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2010年11月16日 (火)

「宗教」じゃなくて「反ー反宗教」

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前回の記事よりまたしても間が空いてしまったが、以下のような返信をいただいたので、これを元に記事にしてみたい。

無宗教なのが正当な社会では全ての宗教は異端なのですね、

投稿: schlegel | 2010年11月13日 (土) 00時46分

ぼくがこれまでブログで主張するように「科学は宗教の延長にあり、むしろ呪術である」という観点で捉えると、科学的思考に基づく「無宗教」の世界ではあらゆる宗教は異端だと言えるだろう。
しかしこれは、あくまでひとつのものの見方を提示したまでであって、何ら「真実」を言い当てたものではない。
「科学は宗教だ」というのは言ってみれば例え話で、例えを外すと「科学と宗教は異なる」し「科学は呪術ではない」のである。

そもそも科学の起源はキリスト教神学にある。
キリスト教が支配的だった時代のヨーロッパでは、人間の理性とは「神」が創造したこの世界の「完全性」を解き明かし理解する能力であり、それをすることが「神の存在証明」に繋がると信じられていた。
ところが、人間が理性を働かせて天体の運行や物理法則などの解明にいそしむうちに、どうも「神」の存在そのものが不合理で荒唐無稽であることに気づいていったのだった。
世の中のあらゆる事物が合理的に説明できることが「神の存在証明」だったはずが、合理的に突き詰めた結果「神は存在しない」と言うことになってしまったのだ。
宗教は形而上的な超越的存在である「神」を前提とするが、科学はそのような「無前提の前提」をもはや必要としない。
科学は人間の理性と、歴史的な知識の蓄積を使いながら、観察と理論と実証に基づき「世界」を読み解きコントロールする方法論である。
科学によると「理性的人間」が存在すれば「神」は不要であり、その意味で科学は「反宗教」なのである。

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ところが、現代では科学が万能でないことが、人々の間に何となく知れ渡っている。
科学の行き着く先は「ニヒリズム=虚無主義」なのである。
科学は早い話が「考えても仕方ないことは考えない」という思想である。
だから人間は「死んだら終わり」であり、人生のむなしさを人々に突きつける。
科学的合理性を徹底して考えると、人間は「死んだら終わり」であり、それ以降の結論の出しようがない。
科学がいくら発展し、そのおかげでいくら幸福な人生が送れたとしても、「死んだら終わり」という事実の前には全てが空しくなってしまう。
それに、科学の発達が必ずしも人々の幸福には結びつかないことも明らかになってきた。
世の中が便利になっても「世の中が変わっただけ」であり、決して「昔より時代が良くなった」と言い切れないのが、現代人に共通の思いなのである。

それは科学がもたらすニヒリズムであると同時に、科学に対するニヒリズムでもある。
現代の人々は、少し前の時代の人々にくらべ、科学の有効性に疑いを持っているのである。
しかしだからといって、科学を否定した「反科学」の態度によって「宗教」や「呪術」にみんながもどるのかというと、そうでもない。
例え何らかの宗教団体に属してはいても、多くの人が同時に科学の有効性を認めそれを利用している。
自らの宗教のために科学を根底から否定するような「狂信的」な人は、現代の文明国ではごくまれだろうと思われる。
つまり現代の人々は、科学に疑いを持ちつつ「反科学」にも徹しきれないという、宙ぶらりんな立場にいるのではないかと思われる。
宙ぶらりんと言うことは「それについて突き詰めて考えない」と言うことであり、それをして「非科学的である」とか「無宗教という宗教に陥っている」などと揶揄されるのだ。

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そこで最近ぼくが撮っている立場がなんなのかと言えば、それは「反ー反宗教」であり「反ー反科学」であることにふと気がついたのだ。
これはもちろん、最近のぼくの「反ー反写真」や「反ー反芸術」が考えの基になっている。
つまり最近のぼくは、原始仏典や聖書を読んだり、「科学は呪術である」とか「携帯電話は宗教だ」とか「芸術家は芸術の神を信仰している」などと言ったりしてるが、それは単純に「宗教」に走ったことを示さないのだ。

それはぼくがモノクロ写真を始めたからと言って単純に「写真」に転向したわけではなく、「写真」の有効性を認めながらもそれを疑いつつ実行する「反ー反写真」の立場にいるのと同じなのだ。
ぼくの「反ー反写真」の根底にはさらに「反ー反芸術」があるのだが、そもそも「反芸術」の「反」には「運動」の意味がある。
これを試しに「無芸術」や「非芸術」に置き換えると分かるのだが、「無」や「非」には動的な意味はなく、静的な状態を指している。
つまり「反芸術」は運動なのだが、その結果にたどり着いた「無芸術」や「非芸術」はもはや運動ではない。

