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2010年11月18日 (木)

悪趣味について(1119校正)

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唐突だが悪趣味について書いてみる。
いや、ぼくの話題は読者にとっていつも唐突なのだろうが、「悪趣味について」は、ぼくが最近聴講しているとある大学の授業で、レポートの課題として出たのだった。

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 「悪趣味」と言えば、ぼくは美術家として岡本太郎の影響を受けている。岡本太郎は芸術の定義として「芸術は上手くあってはならない」「芸術はきれいであってはならない」「芸術はいやったらしい」と挙げている。つまりは「芸術は悪趣味である」と解釈できるのであり、それは岡本太郎の作品を見れば分かるだろう。芸術に興味のない人々は、自分たちにも理解できるような、上手に描かれたきれいな絵を好む。しかし岡本太郎によるとそのような作品は「芸術」ではなく、芸術とは大勢が好む「良い趣味」に反する「悪趣味」なのである。

 ところが、大勢が好む「良い趣味」が、果たして本当に「良い趣味」と言えるのか?と考えると、決してそうは言えないだろう。芸術に興味がない人々は、つまりは芸術については「無趣味」であって、無趣味な人は(本人にそのつもりが無くとも)端から見ると「悪趣味」なのである。これは料理に置き換えて考えると分かるのだが、料理に興味がない人、味覚的に「無趣味」な人は、ファミレスやコンビニ弁当を「美味い」と良い、一流料理店で食べても味の違いが分からず、つまり「悪食=悪趣味」なのである。だから岡本太郎的な「芸術は悪趣味だ」という表現は逆説的であり、芸術的に「無趣味=悪趣味」の人々から見ると、本当の意味で「良い趣味」の芸術が「悪趣味」に思えてしまう、と言うことを説いているのだ。

 そのようなわけで、岡本太郎の影響を受けた日本の多くの芸術家は、岡本太郎的な「悪趣味」に走り、現代の日本の芸術は「悪趣味」なものであふれているように思われる。例えば、村上隆や奈良美智など、オタク的意匠を芸術に引用する行為は、美術の伝統を重んじる「良い趣味」の人々の神経を逆なでし、その意味で岡本太郎的な「悪趣味」の延長にあると解釈できる。

 しかし、村上や奈良のいわゆるオタク的表現は、芸術の世界ではもはや当たり前になり、これに限らず岡本太郎的な「悪趣味」としての芸術はすっかり一般化し、市民権を得ている。そもそも当の岡本太郎が、今や「庶民に愛される芸術家」なのである。つまり芸術的に無趣味な人にとっても、岡本太郎の芸術は「趣味が良い」と思えるように、常識としての感覚が変化している。いや、芸術以外のサブカルチャーの世界、マンガやアニメをはじめとするオタク的世界では、異様なデフォルメとどぎつい色彩の「悪趣味」な絵が氾濫しているが、そのように「悪趣味」を「良い趣味」と解釈することが一般的になったのだ。

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 そもそも、「悪趣味」を「良い趣味」として解釈することは、つまりは「解釈」なのである。料理にしろ芸術にしろ、「無趣味」の人は自らの「悪趣味」を自覚しない。そのような「無趣味」な人の「悪趣味」を端で見ていた「良い趣味」の人が、「この悪趣味は、良い趣味に転化出来るのではないか?」と気付き、「悪趣味」を芸術の要素として「解釈」したのである。

 その起源のひとつは、アフリカ彫刻など原始美術のイメージを引用した、ピカソなどのヨーロッパ美術にあると言えるだろう。原始社会のアフリカ人たちは自分たちを「悪趣味」などとは自覚せず、それをピカソが「悪趣味」として解釈し、自分の芸術の「良い趣味」の中に取り入れたのである。岡本太郎はピカソの影響を受けて、自分もやっぱり原始美術の「悪趣味」を取り入れている。そして現代の村上隆も、マンガやアニメの「悪趣味」を自らの作品に取り入れている。

 ところが、現代のマンガやアニメを享受するオタクとは、自分たちが「悪趣味」であることを自覚している人々を指している。マンガやアニメの「悪趣味」を自覚せずに享受するのは「子供」であって、その「悪趣味」を対象化し「良い趣味」として享受するのが大人の「オタク」なのである。ぼくは実はオタク的趣味が世の中に誕生しつつある時代に居合わせたので、「ウルトラマン」などの子供番組を、大人が「大人の視点」で見て楽しむことの新鮮さを、今でも良く覚えている。

