« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

2010年10月

2010年10月31日 (日)

高松市内の名建築

先週は「瀬戸内国際芸術祭2009」のツアーに参加してたのだが、その後滞在を一日延長して、高松市内のいわゆる「名建築」を見て回った。
といっても、ぼくには「建築」の知識は全くないので、彦坂尚嘉さんの後にくっついていって、彦坂さんが「良い」と思う気持ちをコピーしようと試みたのだった。
これは先の記事にも書いた、今回のツアー参加の目的「他者の欲望のコピー」の続きであり「反ー反芸術」ならぬ「反ー反建築」的行為なのである。

「建築」というと、ぼくはこれまでフォトモについて「観光地や有名建築など、世間ですでに評価の定まったものは対象としない」と公言してきた。
「非人称芸術」のコンセプトで考えると、いわゆる名の通った建築家による建築とは、作者が明確な「一人称芸術」であるから、ぼくの立場は「反建築」でもあったのだ。
しかし今回は例によってそのような自分の立場を「棚上げ」しながら、あらためて「建築」に臨んだわけである。

Mmpa240105
まずは丹下健三設計による「香川県庁舎」。
実は高松市は去年の秋から今年の春にかけて何度か訪れていたのだが、「香川県庁舎は名建築だ」という話は小耳に挟んではいた物の、興味の対象外だったので全くスルーしていた(笑)

Mmpa240089

しかしこうやってあらためて見ると「カッコイイ」とは思える。
ちなみにこの建築は「庭」も含めて設計されているところがポイントだそうで、そういわれると十分に頷ける。

Mmpa240100

彦坂さんは以前この香川県庁舎を見たときに、あまりの素晴らしさに感動して「泣いた」そうなのだがw
しかしそれはあながち大袈裟ではないようで、ここに寝袋を持って泊まる建築マニアもいるというくらいの「名建築中の名建築」なのだそうだ。
ぼくには正直そこまでの凄さは分からないのだが、もっといろんな建築を見れば分かるようになるかも知れない。

Mmpa240098
この日は県庁が休みで、建物の中に入れなかったのが残念・・・中を見ればまた印象が変わるかも知れないのだが。

Mpa250137b
次は同じ丹下健三設計と言うことで「香川県立体育館」。
実はこの建物も見覚えがあって、昨年の秋にこの前を通ったにもかかわらず、一瞥しただけでスルーしていたw
和船をモチーフにしたデザインで、確かにカッコイイといえるのだが・・・

Mpa250112
ここは中にはいることができたのだが、あまりのカッコ良さにカンドーしてしまったw

Mpa250106
一番上の観客席から見下ろしたのだが、カッコ良すぎる・・・
どのようにカッコイイのかというと、『2001年宇宙の旅』と同じ路線の高級未来志向で、まさにあの映画の世界の地上はこうなっているだろう、と想像できたりするのだ。
もちろんこれは単に「格好」だけの問題ではなく、形態と機能が合理的に融合しているところがカッコイイわけで、そこはカメラなどの機械の魅力と共通するかも知れない。

Mpa250119
観客席下のロビーは天井が湾曲してる・・・何もかもカッコ良すぎる。

Mpa250123
館内にあった模型。
実は代々木体育館と同時期の、同じ丹下健三による設計なのだが、そういうことも全く知らなかった自分の「教養の無さ」にまったくあきれてしまうw
しかしそれだけに、建築のことはだいぶ「分かってきた」気がする。

Mpa250130

この体育館にも「庭」があるのだが、最近の建築では「庭」まで含めた設計というのは少ないのだそうだ。
しかしあらためて考えると「庭」とは何だろうか?

