況だったら、こういうスペシャルな感じはなくなってしまうだろう。
そしてまたしてもフロイド博士は居眠りしてるのだが、エリートだけに人一倍忙しく働いているという描写なのかも知れない。
また、ここでは「宇宙食」(パッケージのイラストがオシャレ)が登場するが、流動食であまり美味そうには思えなくとも、大衆や庶民は口にできない代物であるには違いない。
貴族と大衆は、もっとも原始的な感覚としてまず「食物」が分断されているのだ。
だから、次のシーンで登場する「ムーンバス」機内で食べるチキンサンド(味は本物そっくり)や、その次に登場する「ディスカバリー号」で乗員が食べる(さらにまずそうな)ペースト状の宇宙食も、妙にうらやましく食欲がそそられてしまうのだ。
その「ディスカバリー号」の内装も相変わらず豪華で、最新のSF映画と比較しても何ら劣るところが無く度肝を抜かれるが、なぜか冒頭のマラソンのシーンはハチャトゥリアンの悲しい音楽が流れる。
エリート貴族とはただふんぞり返って威張っているのではなく、命がけの厳しい使命を背負った悲しい存在でもあるのだ。
またこの悲しいBGMは、乗務員フランクが地球に住むの両親からのビデオレターを見るシーンにも流れる。
両親が歌う「ハッピーバースデー」に、悲しいBGMが被ることで余計もの悲しさが強調されるが、「地上の世界」と「高貴な任務を背負ったエリートの世界」との隔絶がここでも描かれている。
ともかくこの映画に出てくる「地球上の世界」は、冒頭のお猿のシーンを除いて、すべて液晶モニターに映し出される人物のみで、多くの映画に描かれる「生活感」彼方に追いやってしまっているのだ。
それからコンピューター「HAL9000」の反乱などいろいろあった末に、ボーマン船長は木星軌道上に浮かぶ「モノリス」に接近する。
すると光があふれ、ボーマンが気がつくとなぜか地球上の「部屋」の中にいるのだが・・・その部屋が文字通り貴族が住むような部屋なのであるw
これはボーマン船長の「心の内部の反映」だとも考えられるが、ぼくのような大衆で庶民の感覚ではあのような部屋は絶対に反映されないだろう。
ということで、肝心の映画のストーリーはどうなのかというと、よく知られているようにまったく訳が分からない。
「部屋」の中のボーマン船長は急速に年老いて、最後には「赤ちゃん」になって宇宙空間から地球を見つめて終わり・・・この間何の台詞も解説もなく、HAL9000が反乱した理由も含め全てが理解不能である。
「カッコイイSF映画」を期待していた子供は、さぞやガッカリしてしまうだろう・・・
が、この映画は子供向けではなく、大人の中の大人、すなわち「貴族」のための映画なのである。
ここでいう「貴族」とは、現在は「リベラルな民主主義」の時代なので社会階級を指すのではなく、例え身分が大衆や庶民であっても「貴族文化」を理解し、また愛している人を指す。
「貴族文化」とは簡単に言えば、ある程度の教養が無くては理解できないものであり、しかも直接的表現を避ける傾向がある。
また、貴族は大衆に対して余裕を見せないといけないからか、その表現はゆったりと冗長である。
『2001年宇宙の旅』は原作短編の他に長編小説もあって、そっちを読めば映画の「意味」が分かるのかも知れないが、しかしそれは解釈の一つであり、自分自身の「教養」を動員しこの映画の「わからなさ」そのものを堪能するのが「本当の意味」と言えるのかもしれない。
まぁ、ぼく自身に「貴族文化」のなにが理解できるのか不明だが、そういうものがあるということだけは、あらためて認識したのだった。
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