前回の記事を引き合いに出すなら、赤瀬川原平さんはかつて「反芸術」の運動をしていたのが、現在は「無芸術」あるいは「非芸術」の状態に落ち着いていると言える。
赤瀬川さんの「超芸術トマソン」にはまだ「反芸術」としての運動が感じられたのだが、その後の「路上観察学会」はもはや芸術の無い状態、芸術ではない状態であり、運動のない静止状態なのである。

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いや実は、「反芸術」とは本質的に「反ー反芸術」ではないかと思うのだ。
と言うのも「反芸術」の運動の目標は、決して「無芸術」や「非芸術」の状態に至ることを目標としていないからである。
「反芸術」は、あくまでも「芸術」を成立させるために「反芸術」的態度を取る。
つまり「反芸術」は、「芸術」という枠組みの中で、その枠組みを疑う「反芸術」的運動を繰り返し継続する「反ー反芸術」であり、ピストン運動する内燃機関のようなものではないかと思うのだ。
一方の解釈の「反芸術」は弾丸のような放物線を描き、着地点で「無芸術」や「非芸術」となって静止する。

それは、「新約聖書」に書かれたキリストの教えが、必ずしも「反ユダヤ教」ではないことと似ているのだ。
キリストは、ユダヤ教の「神」を否定したわけではなく、むしろより「神」に忠実であろうとするあまり「反ユダヤ教」的な教えを説いている。
キリスト教の「反ユダヤ教」的教えは決して「無キリスト教」や「非キリスト教」を目標とはしていない。
そう考えると、恐らくあらゆる宗教は「反ー反宗教」としての運動なのではないか?と思えてくる。

「宗教」が「反ー反宗教」の往復運動から解放され、一方的な放物線運動に移行すると、その着地点で「無宗教」や「非宗教」となって静止するのだ。
それが例えば、現代日本の形骸化した仏教や、その他の新興宗教ではないかと思われるのだ。
科学にしても「反ー反科学」の往復運動が無くなれば、すなわち「科学の前提を疑いながら科学を遂行する」という運動をしなければ、やがては「無科学」「非科学」となって、疑似科学的な迷信状態に陥ったまま静止してしまうだろう。

「反ー反○○」とは言ってみれば「反省の態度」であり、「反省」もまた「運動」なのだと言える。
○○という対象を反省的に捉える、と言うことは「常に反省し続ける」ことであり、だからそれは運動なのだ。
まぁ、ぼくは力不足なので「写真」や「芸術」や「宗教」をどこまでちゃんと反省的に捉え続けられるのか心許ないが、ともかくそのような「運動」が必要なことだけは自覚している。
対して「静止」というのは安心であり、「運動しない」のは楽なことなので、もしかするとこっちを目標にするのが良いのかも知れない。

実は先日、長野市に帰省した折、小布施の「北斎館」と「中島千波館」に行ってきたのだが、中島千波という現代の画家が技巧は達者だが似たような桜の絵を大量に描いて静止し、全く堂々と落ち着いているのに感じ入ってしまった。
対して北斎は、絶筆と言われる90歳で描いた作品に至るまで「動的」であったことに、非常に感動してしまったのだ。

などと書いていたら、自分が提唱する「非人称芸術」には「非」が付いていることにあらためて気づいたのだが(笑)、「反」とは異なる「非」や「無」についてはあらためて考えてみたい。

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コメント

とても深い記事で食い入りました。

投稿: セラピストm | 2010年11月16日 (火) 17時01分

ありがとうございます、お楽しみいただけたようで何よりですw

ところで本文ですが、以下の箇所のみ修正しました。

×キリスト教が支配的だった中世ヨーロッパでは、
○キリスト教が支配的だった時代のヨーロッパでは、

穴だらけの知識をもとに書いてますので、ツッコミどころがありましたら何なりとお書きいただければと思います。

投稿: 糸崎 | 2010年11月17日 (水) 14時38分

いや、僕が思っていたのはそれほど深い意味はなくて、ただ日本の人はイスラムやユダヤの人や、アメリカ人の宗教観に、違和感を憶えたりすると思うのですが、彼らが宗教をもち、我々が宗教をもたない、と思ってきたのが、我々の思想もやはり信仰の一種であるように思えてきたのですね。

投稿: schlegel | 2010年11月20日 (土) 10時29分

>我々の思想もやはり信仰の一種であるように思えてきたのですね。

それは十分深い意味だと思いますw

投稿: 糸崎 | 2010年11月21日 (日) 11時33分

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