Mpa250053
というとで「栗林(りつりん)公園」にも行ってみた。
ここは公園という名が付いているが由緒ある「大名庭園」で、彦坂さんも「屈指の名庭園」として評価されており何度も訪れているそうだ。

で、ぼくの立場を言うと「非人称芸術」も含めて「自然崇拝主義」なので、「自然物を人工的にねじ曲げる」ところの庭園というものは、全く興味の対象外なのだった。
しかし、自然を人工的にねじ曲げるのが「文明としての庭園」の素晴らしさなのだ、という価値観を受け入れると「なるほど、それはそれで素晴らしいものなのかも知れない」というように思えてくるw

Mpa250090

確かに「自然」に慣れ親しんでいる眼からすると、明らかに「不自然」でまた違った趣があることは分かる気がする。

Mpa250063
場内の茶や建築もなかなか良いかも知れない。

Mpa250070
いや実に建築内部も庭も素晴らしい・・・

Mpa250093
最後に見下ろすと箱庭のような・・・って「庭」なんだけどw
この栗林公園は建築やアートにもまして、全く期待していなかったのだが、非常に堪能できたのが自分でも意外だった。
それは「世間的に評価の定まったものは、それなりの良さがある」という当たり前のことなのだが、ぼくはそのような当たり前を一貫して否定してきたのである。

ただ、そのようなコンセプトとしての否定は有りだとしても、「否定する対象を見ない」というのでは方法論としては不十分であり、そのことはあらためて実感することができた。
例え「結論」が正しくとも、方法論が学問としてデタラメなのであれば、誰も説得することはできない。
言い方をかえると、ぼく自身が「芸術」や「建築」を十分理解した上で堪能し、その上で「非人称芸術」のコンセプトが成立し得ると確信できなければ、その考えが正しいとは言えないのだ。

もしくは、もし自分が「芸術」や「建築」の本当の良さを理解してしまったら、自分自身で「非人称芸術」を否定してしまうかも知れず、そのようなアイデンティティーを失うのが怖いから、あえて何も見ないようにしていたのかも知れない。
なので、あくまで自分の価値観に閉じこもる方が「安全」ではあるのだが、そうしたら自分はもう「前衛」のつもりではいられなくなってしまう。

そもそも「前衛」というのは戦争の比喩であり、もっとも命を落としやすい危険な場所であるわけで、「命をかける」は大袈裟としても「自己喪失の危険をかける」くらいの「気概」がないと、やっていけないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月28日 (木)

瀬戸内国際芸術祭「ブログ4」写真のコンセプト

Spa227504
(犬島「家プロジェクト」 眼のある花畑 柳幸典/妹尾和世/長谷川祐子) 

先の記事にも書いたように、今回の瀬戸内国際芸術祭のツアーでぼくは「カッコいいアートをカッコよく撮る」ということを試してみたのだが、その写真は「ブログ4」に掲載したので下記の一日目(10月22日)の分から見ていただければと思う。

http://d.hatena.ne.jp/itozaki/20101022

カメラはOLYMPUS E-PL1、レンズはM-ZUIKO DIGITAL 9-18mmを使用し、ほとんどの写真を9mm(ライカ判換算18mm)の超広角で撮影している。
全てモノクロで、RAWの同時記録なのでカラー現像もできるのだが、とりあえず色なしで掲載している。
当初はカラーで撮影したり、レンズも高倍率ズームM-ZUIKO DIGITAL 14-150mmを使ったりしていたのだが、モノクロで撮ってみたら意外に良かったのと、いろいろ迷うと中途半端になりそうなので超広角のみで撮ることに決めてしまったのである。

いや、実のところぼくの「反ー反写真」は35~50mm相当の「標準レンズ」のみで撮っており、広角レンズの使い方がどうもよく分からなかったのだが、瀬戸内海の島で使用したら案外しっくり来て「広角が使えるようになった!」と喜んでしまったのだw
しかし撮った直後はなかなかイケてると思った写真も、後で整理するとイマイチに見えたりして、もっと修行が必要だ。
もしかすると「記録写真」と「作品写真」のつもりがどっち付かずで、それで中途半端になっているのかも知れない。

ところで、今回このような写真を撮ろうと思い立ったのは、その前に水道橋のアップフィールドギャラリーで見た岡嶋和幸さんの写真展『くろしお』の影響も大きいのだった(10月31日まで開催中)。
『くろしお』は写真作品にもかかわらず、抽象的なエッチングにも見える不思議な作品で、一般的に「アート」の文脈でも鑑賞可能だろう。
しかし、ぼくは今回影響を受けたのは『くろしお』ではなく、会場に置いてあった岡嶋さんの作品ファイルだったのである。