 しかしオタク趣味が一般化した現在では、子供向けのアニメや特撮番組は、大人のオタクが楽しむことを前提に作られている。つまり、かつては芸術の分野で特権的だった、「悪趣味」を対象化して自らの「良い趣味」に取り入れる行為が、現代ではオタク的趣味として一般化しているのだ。村上隆のオタク的芸術は、実はオタク的趣味の人々からは反感を持たれており、つまり現代のオタクは「原始人」ではなく、だからこそ原始人のような扱いを受けたとしてオタクが怒るのだ。

 いやそれはともかく、芸術とは「世間一般を超えたもの」なのだとすれば、オタクとして一般化した「悪趣味」の方法論で、芸術が成り立つのか?と言う疑問が生じる。それよりも、岡本太郎の主張をあらためて考えてみると、それは「悪趣味であれば芸術だ」という一種の「符丁」ではなかったか?と思えてしまうのだ。伝統的な「符丁」に従うことを岡本太郎は「芸術ではない」と攻撃した。しかし「符丁を攻撃する概念」もまた「符丁」になり得る。そして岡本太郎的な「芸術は悪趣味だ」という概念装置は、「悪趣味でありさえすれば芸術だ」という「貼付」に陥る危険性を孕んでいる。と言うより、岡本太郎の理論には「貼付化を防ぐ方法論」が含まれていないのだ。

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 ここで話を整理するために、あらためて用語を統一してみる。まず素直に「悪いものは悪い」と考えて、「無趣味」の産物を「悪趣味」としてみよう。それに対する「良い趣味」とは「趣味人の趣味」であり、その対象物は詳細に分類されている。なぜなら人は興味のある対象物を詳細に分類するからであり、つまり「趣味」とは「分類」なのである。「無趣味」な人は分類しない。味覚的に無趣味な人は微妙な味の違いを分類せず、また「苦み」や「えぐみ」などの要素を退ける。芸術的に無趣味な人は、例えばルノアールなどの有名芸術家が好きで、しかしそれ以外の芸術家の名前を知らなかったりする。「無趣味」な人の分類はごくおおざっぱで、「趣味人」を極めた人ほど分類が詳細になる。とすると、趣味の良し悪しとは、「良し悪し」の対立軸ではなく、「分類の詳細さの度合い」によって決まるのである。

 ただし、これを味覚に置き換えて考えると、一方ではそうでもなさそうに思えてしまう。自分のことを言うと、他人と比較してどれだけグルメなのかは不明だが、いちおうは美味しい料理を食べるのが好きで、好き嫌いもなく、いわゆる子供が苦手な「珍味」も大好きである。そしてサイゼリアやマクドナルドは心の底から「不味い」と思ってしまう。

 ところがしかし、「趣味は分類である」という定義に従うと、サイゼリアやマクドナルドの不味い料理にも、特有の微妙な不味さがあって、それはそれで「味わう」ことが出来るのだ。例えば先日、信濃美術館のカフェでスパゲッティを食べたのだが、これがサイゼリアを凌駕する「不味さ」で、これはどうしてこんなに不味いのか?を考えながら味わって食べていた(笑)

 またぼくは、人間の食べ物ではない自然物(木の実や葉っぱなど)の「味」を確認する実験をしたことがある。例えば、生物学的に言えば一般的に「木の実の赤色」は、植物が動物に向けて発する「これは食べられる」というサインなのだが、しかしたいていの赤い木の実は苦かったり、えぐかったり、実が無くて種だけだったり、人間の食べ物にはならない。と、そのような記述が植物図鑑などにあるのだが、では一体具体的にどんな味がするのか?と言う確認を、実験として行ったのである。

 実際に確認した「非ー食物」の味は、ビックリするくらいヘンな味から、単純に苦みや酸味が強いものまで様々であり、それを繰り返していけばそこに「詳細な分類」の趣味世界が構築できるはずだ。しかしぼくはこの観察実験を、少し試して休止してしまった。というのも「非ー食物」の味覚観察をいくら積み重ねても、それは決して「美味しい料理」に結びつくことはないのである。つまりその観察実験の先に、何が構築できるのかが見えないのだ。
 そのように考えると、真の意味での「悪趣味」は芸術には決して結びつかないのかも知れない。あるいは「悪趣味」を極めた先に「芸術以外の何か」への道が開けるのかも知れない。いや、芸術が「既存の芸術のあり方」から一方的に逸脱する「反芸術」ではなく、往復運動を繰り返す「反ー反芸術」なのだとすれば、「良い趣味」と「悪趣味」もまた往復運動でなければならないのかも知れない。

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