岡嶋和幸さんは『くろしお』のようなアーティスティックな写真だけでなく、インタビュー写真や、カメラカタログに掲載される作品写真など、さまざまな分野で「写真」の仕事をされている。
会場にあったファイルは、仕事ではなくプライベートで海外を訪れて撮影した写真で、風景やスナップなど、誰が見ても「美しい」と思える写真で、ぼくは衝撃を受けてしまったのだ。
いや衝撃は大げさだがw、しかしぼく自身はそういう「誰が見ても美しいと思える写真」を全く撮ったことが無く、そしてそういう写真が自分でも急に撮りたくなってしまったのだ。
そう思っていたところ、瀬戸内国際芸術祭のツアーに誘われていたことを思い出し、この機会に試してみることにしたのだ。

ツアー中、快晴に恵まれていたらもしかするとカラーで撮影していたかも知れないが(岡嶋さんの作品ファイルはカラーだった)、道中は曇り時々晴れといった写真的にはさえない天候で、それでいっそのことモノクロで統一してしまおうと判断してみたのだ。
この結果が成功だったかは不明だが、少なくとも次のステップには通じただろうと思う。
いや、次のステップが何を意味するかは不明だがw、少なくともぼくが目指すアーティストが「多彩な作品を作れる人」なのであれば、写真家も「多彩な写真が撮れる人」の方が良いわけで、それにはちょっと近づいたかも知れない。

ともかく岡嶋和幸さんはアートからコマーシャルまで「多彩な写真が撮れる人」には違いなく、稼ぎもそれなりにあるっぽい。
一方「写真家」を名乗るアーティストの中には、地道にアルバイトをしながら、「自分の写真」をとことん掘り下げようとする人もいて、やり方は人によってそれぞれであり、もちろんどれが「正しい」などと決めるのはナンセンスだろう。
そのあたり、自分を振り返るとどうも中途半端な気がするが、とりあえずは「他人の欲望」をコピーすることを試している最中なのである。

(*岡嶋和幸さんの字が違ってるとの指摘がありましたので、修正しました。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

反ー反芸術(瀬戸内国際芸術祭2010)

Spa220093

(直島「季禹煥美術館」安藤忠雄設計) 

去る10月22日〜24日、「建築系ラジオ」が主催する「瀬戸内国際芸術祭2010」のツアーに参加してきた(25日まで個人的に延長)。
それなりにお金がかかるし、実のところ本来的には「全く興味がない」ツアーだったので参加するかどうか直前まで迷ったのだが、例によって「自分を変える実験」のため参加したのだった。
「自分を変える実験」というのは、ひとつは「反ー反写真」で、これがある程度成功したので、今度は「反ー反芸術」も試してみようと思ったのだ。

ぼくは「非人称芸術」というコンセプトを掲げているが、これはいわば「反芸術」的態度なのだが、あらためて気づくとぼくは「芸術」が何であるか深く知らないまま「反芸術」を行っていたのである。
それに「非人称芸術」とは何か?も自分で知った気でいるようでよく知らず、それを知るには「非人称芸術」の外部へ出る必要がある。
そのようなわけで、ぼくは「反芸術」をさらに反転させた「反ー反芸術」を行う必要があり、その一環として「瀬戸内国際芸術祭」をみんなと一緒に見に行くことにしたのだ。

みんなと一緒であることの利点は、自分の主観以外の「客観」を知ることができる点である。
ぼくは芸術に対しては常に「反芸術」の態度で構えてしまうから、そういう主観を「棚上げ」にして、「芸術は素晴らしい」と思う気持ちの客観に身を任せながら「芸術」に接してみようと考えたのだ。

通常のぼくのセンスでは「街のアート」なんてクダラナイのは分かり切ってるので、そういうのは全部無視してひたすら「路上」を歩き回り「非人称芸術」を堪能するだろう。
「非人称芸術」とはつまり「芸術として用意されたもの」に反する行為であり、その意味での「反芸術」でもあるのだ。

しかし今回のツアーではそのような「路上モード」はオフにして、みんなと同じ「アートモード」に切り替えながら歩くことを、あらかじめ自分で「決定」してみたのだ。
つまり、「用意された芸術」を用意されたまま素直に「芸術」として受け取り、「みんな」と一緒の気持ちで鑑賞するのである。
これはラカンのいう「他者の欲望」のコピーであり、それを意図的に行う実験であり、それこそが「反ー反芸術」なのである。

今回撮影する写真も、いつもの「非人称芸術の記録写真」は全く撮らないことに決めて、「カッコいいアートをカッコよく撮る」ことに徹してみた。
これは普通のカメラマンの写真と同じなのだが、自分にとっては「反ー反写真」であり「反ー反芸術」なのである。

いや、実のところ島を訪れる直前まで「芸術」の合間に「非人称芸術」を堪能しようと思ってはいたのだが、実際は島内に設置された作品をできるだけたくさん見ようとすると、けっこう早足で回る必要があり、よそ見をする余裕もないのだ。
早足といっても、ぼくの「路上」での歩みはきわめてゆっくりで、それが人並みにスピードアップした程度なのだが、ともかく次の作品を目指して脇目もふらず歩くという「みんな」の気持ちに、できるだけ同化することを試みたのだった。

もちろん「みんな」と言っても今回のツアー参加者は一枚岩ではなく、素朴にアートに感動する学生から、辛口で批評する専門家までいろいろだ。
しかし、ぼくの本来のスタンスが「みんな」とは異なるのも事実で、だから今回の自分はできるだけ「みんな」に同化し、自分も「客観」の一要素となるよう努力してみたのだ。

ということで、自分としてはまことに「珍妙」なことを行ってみたのだが、これこそが「前衛」と言えるかもしれないw
少なくとも、今回のツアーでのぼくはフラストレーションの発生もなく、実に楽しい気持ちで参加でき、その意味で「実験」は成功だったといえる。
恐らく、本来の自分の感性を「押し殺す」のではなく、「棚に上げる」という心構えが功を奏したのかも知れない。
もちろん、棚に上げたまま無くなってしまう可能性はゼロではないのだが、それを確認するための「実験」でもあるのだ。

ちなみに「建築系ラジオ」のサイトに「瀬戸内国際芸術祭2010──犬島、直島の建築とアート作品をめぐって」という音声ファイルがアップされている。
これはツアー1日目の夜に収録されたもので、ぼくも参加している。
この時のぼくは一日歩いて疲れてる上に酔っぱらって、おまけに徹夜明けでヘロヘロなのですが、興味のある方は聞いてみてくださいw

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月22日 (金)

目の前の他者と「大文字の他者」(彦坂尚嘉さんへの返信)

Simg_0036

このブログ、自分ではメインのつもりなのですが、放置気味でなかなか更新できなくてすみません。
しかし、もう一つ放置気味なのが、彦坂尚嘉さんの「糸崎公朗さんへのメッセージ」と題した音声ファイルへの返信です。
これがどういうわけか、栃原比比奈さんのブログにアップされてるのですが、返信がどうも後回しになってました。
これはぼくが彦坂さんに出したメールの返答として語られたものですが、イキナリこうして公開されるので恐ろしすぎます(笑)
しかしまぁ、ぼくももはやこういう目に遭うだろうということを予想しつつ、わざと挑発するようなところはあります・・・

http://tochiharahiina.blog.so-net.ne.jp/2010-10-13-3

で、これを聞くとぼくが「パンとアートの区別が付かないような愚か者」のように思えて驚いてしまいますが、そういうことはありません(笑)
それで自分がどんなメールを出したのか確認してみると、以下のようなものでした。

__

彦坂 尚嘉 さま

> マンガ自動作成ソフトの話ありがとうございます。
> 出来るとうれしいですが、しかし使いこなすのは大変でしょうね。

自動とはいえ手間は掛かりますが、手間をかければマンガが書けない人も書けるようになる・・・しかしけっきょくはブログと同じで、手間をかけていいものを作る「気概」のある人は限られますね。
ところで気体分子ギャラリーですが、「たけくまメモ」にこんな記事があったのを思い出しました。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-523f.html
ここに書かれた、自分でつくったものを自分で売る「町のパン屋さん」をアートに置き換えると、気体分子ギャラリーになるのかも知れません。

糸崎公朗

__

ここで言ってるマンガ自動作成ソフトは、「たけくまメモ」に載ってたこれのことです。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-eec6.html
で、同じブログから違うネタを彦坂さんにふってみたのですが・・・
まぁ、ぼくのつもりとしては「自分でつくったものを自分で売る」という部分において「町のパン屋さん」=「ネット時代の漫画家」=「気体分子ギャラリー」としたまでです。

竹熊さんはつまり、「ネット環境が整備されたこれからの時代は、漫画家が自分のマンガを自分で売るのが一般化するかも知れない」と書いてるわけで、だったら「美術家が自分の作品を自分で売る時代」になってもおかしくないわけで、そう考えると彦坂さんの「気体分子ギャラリー」はその先鞭である・・・と思ったのです。
実はぼくは自分の作品を直接販売したことが無く、これについては非常に興味を持っていたのです。

しかし彦坂さんのメッセージを聞くと、ご自身はそういうところに全く興味がないように思えます。
つまり、彦坂さんはいわば「孤高のアーティスト」ですから、他人に興味がないというか、自分が始めた新しい試みに対し追随者が出ることなど全く眼中にないのかも知れません。

彦坂さんに対し「他人に興味がない」などというとまた反論されそうですが、「他人への興味のなさ」も人によって種類が異なり、彦坂さんのも独特の感覚をお持ちのように思えます。
以前彦坂さんは「自分は目の前の個人に対し話をしているようで、実は「大文字の他者」に対し語りかけているのだ」というように言ってました。
「大文字の他者」とは個人を超えた普遍的な他者で、分かりやすくいうと例えば小説家が想定する漠然とした読者のことです。

それは美術家も同じであり、たとえ個人に販売するための作品であっても、美術館などで多くの人々に鑑賞されたり、自分の死後も歴史として残るような、そういう「大文字の他者」に対して制作するのです。
そして美術家が美術について語ることは、語りながら美術について思考してるわけで、だからその美術論は「目の前の個人」ではなく、それを超えた「大文字の他者」に対して語られるわけです。

もちろん、ぼくもそのつもりでこのブログを書いてたりするのですが、彦坂さんはその傾向が非常に顕著で、例えぼくを目の前にしゃべっていても、目の前のぼくなど全く眼中にないという感じで、一人でどんどんしゃべり続けます。
そう思って彦坂さんのメッセージを聞くと、「ぼくのつもり」は全く無視で(笑)、「パン屋と美術家」をお題に自分の語りたいことだけを語っているという感じに思えます。
彦坂さんのお話の内容自体は、実に面白くてためになるのですが、自分も「大文字の他者」の一部になって聞かないと、おかしなことになってしまいます。
そのあたり、栃原比比奈さんも分かってらっしゃるようで、ブログの記事にも以下の断りを書いてくれてます。

_

録音内容:糸崎公朗さんからの彦坂尚嘉氏にあてたメールを巡って、彦坂尚嘉氏の考えについて語る。

_

あくまで「メールを巡って」ですから、「メールの核心」は眼中になく彦坂氏の考えについて語ってるわけです。
ということで、読者のみなさんはそのあたりを差し引いて、お聞きいただければと思います(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月11日 (月)

売る練習と見る練習

S_8547169
昨日は他のブログにも書いたのだが、信濃町の「フォトギャラリー マルシェジュエ」で開催中の『ポストカード展』の搬入に行ってきた。
この展覧会は大学の同級生の写真家、染谷育子さんの紹介で、写真家が自作のポストカードを持ち寄り(参加費無料)、一枚150円で販売するという企画だ。

実は、ぼくは自分のプリンターが壊れてしまい、どうしようかと思っていたのだが、これを機会に思い切ってエプソPX5600というちょっと高めのプリンターを買ってしまったのだ。
PX5600はA3までプリントでき、カラーが綺麗なのはもちろん、さらにグレーインク採用でモノクロ写真にも適しているという触れ込みだ。

それで富士フイルムのモノクロ写真用インクジェットペーパー(ハガキサイズ)を買い、「反ー反写真」シリーズのモノクロ写真をプリントしてみたのだ。
いや、プリントしたのはシリーズ初期のカラーをモノクロに変換したデータなのだが、このころ試していた子供を撮った写真が案外売れるんじゃないかと思ったのだ(笑)
ともかくプリントしてみたのだが、銀塩モノクロプリントと見分けが付かない仕上がりに驚いてしまった。
ぼくは「写真」については素人なので(笑)詳細に比べてはいないのだが、画質はもちろん富士のモノクロペーパーもしっとりした半光沢でなかなかの雰囲気だ。

しかし困ったのはポストカードの裏に自分の名前を印字しようとしたのだが、富士のペーパーの裏はどういうわけかインクが乗らず、こすると消えてしまうのだ。
仕方なく油性サインペンで一枚ずつ手書きのサインをしたのだが、そっちの方がありがたみがあるかも知れない。
そんな感じで10月3日の初日には間に合わず、10日の昨日、直接搬入に行ってきたのだ。

信濃町のギャラリーは住宅地の奥にあり、まったく普通の家の1階にあるのだが、この夏にオープンしたばかりで知名度がないせいか、お客さんはぼく以外は来ておらず、参加作家もちょっと少なめのようだった。
ということで、ポストカード展に参加する写真家はまだ募集中だそうです。

実は、ぼくは自分の作品をこれまで売ったことが無く、だから気軽に参加できるこのポストカード展で、実験してみようと思ったのだ。
ぼくはいろんなギャラリーや美術館で個展やグループ展をやったり、ワークショップもやったりしてきたのだが、いってみればそれらは「見世物興行」なのだ。
販売、というとぼくは作品集の出版もしてるのだが、これはあくまで「出版市場」に流通する物であり、だから自分の作品を「美術市場」に流通させたことがないのだ。
まぁ、そう言うやり方もあるのだけれど、最近は自分の作品を「売る」と言うことに興味が出てきた。
しかしそれを実現するにはこれまでとは発想を変えて、行動も変えていかなければならないだろう。
ということでまず手始めに、『ポストカード展』の話に乗ってみたのだ。

Simg_0226

ついでにその日は、信濃町から新宿までテクテク歩いて、「プレイスM」「蒼穹舎」「コニカミノルタプラザ」と写真ギャラリーを見て回った。
ぼくはこれまで写真ギャラリーで「写真」を見る習慣が無かったのだが、「写真を売る」ことを考えるならそういう態度も改めなくてはいけない。
しかし、こういう写真ギャラリーは実のところ「写真」そのものを売っておらず、その意味ではあまり参考にならないのかも知れない。
その理由は、恐らくある種の「純粋芸術」の思想のあらわれであって、つまり「芸術の価値は金銭に換算できない」ということであり、だから作品を販売しないのだろう。

しかしぼくはそれ以前に、ギャラリーに行って他人の作品を見る習慣がないからお話にならない。
簡単に言うと、「非人称芸術」はあらゆる「人称芸術」を否定するからなのだが、どうもそのコンセプトに固執するだけではダメだろうと最近思うようになったのだ。
だから「非人称芸術」のコンセプトを「棚上げ」しながら、「芸術を否定しない態度」を身に付けることを試みているのだ。

「作品を売りたい」と思い始めたのもその一環だし、「反ー反写真」と称して「写真」を撮っているのもまた同じである。
そして、そのように自分で「写真」を撮るようになると、他人の「写真」も分かるようになってくる。
いや、まだ「写真」のほんの少しの部分しか理解できていないのだが、しかし以前のように「取り付く島もない」という状況ではなくなった気がする。

それでも「プレイスM」で展示されていた森山大道の写真は「わからない」のであったが、その「分からない」度合いが分かってきたというか、そういう感じだ(笑)
また、コニカミノルタプラザでは作家さんがそれぞれいらしたので、いろいろ質問してみたのだが、以前だった写真を前に絶句していたはずで、これも「写真」を自分でも撮り始めた効果なのである。
しかしそのやりとりの内容を、ぼくがうろ覚えで書くとまたあらぬ誤解が生じるかも知れないので(笑)とりあえず書かないでおくことにする。

それにしても、計5つの個展を真剣に見て回るとそれだけでヘトヘトになってしまった。
ぼくとしては特定の場所に行って、特定の作品を見る行為というのは、基本的にどうも苦痛に感じてしまう。
慣れの問題かも知れないが、「現実」の路上を自由に歩き回り「非人称芸術」を鑑賞する方がはるかに気が楽だ。
しかし、行き詰まりを打開するには何らかの「苦行」は必要で、読書も含めそういうことをいろいろ試しているのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年10月 4日 (月)

『2001年宇宙の旅』と貴族の芸術

映画というのは見始めるとキリがないので、『スターウォーズ』シリーズ以外はほとんど見ないでいたのだが、しかし最近は芸術を理解するには「何でも好き嫌い無く食べなくてはいけない」という理論の元、レンタルDVDを見るようになった。
近所のゲオだと7泊8日100円なので、驚くべきことである。
それで、ブログのコンテンツとしてははなはだありきたりではあるけれど、ごく最近見た映画の感想を書いてみることにする。

まずは『2001年中の旅』。
この映画はオルテガの『大衆の反逆』や『芸術の非人間化』を読むと分かるのだが、明らかに「大衆の芸術」ではない「貴族の芸術」で、こういう映画があるんだとあらためて認識してしまった。
いや、この映画は確か大学進学前にテレビの日本語吹き替えで見て、そのときは訳が分からずアーサー・C・クラークの原作短編を読んで、何となく分かった気になっていたのだが・・・

しかしあらためて見ると、子供には分からない「貴族の映画」であることがよく分かる。
まず、はじめに画面が真っ暗なままリゲティの音楽が「ビャー」っと流れて、これが結構長くて子供はまずここで面食らってしまうw
次に、宇宙のシーンのカッコイイオープニングで「おおっ」とシビれるのだけど、それに続くお猿のシーンがまた結構長くて、子供はすっかり退屈してしまうだろう。

その次に、やっとSFらしい宇宙船のシーンに移るのだが、ここで注目すべきは宇宙旅客機「オリオン号」の機内に乗客が「一人だけ」ということである。
ただでさえ贅沢な宇宙旅行なのに、旅客機を貸しきりで一人だけで乗るというのは、大衆とか庶民とは無縁の「貴族」「エリート」の世界で、そのことをこの画面はあらわしている。
しかもその乗客であるフロイド博士はグーグー寝ており、「宇宙旅行なんて当たり前」という余裕を見せている。

「オリオン号」が到着した「ステーション5」の内部はあまりにもかっこよくて思わす涙が出てしまうw
建築は詳しくないのだが、非常にモダンで、それでいて高級感のあるオシャレなデザインで、現在の眼で見てもまったく古さを感じない。
円環状の床や天井が完璧に再現されているところも感動的だ。
ステーションの中にいる人たちも、観光客みたいな人は一人もいなくて、みんな貴族やエリートみたいな人たちばかりだ。
まさに地上を遠く離れた「天上世界」の住人といった感じである。

S_8547169b

*テレカを入れて・・・

S_8547170b

*液晶モニターでお話・・・ちなみにステーション内への携帯電話の持ち込みは厳禁ですw

テレビ電話ボックスのシーンも素晴らしいのだが、ともかくデザインがなにからなにまで格好良すぎる。
それと、あまりに現代の感覚とマッチしすぎて忘れがちだが、テレビ電話のモニターが「液晶」なのは凄いことだ。
もちろん、この当時は「液晶」なんて概念すらないかもしれず、おそらくはスクリーンの裏側からフィルムを投影してるのだろうが、今見るとなんの違和感もなく液晶に見えてしまうのがスゴイ。
あとテレカを入れて番号をボタン入力するところも、当時の日本の家庭では黒電話と白黒テレビを見てたことを考えると、その想像力に驚いてしまう。

続いて宇宙船「エアリーズ号」のシーンになるが、ここでも乗客はフロイド博士一人で、そのかわり乗員がスチュワーデス2名、操縦士2名、機長1名が登場し、その対比でさらに「特別感」「贅沢感」が増すようになっている。
ここで他の乗客がワイワイ乗ってるような状況だったら、こういうスペシャルな感じはなくなってしまうだろう。
そしてまたしてもフロイド博士は居眠りしてるのだが、エリートだけに人一倍忙しく働いているという描写なのかも知れない。

また、ここでは「宇宙食」(パッケージのイラストがオシャレ)が登場するが、流動食であまり美味そうには思えなくとも、大衆や庶民は口にできない代物であるには違いない。
貴族と大衆は、もっとも原始的な感覚としてまず「食物」が分断されているのだ。
だから、次のシーンで登場する「ムーンバス」機内で食べるチキンサンド(味は本物そっくり)や、その次に登場する「ディスカバリー号」で乗員が食べる(さらにまずそうな)ペースト状の宇宙食も、妙にうらやましく食欲がそそられてしまうのだ。

その「ディスカバリー号」の内装も相変わらず豪華で、最新のSF映画と比較しても何ら劣るところが無く度肝を抜かれるが、なぜか冒頭のマラソンのシーンはハチャトゥリアンの悲しい音楽が流れる。
エリート貴族とはただふんぞり返って威張っているのではなく、命がけの厳しい使命を背負った悲しい存在でもあるのだ。

またこの悲しいBGMは、乗務員フランクが地球に住むの両親からのビデオレターを見るシーンにも流れる。
両親が歌う「ハッピーバースデー」に、悲しいBGMが被ることで余計もの悲しさが強調されるが、「地上の世界」と「高貴な任務を背負ったエリートの世界」との隔絶がここでも描かれている。
ともかくこの映画に出てくる「地球上の世界」は、冒頭のお猿のシーンを除いて、すべて液晶モニターに映し出される人物のみで、多くの映画に描かれる「生活感」彼方に追いやってしまっているのだ。

それからコンピューター「HAL9000」の反乱などいろいろあった末に、ボーマン船長は木星軌道上に浮かぶ「モノリス」に接近する。
すると光があふれ、ボーマンが気がつくとなぜか地球上の「部屋」の中にいるのだが・・・その部屋が文字通り貴族が住むような部屋なのであるw
これはボーマン船長の「心の内部の反映」だとも考えられるが、ぼくのような大衆で庶民の感覚ではあのような部屋は絶対に反映されないだろう。

ということで、肝心の映画のストーリーはどうなのかというと、よく知られているようにまったく訳が分からない。
「部屋」の中のボーマン船長は急速に年老いて、最後には「赤ちゃん」になって宇宙空間から地球を見つめて終わり・・・この間何の台詞も解説もなく、HAL9000が反乱した理由も含め全てが理解不能である。
「カッコイイSF映画」を期待していた子供は、さぞやガッカリしてしまうだろう・・・
が、この映画は子供向けではなく、大人の中の大人、すなわち「貴族」のための映画なのである。

ここでいう「貴族」とは、現在は「リベラルな民主主義」の時代なので社会階級を指すのではなく、例え身分が大衆や庶民であっても「貴族文化」を理解し、また愛している人を指す。
「貴族文化」とは簡単に言えば、ある程度の教養が無くては理解できないものであり、しかも直接的表現を避ける傾向がある。
また、貴族は大衆に対して余裕を見せないといけないからか、その表現はゆったりと冗長である。
『2001年宇宙の旅』は原作短編の他に長編小説もあって、そっちを読めば映画の「意味」が分かるのかも知れないが、しかしそれは解釈の一つであり、自分自身の「教養」を動員しこの映画の「わからなさ」そのものを堪能するのが「本当の意味」と言えるのかもしれない。

まぁ、ぼく自身に「貴族文化」のなにが理解できるのか不明だが、そういうものがあるということだけは、あらためて認識したのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »